【二八七《確かな絆》】:一
【確かな絆】
地震の次の日、俺は朝からレディーナリー編集部の片付けをしていた。
地震のせいで編集部に置いていたデスクは大きくズレて、壁際に置いてあった棚も横倒しになっていた。
「こういう時、男手があると頼りになるわね」
損傷した備品のチェックリストを挟んだバインダーを持った古跡さんが声を掛けてくる。
「備品、結構壊れてますか?」
「横倒しになった棚がいくつかね。幸い、高価なパソコンやコピー機関連は無事よ」
「午前中からやって大分片付きましたし、後は資料室ですね」
とりあえず、早急に仕事が出来る状態にしないといけないオフィスの片付けを優先し、締め切りが近い編集さん達は既に仕事を再開している。
編集部での仕事が完結しても、印刷所が止まっていたら本を刷ることは出来ない。でも、印刷所も早く業務を再開するように頑張っているらしく、俺が想像するよりも早く特集号は出版されるかもしれない。
「多野が居なかったら、確実に締め切り落としてたわ。ありがとう」
「いえ。編集さん達の余裕を作るのが仕事なんで」
「来年からも頼りにしてるわよ。一段落したら休憩しなさい」
「分かりました」
離れて行った古跡さんを見送ると、横からニッコリ笑う平池さんの顔が視界に入った。
「凡人くん、お疲れ様」
「平池さん?」
「こーら、絵里香お姉さんでしょ?」
「…………唐突にどうしたんですか」
今日は変な絡み方だなと思っていると、平池さんが俺の肩に手を回してニヤニヤと笑う。
「美優のこと名前呼びにしたんでしょ? 私だけ仲間外れにする気? 一緒にエッチについて語り合った仲じゃない」
「間違ってはないですけど、平池さんが言うとなんか――イデデっ!」
平池さんに両頬を引っ張られ、俺は平池さんを見ながら不満の目を向ける。
「つべこべ言わずに今から絵里香さんね」
「あれ~? 多野くん、また平池さんとじゃれ合ってるの?」
近付いてきた帆仮さんが、平池さんに頬をつまんで引っ張られる俺を見て笑う。その帆仮さんに、平池さんは俺の頬を引っ張ったまま笑顔を返した。
「帆仮さん、聞いて下さいよ~。もう長い付き合いなんだし、名前呼びでも良いんじゃないって言ったんですけど素直に聞かなくて」
大分端折って改変し原型がほとんどなくなった話をする平池さんに、帆仮さんはニコニコ笑って俺を見た。
「それ良いじゃん! 私も多野くんから凡人くんって呼ぶ! 凡人くんは、木ノ実さんって呼んでね」
「分かりました」
何だか帆仮さんまで加わり、俺は半ば諦めた気持ちで頷いた。
昨日、希さんに美優さんのことを名前呼びにしていたことに眉をひそめられたばかりだが、編集部でよく話す帆仮さん達も名前呼びにすると言うのだから、ここで俺だけ断るのも何かおかしいと思う。
「あっ! 美優さん! 今から私達は名前呼びにしようって話になったよ~」
丁度、自分の席に戻って来た美優さんに木ノ実さんが明るく声を掛ける。
「そうなんですか? じゃあ、私も今から帆仮さんを木ノ実さんって呼ばせてもらっていいですか?」
「うん! もちろん! なんか名前で呼ぶだけで距離が縮んだ気がするから不思議だよね~」
「ですよね~。ほらほら、凡人くんも私を絵里香お姉さんって呼んでみなさい」
「分かりました。これからもよろしくお願いします。"絵里香さん"」
「ちぇ~、可愛くないの~」
唇を尖らせて可愛くないと言う絵里香さんだったが、顔は満足げに笑っていた。
絵里香さん達との話が一段落してから、俺は古跡さんに言われた通り休憩をとって、自分の席に座り凛恋が作ってくれた弁当を開ける。
「美優の方はどんな感じ?」
「うん。予約してたスタジオとカメラマンはダメそう。スタジオは地震の影響でまだ使えないし、カメラマンも自分の事務所の後片付けがあるみたいで」
「ってことは、この後は?」
「出来る仕事が今のところないから、編集部の後片付けをするつもり。資料室の片付けはまだでしょ?」
