【二八九《伝わらない言葉》】:二

「今なら、田畠さんの気持ちがほんの少しだけ分かるかも」

「え?」

「凡人くんと手を繋いでたこと。地震で怖い思いをしてて、それで隣に優しい凡人くんが居たら頼りたくなっちゃう気持ちは、今の私ならほんの少しだけ分かる。でもやっぱり、凡人くんは凛恋の大切な彼氏だもん。それで自分の怖さを凡人くんに和らげてもらおうとするのは許せない。……まさか、家に田畠さんを上げてないよね?」

「美優さんは上げてない。でも、理緒さんとアルバイト先の後輩の子が居る」

「アルバイト先の後輩って、巽って子? 田畠さんのことを名前呼びしてるのも気になるけど、後輩の子の方の話を先に聞こうかな」


 隣を歩く希さんの雰囲気がピリッとして、俺は背筋をほんの少し伸ばして話を続ける。


「後輩の子の大学まで送って知り合いを探したんだけど見付からなくて。それに……避難所になってた大学の体育館で彼女が男に襲われて……怪我はしてないし、何かされる前に男から助けたんだけど」

「そっか……それで放っておけなくなったんだね。でも、それなら私を呼びに来てくれて良かった。田畠さんと理緒のことも心配だけど。巽って子も居るなら尚更心配だから」

「凛恋はきっと分かってくれると思う」


「もちろん、凛恋は凡人くんが優しさからしたことだって思う。でも、少しも何とも思わない訳じゃないってことは理解して。いくら人助けだって言っても、彼氏を狙ってる子を彼氏が家に入れちゃうんだから。今が異常事態だって言っても、彼女は心配になって当然なんだよ。大好きな彼氏を盗られたくないって誰だって不安になる」

「分かってる。ちゃんと凛恋に話をする」

「凛恋も凡人くんの良いところと悪いところは私よりもよく分かってるし、それも全て含めて凡人くんのことが大好き。でも、凡人くんの警戒心の低さはちょっと異常だよ」


 ムッとした顔をした希さんは、深く長いため息を吐いた。


「はぁ~…………昔から自分に対する評価が低いせいだと思うけど、それにしても凡人くんは自分が人に好かれる人だって分かってないよね?」

「昔は俺のことを好きになる人なんて居ないって思ってたけど、今はそうは思ってないよ。凛恋以外にも俺のことを好きだって言ってくれる人が居るのは分かってる」

「だったら尚更気を付けて。モテる彼氏を持つ彼女は大変なんだよ?」

「栄次と比べると――」

「凡人くんは十分過ぎるくらいモテる。もうちょっと悪いところがあっても良いくらいだよ」


 そう言う希さんの顔に、アパートに行った時の暗い表情が消えているのを見て、少し安心した。

 希さんのアパートから優愛ちゃんの住むアパートは近い。元々、俺と凛恋が同棲してたアパートだから、優愛ちゃんを迎えに行くついでに凛恋の部屋の様子も見ておいた方が良い。


「地震の影響、結構出てるね」

「理緒さんから聞いた話だと、交通機関のほとんどが麻痺してるみたいだ」

「大きな揺れだったしね。スマートフォンが繋がらないのも設備の故障かもしれないね」

「繋がらない時間も結構続いてるし、希さんの言う通りだと思う。……凛恋は大丈夫かな」

「地元には地震の影響はないみたいだから凛恋は大丈夫だよ」

「そうだと信じてる。でも……ちゃんと声を聞けるまで、実際に顔を合わせるまで安心出来ないんだ」


 地元に地震の影響はないから大丈夫だし、少し揺れたとしてもお母さんと一緒なら心配ない。そう言い切れるはずなのに、どうしても不安を拭い切れない。

 離れるのは一日だけだと思ってた。でも、今はいつ会えるようになるかも分からない。


 凛恋が地震に巻き込まれなくて良かった。だから、お父さんが心配して呼んだのはタイミングとして凄いと思うし、行かせた俺も間違ってはいなかった。何もかも正しかったんだ。でも、心にぽっかり空いた穴が胸の中でキリキリ痛む。

 凛恋に会えないことが寂しい。凛恋に会えないことがとても辛い。お互いに無事ならそのうち会える。でも、その"そのうち"の見通しが全然立たない。


「凡人くん、そんなに暗い顔しないで。凛恋だって自分の心配だとしても、凡人くんにそんな暗い顔してほしくないよ」

「ごめん」

「謝らないで。凡人くんが悪い訳じゃないんだから。……凡人くん、大丈夫?」

「え?」


「地震が起きてから少しは休めた? 田畠さんと巽さんの様子を見て、それから私のところにも来てくれた。それにこれから優愛ちゃんを探しに行く。それだけ動き回っていたら体も心も疲れてるんじゃないかと思って」

