【二九六《何が正しく何が間違いか》】:二

「俺は多野凡人」

「たの……かずと、さん? あの……多野さんは私の――」

「ただの通りすがりだよ」

「え? 通りすがり? でも、ここは病院で――」


 困った様子でオロオロする凛恋は、俺の出方を探るように見る。そんな凛恋の側に歩いて行って、ベッドの脇の椅子に座って……精一杯笑った。


「通りすがりで悪いんだけど、俺と友達になってくれないかな? 自分で言うのも何だけど、人畜無害だから安心して」


 戸惑っていた凛恋は、よく見慣れた、可愛い笑顔でクスッと笑う。そして、ハッとした表情をして頭を下げた。


「ご、ごめんなさい」

「謝る必要はないよ。それで、友達になってくれる?」

「え? あっはい。えっと……私は、八戸凛恋っていう名前らしいです。それで、歳は今二一で、今年二二になるみたいです」

「奇遇だな。俺も二二なんだ」

「同い年なんですか。年上かと思ってました」

「老けてる?」

「い、いや! そういうつもりはなくて! あっ……からかったんですね」


 わざとからかったように見える笑いを浮かべると、凛恋は少し怒ったような顔をしてすぐにはにかむ。


「ごめんごめん。でも、実年齢より上に見られることはあるから気にしないで。ああ、俺のことは多野でも、おいでも、お前でも何でも好きに呼んで」

「分かりました。じゃあ、多野くんで」


 クスッと笑った凛恋に多野くんと呼ばれ、胃がせり上がるような思いがした。でも、必死にそれに耐えておどけて笑う。


「了解。じゃあ、俺は八戸さんって呼ぶけど良い? それと敬語はなし。同い年なんだし」

「うん。まだ呼ばれ慣れないけどそれで」


 可笑しそうに笑う凛恋が頷いて……俺に首を傾げた。


「それで……多野くんは私の――」

「さっきも言ったけどただの通りすがり。だから、八戸さんは俺のことなんて気にしなくて良いから」


 不安そうに俺を見る凛恋に、俺は笑って答える。

 俺は一度、高校の頃に短期的に記憶が遡ったことがある。その時は、自分を中学生だと思っていた。

 俺の場合は俺が俺である記憶はあった。ただ、凛恋のことが分からなくて、凛恋が彼女だと知って戸惑ったのも覚えている。そんな俺に対して、今の凛恋は俺や家族や友達の記憶以外に、自分自身の記憶も失っている。


 自分が何者なのかも分からない状況で、凛恋は自分が八戸凛恋だと言われて、家族が三人居て、高校の友達が心配して駆け付けているとも聞いているはずだ。それはきっと、今の凛恋にとって大きな負担だ。

 周りや自分のことが何も分からないのに、周りは自分を知ってる風に接してくる。それに戸惑うのは当たり前だし、それに合わせなければと無理をしてしまうかもしれない。


 大きな事故に遭って体もまだ治っていないのに、凛恋に精神的な負担を掛けたくない。

 いくら記憶をなくしたとしても、俺がただの通りすがりだと思う訳がない。でも、何か変なやつくらいの印象なら、自分のことを一方的に知られている相手よりも気を遣わないと思った。


