【二九六《何が正しく何が間違いか》】:一
【何が正しく何が間違いか】
俺は、殴った男が通報して来た警察官に暴行傷害の現行犯で逮捕された。それで、警察署の取調室のパイプ椅子に座って視線を机の上に落とした。
「どうして殴るなんて」
「今、私の婚約者が飲酒運転と定員外乗車の車に撥ねられて危篤状態なんです。それで、殴った男はその車の同乗者でした」
「それで? 殴った理由は?」
「彼は、面会時間外に菊の花を持って来ました。婚約者を撥ねた車に乗ってきた人間が来ること自体が不愉快だったのもありますが、菊の花を平然とした顔で持って来て、それで菊の花が仏花であることを伝えて帰れと言ったら、せっかく見舞いに来たのにと持っていた花を地面に叩き付けて……それを見たら頭に血が上って手が出ていました」
「それは……」
目の前に座っている警察官が、思わず漏らしてしまったようなそんな声を発した。そして、俺に同情の目を向けてくる。
「今、被害者の方にも事情を聞いています。被害者の証言を聞いてからでないとなんとも言えませんが……」
「悪いことをしたのは分かっています。申し訳ありません」
「ちょっと席を外します」
「はい」
俺に事情聴取をした警察官が取調室を出て、外からドアの鍵が掛けられる音がした。
パイプ椅子の背もたれに背中を預けて、俯いて両手の拳を握った。
正しいか正しくないかで言えば正しくない。どんな理由があろうと、殴ることは犯罪だ。でも、俺はあの男を殴ったことを後悔していない。
世の中には色んな人間が居る。良い人間も悪い人間も。それは今まで生きてきてよく知ってる。そして、赤の他人に対して期待をする方が間違っているというのも理解しているつもりだった。でも……あそこまで、凛恋を侮辱されて……どうしても我慢出来なかった。
「なんで……なんであんなやつが平然と生きてて、凛恋が……」
言葉にしたって無駄なのは分かってる。言葉にしたって、凛恋の容態が良くなる訳じゃない。ただ無意味に、男に対する苛立ちや悔しさが募るだけだ。だけど、それが分かっていても言葉にせずにはいられないくらいやるせなかった。
「多野さん、祖父母の方とお姉さんが迎えに来られました」
ただじっと椅子に座り続けていると、部屋を出た警察官が戻って来て俺にそう言った。
「今回は、事情を鑑みて微罪処分とします。ですが、多野さんがやったことは犯罪です。……警察官として貴方のしたことを許すことは出来ません。ですが、お気持ちはお察しします」
「微罪、処分……ご迷惑をお掛けしました」
「いえ。玄関まで案内します。付いて来て下さい」
「はい……ありがとうございます」
頭を下げて、警察官と一緒に警察署の総合受付の前まで行くと、ロビーに立っている爺ちゃんと婆ちゃん、栞姉ちゃんが見えた。
「カズくん! 無事で良かったっ……」
掛け寄ってきた栞姉ちゃんが正面から俺を抱き締める。その栞姉ちゃんの様子を見て、俺は地元に戻ってから爺ちゃん達に一つの連絡もしていなかったことに今更気が付いた。
「……凡人」
「爺ちゃん……ごめん。連絡もしなくて」
「いい。だが、一度帰って飯を食って寝ろ。八戸さんから電話で聞いてる。帰ってきてからずっと凛恋さんの側に付いてたんだろ」
「いや……今から病院に戻――」
「ダメだ」
「……分かった」
俺は爺ちゃん達にいい年した孫を警察まで迎えに来させてしまったんだ。だから、これ以上わがままを言って迷惑を掛ける訳にはいかなかった。
「凡人……心配したわ。地震の後から連絡が付かなくて……」
「婆ちゃん、ごめん。スマートフォンが繋がらなくて。それに凛恋のことがあって、連絡する気が回らなかった」
「良いのよ、凡人が無事ならそれで。……凛恋さんは、まだ?」