「あー、私さっきちょっと見てきたけど中ヤバイよ。棚が倒れて並べてあった資料もぐちゃぐちゃ。あれを元に戻すのは結構大変かも。凡人くん、午後から美優のこと手伝えない? 流石にあそこを美優一人じゃ無理だと思うんだけど」
「はい。丁度俺も午後から資料室の片付けをやろうと思ってたんで」
「あーら、美優と凡人くん気が合うわね~」
ニタニタと笑いながら絵里香さんは自分の席に座る。
「凡人くん、昨日はありがとね」
「はい?」
「昨日、美優のことエレベーターの中で勇気付けてくれて。美優ってかなり寂しがりだし怖がりだから。エレベーターの中で泣き付いて来なかった?」
「えっ、絵里香! 変なこと言わないでよ」
いつものからかう絵里香さんに困る美優さんという光景を眺めていると、隣に座る木ノ実さんが俺の顔を横から覗き込む。
「昨日、あれから体調は大丈夫?」
「はい。心配掛けてすみません」
「凡人くんは何も謝ることなんてないよ。凡人くんと美優さんが無事で本当に良かった」
「ありがとうございます」
優しく微笑んでそう言って、俺は凛恋の作ってくれた弁当を食べ始めた。
昼休憩が終わってから、俺は早速資料室の片付けに向かったが、資料室のドアを開けて立ち尽くす。
昼休憩の時に絵里香さんから聞いてはいたが、中の棚は倒れて棚に並べてあった資料は床に積み重なっている。
「凡人く――うわ……凄いことになってるね」
「ですね。とりあえず、落ちてる資料を外に出さないと」
「私も手伝う」
美優さんと一緒に資料室の片付けを始めて、俺は散らばった資料を出して、ある程度カテゴリー毎にまとめていく。
「凡人くん、昨日あの後、赤城さんと大丈夫だった?」
「はい。あの後は特に何も言われませんでしたよ。それよりもすみません。俺の友達が失礼なことをして」
「ううん。赤城さんの言う通りだから。いくら不安だって言っても、凡人くんを困らせるようなことをしたのは良くなかった。ごめんね、私のせいで赤城さんと喧嘩させてしまって」
「喧嘩って言うほど大袈裟なものじゃないですから、美優さんは気にしないで下さい」
「でも、赤城さんが八戸さんに話したかも……」
「凛恋には言わないって言ってましたし。それに、凛恋ならエレベーターに閉じ込められた美優さんの不安は分かってくれますよ。凛恋はめちゃくちゃ優しい子なんで」
高校の修学旅行で、凛恋は萌夏さんの苦しみを理解して、凄く心配し優しく寄り添っていた。凛恋にはそういう強い優しさがある。だから、美優さんの気持ちも分かってくれる。
「凡人くんは――」
「凡人さん、おはようございます!」
美優さんが何か言い掛けた時、後ろから巽さんが声を掛けてきた。
「巽さん、おはよう」
「今日、いつものところに仕事なかったんですけど、私は何すればいいですか?」
「編集部のオフィスはこの通りだし、巽さんも後片付けを手伝うことになると思う」
「じゃあ、凡人さんと一緒にここの片付けをやります」
「いや、ここは俺と美優さんの二人で足りるだろうし」
「社員の田畠さんは、もっと社員しか出来ないところをやってもらった方が良いんじゃないですか? 私は出来ること少ないですけど、田畠さんは社員だから片付け以外の仕事も出来ると思いますし」
確かに、社員の美優さんに他に出来ることがあるなら、片付けを手伝わせるのはもったいない。でも、美優さんは昼休憩の時にやることはないと言っていた。
正直、一緒に仕事をするなら美優さんの方が良い。巽さんは俺に好意があって、俺はそれに応えられない。だから、俺はあまり巽さんと関わるべきじゃない。もちろん、仕事上で仕方ない場合には関わることもある。でも、関わらないで良いなら極力関わらない方が良いに決まってる。
「巽さん。古跡さんは会議で居ないから家基さんに指示をもらって来てくれる? もしかしたらそっちに人手が必要かもしれないし」
