【二九〇《答えられない問い》】:二

「色々あったんだけど詳しくは聞かないで」

「まあ、根掘り葉掘り聞くつもりはないけど」

「良かった。まあこの話は終わり。そういうことだから、お兄ちゃんのところにずっと居ても私は大丈夫。お兄ちゃんがお姉ちゃん以外と浮気しないか監視しないといけないし」


 そう言いながら優愛ちゃんはチラッと百合亞さんの方を見る。

 優愛ちゃんは百合亞さんが俺に好意を持っていることを知らないはずだ。でも、男の俺の部屋に来ている百合亞さんのことを警戒している。

 本来なら絶対に連れてくるべきじゃなかった。でも、昨日の中川学院大学の出来事があって、百合亞さんを一人残して来るなんてあり得ない。


 誰か信頼出来る人に百合亞さんを託すという方法はあった。だけど、中川学院に信頼出来る知り合いなんて居ない。それに百合亞さんの友達とも大学では会えなかった。だから、百合亞さんを連れてくるしかなかった。


「凡人くんもう起きたの?」


 部屋に戻って来た理緒さんが起きた俺に気付いて近付いてくる。


「ごめん、すぐに買い物に行く準備をしよう」


 まだ寝起きで重たい体を動かし、服を引っ張り出してトイレに行って着替える。

 着替えを済ませてから、優愛ちゃんと巽さんに留守番を任せ、俺と理緒さんと希さんは家から一番近いスーパーマーケットへ向かった。


 一夜明けて、街の様子は静かだった。外壁が剥がれたり窓ガラスが割れていたり、地震の影響は見える。でも、幸い電柱が倒れたり地面がヒビ割れていたりはしていない。

 本当に、俺が住んでいるところは幸運だったんだと思う。他はきっとこんなものじゃない被害が出ている。


 スーパーマーケットに辿り着くと、俺達は声は出さないが三人とも顔に出るくらい落胆した。

 俺達以外にも食糧を求めてきた人達が、スーパーマーケットの正面入り口まで行って引き返してくるのを何組もが繰り返してる。それだけで、今スーパーマーケットが営業停止しているのは間違いなかった。

 大きな地震があった翌日だ。スーパーマーケットが営業して無くても当然だった。


「どうしよう……」

「大丈夫。カップ麺だけはクローゼットの中に大量にあるんだ」


 落胆する希さんの背中を擦って安心させる。

 一旦凛恋と同棲を止めてた期間で、俺は大量にインスタントのカップ麺や袋麺を買い込んだ。それは当然、自分で食べるためだったが、それを消費する前に俺と凛恋は半同棲をするようになった。

 凛恋は俺にカップ麺を食べさせたがらず、いつも手料理を作ってくれていた。だから、みんなで毎食食べても一週間弱は持つ量はあるはずだ。


「帰ろう。きっとここがこの状況なら、他の店も同じだ」


 一週間分の食料で足りるのか。そういう不安はある。でも、一週間もあれば食糧支援も得られる可能性もある。それに、日本は災害に強い国だ。今までどんな絶望的な災害だって乗り越えて来られた。だからきっと、一週間もあれば今よりも状況を改善出来るに決まっている。




 家に戻って、昼飯にカップ麺が出来るのを待ちながら、理緒さんに声を掛ける。


「理緒さん、昼飯を食べたら理緒さんの部屋に荷物を取りに行こうか。着替えがないと困るだろ?」

「ありがとう。一人で行くよって言いたいところだけど、やっぱり今の状況の外を一人で出歩く勇気はなくて……。凡人くんが一緒に来てくれるなら助かる」


 冷蔵庫にお茶のキーパーを仕舞った理緒さんが床に座り、全員でテレビに映った特別番組を見る。

 当然、発生した地震についての報道番組で、地震の影響を受けた地域の状況を報道していた。それに、交通機関の情報もあった。

 電車はどこも不通が続き、フェリーもまだ運行再開は発表されていないし、飛行場も滑走路の損傷が酷く飛行機の離着陸は不可能。どの交通機関も復旧作業を急いではいるらしい。でも、テレビではその復旧の目処は立っていないと言っていた。