「意識は戻ったらしいけど……その後、どうなってるかは分からないんだ」
「婆さん、とにかく帰るぞ」
爺ちゃんがそう言って、俺達を連れて警察署の前に停まった二台のタクシーに近付く。
「すまないが、栞さんは婆さんと後ろのタクシーに乗ってくれるか?」
「はい」
栞姉ちゃんと婆ちゃんが別のタクシーに乗り込むのを見送って、俺は爺ちゃんと一緒にタクシーの後部座席に乗り込んだ。
「爺ちゃん、迷惑掛けてごめん」
「お前が人に手を上げるにはそれなりに理由がある。……取り調べをした警察官から事情は聞いた。……凡人、世の中には自分の常識が通用しない人間なんぞごまんと居る」
「分かってる。殴った時点で負けだって。殴ることは悪いって分かってる。でもっ……どうしても耐えられなかった。あいつはっ……あいつは凛恋を馬鹿にしたんだ……。凛恋を傷付けて馬鹿にしたのに、自分は悪くないってッ!」
爺ちゃんは俺の気持ちを間違ってるとも正しいとも分かってるとも言わなかった。ただ黙って、俺の頭を荒くぐちゃぐちゃに撫でた。でも隣から……爺ちゃんのすすり泣く声が聞こえた。
家に帰ってから、何も食べる気が起きなくて、辛うじてお茶漬けを一杯食べられた。でも、それさえ食べるのにも時間が掛かって、最後に口にしたお茶漬けのご飯はふやけていた。
風呂に入ってから部屋で寝ろと言われても眠れなくて、部屋を真っ暗にして目を瞑っても全く眠れなかった。そして、眠れないうちに朝が来て、俺はベッドから出てテーブルに『病院に行ってくる』という置き手紙だけ残して家を出た。
凛恋の意識が戻ってから数時間が経っている。でも、その後の状況は分からない。お父さんお母さんから連絡はないし、優愛ちゃんと希さんからもメールもない。
病院に行ったからと言って、まだ凛恋に会わせてもらえるか分からない。でも、ただ家でじっとしていられる訳もなかった。
凛恋のために何も出来なくて、それなのに人を殴って警察に連れて行かれた。そのせいで、俺は爺ちゃん達だけじゃなくて、お父さん、お母さん、優愛ちゃん、希さんにも迷惑を掛けた。
何も出来ない無力な人間で、仕舞いには凛恋のことで精神状態がいっぱいいっぱいのお父さん達に迷惑を掛けた。本当に……最低だ。
「カズ」
「……栄次、どうして」
「昨日、カズの爺ちゃんから電話があった。カズが凛恋さんのところに行くだろうから頼むって」
「そうか」
家の前に立っていた栄次に大した反応も出来ず俺が歩き出すと、栄次は俺の横を歩いてくれた。
「……大丈夫か? 寝れてないんだろ?」
「ああ……」
「でも、無理だよな」
栄次は小さく息を吸って再び言葉を発した。
「今朝夜行バスで着いたばかりなんだ。希にもまだ連絡してない」
「連絡してあげろよ。希さんが待ってる」
「一緒に病院に行けば会えるだろ。それに、今のカズを放って連絡した方が希に怒られる。…………カズ、凛恋さんは絶対大丈夫だ」
「意識は昨日戻ったみたいなんだ。でも、その後何も聞いてなくて……凛恋のお父さん達が医者に呼ばれたっきり戻って来なくて、どうなってるのか分からない。もしかしたら、何か重い障害が残ったかもしれない……」
「悔しいよな……轢いたやつらは軽傷で、凛恋さんは重傷なんて……こんな理不尽なことはないっ……」
栄次は両手の拳を握って怒りを露わにする。その隠してない栄次の怒りを見て、ほんの少しだけ安心した。
「俺は凛恋にどんな障害が残っても凛恋を支える。この先、俺が凛恋の全てを背負う」
「カズが側に居たら凛恋さんも安心だ。大丈夫、医者が意識が戻ったって言ってたなら、凛恋さんはちゃんと生きている」
「ああ……ありがとう」
栄次が軽く背中を叩いて俺を鼓舞してくれる。