「分かりました。あっ、その前に少し良いですか?」
巽さんに腕を掴まれて資料室の前から編集部の外へ連れ出される。そして、廊下で振り返った巽さんはクスッと笑った。
「田畠さんは名前呼びで私は名字なんてズルいです。私も凡人さんに百合亞って呼んでほしいな~」
「じゃあ、百合亞さんって呼ぶよ」
「呼び捨てでも良いですよ?」
「みんなに敬称を付けてるのに、一人だけ呼び捨てはおかしいでしょ?」
「分かってますよ。ちょっと言ってみただけです。じゃあ、凡人さんも頑張って下さいね」
「ありがとう」
笑顔で手を振ってから編集部に入って行く百合亞さんを見送り、俺は資料室に戻る。すると、一生懸命資料の仕分けをする美優さんの後ろ姿が見えた。
「昨日、両親に電話したら凄く心配してた」
「ニュースで結構大きく取り上げられてましたしね。娘を持つ親は心配して当然ですよ」
「他のところでは断水とか停電とかあるみたいだけど、うちは幸いそういうのがなかったから」
「ですね。断水とか停電してるところは大変だとは思いますけど、凛恋もお風呂に入れて良かったって言ってました」
「私もそれは本当に良かったって思った。やっぱり、温かいお風呂に入ってゆっくり出来るだけで随分落ち着けたし」
「俺も昨日はいつも以上に疲れたんで、お風呂に入れて本当に良かったですよ」
エレベーターの中に何時間も閉じ込められるのは、精神的にも身体的にもしんどかった。
「昨日は本当にありがとう。凡人くんが一緒じゃなかったら、私一人じゃ耐えられなかった」
「俺も一人じゃなくて良かったです。男でもあの状況は怖かったですし」
「そう? 凡人くんは凄く冷静そうに見えたけど。もしかして、私が一緒だったから無理させちゃった?」
「無理はしてないですよ。ただ、女性が居るから俺がしっかりしないととは思ってましたけど」
「凡人くんは凄く冷静だったししっかりしてたよ」
「そうですか?」
「うん。その……凄く格好良かった」
「あっ、ありがとうございます」
美優さんに『格好良かった』と言われて凄く嬉しかった。でも、そう思う自分を認識して、凛恋に対する罪悪感が湧いた。
俺の彼女は凛恋で、俺が心から好きなのは凛恋だ。でも……確かに俺は美優さんのことを好きになってる。
昨日、俺が美優さんと帰ったのも、地震があった直後だったし、エレベーターに閉じ込められた後に徒歩で自宅まで帰らなければいけなかった。そんな状況、相手が美優さんじゃなくても女性なら誰だって心配だ。
俺はまだ誰にも美優さんのことを相談してない。
話せるとしたら栄次しか居ない。でも、話す必要があるのかも分からない。それは、今の気持ちは一時の話かもしれないし、時間が経てば薄れてしまうものなのかもしれないからだ。
確かに俺は美優さんのことを好きだと自覚した。でも、俺は凛恋のことが一番好きだ。絶対に凛恋を失いたくない。その気持ちはちゃんと心にある。
美優さんは凄く良い人だ。大人しくて落ち着いていて、年上だけど年上らしくない可愛さがある。それに、仕事に対して一生懸命で真面目なところは凄く尊敬する。だからきっと、そういう気持ちが積み重なって今の俺の気持ちになっている。だからこそ、その気持ちはいつか色褪せて思い出に変わって行くんだと思う。
凛恋には言えない。希さんから俺が美優さんのことを好きかもしれないと聞いただけで、凛恋は凄く不安になってしまった。だからきっと、俺の口から美優さんのことが好きだなんて聞いたら、今以上に凛恋のことを傷付けてしまう。
「美優さん、資料の仕分けしてて下さい。俺は倒れてる棚を元に戻しておくんで」
「ありがとう。やっぱり男の人が居ると、力仕事が出来て頼りになるね」
俺に明るい笑顔を向けてくれる美優さんに仕分けを任せて、俺は気合いを入れて資料室の中の片付けを始めた。
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