「スマホもどこのキャリアも設備が壊れて通話出来ないって言ってたね」

「設備の損傷が酷いみたいだな。今は物流も止まってるみたいだし、色んな方面の復旧は長引きそうだな」


 会話が途切れてから時計を確認して立ち上がる。


「隣に住んでるアルバイト先の先輩の様子を見てくる」

「いってらっしゃい」


 部屋を出てすぐ、美優さんの部屋のインターホンを鳴らす。


『はい』

「美優さん、多野です。様子を見に来ました」


 インターホン越しに声を掛けると、中から内鍵とチェーンを外す音が聞こえてゆっくりドアが開いた。


「美優さん? 凄く疲れてるように見えますけど」

「うん……昨日あまり眠れなくて……」


 ドアを開けて出て来た美優さんは、顔色も悪く目の下に少し隈が出来ている。あまりと言うか、ほとんど眠れなかったのかもしれない。


「上がって」

「お邪魔します。大丈夫ですか?」


 立って話すのも辛そうで、俺は美優さんの肩を支える。すると、美優さんは俺の腕に手を置いた。


「ありがとう……」


 体を支えてベッドに座らせると、俯いた美優さんが俺の腕を強く掴んだ。


「ごめんっ……」

「謝らなくて良いですよ。昨日地震にあったばかりですし」

「怖いの……」

「美優さん……」


 昨日大きな地震にあったばかりだ。それに、この前は美優さんはエレベーターに閉じ込められた。そんなことが立て続けにあったんだから、怖くて仕方ないに決まっている。

 腕にすがり付く美優さんの体は小刻みに震えている。その美優さんの背中を擦りながら、俯く美優さんの顔を覗き込む。

 目にいっぱい涙を溜めた美優さんと目が合い、心の奥をキュッと締め付けられる感覚がする。


「一人で居ると、私も巽さんみたいに襲われるんじゃないかって思って……。そう考えたら怖くて眠れなくなって……」

「大丈夫です。ここは鍵も掛かりますし、誰も入って来られません」

「鍵はこじ開けられるかもしれないし、窓を破られて入って来るかもしれない……」

「絶対にそんなこと無理です。鍵は開けられてもチェーンが掛かってたら入れませんし、窓も入り込むにはこの部屋の位置は高いですから」


 不安になっている美優さんに声を掛けながら背中を優しく擦る。

 昨日の一件は百合亞さんも怖かったが、あの場に居た多くの女性にも怖かったはずだ。それは美優さんも例外じゃない。

 どうすれば美優さんを安心させられるだろう。声を掛けて背中を擦っていれば安心させられるんだろうか? でも、美優さんの震えは収まる気配がない。


「ご飯何か食べました?」


 話題を変えて恐怖から意識を逸らす。そんなことしか出来ない自分が不甲斐なかった。もっと美優さんを心から安心させてあげたかった。でも、話を聞いて励まして背中を擦る以外には、これしか思い付かなかった。


「ううん……」

「じゃあ、うちに食べに来ませんか? みんな居ますし」

「ううん……」


 首を横に振って否定して拒否した美優さんに、次はどういう言葉を掛けようか頭を回転させて探す。でも、適当な言葉は見付からなかった。


「二人が良い……」

「二人ですか?」

「うん。人が多いと落ち着かないから」

「分かりました。じゃあ、俺がお粥作りますよ。鶏がらスープの素で作るお粥があるんですけど、結構自信あるんです」

「凡人くんが作ってくれるの?」

「味は大丈夫だと思います。具沢山の栄養を考えた料理ではないですけど」

「ありがとう。鶏がらスープの素はうちにもあるからそれを使って」


 美優さんの部屋の台所に立って、手鍋と白飯と鶏がらスープの素を用意し、早速料理を始める。

 昔は水を量るのにも苦労していたが、今は目分量というやつを覚えた。大幅に分量を間違えると味は大きく変わってしまうが、多少の誤差なら許容範囲内だ。まあ、そもそも俺が凛恋のお粥作りで慎重になってたのは、凛恋には失敗した物を食べさせたくなかったからだ。そういう意味では、美優さんにも失敗した物なんて食べさせられない。そう考えると、いつもより目分量も慎重になるし、自分の時にはやらない味見もするようになった。

