【二九八《ただ負担になりたくなくて》】:一
【ただ負担になりたくなくて】
とある日の夜、俺は凛恋のお父さんに誘われて、個室の居酒屋で食事をとることになった。
「凡人くん、好きなものを頼んで」
「ありがとうございます。ご馳走になります」
それぞれが注文の品を決めて料理が運ばれて来てから食事を始める。
「凡人くん、毎日凛恋に会いに行ってくれてありがとう」
「いえ、俺が凛恋に会いたいんです」
「凡人くんが来てくれて、凛恋も入院生活の気が紛れてるみたいだ」
そう言ったお父さんは目を伏せて力なく笑う。
「本当に凡人くんは凄いよ。私は凛恋を見て挫けそうになる。他人を見るように私を見る凛恋に会うのが辛いんだ。それに、凛恋が私に気を遣っているのが分かる。赤の他人にしか思えない男が自分の父親だと言われても戸惑って仕方がない。それが分かってはいても、実の娘に――凛恋にそう思われているのが辛いよ」
「…………お父さんが凛恋のことを誰よりも大切に思っていたことを俺は知ってますから、それを思うと俺も辛いです」
「凡人くんも私と同じ気持ちだろうに……それなのに、凛恋に毎日会いに行って笑って話をしてくれる。本当に凡人くんには頭が下がるよ」
「俺の気持ちよりも、凛恋が早く怪我を治して心穏やかに暮らせるようになるのが先ですから」
「ありがとう。凡人くんに愛されて本当に凛恋は幸せ者だ」
ジョッキからビールを飲んだお父さんは、自分を落ち着かせるように小さく息を吐く。
「凛恋の事故の件。示談ではなく裁判の方向で話を進めているんだ。加害者側からは示談交渉があったけれど、凛恋が受けた被害を金だけで解決したくはない」
お父さんは悔しそうに唇を噛んだ。
きっと裁判になれば、凛恋の受けた事故について考える時間が今よりも増える。そして、裁判が決着するまでより辛い時間が今よりも長くなるだろう。それでも、お父さんは――お父さん達八戸家のみんなは戦うと決めたんだ。でも、気になることがある。
「凛恋はなんと言ってるんですか?」
気になること。それは当然、凛恋のことだ。
凛恋は事故後、厳密には病院で目を覚ます以前の記憶がない。だから、事故に遭った凛恋本人は全く事故のことを覚えていない。だけど、裁判になれば被害者本人の凛恋が証言しないといけないはずだ。
「凛恋には説明をしたよ。事前に精神科の先生にも相談をした」
「それで? 凛恋は何と?」
「お父さん達に任せると言ってくれた。それで、私に出来ることがあったら言ってほしいと」
「そうですか」
俺は、今の時点で裁判にすべきか示談にすべきかを決める答えは出せない。
凛恋を傷付けたやつらを許せないという恨みは確かに俺の中にある。
軽自動車に四人以上乗れないことを知らなかった。それを知らなかったでは済まされないが、まだそれは知らない可能性がないとも言えない。でも、飲酒運転が絶対にダメだってことは、今の世の中、小学生でも知っている常識的なことだ。それを二〇歳を超えた男が五人集まって実際にやっているんだから悪質だ。それに……俺は見舞いに来たとのたまって、目の前で持って来た花束を叩き付けるような人間の吐き出す反省の言葉なんて一切信じられない。
ただ、それは俺が思うことで、俺が感じた俺なりの"本来あるべき道理"だ。悪いことをしたら、したこと相応の罰を受けるべきだという俺の考えでの話だ。でも、凛恋のことを考えると、それが本当に正しいことなのかと言われて、正しいと断言出来ない。
今、凛恋は記憶を失くして戸惑っている。周りは誰も知らない人ばかりで、自分のことさえも分からない。その上、自分は大怪我をしていて日常生活もままならない状況。そんな状況で、自分の記憶にない事故の裁判をさせるべきなのか。それは凛恋にとって負担にしかならないんじゃないか。そう考えてしまう。
裁判をせずに示談を選べば、凛恋を傷付けたやつらはいくらかの金を支払えば罰を受けることはない。凛恋を傷付けた罪が金で償える訳がない。でも、出来るだけ早くことを片付けて、凛恋への気持ちに対する負担を取り除いた方が良いんじゃないかと思いもする。
「迷ったよ。裁判で戦うか、早くことを片付けて凛恋の治療に専念すべきか。でもね……凡人くんが加害者の一人に受けたことを聞いて、戦おうと決めたんだ」
