【二九一《恋は盲目》】:一

【恋は盲目】


 地震の影響は想像していたよりも大きく、一日くらいで終わると思っていたテレビの地震関連の特別番組も地震発生から三日経っても変わらなかった。

 どのチャンネルにしても、地震がどういうメカニズムで発生したのか専門家が語っていたり、アナウンサーが避難所に行ってインタビューをしたりという同じような画が映し出されていた。


 被災していない地域の人に被災地の状況を伝えるのは正しいことだと思う。実際、被災地に対する募金活動や支援物資の呼びかけが行われている。それは、被災者側の俺からすればありがたいことだと思う。でも、連日同じようにテレビで地震の話題を見るのは気が滅入った。

 みんなで夕飯を食べる頃には、もう誰もテレビのリモコンを触ろうとしなかった。部屋の中が静かでも、地震とか被災地とか、被害状況とか復旧作業とか、そういう……今が異常な状況だってことを思い知らされる単語を聞くくらいなら無音の方が良かった。


 シャワーを浴び終えて、俺はのぼせそうな頭を冷やすために外へ出た。外と言っても部屋の前の外廊下に出るだけだ。

 地震発生当日の騒がしさはもう町にはない。その代わり、町はいつも以上に静かだった。

 道路は所々壊れて車が走れる状況じゃないし、場所によったら植木や電柱が倒れて塞がっている。店だって大規模なチェーン店なら開いているが、小規模な店は営業をしていない。それに、人の動きも平常時より少なくて鈍い。


「かーずとさんっ!」


 両手を柵の上に置いて真っ暗な空を見ていると、隣から明るい声が聞こえる。その声の方向に顔を向けると、ニコッと笑って俺の顔を見上げる百合亞さんが立っていた。


「百合亞さん、湯冷めするよ」

「それはこっちの台詞ですよ。凡人さんはさっきシャワーを浴びたばかりじゃないですか。それに髪もまだ少し濡れてますし」


 そう言った百合亞さんは手に持ったタオルで俺の髪を拭き始める。それに少し頭を動かしてタオルから抜け出ようとしていると、視界をタオルで遮られたまま百合亞さんの声が聞こえた。


「私のこと連れてきてくれてありがとうございます。きっと、一人で置いて行かれたら無理でした」

「置いて行ける訳ないよ」

「男の人ってそういう生き物だってのは分かってたんですよ。だから、大学の合コンとかでお酒を勧められても当然未成年だからって飲まなかったですし、お酒に酔ってる男の人の近くとか行きませんでした。でも、実際にあんなことされると、本当に頭のネジが飛んだ人って怖いなって」

「ごめん。俺がもっと早く気付けば――」

「私、凡人さんに謝って欲しかった訳じゃないんですけど?」


 視界を遮っていたタオルが退いて、真っ直ぐ見上げる百合亞さんの顔が見えた。そして、百合亞さんは俺の頭に被せたタオルから手を離して、俺のシャツの裾を掴む。


「助けてくれたことにも凄く感謝してますし、一人にしないで連れて来てくれたことにも凄く感謝してます。あっ……でも、二人っきりじゃなかったのは残念です」


 シャツの裾から手を離して、長い髪を耳に掛けた百合亞さんは首を傾げる。


「もし筑摩さんがここに来なかったら、私達って二人っきりでした?」

「理緒さんが来なくても、俺は理緒さんを探しに行った。それは希さんも優愛ちゃんも同じだ」

「そうですか……結構期待したんですよ? 大学で凡人さんが家に連れて行ってくれるって言ってくれた時。……何の期待か分かります?」


 首を傾げたまま口を小さく歪ませて笑い、百合亞さんが俺の右手を両手で握った。


「好きな男の人の部屋に女が行くってこともですけど、好きな人から部屋に誘われるって、女でも結構期待しちゃうんです」

「百合亞さん。前々から言ってるけど、俺には大切な彼女が居るんだ。だから、俺は百合亞さんの気持ちに応えることは出来ない。百合亞さんを連れて来たのも、女性の百合亞さんを一人にしておくのが心配だっただけだ。それ以上の感情は持ってない」