凛恋に何があっても俺が凛恋を好きなことは変わらない。何があっても、俺は凛恋を幸せにするんだ。
栄次と一緒に病院へ歩いて向かい。病院に付く頃には面会開始の時間を少し過ぎた頃だった。
病院の中に入って凛恋の病室前に行くと、希さん以外に、瀬名、里奈さん、理緒さんが居た。
「栄次!」
「希、さっきこっちに着いたんだ。それでカズの爺ちゃんに頼まれてカズをここまで連れて来た」
栄次と希さんの会話を少し離れた位置から見ていると、理緒さんが近付いて来て俺を見た。
「凡人くん、凛恋は――」
「凡人くん、凛恋はまだ安静にしてないといけなくて会えないの」
希さんが理緒さんの言葉を遮るように言った。それを聞いて、凛恋の病室のドアを見る。
「お父さん達は?」
「凛恋のお父さん達は家に――」
「帰る訳ないだろ。娘の意識が戻ったんだぞ。くだらない嘘は吐かないでくれ。…………ごめん。でも、嘘なんだよな」
自分でも心に余裕がないことは分かっていた。そして、栄次以外のみんなが俺を見て目を伏せたので分かった。やっぱり、凛恋は完全に"無事"ではないのだ。
突っ立ってドアを見ていると、中から凛恋のお父さんが泣いている優愛ちゃんの肩を支えて出て来た。そのお父さんは俺に気付いたが、優愛ちゃんのことで精一杯で、俺には言葉を交わさず優愛ちゃんを連れて行った。
「凡人くん! ダメ!」
横から希さんの声が聞こえた。でも、俺はそれに構わず病室のドアをノックした。
「はい」
病室の中からお母さんの声が聞こえた。そして、ゆっくりとドアが開いて中からお母さんが出てくる。それで、俺を見た瞬間、みんなと同じように目を伏せた。
「凛恋に会わせてもらえませんか?」
「…………凡人くん、その前に凛恋について話をしたいの」
病室のドアを背にしたお母さんがそう言ってから、希さん達の方を見る。それを見て、希さん達は気を遣って病室の前から離れて行った。
「昨日のことは多野さんから電話で聞いたわ」
「大変な時に心配を掛けてすみません」
「いえ……凡人くんが私達を傷付けないように病院に来た人を連れ出してくれたのが分かるし、許せなかった気持ちも、悔しかった気持ちも痛いほど分かるわ……。私だったら、まともに立っていられなかったかもしれない」
「…………凛恋の容態について教えてもらえますか?」
そう尋ねると、お母さんは言葉を一つ一つ丁寧に選ぶように声を発した。
「昨日、凛恋の意識が戻ってから沢山検査をしたわ。怪我は全治三ヶ月以上だそうよ。それで……事故の時に頭を強く打っていたみたいで…………」
そこで言葉に詰まったお母さんは、口を覆って涙を流しながら言った。
「記憶が全くないの。自分のことも、家族のことも何も覚えてないわ。凛恋は自分が誰なのかも――」
申し訳ないと思った。その場で崩れ落ちたお母さんを介抱すべきだった。でも、俺はドアを開けて病室に入っていた。
壁も天井も床も真っ白な個室の奥にある窓から、明るい日の光が差し込む。その光の眩しさに一瞬目を細めてから、窓際に置かれたベッドの上を見た。
ベッドの上には、頭や腕に包帯を巻いて、顔にはところどころガーゼが貼られた、痛々しい姿の凛恋が居た。その凛恋は俺を見て……困ったように笑った。
「あの……ごめんなさい。私……」
まるで、知らない人が入って来て戸惑っているような反応だった。
「えっと……ごめんなさい……。私、お父さんもお母さんも妹のことも分からなくて、自分のことも分からないんです。何か事故に遭ったらしいんですけど……自分が誰かも分からなくて」
凛恋は何も悪くないのに俺へ謝った。そして、必死に自分の状況を説明しようとしている。
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