「お父さん……すみません。八戸家のことに俺が――」
「何言ってるんだっ! 凡人くんはもう私達の大切な息子だ! 実際にそういう繋がりはなくても、今まで積み重ねてきた時間から心からそう思える。本当にっ……本当に悔しくて堪らなかったっ! それに、凡人くんだけに戦わせてしまったことが本当に申し訳なかったっ……。どんなに辛かったか……。私は凡人くんのしてくれたことを全く悪いことだとは思ってない。たとえ世の中の人達から後ろ指を指されても胸を張って言える。凡人くんは人として正しいことをした。凛恋のために戦ってくれたんだと」
「ありがとうございます。お父さんにそう言ってもらえると、凄く気持ちが楽になります」
「凡人くんに対して加害者の男がしたことを知って、彼らは全く反省していないと分かったよ。たとえ、加害者のうちの一人のことでも」
お父さんはビールを一気に飲み干してビールのおかわりを頼む。ちょっと飲むペースが速い気がするが、俺は止めようと思わなかった。
凛恋の事故から、お父さんはずっと辛い重いをしてきた。だから、少しでも気が楽になるなら、酒の力を借りることも必要だと思った。
居酒屋で酔い潰れたお父さんを背負って八戸家のインターホンを鳴らすと、お母さんが慌てた様子で出てきた。
「凡人くん、迷惑掛けてごめんなさい」
「迷惑だなんて」
「タクシー代を返すわ」
「良いですよ」
「ダメよ。一万円で足りる?」
「そんなに掛かってませんよ」
「領収書は貰ってる?」
「何も言わなくてもくれる運転手さんだったんで、財布の中に――」
「とりあえず上がって、それから領収書を渡して」
「はい。お邪魔します」
結構遅い時間だったが家に上げてもらって、俺はお父さんを寝室のベッドまで運んだ。
「凡人さん、いらっしゃい。コーヒー淹れたから飲んで」
「優愛ちゃんこんばんは。ありがとう」
お父さんを寝室に寝かせてからお母さんにリビングに通されると、部屋着姿の優愛ちゃんがコーヒーを淹れてくれた。
「凡人くん、領収書出して」
「はい」
お母さんに言われて領収書を渡すと、三〇〇〇円ちょっとだったのに五〇〇〇円を渡された。
「四〇〇〇円で――」
「いつも凛恋にお菓子を持って行ってくれてるでしょ。そのお礼もよ」
「知ってたんですか」
俺が凛恋の面会に行く時間は早いし、お母さん達とはあまりバッティングしない。毎日持って行くのは流石に健康に良くないからしていないが、頻繁にお菓子を持って行ってることをお母さん達が知っているとは思わなかった。
「凛恋が凡人くんのことをよく話してくれるのよ。毎日来てくれて、よく話をしてくれるって」
「そうだったんですか」
「ええ。本当にありがとう。凡人くんが来てくれて、凛恋は本当に気持ちを楽にしてもらってる」
「はい。凡人さん」
「ありがとう。いただきます」
横から優愛ちゃんがアイスコーヒーの入ったコップを置いてくれて、俺はコーヒーを一口飲んだ。
「凡人さんは飲んで来なかったの?」
「飲んだよ。ビールを一杯。俺が飲まないとお父さんが飲めないし」
「凡人くんありがとう。お父さんに付き合ってくれて」
「いえ、俺に出来ることはお酒に付き合うことくらいですから」
結露の付いたコップを両手で握って言うと、お母さんは首を横に振って否定した。
「そんなことないわ。凡人くんは私達家族を凄く支えてくれてる。凡人くんが居てくれたことで私達は本当に救われてるの。ありがとう」
「いえ、俺は何も……」
照れ臭かった訳じゃなかった。本当に俺は何も出来てないと思ったからそう言葉が出た。俺は何も、八戸家を――凛恋を助けられるような凄いことなんて何一つ出来てない。
「ママ……凡人さんと二人で話したいことがあるから部屋に連れてって良い?」
俺がアイスコーヒーを飲み終えると、優愛ちゃんがお母さんにそう言う。それに、お母さんは少し悲しそうな笑みを浮かべながら優しく頷いた。
「良いわよ。でも、あまり凡人くんを引き止めちゃダメよ。もう遅いんだから」
「うん、分かってる。お兄ちゃん、私の部屋に来て」
「分かった」
ソファーから立ち上がって優愛ちゃんと一緒に、二階にある優愛ちゃんの部屋に行く。
久しぶりに入った優愛ちゃんの部屋で、俺の方を振り返った優愛ちゃんは思いっきり正面から抱き付いた。
「ありがとう。凡人さん」