「心配してくれてありがとう。俺は大丈夫だ。編集部で仕事に追われてることを考えれば全く大変じゃない。俺より希さんは大丈夫?」

「私も大丈夫。凡人くんが大丈夫なら、早く優愛ちゃんを探しに行かないとね」

「もうすぐ優愛ちゃんのアパートに着くし。そこに居てくれればいいけど」


 もし居なければ、優愛ちゃんが行きそうな場所をしらみ潰しに当たっていくしかない。

 住宅街に入って、優愛ちゃんの住むアパートに向かう。

 時間は深夜だから真っ暗。でも、人の声や人が動く音で騒がしい。でも、真っ暗なのに騒がしいというのが不気味さを感じさせた。


 大きな地震の後なんだ。みんなまともに寝られる訳がない。俺だって、今は眠る気なんて起きない。

 凛恋も心配だし優愛ちゃんのことも心配だ。それに大学の友達や編集部のみんなも無事か気になる。


 スマートフォンが使えればすぐに連絡を取れていた。でも、スマートフォンが使えないだけでこうも不安が募り、考えたくない最悪な想像が頭によぎる。

 みんな無事だから大丈夫。そう自分に言い聞かせるのは簡単だ。でも、俺は捻くれているから、そんな根拠のない励ましは自分で否定してしまう。


「頼む……優愛ちゃん、無事で居てくれ」


 優愛ちゃんのことを心配しているのは俺だけじゃない。真井さんも心配しているだろうし、当然お父さんお母さんも心配している。何より凛恋が一番優愛ちゃんを心配している。だから、凛恋のためにも絶対に優愛ちゃんの安全を確保しないといけない。

 アパートの前まで来て、俺は少し足を速めてアパートの外階段を上る。そして、優愛ちゃんの部屋の前に来てからドアをノックする。


「優愛ちゃん、俺だ。凡人だ。もし居るなら――」


 ノックしながら声を掛けると、ドアの奥から部屋を走る音が聞こえた。


「凡人さんっ!」

「優愛ちゃん! 良かった、無事だったっ……」


 ドアが開いて飛び出して来た優愛ちゃんを受け止めると、俺を見上げた優愛ちゃんが明るく笑った。


「凡人さんならきっと来てくれるって思ってました」

「本当に良かった。怪我とかしてない?」

「大丈夫です。地震に遭ったのが丁度家に帰って来た時で、それからずっと家の中に居ましたから。あっ! 赤城先輩も来てくれたんですね。ありがとうございます」

「優愛ちゃん、無事で良かった」


 優愛ちゃんの無事を確認して、俺は一息吐いた。


「ここは電気と水道は?」

「どっちもダメです。スマホも繋がらないですし」

「そうか。もし良かったらうちに来ない? 希さんも一緒に来るし、今は理緒さんとうちのバイト先の後輩も来てる。うちは幸い電気も水道も無事だったんだ」

「バイト先の後輩ですか?」

「ああ。今年大学一年でうちにインターンに来てるんだ。ちょっと避難先にしようと思ってた大学で怖い目に遭って。そのまま放っておくことも出来ないから連れ帰って来て――」

「そうなんですか。まあ、凡人さんらしいと言えば凡人さんらしいですけど、お姉ちゃんが聞いたら心配と嫉妬でおかしくなりますよ?」

「凛恋にはちゃんと説明するつもりだよ」


「凡人さん、何でもかんでも正直に包み隠さず話せば良いと思ってません? お姉ちゃんに隠し事をしない凡人さんの考え方は良いと思いますけど、何でもかんでも言えば許されると思っちゃダメですよ?」

「そんなことは思ってないよ」

「それに、何でもかんでも正直に話してくれれば安心する訳じゃないんです。彼女としては、正直に言われても心配は心配なんですよ。大事なのはその後の話なんです」

「凛恋を傷付けるようなことはしない。それに、俺が一番大切で大好きなのは凛恋だから」


 優愛ちゃんの指摘は言う通りだ。

 何でも言われれば安心出来る訳がない。俺が逆の立場だったら、凛恋から「男の子の後輩が困ってたから家に泊めた」なんて言われたら凛恋を疑いはしなくても心配になる。凛恋にその気はなくても、凛恋くらい可愛くて家庭的な女性と泊まっていて、男の方が変な期待をする可能性がある。


