【二九五《譲れないもの》】:二

 俺達が病院に駆け付ける前に、真弥さんと瀬名と里奈さんが来てくれたらしい。三人が凛恋を見て何を思ったかは分からない。でもきっと、今の俺と同じようにやるせなさでいっぱいだったと思う。


「凡人くん、せめて飲み物くらいは飲んで。じゃないと、脱水症になっちゃう」


 集中治療室の窓ガラスに手を置いて凛恋を見ていると、隣に立った希さんがお茶のペットボトルを差し出してくれた。


「希さん、ありがとう」


 ペットボトルの蓋を開けて一口飲んでから、蓋を閉めてまた凛恋へ視線を向ける。


「今でも、凛恋が事故に遭ったなんて信じられない。ひょっこり後ろから声掛けられて、嘘でしたって笑って言われそう」

「凛恋はそんな人を傷付けるような嘘は吐かないよ」

「うん……分かってる。でも……そうだったら……嘘だったら良かったのに……」


 希さんの言う通り、今のこの状況が全て嘘だったら。そう思わない気持ちはない。でも、凛恋も、凛恋のお父さんお母さんもそんな人を傷付ける嘘は絶対に吐かない。だから……今が紛れもない真実なんだと思い知る。


「萌夏が、どうにかしてこっちに帰って来るって言ってた」

「そっか。……凛恋は気に病むだろうな。自分のせいで迷惑掛けたって」

「凡人くん……まさか、また自分のせいだなんて思ってないよね?」


 希さんの言葉に否定も肯定もせずに居ると、希さんは俺の腕を掴んで激しく首を横へ振った。


「絶対に凡人くんのせいじゃない。全部悪いのは、車を運転してた人と一緒に乗ってた人達だよ。凡人くんは何も悪くないじゃない」

「あの時ああすれば良かったとか、こうすれば良かったとか、そういう後悔って今まで何度もして来て、それが全く無意味なことだって分かってるんだ。でも……ダメなんだよっ……どうしても考えてしまうんだ。俺が凛恋を一人で地元に帰さなければ、こんなことにはならなかったんじゃないかって……痛くて苦しくて怖い思いをさせずに済んだんじゃないかって……。俺には何も出来ないからっ! 何も……凛恋のために何も出来ないからっ……無意味なことを考えることしか出来ないんだ……」


「……凡人くんがアルバイトで泊まり込みの時、毎回凛恋とお泊まりするけど、凛恋はずっと凡人くんの話をしてる。最近あった凡人くんの格好良い話とか可愛い話とか。私、凛恋から凡人くんの愚痴って全然聞かない。肝心なことを一人で抱え込もうとするから心配だとは聞くけど、凛恋は凡人くんのことが本当に大好きで、凡人くんに対して不満なんて何一つないと思う。そんな凛恋が、凡人くんが自分を責めてたら嫌に決まってるよ」

「分かってる。こんなこと考えてたら凛恋に怒られる」

「だったら、そんなこと考えないで。凛恋だけじゃなくて、私も凡人くんにそんなこと考えてほしくない」


 分かってる。俺だってお父さんが自分を責めて俺に謝った時、そんなことをお父さんがする必要なんてないと思った。でも、頭で思っていても、俺の心が追い付かない。

 加害者の男達を恨んでる。でも、俺の恨みを鋭利な言葉として限りぶつけることは許されない。それに、俺の晴れることのない恨みを晴らそうとするための行動はもっと許されないことだ。


 言葉をぶつけるのも行動に起こすのも許されないなら思うしかない。それに、自分のせいにするのが一番手っ取り早い。

 自分以外の誰かのせいにするには、少なからず罪悪感を抱く。たとえ、それがこの手で八つ裂きにしてやりたいほど憎い相手でも、そいつに対して悪意を抱いたという罪悪感が残ってしまう。