「本当にそうですか? これっぽっちも思ってません? 私のこと、そういう風に見たことありません?」

「ないよ」


 きっぱりと断る。そうすれば百合亞さんだってどんなに言葉を重ねたって無駄だと分かる。それで、百合亞さんも俺のことを諦めてくれる。そう思ったから、俺は百合亞さんが傷付くだろう言葉を返した。だけど……視線の先にある百合亞さんの顔はクスッと笑っていた。


「そっか~。私、全然女として見られてなかったんですね。まあ、ディープキスしたくらいで意識するほど凡人さんは子供って歳でもないですしね。顔は赤くしてくれるからちょっと期待はしてたんですけど、思ったほどショックを感じてないです。私を女として見てないなら、そう見てもらえるようにすれば良いだけですし」

「百合亞さ――」


 正面から強く抱き付いてきた百合亞さんから離れようとすると、百合亞さんは俺の背中に回した両手を組んで俺の体にしがみつく。


「胸、それなりにあるでしょ? 大きいって訳じゃないですけど」

「百合亞さん」


 鳩尾辺りに当たる百合亞さんの胸の感触から意識を外し、視線を見上げる百合亞さんの目に落とす。俺は視線に離れてほしい拒否の意思を込めたが、それでも百合亞さんの手は緩まない。


「私、結構尽くすタイプで、好きになった人には凄く喜んでほしいって思うんです。だから、凡人さんにもいっぱい尽くします。凡人さんが喜んでる顔を見てみたいですし」

「じゃあ、離――」

「彼女さんがしてくれないこと何でもしますよ? それに、彼女さんに出来ないこと全部して良いですよ? 私なら全部受け入れられますし、全部応えられます」

「俺はそういうことで彼女を選ぶような男じゃない」

「そういうつもりで言ったんじゃないですよ。でも……凡人さんも辛くないですか? 家にはずっと筑摩さん達が居て、夜も同じ部屋で寝てる。そんな状況だと息が詰まっちゃいますし、溜まってますよね?」


 シャツの裾から入って来たほんのり温かい百合亞さんの手が、俺の腹と腰を撫でて胸まで上ってくる。その手を掴むと、百合亞さんは空いた手をシャツの裾から背中に回して体を近付けた。


「やっぱりドキドキしてる。私のこと、女として見てくれてるって思って良いですよね?」

「俺はこんなことされても百合亞さんを好きにはならない。むしろ、こんなことする人のことは好きじゃない」

「凡人さんって真面目。でも、それってちょっと真面目過ぎるって言うか堅いって言うか、窮屈な感じですね。なんか、彼女さんに縛られてるみたい」

「俺は凛恋に縛られてなんていない」

「でも、私のことを拒否するのは彼女さんが居るからですよね? じゃあ、彼女さんが居なかったら私のことを受け入れられるってことですよね?」


 シャツの中から手を抜いた百合亞さんは、また俺の右手を両手で握った。


「明日、着替えを取りに行くの付いて来てくれませんか? それに、凡人さんと二人っきりで話したいことも沢山ありますし」

「二人になるのが目的なら行けないよ」

「なんでですか?」

「それは凛恋のことを――」

「私のことを泊めてくれてるんだから今更じゃないですか。二人っきりになるよりすごいことしてると思いますけど? それとも……二人っきりになると我慢出来なくなっちゃうからですか?」


 百合亞さんはクスクスと、まるで俺のことは何でも分かってます、そんな笑顔をしていた。

 そんなことはない。たとえ、百合亞さんと二人きりになって迫られても百合亞さんを受け入れる気はない。そう断言出来る。


「俺は百合亞さんを受け入れないよ」

「じゃあ、試してみましょうよ。明日一日、私の部屋に二人っきりで。凡人さんが私に何の気も起きないって言うなら、全然問題ないじゃないですか」

「そういう問題じゃ――」

「でも、凡人さんが何の気も起きなくても私は我慢出来なくなっちゃいますけど。……私、すごくエッチなんで」


 下から背伸びをしてキスをしようとした百合亞さんから離れる。そして、両肩を押して背伸びを止めさせようとした。でも、背伸びを止めさせるだけじゃ済まなかった。

 俺は横から腕を引っ張られて外廊下の柵から玄関ドアの前まで引っ張られる。そして、百合亞さんと、真っ直ぐ百合亞さんを見る理緒さんの横顔が見えた。


「釘を刺したけど、まあ聞かなそうな子だとは思ってた」


 俺の前に立つ理緒さんの横顔はニッコリ笑っているように見える。でも、そう見えるだけで言葉は鋭く百合亞さんを突き刺そうとしていた。


「私、凡人くんを彼女から奪おうってしてるの。それなのに、あなたの自由にさせると思う?」

「私と凡人さんが何してても筑摩さんには関係ないじゃないですか。明日、着替えを取りに連れて行ってほしいって頼んでただけなのに」

「凡人くんが我慢出来るか試そうとしてたんじゃなかったの? でも、無駄だよ。凡人くん、一ヶ月彼女とまともに会えなくて寂しくても耐えてた。それなのに、たかだか三日会ってないだけじゃ凡人くんは落ちない」