「まあ、凡人さん大好き人間のお姉ちゃんなら、めちゃくちゃ嫉妬して今まで以上にいちゃいちゃするだけだと思いますけど」


 俺を見上げてニコッと笑った優愛ちゃんは、部屋の中を振り返ってから俺と希さんに視線を戻す。


「着替えとかまとめるんで中に入って待ってて下さい」

「俺は凛恋の部屋の様子を見てくる」

「分かりました。準備出来たら行きますね。赤城先輩はどうします?」

「私は少し座らせてもらって良い? ちょっと色々あって疲れたから」

「はい。ちょっと温いかもしれないですけど、お茶出しますね」

「ありがとう」


 二人のやり取りを見てから俺は優愛ちゃんの部屋を出て、隣の凛恋の部屋に向かう。

 持っていた合い鍵を使って部屋に入ると、凛恋の部屋のキャビネットが倒れていた。

 キャビネットを起こして床に座る。そして、俺しか居ない凛恋の部屋で、凛恋の居ない台所を見る。

 いつも泊まりに来ると凛恋は手料理を振る舞ってくれる。その手料理を作る時に、俺は凛恋が料理する姿をいつも見ている。だから、台所には凛恋の姿が…………。


「思い出せるからなんだって言うんだ。凛恋は居ないのに……」


 凛恋の部屋に凛恋が居ないことが、心をギュッと締め付けて心の中を掻きむしりたい痛みを感じさせた。

 俺は凛恋のことが心配だった。でも、それよりも凛恋が側に居ない不安が辛い。凛恋と会えない時が今までなかった訳じゃない。でも多分、俺の心は弱ってるんだ。

 地震で電車が止まって、美優さんと百合亞さんを連れて地震で混乱している町中を歩いて来た。それで、ここまで来て、希さんと優愛ちゃんの無事を確認して……気が抜けたんだ。


「凛恋っ……」


 凛恋のベッドに頭を置いて、凛恋の温もりのない凛恋の残り香しかない布団を握り締める。

 凛恋の手料理を食べて凛恋と一緒にお風呂に入って、それで凛恋と一緒に眠りたい。そういう安らぐ時間が今欲しかった。

 希さんも優愛ちゃんも理緒さんも美優さんも百合亞さんも、みんな女性だ。だから、男の俺が弱音なんて吐いてられない。凛恋に会いたいと泣いてる姿なんて見せられない。


「凛恋は、俺のことを考えてくれてるのかな……」


 地元に居る凛恋は当然ニュースを見て地震のことは知ってるだろう。だったら、俺達のことを心配してくれてるはずだ。

 ポケットからスマートフォンを取り出して画面を確認する。そして、俺は繋がらないと分かっていながら凛恋へ電話を掛けた。

 繋がらない発信音を聞きながら、ベッドの上に顔を埋めて小さく息を吐く。

 いつまでもこうしている訳にはいかない。

 立ち上がって手の甲で軽く目を擦ってから凛恋の部屋を見渡す。


「優愛ちゃんのことは絶対に俺が守るから。凛恋が悲しむようなことには絶対にならないから安心してくれ」


 聞こえる訳がない凛恋に宣言して、俺はゆっくり細く息を吐く。


「凡人さん、準備出来ました」

「じゃあ、早速行こうか。荷物貸して、俺が持つから」


 部屋から出ようとすると、丁度優愛ちゃんと希さんと出くわす。その二人の顔を見ないように優愛ちゃんから荷物を受け取る。


「凡人さんも大変なのにありがとうございます」

「俺は大丈夫。優愛ちゃんは凛恋の大切な妹だし、俺も妹みたいに思ってて心配だったし、これで安心出来るよ」


 ひとまず、希さんと優愛ちゃんの無事を確認出来たのは大きい。後は家まで無事に連れ帰って、交通網が復帰して地元に帰れるようになるまでみんなを守るのが俺の役割だ。


「凡人さんも家に戻ったらちゃんと休んで下さいね。お姉ちゃんの彼氏だからってだけじゃなくて、凡人さんは私の大切なお兄ちゃんなんですから」


 隣を歩く優愛ちゃんは、俺の腕を掴んで横から俺の顔を覗き込む。その優愛ちゃんに笑顔を返した。


「ありがとう。俺も家に帰ったらシャワー浴びて寝るよ。色々あって疲れたし」


 出来るだけ明るく軽口に聞こえるように言うと、それに優愛ちゃんは何も言葉を返さなかった。でも、凛恋が何か不満を持った時に見せるツンと唇を尖らせた表情とよく似た表情を顔に浮かべた。

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