 だったら、自分のせいにしてしまった方が心は楽だった。


「栄次も来てくれるって。明日には来れるからって」

「そうか」


 まだ目覚める気配のない凛恋を見て、俺は悔しくてやるせなくて……軽く窓ガラスを拳で叩いた。


「凡人くん、一度家に帰った方が良い。空港から直接――」

「パパ。今の凡人さんに何言っても聞かないってもう分かってるでしょ?」


 お父さんの気遣いを遠慮しようとすると、優愛ちゃんが隣に並んで一緒に集中治療室の中を見る。


「お姉ちゃん、みんな待ってるから頑張って」

「すみません。八戸さんのご家族にお話があります」

「はい」


 白衣を着た男性医師に声を掛けられて、お父さんとお母さん、優愛ちゃんが男性医師に付いて行った。

 俺は凛恋の家族じゃない。だから、凛恋の状況を聞くことは出来ない。

 きっと、話を聞き終えたらお父さん達が説明してくれるとは思う。でも、いくら凛恋のことが大好きで凛恋の恋人だとしても、俺は他人で、凛恋に何かあった時にそれを知ることが出来ない。それに、家族じゃない俺は集中治療室の中に入ることも許されない。


 仕方がないことなんだ。でも……たまらなく悔しかった。

 今も凛恋は戦っている。だけど……俺は頑張っている凛恋の手を握ってあげることも出来ない。

 肝心な時に何も出来なくて何が彼氏だ。何が凛恋のことを守るだ。全部、何もかも、凛恋一人に任せることしか出来てない。

 希さんが黙って近くにあったベンチに座った。その気配を感じながら、冷たい窓ガラスに触れ続ける。


「凛恋……戻って来てくれ……」


 凛恋に会ったらいっぱい抱きしめて凛恋に甘えたかった。凛恋と会えなくて寂しくて不安で、その寂しさと不安を全て凛恋に癒やしてほしかった。そして、同じように寂しさと不安を抱いていたはずの凛恋を癒やしたかった。

 でも……もうそれはいい。俺の寂しさや不安なんてどうでも良いから、凛恋さえ無事に戻って来てくれさえすれば何も要らないから、また凛恋の笑顔を、凛恋の元気な姿を見られれば――。


「凛恋? 凛恋ッ!」


 窓ガラスの向こうで凛恋を見ていた看護師が慌て始めた。それは凛恋の容態が急変したからなのは明らかだった。


「凛恋……凛恋ッ!」


 俺の声を聞いてベンチから駆け寄ってきた希さんが、窓ガラスに両手を突いて凛恋の名前を叫ぶ。

 集中治療室に男性医師が駆け込んで来て、凛恋の寝ているベッドの側に立った。


「凛恋っ……頼むっ……頼むからっ……行かないでくれ! 凛恋っ!」


 拳を握って窓ガラスを叩いて叫ぶ。

 凛恋が居ない世界なんてあり得ない。そんな世界なんて生きている意味がない。俺は凛恋が居ないとダメなんだ。凛恋が居ないと何も出来ない……。


「八戸さんの意識が戻った! 早くご家族を呼んで!」

「凡人くん! 凛恋が!」


 集中治療室から出てきた医師が看護師に言った言葉を聞いて、希さんがパッと明るい笑顔を浮かべる。そして、俺の胸に思いっきり飛び込んで来た。


「良かった……良かったよ……」


 希さんの背中を擦りながら、俺は安堵で床にずり落ちそうな体を窓ガラスに預ける。

 よく頑張った……よく頑張ってくれた。

 凛恋に会えたら、いっぱい褒めよう。それで、頑張ってくれてありがとうと言おう。それで、凛恋の食べたい物ややりたいこと、行きたいところを何でも叶えよう。頑張ってくれた凛恋に俺が出来るだけのことをしよう。


 俺の目の前を慌てた様子のお父さんお母さん優愛ちゃんが通り過ぎる。家族じゃない俺は変わらず集中治療室には入れない。でも、もうそんなことはどうでも良いんだ。凛恋さえ無事なら。


 窓ガラス越しに、涙を流して凛恋を見るお父さん達を見詰める。その様子を見て、俺はこれでやっと凛恋と穏やかな夏休みが過ごせると思った。




 凛恋の意識が戻ったと聞いてから、約二時間が経った。

 集中治療室から凛恋は別の病室に移された。だけど、俺はまだ凛恋に会えていない。それに、お父さん達も医師に呼ばれたっきり戻って来ない。凛恋の意識が戻ったはずなのに、俺の心には不安があった。


 意識が戻ったと言っても、一時危篤状態だと言われるほどの大怪我だ。だから、意識が戻ったからと言って手放しに安心出来る訳じゃない。だから、慎重に対応しているんだと思う。でも……それだけだと思えない自分が居た。

