【二九八《ただ負担になりたくなくて》】:二

「八戸さん、もう大丈夫?」

「う、うん! どうぞ」


 改めて病室に入ると、ベッドの上に座っている凛恋が見えた。だが、凛恋は何だか落ち着きがない。


「ご、ごめんね。もうすぐ多野くんが来る時間だっていうのは分かってたんだけど、清拭(せいしき)があって」

「良いよ良いよ。俺よりも看護師さんの仕事の方が優先に決まってるから」


 体を清潔に保つ清拭は列記とした医療行為だ。俺より優先して当たり前だ。


「い、いつもは多野くんが来る前にしてもらってるんだけど、今日はどうしてもギリギリじゃないと看護師さんの手が空いてなくて!」


 何だか慌てて必死に否定する凛恋に首を傾げると、凛恋は真っ赤な顔で俯く。


「多野くんに汗臭いって思われたくないし……」

「別に気にしなくて良いのに」

「ダメなの!」


 凛恋の汗の匂いを臭いなんて思ったことなんてないし、今まで何度も凛恋の汗の匂いは嗅いでる。だから、俺にとっては今更な話だ。ただ、今の凛恋はそんなことは覚えていないから、恥ずかしがっても仕方がない。

「まあ、清拭してもらったんだから大丈夫だろ? さーて、俺はパンでも食べようかな~」

「あっ! それってこの前テレビでやってた新しいパン屋さんの!?」

「そうだぞ~。長蛇の列に並んで買ってきたんだ」


 店のロゴが入った袋を見て、凛恋がキラキラと目を輝かせる。


「八戸さんも食べる?」

「良いの!?」

「八戸さんは特別だぞ~」

「ありがとう! 多野くんと友達で良かった~」

「現金だな~」


 物凄く喜んでくれる凛恋を見て思わず表情が緩む。この顔が見られたら列に並んだ疲労も吹っ飛んでいく。


「どれも美味しそう! どれ食べて良いの?」

「俺はこのカレーパンを食べる。八戸さんは好きなの選んで」

「え~っと、じゃあこのアップルパイで良い?」

「どうぞどうぞ」

「ありがとう」


 ニッコニコな凛恋を見れて嬉しくて、俺はその嬉しさがバレないようにカレーパンを囓る。


「わっ! 凄くサクサクで美味しい! 中のりんごも甘過ぎなくて優しい味がする。はい、あーん」


 何気なく食べていた凛恋が、食べ掛けのアップルパイを俺に差し出す。それに俺が固まっていると、凛恋はハッと我に返って顔を真っ赤にした。


「えっ!? わ、私、ななな、何してるんだろ! ご、ごめんね! そんなつもりなかったんだけど、気が付いたら勝手に! キャッ!」

「危ないっ!」


 大慌てする凛恋がベッドの上でバランスを崩し、俺はとっさに凛恋の体を支えた。

 さっきの凛恋の行動、その行動に全身の震えが止まらなかった。

 今、凛恋は間違いなく食べ掛けのアップルパイを俺に分けようとした。その行動は、記憶を失う前の凛恋が俺によくやってたことだ。


 ある。間違いなく凛恋の中に俺との記憶が。それが断片的なもので、それが俺との記憶とは分からない、記憶として認識されない程度のものだったとしても、確かに凛恋は、事故以前と同じように俺へアップルパイを分けてくれようとしたんだ。