「もうただの通りすがりじゃないよ。私達は友達」

「…………そう、だな。ごめんごめん。俺達は友達だ。てか、通りすがりといきなり友達になるなんて、八戸さんも変わってるな~」


 笑った凛恋の顔に抑えた感情が溢れそうになって、それを必死に抑えながらふざけて笑う。すると、凛恋はニコニコと笑って言った。


「病室の中を通り掛かる多野くんの方が変わってるよ。でも、多野くんは凄く優しそうだから、きっと友達になっても大丈夫な人だよ」


 俺は、ずっとこの笑顔が見たかった。地震で会えなくなってから、事故で会えなくなってから、俺が惚れた――俺が凛恋を大好きになった笑顔が見たかった。


「八戸さん、診察に参りました」

「あっ、邪魔みたいだから俺は帰るよ」


 後ろから声が聞こえて部屋の中に男性医師が入って来る。それを見て俺は笑って立ち上がった。


「あのっ!」


 病室から出ようとドアの取っ手を掴んだ俺に凛恋がよそよそしい声を掛けた。それに振り返ると、凛恋は躊躇いがちに口を開いた。


「また……通り掛かる?」


 不安そうな表情の凛恋に尋ねられ、俺は目一杯明るい笑顔で答えた。


「多分、毎日通り掛かるかも。ここ俺の通り道だから」


 俺のそんなつまらない冗談を聞いた凛恋はくしゃっと笑って、怪我をして痛いはずの手を胸の横で振って言った。


「じゃあ、また明日通り掛かったら」

「ああ。また通り掛かったら」


 返事をして病室の外に出ると、真っ先に栄次の顔が見えた。


「カズ、凛恋さんは――」


 俺は何も言えず栄次の横を通り過ぎて、希さんも通り過ぎ、瀬名と里奈さんの間も通り過ぎる。


「凡人く――」

「後でみんなに話がある。でも、少し待っててくれ……」


 辛うじて理緒さんにそう言って、俺はみんなから離れて病院のテラスに行った。

 夏の真昼だからか、日当たりの良過ぎるテラスには誰も居なかった。そのテラスの壁際に出来た僅かな影の中に腰を下ろして、俺は両膝を抱えて顔を隠した。


「多野くん、か……」


 凛恋が生きているなら、凛恋が助かるなら何も望まないとは願った。でも、たとえ自分がそう願ったとしても、こんな理不尽なことはないと思った。


「何でだよ……何で……あんな他人に向けるみたいな、全然知らないやつに向けるみたいな困った顔するんだよっ!」


 ドラマや映画で、恋人の記憶がなくなるなんて設定はよくある。凛恋だって、そういう設定のドラマや映画を見てた。でも、自分自身の身に起こると、ロマンチックさなんて感じないし、淡く切ない恋物語なんてありきたりな宣伝文句で片付けられない。

 やっとだった。やっと凛恋に会えたのに……。やっと会えた凛恋は俺を忘れていた。綺麗さっぱり何もかも、俺のことなんて初めて見る人間だと思っていた。


 一番辛いのは凛恋だ。一番辛いのは、周りが知らない人ばかりで、自分自身さえもその知らない人のうちで、不安で不安で仕方ないに決まってる。途方もない孤独感に心が押し潰されそうになっているに決まってる。

 それは分かってる。……分かってはいるけど……分かっていても。


「凛恋……嫌だ……忘れないでくれよっ……。俺だよっ……凡人だよっ……」


 凛恋の前では言えなかった言葉を、テラスの床に敷き詰められたタイルに落とす。そして……その言葉と一緒に…………。

 凛恋の前では絶対に見せられなかった涙を落とした。




 凛恋は記憶喪失という状況で精神的に疲弊している。そう判断されて、今は薬で眠っている。その間に、俺は栄次達以外に凛恋のお父さんお母さん、そして優愛ちゃんに病院の食堂に集まってもらった。


「みんなに頼みがある」

「……頼み?」


 栄次が俺を見て鋭い目を向けた。その目は、俺の頼みを無条件で受け入れる気はないと俺へ示す目だった。


「凛恋は自分のことも分からなくなってる。その状況で、いきなり家族や友達……それから恋人の存在を認識しろって言われても無理だ。そんなことをさせたら、凛恋の心をパンクさせる」

「それで? 頼みってのはなんだ」

「凛恋には、俺と凛恋が付き合ってたことは話さないでくれ」

「反対だ」


「いきなり、知らない男と付き合ってたなんて言われたら困るだろ。どうすれば良いのか、どう接すれば良いのか戸惑う。今、凛恋は頑張って頑張って、頑張り抜いて戻ってきてくれたばかりなんだ…………その凛恋に、これ以上頑張らせたくないんだ……」

「カズの気持ちはどうなるんだよッ!」

「俺の気持ちなんて二の次だっ!」


 涙を流した栄次が、俺の胸倉を掴んで前後に強く揺する。それに答えると、瀬名が俺と栄次の横から俺達の腕を掴んだ。


「凡人、栄次、病院の中だから落ち着いて」


 瀬名になだめられて、俺と栄次は一旦離れた。


「私も凡人さんには反対です。お姉ちゃんの側には凡人さんが必要です」

「優愛ちゃん、俺は凛恋から離れる訳じゃない。凛恋には毎日会いに来る」

「だったら、付き合ってたって言っても良いじゃないですかっ! 凡人さんがどれだけお姉ちゃんのことを大切にしてて、お姉ちゃんも凡人さんと同じように凡人さんを大切に想ってたことを話せば――」


「凛恋がさ……俺を見た瞬間、申し訳なさそうに困った顔をしたんだ。みんなだって同じ顔を見たんじゃないか? あっ、知らない人だ。でも、この人のことも私は忘れてるんだ。どうしよう。そんな困った顔をしたんだよ、凛恋は。あんな顔……俺は凛恋に向けられたくないんだ……。あんな顔を向けられ続けたら、凛恋の前で笑えなくなる。そしたらもっと凛恋は困るだろ。自分が忘れたせいだって自分を責めるだろ。凛恋は頑張って戻って来てくれたんだ。今はゆっくり休ませてあげたい」