 希さんと話をして、まだみんなに知らせるのは待っていようと言うことにはなった。凛恋の意識は戻ったとしても、まだ予断を許さない状況ならあまり周りを騒がせるのは良くない。


「凡人くん……凛恋のお父さん達、遅いね」

「ああ。凛恋の容態について話を受けてるにしても遅い」


 凛恋が移された病室のドアには『面会謝絶』と赤文字で書かれたプレートが下がっている。その病室の前で待っているが、看護師の出入りがあるだけで凛恋の様子は分からない。

 俺が不安を拭えない、心の中に引っ掛かりを覚えるのには、お父さん達が戻って来ないこと以外にも理由がある。

 凛恋の病室を出入りする看護師全員が凛恋の容態について教えてくれないのだ。理由は俺が集中治療室に入れなかった理由と同じ"家族じゃないから"だった。


 意識が戻ったのに、家族以外に教えられない容態。そう考えて、どうしても悪い方向に想像が膨らんでしまう。

 事故の影響で手足に麻痺が残った。もしかしたら、目や耳に異常が残った。そんな嫌な想像をしてしまう。


 もしそうだったら……命が助かっただけ儲けもの、そんな楽観的な考えはどうしても出来ない。

 凛恋は何も悪くないんだ。凛恋は交通ルールを守って青信号の横断歩道を渡ったんだ。そこへ、酒に酔った男が運転する定員オーバーの車が突っ込んだ。どう考えても、凛恋は悪くない。それなのに、男達は軽傷で済んで、凛恋は後遺症があるかもしれない重傷。そんな理不尽な話はない。


「あの……」


 凛恋の病室のドアを見詰めていると、横から声を掛けられた。


「すみません。この病院に事故で入院している八戸凛恋さんという方がいらっしゃるはずなんですが、病室はどこか分かりませんか?」


 気の弱そうな男性が恐る恐る俺にそう話し掛けている。俺は、その男性が大事そうに抱えた花を見てから、視線を男性の顔に戻した。すると、男性は小さく声を漏らして怯えた顔をする。


「ちょっと一緒に来てもらえますか?」

「え? は、はい……」


 両手の拳を握り締めて歩き出しながら言うと、後ろから男性の戸惑った返事が聞こえた。

 通路を歩いて病院の外にある駐車場まで来てから、俺は後ろを振り返って男性を見る。


「俺は凛恋の婚約者だ。それで? あんたは誰だ」

「ぼ、僕は……車に乗ってたうちの一人で……」

「……酒飲んで定員オーバーで凛恋を撥ねたやつらの一人か」

「僕はお酒は飲んでません! それにお酒を飲んで運転しちゃダメだって言ったんですっ!」


 全身をガタガタ震わせる男性は、必死に俺へ弁解をする。


「歳はいくつだ」

「二〇歳になったばかりです……」

「そうか。それで? 何しに来た」

「それは……お見舞いに――」

「違うだろ。本当のことを言ってみろよ」

「本当にお見舞いに――」

「今は面会時間を過ぎてる。見舞いは面会時間に来るのが常識だ」

「でも、あなたも病院に――」

「凛恋はお前達のせいでずっと危ない状況だったんだ。今だって凛恋がどんな状況かも分からない。会わせてはもらえなくても、看護師や医師の邪魔さえしなければ婚約者の俺が居ることくらいは許してもらえる」

「僕は何もしてません! 僕はただ車に乗ってただけで――」


 加害者の男と相対して理性的になれる訳がなかった。でも、理性的になれる訳がないと分かってても、それでも理性で自分を抑えようとしていた。だけど、俺は男の胸倉を掴んでいた。


「ただ車に乗ってただけだとッ!? ふざけるのも大概にしろッ! 酒飲んで運転するって分かってる車に一緒に乗ってる時点でお前も運転したやつと同罪だッ!」


 目の前の男性は、ずっと自分は酒は飲んでない、自分は止めたんだ、自分は悪くない、そう言い続けている。その態度が、その……罪悪感の欠片もない言動が心底胸糞悪かった。


「昼間に来なかったのは、自分は悪くないから見舞いになんて行かなくて良いって思ってたからだろ。でも、夜になって怖くなったから見舞いに来た。だから、面会時間なんて関係なく来たんだ」