「ご、ごめんね。変なことしてドジもして!」


 恥ずかしそうに笑って手で顔を仰ぐ凛恋を見て、俺は小さく笑って凛恋の持っていたアップルパイに噛み付いた。


「へっ? た、多野くん?」

「あれ? くれるんじゃなかったの?」


 驚いている凛恋に、俺は何気ない顔をして首を傾げる。

 本当はこんなことしてはいけないんだ。だけど、凛恋に俺との繋がりを感じて我慢出来なかった。


「俺のも食べる?」


 食べ掛けのカレーパンを凛恋に差し出す。

 きっと、さっきの行動は凛恋の心の端にあっただけのものだ。すぐに心の影に消えてしまうような些細なものだった。だから、凛恋はきっと拒否する。

 それでも良いんだ。それでも――。


「はむっ!」


 俺が差し出したカレーパンに小さく噛り付いた凛恋は、顔を真っ赤にして俺を見る。そして、小さく口を動かして呟いた。


「多野くんに私のアップルパイ食べられたから、おあいこ」


 そう言った凛恋は、恥ずかしそうにはにかんでアップルパイをまた食べ始める。それを見て、俺は凛恋が囓ったカレーパンを再び食べ始めた。


「多野くんに話したいことがあるの」

「俺に?」


 アップルパイを食べ終えた凛恋が、両手を布団の上に組んで置き、真剣な表情を俺に向ける。


「もう結構前に優愛ちゃんから聞いたの。私が目を覚ます前に、私を撥ねた車に乗ってた人が来たって。それで凄く酷いことをしたって聞いた」

「優愛ちゃん、話してたんだ」


 凛恋に事故のことを話すのを俺は躊躇っていた。

 今の凛恋にとって、事故は自分の身に起こったことだが知らないことだ。やっぱり、凛恋の心のことを考えると、記憶を失ったということで悩ませたくはなかった。


「それでね……多野くんが一人で戦ってくれたんだって聞いたの。そのお礼を言わないとって思ってたんだけど……」

「俺はお礼なんて言ってもらうようなことはしてない。俺は人としてやっちゃいけないことをしたんだ」

「でも、私はそれを聞いて嬉しいって思った。私は事故のことは全然覚えてないけど、それでも多野くんが私のために怒ってくれたんだって聞いて凄く嬉しかった。だからね、今度は私が多野くんのために戦う番だって思ったの。だから、裁判で戦おうと思ってる。私には事故の記憶がないし、お父さんとお母さんには失礼な話だけど、自分のことなのに他人事みたいな感じはしてる。でも……多野くんを傷付けた人は許せない。絶対に許せないって思った。多野くんはずっと私に良くしてくれたし、今の私にとって一人だけの友達だから」


 凛恋は乾いた笑みを浮かべて肩をすくめる。


「こんなこと言ったら、赤城さん達に失礼だって言うのは分かってる。でも、赤城さんの友達は記憶を失くす前の私で今の私じゃない。赤城さん達は私に話し掛けてるように見えて、記憶を失くす前の私に話し掛けてる。でも、多野くんは今の私に話し掛けてくれるから」


 まだ報われたなんて思うのは早過ぎる。俺が報われたと思って良いのは、凛恋が退院して通院も必要のないくらい体が良くなって、凛恋が記憶がないことに対する負い目や不安を感じなくなってから。だけど、そこまではまだまだ遠いとしても、凛恋の言葉は自分の選んだ道、取った行動が間違いではなかったと思えた。


「ごめんね。多野くんもきっと記憶を失う前の私と話したいはずなのに」

「俺は八戸さんが無事ならそれで良いんだ。八戸さんが生きててくれるならそれで」


 記憶が戻れば、その方が良いのは確かだ。でも、それよりもやっぱり凛恋が生きてくれている方が良いに決まってる。


「多野くんは本当に優しいね。多野くんが友達で本当に良かった。記憶が失くなる前の私は本当に幸せ者だよ」

「そんなことない。まあ、八戸さんが幸せ者だってことだけはその通りだけど」

「多野くんは凄く優しいよ」


 優しく微笑む凛恋は、俺に向けていた顔をハッとさせて俯いた。


「で、でも……多野くん、結構意地悪だよね」

「意地悪?」

「だって、よく私のことからかうし。それにさっきだって……」


 顔を上げた凛恋は可愛らしく唇を尖らせた。


「他の子にもあんなことしてるの?」

「あんなこと?」

「さ、さっき私のアップルパイ食べたでしょ? その……ほらっ、かかか、間接キ――」

「八戸さん、今大丈夫?」


 部屋のドアがノックされて、外から凛恋の担当医をしている御園先生の声が聞こえた。


「はい」


 凛恋が返事をすると、中に御園先生が入って来る。その御園先生は俺を見て笑顔を向けた。


「八戸さん、お加減はどうですか?」

「はい。体はまだまだですけど、気分は全く問題ないです」

「良かった。あっ、でも食べ物の食べ過ぎは禁物だよ? 食事制限はないと言っても、まだ運動も出来ないし」

「ご、ごめんな――」

「すみません。俺が持って来たんです」


 凛恋が謝る前に御園先生へ謝る。すると、御園先生は俺を真っ直ぐ見た。


「八戸さんが入院中だということを考えてお見舞いに来てくれると、八戸さんの担当医として助かります。八戸さんの早い回復のためにも、八戸さんの負担になるようなことは避けて下さい」