「凡人くん……凛恋の記憶は戻る保証はないそうだ。事故の精神的なショックで一時的に記憶喪失になっている可能性ではなく、脳挫傷による高次脳機能障害の中の逆行性健忘の可能性があるらしい。そうだとしたら、記憶が戻る可能性は極めて低いそうだ」


 お父さんは辛い心情の中、俺にそう話してくれた。


「怪我の方は?」

「手足に障害が残る可能性があるが、そこは凛恋の回復力とリハビリ次第らしい。それと体に傷跡が残るのは避けられないそうだ」

「命に関わる怪我は?」

「それについては大丈夫だそうだ。先生は奇跡的な回復力だと言ってくれた」

「良かった……凛恋が生きていられるなら、本当に良かったです」


 もう凛恋の命の心配をしなくても良い。もう凛恋の命は安全だ。そう思えただけで随分気が楽になった。これで今以上に凛恋に向き合える気力が保てる。


「落ち着いたら、凛恋には自分から話します。それでまた、凛恋が俺を好きになってくれて俺と結婚しても良いと言ってくれたら、その時は挨拶に行きます」


 頭を下げてお父さんにそう頼んだ。顔を上げると、お父さんは軽く頷いてはくれたが、言葉は出ないようで口を手で押さえて俯いてしまった。

 栄次と優愛ちゃん以外は俺に反対しなかった。でも、多分それはみんな俺と同じなんだ。

 誰だって今何が最善かなんて分からない。最善だったかどうかなんて、未来に進んで今が過去になってからじゃないと分からない。今の俺達に出来ることは、凛恋のことを想って、凛恋のために今最善だと思ったことをやることだけだ。

 今、俺の出来る最善は、これから体の治療と記憶喪失と向き合う凛恋の負担を出来るだけ取り除くことだ。そのために自分の気持ちを抑える必要があるから、俺は自分の気持ちを抑えた。


「今日は帰ります」


 本当は、今からでも凛恋の側に戻ってずっと付いていたかった。でも、凛恋は眠っているし、たとえ起きていたとしても、凛恋の負担になってしまうだけだ。また明日、凛恋に会いに行って馬鹿みたいにふざけて他愛のない話をするんだ。それで、凛恋に気を遣わないで済むやつも居るんだって思ってもらう。そう思ってもらえて、俺に対して無理をしないでくれたら、それでひとまず俺が考えたことは実現出来るはずだ。


「みんなが凛恋とどう接するかはみんなの考えで良いと思う。でも、俺の考えも尊重してくれないか?」

「凡人くんが凛恋を大切にしてる気持ちはよく分かった。でも、私は凛恋に私が凛恋の親友だって話す。本当は凡人くんのことを話すべきだと私は思ってる。でも、私は今の凛恋に何を伝えることが正しいのか分からない。だから、凡人くんがそれで良いって言うなら、私は凡人くんのお願いを聞く。…………それで一番辛いのは凡人くん本人だもん。それを凡人くんが私達にお願いするなら、私は凡人くんの言う通りにする。でも、私のやることにも凡人くんが口を出さないって言うなら」

「ありがとう。それで良いよ」


 結局、まだみんな分かりかねている。凛恋にどうするべきか、自分は凛恋に対してどうあるべきか。でも、それでも前に進まないといけない。

 時間は待ってくれない。ただ何もせずその場で立ち尽くすことも出来る。立ち止まって何もしないくらいなら、分からなくても凛恋のために何かをした方が良い。


「じゃあ、俺はこれで」


 お父さん達に軽く頭を下げて食堂を出る。そして、自分のスマートフォンの待ち受けになった凛恋との画像を見る。

 凛恋の使っていたスマートフォンは、事故で大破して使えなくなってしまったらしい。だから、凛恋には俺との思い出が明確に分かる物は残ってない。

 凛恋の病室を出て、本当に忘れられてしまったんだということに向き合ってその実感が押し寄せてきた時、俺は情けないほど取り乱した。でも、もう取り乱すのは終わりだ。


 明日から、凛恋が心穏やかに治療に専念出来るようにサポートする。彼氏として直接接することは出来ないが、出来るだけ早く凛恋にとって気兼ねなく話せる相手になって、人には言い辛い愚痴なんかを溢せる相手になりたい。それで凛恋のストレスを少しでも和らげられたらそれで良い。


 お父さんは記憶が戻る可能性は低いと言ってた。だから、その言葉通り俺との思い出を凛恋は一生思い出すことは出来ないのかもしれない。でも……俺は信じてる。

 たとえ思い出せないとしても、今まで俺と凛恋が歩いてきた時間は、決して無駄にはならないんだと。

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