「面会時間があるなんて知らなかったんです!」

「正面玄関に書いてあっただろ。それに、面会時間外は救急用の出入り口以外は施錠されてる。凛恋の病室まで来たってことは、救急用の入り口は必ず通ってる。その救急用の入り口にも面会時間外だってことが書いた看板が立ってたはずだ。すぐにバレる嘘は吐くな」

「でも! お見舞いに来たのは本当です!」

「お見舞い、か……」


 自分は悪くないとのたまって、その上に嘘まで吐いて、それでも自分はただ凛恋を心配して見舞いに来ただけだと言っている。いや……多分、こいつは本当に見舞いに来たつもりなんだろう。その理由が、怖くなって見舞いに行って自分は凛恋を気遣ったという事実を作りたかっただけだとしても。


「お前が持ってるその花、なんて花か知ってるか?」

「お花屋が空いてなくて、二四時間営業のスーパーで――」


 新聞紙に包まれた黄色い花。それを見て……本当にはらわたが煮えくり返る思いがした。


「それ、菊の花だって分かって持って来てんのか?」

「名前は分からないけど、綺麗だし――」

「菊の花はな、日本では仏花(ぶっか)に使われる花なんだよ。仏壇や墓に供える花だ」

「……え?」


 キョトンとした顔で、何を言ってるのか分からないという表情をする男。その男を見て、本当に悔しくて堪らなかった。

 こんなやつの乗った車に、こんないい加減でクソみたいなやつらに凛恋が傷付けられたと思うと、本当に……今すぐこいつを車の走る道路に突き飛ばして凛恋と同じ目に遭わせてやりたかった。


「墓に供える花なんて持って来やがって! お前は凛恋に死ねって言うのかよッ! ふざけるなッ!」

「君! 落ち着いて!」


 俺が男に掴み掛かろうとすると、騒ぎを聞き付けた警備員が俺を羽交い締めにして男から引き剥がした。


「僕はそんなつもりはなくて、この花がそんな花だって知らなか――」

「知らないから何したっていい訳じゃねえぞッ!」


 知らないことは悪いことじゃない。でも、気も遣えないことは悪くはなくても最低なことだ。

 目の前の男は、凛恋を見舞いに来たと言っていた。でも、目の前のこいつは凛恋に対して少しも気を遣っていない。全部、自分が見舞いに行ったという事実が欲しかっただけだ。だから、面会時間外でも見舞いに来るし、見舞いに持って来ちゃダメな物があるかどうかも調べもしなかった。


「今すぐ俺の前から消えろ。それで、二度と来るな」


 菊の花を持った男は、俺の言葉に何も答えず俺の方をじっと見た。そして……その場に、手に持っていた菊の花を叩き付けた。


「せっかく来てやったのに――」


 羽交い締めしていた警備員を振り解き、俺は右手を思いっ切り振りかぶって男の左頬を殴った。そして、地面に倒れ込んだ男の顔面を蹴り飛ばす。


「君ッ! 止めなさいッ!」


 後ろから警備員が俺の右腕を掴んで引き離そうとする声が聞こえる。でも、俺は地面で倒れて俺を見上げている男の右頬を左手の拳で殴った。

 俺は昔からいじめられてきた。小学校の頃は喧嘩をふっかけられて、一方的に殴られることだってあった。でも、その度に俺は思っていた。

 殴ったら負け、だと。


 殴ったら負け、それは間違ってない。今の世の中、どんなに理不尽なことをされても手を出すことが正当化される訳じゃない。暴行、傷害の罪になる。でも……それでも、たとえ俺のやったことが罪だと言われても構わなかった。

 たとえ犯罪者だと罵られたって、人として――凛恋の婚約者として譲れないことがある。

 俺自身がコケにされるのは耐えられる。でも、凛恋のことをこんなにも侮辱されて耐えられる訳がなかった。


「警察ですか!? いきなり男に殴られました! すぐに来て下さい!」


 いつの間にか来た別の警備員二人の三人掛かりで男から引き離された俺は、離れた場所で電話に向かって喚いている男を見詰める。

 右手にも左手にも男を殴った、ジンジンとした痛みの余韻が残っている。でも、殴って蹴ったはずなのに、全く俺の気は晴れていなかった。

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