「お父さんのことなら気にしなくて――」
「それもだけど……病院に来た男を追い返してくれたこと。まだお礼を言えてなかったから」
「お礼を言われるようなことはしてない」
「したよ。凡人さんは、あの最低な男を追い返してぶっ飛ばしてくれた」
「俺がやったことは褒められたことじゃない」
「お見舞いに菊の花を持って来て、逆ギレするやつをぶっ飛ばしたことが褒められないことな訳ないじゃん! 私、凡人さんがしてくれたことで凄くすっきりしたし救われた。やっぱり凡人さんはヒーローだって思った」
「ヒーローなんかじゃないよ」
「誰が何と言おうと凡人さんは私にとってヒーローなの。本当にありがとう」
そう笑う優愛ちゃんだが、笑い切れていないのが痛いほど伝わってくる。
「優愛ちゃん。俺は笑わないといけない相手じゃないから」
「凡人さん……」
「凛恋の前とかお父さんの前では泣き辛いかもしれない。でも、俺は泣き辛い相手にしないでほしい」
「でも、私も二〇歳超えた大人だし――」
「二〇歳超えてても、俺にとっては大切な妹だよ、優愛ちゃんは」
そっと頭を撫でると、優愛ちゃんは俺の胸に顔を埋めてしがみつく。
「凡人さん……凡人さんっ…………」
正面から泣き付く優愛ちゃんは、声を押し殺すことをせずに泣き出した。
「お姉ちゃんが忘れちゃったっ……私のこと何も覚えてなくてっ! 優愛ちゃんとか呼んでっ! …………嫌だよっ、お姉ちゃんに忘れられたくないよっ!」
泣き付く優愛ちゃんの背中を撫でながら、俺は俺で涙を抑えた。
優愛ちゃんが何をしたって言うんだ。なんで優愛ちゃんがこんなに傷付いて、その上に泣くことを我慢する必要があるって言うんだ。
きっと思い出してくれる。そんな無責任な言葉は言えなかった。そんな保証は何もないし、その可能性が低いということは優愛ちゃんだって分かっている。でも、分かりたくない。俺だって……そんなこと分かりたくなかった。
優愛ちゃんは俺の胸でずっと泣き続けている。その優愛ちゃんに対して俺が出来ることは、ただ優愛ちゃんに胸を貸し続けることしかない。
次の日もいつもの時間に凛恋の病院へ向かう。でも、その前に寄り道をしている。
開店前なのに長蛇の列が出来ているパン屋。そこは、最近出来たばかりで美味しいと評判のパン屋で、きっと凛恋なら並んで買いに行こうと俺を誘う。
一人で並ぶのは凄く退屈で、隣に凛恋が居てくれたらと思ってしまった。
いつも凛恋は俺に話をしてくれた。俺が話を振らなくても凛恋が話題を振ってくれて自然と俺も楽しい会話を自然に出来た。
ぽっかりと心に穴が空いたような空虚感、まるで自分の体の半分が消え失せたような喪失感。
凛恋は生きている。まだ怪我は治っていないが、確かに凛恋は生きてくれているんだ。でも、凛恋は記憶を失ってしまった。
記憶を失ったからなんだ。凛恋は凛恋だ。それは何も変わらない。たとえ凛恋が俺と付き合っていたことを忘れてしまったとしても、俺はまた凛恋に俺のことを好きになってもらう。そして、凛恋をこれからずっと支えていきたい。そう思っているのに、悲しいと思ってしまう。
動き出した列について行って店の中に入る。それで、凛恋が好きなパンを中心に選んでレジで会計を済ませる。
パンの入った袋を持って病院へ向かい、いつも通り病院に入って面会の手続きをした。
「八戸さん。多野だ」
「えっ!? ちょっ、ちょっと待ってて!」
「ん?」
いつも通り凛恋の病室まで行ってドアをノックすると、中から凛恋の慌てた声が聞こえる。それに首を傾げて待つ。すると、横から看護師さんが現れて俺を見る。
「あら? 面会の方ですか? じゃあ、後で――」
「あの! 先にお願いします! お願い、多野くんは少し待ってて!」
病室の中から慌てた凛恋の声が聞こえ、疑問に思いながらも看護師さんのためにドアから離れて道を空ける。
「分かった。じゃあ少し時間を潰して来るよ」
「二〇分くらい掛かるので、少しお待ち下さい」
「分かりました」
看護師さんにそう答えて、とりあえず俺は時間を潰すためにバルコニーまで歩いて行った。そして、時間を多めに三〇分くらい潰してから、再び凛恋の病室へ向かう。
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