「はい、すみません」


 優しい言葉遣いではあったが、明確に俺のやっていることは良くないことだと怒られてしまった。


「御園先生。多野くんは毎日持って来てくれる訳じゃなくて! それに、私も一気に食べずに少しずつ分けて食べてますし!」

「それでも、病院食以外の物を食べすぎるのは良くないよ。八戸さんの早い回復のためにも気を付けないと」

「はい……」

「じゃあ、また来るから。八戸さんもまだ怪我は全然治ってないんだし、安静にしててね」


 御園先生が明るく笑って手を振りながら病室を出て行く。その後、ほんの少し病室がしんみりとした空気になってしまった。


「怒られちゃったな。まあ、御園先生の言う通りだ。俺が悪いことをした」

「そんなことないよ! 多野くんは私が喜ぶかもって私のために色々買ってきてくれてるだけで」

「あんまり来ない方が良いのかな~」


 俺はさっきの御園先生の言葉を思い出していた。

 御園先生は「八戸さんの早い回復のためにも、八戸さんの負担になるようなことは避けて下さい」そう俺に言っていた。でも、その言葉はきっと俺が食べ物を持って来ることだけを言ってる訳じゃない。


 俺は凛恋が目を覚ましてから毎日同じ時間に来ている。

 凛恋は俺が来る時間をもう把握しているし、その時間の前に清拭も頼んでいるらしい。そう考えると、俺は凛恋だけではなく病院の看護師の人達にも迷惑を掛けている。


「そんなことない!」

「え?」

「多野くんが来てくれるの、凄く嬉しいよ! 私、多野くんが来てくれるの毎日楽しみにしてる!」

「そっか……良かった。でも、来る時間は遅くした方が良いかもしれない。俺が来る前に清拭も頼んでるみたいだし」


「そ、それは……」

「明日からは昼過ぎに来るようにするよ。それに来る頻度も下げた――」

「毎日来て! ――ッ! も、もちろん多野くんが忙しいなら無理しないでほしいけど!」

「いや、俺は毎日暇だし、八戸さんが良いなら」

「うん! でも、食べ物は時々で良いからねっ!」


 ニコニコ笑う凛恋の顔に胸の奥をギュッと締め付ける感覚がした。でも、その感覚は痛いとか苦しい感覚じゃなかった。

 優しく心地良くて、凛恋に恋させてもらっている幸せな締め付けだった。


「食べ物を持って来るのは遠慮しないんだな」

「えっ! あっ! も、もうっ! またからかった!」


 見る見るうちに顔を真っ赤にした凛恋が怒るのを見て、俺は思わず笑ってしまう。そんな俺を見て、凛恋もクスクス笑った。


「だって、多野くんが持って来てくれる物、全部美味しいし……」

「分かった分かった。回数は減らすけど、また持って来るよ」

「ありがとう。でも、本当に無理しないで良いからね?」


 俺は赤みの残った顔で明るく華やかな笑みを浮かべる凛恋を見て、本当に自分が凛恋のことを大好きなんだと改めて思う。

 凛恋の中にある俺の記憶がたとえ確かな形にならなくても、俺は凛恋を好きだ。

 この俺が好きになった凛恋の可愛い笑顔を守れるなら俺は何だって出来る、何だってやる。


「多野くんが食べないならこのメロンパン食べよ~」

「あっ! それ俺の!」


 メロンパンを手に取った凛恋に言うと、凛恋はメロンパンを半分に割って片方を差し出した。


「半分こしよ。そしたら、私一人で食べる訳じゃないから怒られないし」

「いや……そういう問題じゃないと思うけど……まあいっか」


 二人で食べれば悪くないという訳じゃないのは明らかだ。でも、凛恋が可愛らしい笑顔で差し出したメロンパンを受け取る。


「せっかく多野くんが焼き立てを買って来てくれたのに食べないのは損でしょ? うーん! 凄く美味しいっ!」


 メロンパンを囓って顔を綻ばせる凛恋を見ながら、俺も凛恋がくれたメロンパンを一口囓った。

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