【二九五《譲れないもの》】:一
【譲れないもの】
二時間弱が永遠にも思えた。そう考えたのは生まれて初めてだった。
朝一の飛行機で地元へ帰って来た俺達は、空港からタクシーに乗って直接凛恋が入院している病院へ向かった。
四人で一台のタクシーには乗り切れず、俺は優愛ちゃんと二人で同じタクシーに乗った。隣に座る優愛ちゃんは、高校の頃に俺と八戸家のみんなで行ったロンドン旅行の画像をスマートフォンで見ていた。
「私……本当にこの時、お姉ちゃんと、それに凡人さんと一緒に旅行に行けて嬉しかったんです。また仲の良い二人を見られて、凡人さんが一緒でちょっとテンションが上がり過ぎてるお姉ちゃんを見るのが凄く嬉しくて……。やった、お姉ちゃんと凡人さんが一緒だって、心の中でガッツポーズしてたんです」
「あの時は、優愛ちゃんに迷惑を掛けたし酷いことをしてごめん」
「何言ってるんですか。凡人さんはお姉ちゃんのこと、めちゃくちゃ大切に想ってくれてたじゃないですか。それに、心の整理が付いてない凡人さんを無理矢理動かそうとした私にも、凡人さんは優しくしてくれて…………私は……私はっ、だから……お姉ちゃんには絶対に凡人さんと幸せになってほしいんです……。あの時の、凡人さんと別れたって今までに見たことがないくらい落ち込んでるお姉ちゃんと、凡人さんと仲直り出来たって今までに見たことがないくらい喜んでるお姉ちゃんの両方を知ってるから……だから絶対、お姉ちゃんには幸せになってほしいんですっ……」
「するよ、約束する。俺が絶対に凛恋を幸せにする」
はっきりと優愛ちゃんに宣言して、俺はタクシーのシートの上で拳を強く握る。
俺達を乗せたタクシーが病院の正面玄関前に停車すると、正面玄関に立っている凛恋のお父さんとお母さんが見えた。そして、俺と優愛ちゃんを確認してすぐに駆け寄って来た。
「ママっ! パパっ!」
「優愛っ!」「優愛、良かったっ!」
タクシーを下りた瞬間、三人は抱き合って互いの存在を確かめ合った。俺はそれを見届けて、優愛ちゃんを無事にお父さんとお母さんの元へ送り届けられて安心した。
タクシー代を払ってタクシーを見送ると、後ろから腕を引っ張られて思いっきり抱きしめられる。その抱きしめている人がお母さんだと気付いて、俺は一瞬強張った体から力を抜いて受け入れた。
「凡人くん……無事で良かった……」
「心配掛けてすみません」
「優愛を送り届けてくれてありがとう。優愛が無事なのは凡人くんのお陰よ」
「いえ。でも、優愛ちゃんをちゃんと送り届けられて安心しました。それで……すみません。凛恋のところに案内してもらえませんか?」
「ええ、こっちよ」
急かして悪いとは思った。でも、優愛ちゃんを送り届けただけで安心する訳にはいかなかった。
消毒液なのか薬の臭いなのか病院独特の臭いが立ち込める無機質な廊下を黙って歩き、集中治療室と廊下を隔てる大きい窓ガラスの前に立った。
「あの奥のベッドに凛恋が居るわ」
横からお母さんにそう言われても、遠いし周りに医療機器が沢山あって顔も見えない。せいぜい分かるのは、誰かがベッドの上で横になっていることだけだ。あのベッドに寝ているのは凛恋じゃなくて、実は凛恋は怪我もしてないし事故にも遭ってませんと言われても信じられる。いや……そうであってほしかった。そうであってほしいと俺が願っているから、そう思ってしまうのかもしれない。
「凡人くん……」
「お父さ――」
「本当に申し訳ないッ!」
振り返ると、お父さんが俺に向かって土下座をしていた。それを見て、俺はとっさに止めることや、土下座を止めさせることが出来なかった。どうしてお父さんが俺にそんなことをする必要があるのか理解出来ず、戸惑って何も出来なかった。
「私が帰って来いなんて言わなければこんなことにはならなかった……。それにっ、凡人くんのことを心配して元気のない凛恋を外食に連れ出そうと考えたのは私だ。それで、凛恋と一緒に飲もうと車を使わず歩きで行ったのも私だ。車で連れて行って居たら……外食に連れ出さなければ凛恋は事故には遭わなかったんだっ! 全部……全て……私が――」
「何でお父さんがそんなことするんですか」
お父さんの前に膝を突いて、両手を膝の上に置いて、俺は床に額を付けているお父さんを見た。
何で、大切な娘が事故に遭って、その大切な娘がまだ意識の戻らない父親が、土下座をして謝らなければならないんだろう。なんでそこまでするくらい、そこまでさせてしまうほどの罪悪感をお父さんが抱かなくてはいけないんだろう。誰よりも辛くて苦しくて悲しくて、誰よりも人を責めていいはずのお父さんが自分を責めなくちゃいけないんだろう。