 自分の食べる物はなんだって良い。でも、美優さんに不味い物は食べさせたくないし、お粥一つも作れない男だとは思われたくない。


「凡人くん……」

「美優さん、座ってて大丈夫ですよ?」

「ううん…………隣に居る」


 寝不足のせいか雰囲気は弱々しく表情も声色もとろんとしている。

 隣に立つ美優さんは、ショートパンツとTシャツというラフな部屋着姿で太腿もかなり露出しているし、ゆったりとしたTシャツの胸元は結構緩い。


 縒(よ)れたシャツの首元からチラリと美優さんの胸元が見えてしまい、慌てながらも悟られないように視線を逸らす。

 案外、派手な下着を着けるんだ。なんて不謹慎なことを思った自分を戒めていると、隣に居る美優さんが少し俺に近付いた。


「巽さんは昨日どうだった?」

「シャワー浴びてカップ麺食べたら寝ましたよ。俺からは元気に見えました」


 元気な訳はないと思う。昨日男に襲われたばかりなんだ。それですぐに平気で居られる女性は居ない。だから、百合亞さんは俺に元気に見えるように振る舞っているんだと思う。


「…………私、巽さんのこと嫌い」

「え? 美優さん?」

「巽さん、凡人くんの迷惑なんて何一つ考えてない」


 突然そう言い出した美優さんは、俺に必死な目を向ける。


「あの子は自分のことしか考えてないよ。凡人くんの優しさを利用して部屋に上がり込んで……。もし、凡人くんのお友達が居なかったら、凡人くんの迷惑も考えずに迫ってた」

「俺が好きなのは――」

「夜、また凡人くんが巽さんにキスされたらって考えたら……凄く嫌だった」


 美優さんの目に溜まっていた涙がポトリと零れ落ちて、その涙を見てギュッと心の奥を締め付けられる感覚があった。


「凄く嫌だったの。凡人くんが巽さんとキスしてるの見た時……本当にムカついた。本当に嫌で嫌で仕方なかった……」


 ボロボロと涙を流しながら訴える美優さんの言葉に、どう答えれば良いか分からない。それは、言葉の真意を上手く想像出来なかったからだ。

 彼女の居る俺に不意打ちでキスをした百合亞さんを嫌悪してのことかもしれない。でも、それ以外の美優さんの気持ちを想像してしまう。


「もうすぐ出来ますから」


 それはどういう意味ですか、なんて聞ける訳がなかった。それを確かめたところでどうしようもない。だから、そうやって聞かなかったことにして話題を変えるしかない。

 鶏がらスープのお粥を作り終え、器に盛ってテーブルの上に置く。


「どうぞ」

「ありがとう」


 座った美優さんがレンゲでお粥をすくい、フーフーと息を吹き掛けて冷ますのを見る。そして、その姿を見て可愛いと思う自分に心を引っ掻かれる。

 美優さんのことを好きだと思う気持ちは、確実に凛恋を好きだと思う気持ちより小さい。凛恋と美優さんのどちらかを選ぶなら迷わず凛恋だ。そう言い切れる。でも……俺が美優さんを好きだと思った時よりも、美優さんを好きな気持ちは大きくなっている。

 いや……多分、好きよりも守りたいという気持ちなのかもしれない。


 今、美優さんはとても弱っている。だから、その美優さんがこれ以上傷付かないようにしたいという気持ちがあるんだ。

 お粥を食べていた美優さんは、俺を見てから両手でまだお粥の残った器を持って立ち上がる。


「美優さん、味が――」


 残してしまうくらい美味しくなかったと心配した。でも、立ち上がった美優さんは俺の隣に座り黙ってお粥をまた食べ始めた。


「美味しい……ありがとう」

「良かったです。それを食べたらゆっくり寝て下さいね」

「寝るまで一緒に居て……」

「えっ? 寝るまでですか?」

「だめ、だよね……」


 レンゲを動かす手を止めて、美優さんは器の中のお粥に視線を落とす。


「…………良いですよ」

「本当に?」


 応えて良いのか迷った。でも、聞き返した美優さんの表情が明るくなったのを見て、言って良かったんだと思った。

 美優さんがお粥を食べ終えてから器を洗って、床にあひる座りをしている美優さんの前に戻る。すると、美優さんはまた俺の隣に座り直した。


「ご飯を食べてすぐに寝ると良くないですから、少し待ってから――」

「凡人くんは巽さんみたいな子が好み?」

「はい? いや、可愛い子だとは思いますけど好みではないですよ?」

「じゃあやっぱり、八戸さんみたいな清楚な子が好み?」

「凛恋は清楚だからって訳じゃなくて、凛恋だから好きと言うか……」


 急に質問攻めが始まり、俺はいったい美優さんがどうしてしまったのかと思う。それに、すがるような甘えるような仕草がいつもの美優さんらしくない。

 もしかしたら、これが素の美優さんなのかもしれない。でも、それをさらけ出された俺は、どうにも困ってしまう。


 凄く可愛いと思ってしまう。その可愛いと思ってしまう自分が、凛恋を裏切っているように思えて苦しかった。

 俺は凛恋を裏切ってなんかいない。俺は凛恋が大好きで、凛恋が一番大切な人だ。でも、確かに美優さんのことも好きで、今も美優さんが心配で側に居ることにした。

 それは、凛恋に対する裏切りではないのか。そう誰かに問われたら――いや、自分自身に問うてみても答えは出ない。それは分からない訳じゃない。問いに答えるのが怖いんだ。だから、無回答で居るしかない。それしか出来ないくらい、俺は凄く戸惑っている。


「凡人くん、ありがとう。側に居てくれて凄く心強い」


 小さく息を吐いた美優さんがベッドに入るのを見て、俺はベッドの上から俺を見る美優さんに笑みを返した。


「大丈夫です。寝るまで居ますから。出る時は鍵を郵便受けに入れておきますね」

「ありがとう。年上なのに迷惑掛けてごめんね」

「謝らなくて良いですから、ゆっくり休んで下さい」


 美優さんが目を閉じるのを見届けてから、俺はポケットからスマートフォンを取り出す。

 繋がらないスマートフォンでも充電はしている。いつ繋がっても良いように、いつ繋がってもすぐに凛恋へ電話出来るように。そのために一〇〇パーセントにした充電が今は七五パーセントまで減っていた。

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