「分からないじゃないですか。筑摩さんよりも私の方が凡人さんの好みかもしれませんし」

「それはないね。派手な下着だったら男は誰でも喜ぶって思ってるような勘違いしてるようじゃ、凡人くんは絶対に振り向かない。あと、凡人くんは胸フェチじゃないから、胸の大小は特に気にしない人だよ」


 言葉を一旦終えてから小さくため息を吐いた理緒さんは、両腕を組んでじっと百合亞さんを見据える。


「あなたは凡人くんのことを知らなすぎる。どうせ、アルバイト先で何でも完璧にこなしちゃう格好良くて頼りになる先輩の凡人くんしか知らないんでしょ? それで、凡人くんの一番になろうなんて思い上がりも良いところだよ。凡人くんはね、何でも完璧にこなして格好良い人なんかじゃないの。何があっても自分のせいにして自分一人で抱え込もうとするのに、誰よりも傷付きやすい人。それなのに、その傷を一人で隠し通せる強さを持ってる。だから、あなたみたいな凡人くんに甘えようとしてるだけの人が一番になって良い訳ない。凡人くんの後ろを付いて行くんじゃなくて、凡人くんの隣を歩いて、時には手を引いて前を歩けるような人じゃないと凡人くんには相応しくない」


 理緒さんが言葉を終えた瞬間、外廊下の上を冷たい夜風が吹き抜ける。その風に理緒さんの髪がなびいて表情が見えなくなった。


「生半可な気持ちで凡人くんを私の親友から奪おうなんて言わないでくれる?」

「そっちだって自分の親友から彼氏を奪おうとしてるじゃないですか! そんな最低な――」


「言ったでしょ? 生半可な気持ちで奪おうとしないでって。私はね、一生の親友だって言える人達を失っても凡人くんの一番になりたいって思ったの。私は、親友達を傷付けて裏切ることを選ぶのは生半可な気持ちじゃなかった。そんな最低なこと、かけがえのない親友だって思えてた人達にしようなんて思わない。でも、それくらい私は凡人くんが好きなの。どんなに周りの人から最低だって言われても、凡人くんにだけ好きになってもらえれば私はそれで良い。そうなるためにもう私はなりふり構わないって決めてるの。だから、あなたみたいな凡人くんの表面しか見てない人が、そんなお気楽そうな顔で凡人くんを奪おうなんて考えてるのが腹が立って仕方ない。凡人くんはそんなに簡単な人じゃない。凡人くんは、そんなお気楽な気持ちで触れて良い人じゃない」


 俺は、そこまで理緒さんに言わせて、そこまで理緒さんにさせる価値のある人間なんだろうか。いや……そんなこと絶対にない。

 理緒さんくらい可愛い人なら男なんて選び放題だ。俺よりも顔が良くて性格が良い男なんて世の中にゴロゴロ居る。その中から理緒さんなら選び放題なんだ。それなのに、理緒さんは理緒さんにとって大切な親友と俺を天秤に掛けて俺を選んだ。

 それを間違いだと断じる権利は俺にない。でも…………。


「彼女でもないくせに偉そうにして。意味分かんない」


 サッと真っ青な顔をした百合亞さんが、理緒さんの横を通り過ぎて俺の隣に来る。そして、俺を見て目を潤ませた。


「凡人さん、明日――」

「凡人くん、私も一緒に行くから。着替えを取りに行くだけなら、二人きりの必要はないよね?」


 理緒さんに腕を掴まれて、今度は柵の方に引っ張られる。そして、理緒さんは百合亞さんにニッコリと笑顔を向けた。その笑顔に、百合亞さんは何も言わずにそっぽを向いて部屋の中に入って行った。

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