「お父さん……そんなことしないで下さい。そんなことされたら、凛恋が悲しみます。凛恋はお父さんにそんなことしてほしくないですよ」
俺はそんなことを言いながらも、お父さんの気持ちがなんとなくだけど分かる気がした。
きっとお父さんは、気持ちの置き場が分からないんだ。それで置きどころに困る気持ちから目を逸らすために、自分を責めて傷付けて気持ちを紛らわそうとしている。それくらいお父さんには余裕がなくて、それくらいお父さんは取り乱している。
自分の娘が――何よりも大切なはずの娘が生死の境を彷徨っている。そんな状況で冷静で居られる親なんて居ないと思う。少なくとも、凛恋のお父さんはそんな状況で冷静で居られるほど、凛恋に対する愛の薄い人じゃない。
「凛恋はずっと凡人くんのことを話してた。地震があってから、凡人くんが怪我をしていないかずっと気に掛けていた。……電話も肌身離さず持っていて……夜、凡人くんの名前を呼んで泣いているのも聞いた。だから……きっと凡人くんが無事だと知ったら凛恋は安心するはずだ」
「凛恋にそこまで心配を掛けて……すみません、ありがとうございます」
お父さんは辛いはずなのに、凛恋のことを話してくれた。そのお父さんの気持ちに、俺は頭を下げてしばらく上げられなかった。
「あの……八戸凛恋さんのご家族の方でしょうか?」
お父さんと俺が立ち上がってすぐ、中年の男女二人組が声を掛けてきた。その男女は礼服姿で、女性の方は両手で有名和菓子店の紙袋を持っていた。
「私が凛恋の母で、この二人は凛恋の父親と凛恋の妹。そして、この人は凛恋の婚約者です。それで、どちら様でしょうか?」
俺を婚約者と紹介してくれたお母さんのその問いに、中年男性が恐る恐ると言った様子で歩み出て頭を下げた。
「娘さんを事故に遭わせてしまった車を運転してた男の父です」
「母です」
加害者の父親と母親が頭を下げるのを見て、俺は視線を集中治療室の中へ向けた。
「この度は、私達の息子が娘さんに対して本当に大変なことをしてしまって……本当に申し訳ありませんでした。娘さんは――」
「まだ目を覚ましません。先生からは予断を許さない状況だと」
「そう、ですか……」
ベッドで寝ている凛恋の側には、看護師の女性が付いてずっと凛恋の様子を見てくれている。でも、俺なんかが見ているよりもずっと信頼出来るはずなのに不安でしかなかった。
「すみません。婚約者の……えっと……お名前は――」
「凛恋のお父さんお母さん、それから妹が貴方方の謝罪を聞いて受け入れるかどうかは三人の意思で決めることで、私は強制はしません。ただ、私は貴方方の謝罪を聞く気はありませんし受け入れる気もありません」
「…………仕方ないと思います」
無視しても良かった。でも流石に、お父さんやお母さん、優愛ちゃんの目の前でそこまで人として終わってることは出来なかった。だからせめて、振り返らずとも言葉は返してやった。それなのに……後ろに居る加害者の父親の言葉に怒りが沸き立った。
仕方ないと思います。そんな当事者意識の欠片もない言葉を吐き出す人間が謝罪に来たと言い出すなんてこの世の中は終わってる。
「婚約者を傷付けられて、本当に辛くて私どものことが憎くて憎くて仕方ないと、そう思われても当然だと思っています」
「事故を起こした大学生六人は全員二〇歳を超えた大人だとニュースで見ました」
振り返らず、ジッと凛恋に目を向けたまま、凛恋と俺を隔てる薄くて叩いたら割れそうな窓ガラスに両手を触れる。
「逮捕されてから身柄が検察に送られるまで最大で七二時間。でも、もう戻って来てるんでしょ? 凛恋を撥ねた男は」
「…………」
後ろからは言葉が返って来ない。それが無言の肯定なのは分かる。そして、そうなるとこの場で最もあり得ない状況が起こっているのが明白になった。
「凛恋を撥ねた張本人は、今どこで何をしてるんでしょうね」
窓ガラスに当てた両手を握り締めて、目の前のガラスを叩き割りたい衝動を抑える。
「息子は家で……事故を起こしてしまったことに反省して――」
「夏休みで友達と羽を伸ばして、四人しか乗れないけど車は一台しかない。まあ、バレなければ良いかって定員オーバーなのもお構いなしに車を運転した。それで、みんなが飲むのに自分だけ飲まないなんて嫌だって思って、バレなければ良いかって車を運転するのに酒を飲んだ。ちょっとくらい飲んだってあんまり変わらない。運転するのに酒なんて関係ない。そんなこと思ってたんだろうな。それで、酒に酔った上に徹夜して眠気もあるのに定員オーバーの車を運転した。でも、俺はそれ自体はどうでも良いんですよ。飲酒運転で定員外乗車、別にそれ自体はどうだって良い。それで捕まって人生棒に振っても、私には関係ない赤の他人のことですから」
「…………」
俺の言葉に加害者の両親は何も言葉を返さない。いや、返せない。返せるはずがないんだ。それは俺の言ってることが、返せる言葉がないくらい正論だからじゃない。何を言っても俺が謝罪を受け入れる訳がないと分かっているからだ。
「でもね。自分が適当やって他人を巻き込むのは違うでしょ。なんで自分が適当で、自分が決められたルールも守らないクソ人間のせいで、今まで真面目に生きて誰からも悪い人間なんて言われることなんてない、人に迷惑なんて掛けられる理由もない凛恋があそこでベッドに横にならないといけないんですかね。痛い思いをして、苦しくて辛くて怖くて…………そんな、考えるだけでも俺が身代わりになれたらって思う、そんな悲しい目に凛恋が遭わないといけないんですかね? 事故を起こした当の本人は、自分の家で痛みも感じず優しい両親に守られてるのに」
ガラスに映る加害者の両親は何も言葉を返して来ない。
「警察から事故だって聞いて、自分の息子が無事だって聞いて安心したでしょ。良かった、可愛い息子は軽い怪我で済んだって。悪いことをしてしまったけど、ちゃんと罪を償って、これからは真面目に生きてくれるだろう、生きてほしいって願ったでしょ。撥ねられた凛恋のことなんて考えなかったでしょ。でも、段々時間が経って来て、凛恋が病院に入院してて危ない状況だって分かって、謝罪に行かなきゃって礼服引っ張り出して行きがけに菓子折り買って来たんでしょ」
「事故の責任は、弁護士や保険会社と相談して誠心誠意対応させていただきます」
やっと言葉を返した父親だったが、出てきた言葉はまるで謝罪の言葉のテンプレートと呼べそうな、そんな薄っぺらい言葉だった。
「二〇越えた大人の、事故を起こした本人も連れて来ずに誠心誠意ですか」
「息子は……事故を起こしてから眠れずご飯も喉を通らず――」
「その言葉、凛恋のお父さんお母さんを目の前にしてよく言えますね」
俺はずっと窓ガラス越しに話していた。直接顔を合わせたら歯止めが利かないと――歯止めを利かせられないと分かっていたから、俺は直接顔を合わせなかった。でもダメだった。加害者の両親がどんなに気を遣おうと発した言葉も、その言葉全てが俺の怒りを逆撫でるために発せられているように聞こえてしまった。
「お父さんとお母さんを、妹の優愛ちゃんの顔を真っ直ぐ見ろよ。三人とも目の下に隈が出来て目も泣き腫らしてる。顔に元気はなくて誰から見てもやつれてる。睡眠も十分に取れてないし食事だってほとんど喉を通ってないのは誰にだって想像出来る。それなのに、自分の息子は寝れなくて飯も食えないから、自分の浅はかな気持ちで起こした事故の責任から逃げさせるのかよ。私達が代わりに謝って来るからって甘やかすのが親なのかよ。そこから間違ってるだろ。そんな人達に誠心誠意がどうのこうの言われて信じられると思うか? 俺は絶対に無理だ。そんな人間信用出来ない」
俺は顔をまた凛恋に向けて、窓ガラスに映る加害者の両親に言葉を続ける。
「謝るなら勝手に謝ってて下さい。俺はどんなに謝られても受け入れませんし納得もしません。でも、それは俺だけの問題ですから、三人には貴方方の言う"誠心誠意"とやらで納得してもらえるように頑張って下さい。それと、加害者本人が居ないことを言いましたけど、間違っても本人をここに……俺の視界の中に連れて来ないで下さい」
最後の言葉を終えて、俺は言葉を発せず窓ガラス越しに凛恋を見続ける。
凛恋には見せたくない俺だった。俺のことを何でも知ってて、俺の全てを知ってる凛恋にも、こんなに小さい人間の俺を見られるのは恥だった。
「私も謝罪の言葉なんて聞きたくない。謝られたって、お姉ちゃんが事故に遭ったことがなくなる訳じゃない」
隣に立った優愛ちゃんが窓ガラス越しに凛恋を見る。その真っ直ぐ凛とした目に凛恋の面影を感じて、喉の奥……心のずっと深くをきつく締め付けられる感覚がした。
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