【二八六《決断》】:二

 エレベーターが停まってから約一時間後、俺のスマートフォンが震えた。電話の相手は古跡さんだった。


『多野、今エレベーターの管理会社に連絡が付いたわ、……こっちに来れるのが二時間後になるそうよ。状態を見ないと分からないけど、修理には更に一時間は掛かるらしいわ』

「分かりました。田畠さんに伝えておきます」

『多野、田畠のこと頼んだわよ』

「はい。……管理会社の人が来られるのが最短で二時間後、それから修理に一時間くらい掛かるそうです」


 電話を終えて、田畠さんの方を向いて事実を言うと、田畠さんは俺の腕にしがみついて俯いた。

 エレベーターの中は動かなくなって空調も止まり、一時間以上経ったせいで俺と田畠さんの体温で暑くなっている。


「田畠さん、喉、乾いてないですか?」

「大丈夫」

「飲みたかったら飲んで下さい」


 鞄からコンビニの袋を取り出し、俺は袋の中からお茶のペットボトルを取り出した。


「これ……」

「俺は水筒あるんで大丈夫です。コンビニのクジで当たったやつなんで」

「ありがとう……」


 俺があげたペットボトルの蓋を開けてお茶を飲む田畠さんを見て、俺はコンビニの袋をそっと田畠さんの方に押す。


「中にお菓子もいくつか入ってるんで、食べて下さい」

「それは――」

「どうせ田畠さんにあげるつもりで買って来たんで……」

「多野くん……じゃあ、一緒に分け合って食べよう」

「田畠さんがそれで良いなら」


 田畠さんの返事を聞いて、俺はそれからしばらく黙って視線を閉じたままのドアに向け続ける。


「あの日……仙台に泊まった次の日の朝、多野くんは椅子の上で寝てた。何もしなかったんだね」

「……するわけないでしょ」

「……うん、そうだよね。って納得出来る。多野くんは誠実な人だから、お酒に酔って寝てる人にそういうことしない。あの日はごめんね、八戸さんに凄く申し訳ない気持ちにさせてしまったと思うから」


 俺はそれを否定しなかった。実際、俺は凛恋以外の女性と一晩ホテルの部屋に泊まったのだ。何もしなかったし何もなかったと言っても、それは誰が聞いても浮気だと思われて仕方のないことだ。


「多野くんはあの日、多胡さんから私を守ってくれて。凄く嬉しかったし安心した。自分でも拒むことは出来たとは思うけど、もし怖い態度で威圧されたとしたら、私は何も出来なかったと思うから」

「嫌な話は思い出さなくて良いですよ。楽しい話をしましょう」

「楽しい話か。じゃあ、セックス特集の記事、みんなに喜んでもらえると良いね」

「そうですね。でも、俺は完成原稿を読んでて面白いって思いましたよ。話の内容もですけど、レイアウトとかフォントの選択もセンスが良いって思いましたし、何より全体的に物凄く読みやすく感じました。記事全体の色のバランスとか文章量と写真のバランスも良くて」

「ありがとう。多野くんは優しいよね。いつもそうやって私を褒めてくれる。でも、ただ凄かった、面白かったなんて感想じゃなくて、具体的に良いところを挙げて褒めてくれる。うちの親なんてよく分からないけど、これは美優が書いた記事なのか凄いなって言うだけだから」


 クスクス笑った田畠さんは、俺を見て小首を傾げてはにかむ。


「そういう多野くんにいつも元気とやる気と勇気をもらってます。いつも本当にありがとう」

「なんか、改めて言われると照れますね。それになんだかしんみりしてますよ。編集部を辞めるとか言い出さないで下さいよ?」

「言わないよ。本当に、私はレディーナリー編集部に入れて良かったって思ってるんだから。もう、私の仕事はここしかないって思ってる」

「俺もそう思いますよ。仕事してる時の田畠さんは活き活きしてますし」

「それに、来年からも多野くんと一緒に仕事が出来るし。それが凄く嬉しい」

「来年からもよろしくお願いします」

「それはこっちの台詞だよ。いつも私の方がお世話になりっぱなしだし」


 そう言った田畠さんは、エレベーターの上を見上げて小さく息を吐いた。そして、ブラフスの襟元を掴んで中へ風を送る。


「当然だけど空調も止まったね」

「小まめに水分を取ってくださいね。俺の水筒は大きめのやつなんで、そのお茶は全部飲んで大丈夫ですから」

「ありがとう」


 ペットボトルからお茶を飲む田畠さんから視線を外し、まだ真っ暗なエレベーター内を見る。

 まだエレベーターが動き出す気配はない。それにスマートフォンで外の状況を知りたいが、充電が減ることを考えると無駄にスマートフォンを使うのは良くない。


「汗掻いててごめんね。でも、まだちょっと怖くて……」

「大丈夫ですよ」


 暗いエレベーターの中に閉じ込められた状況は俺も怖い。

 俺の腕を掴む田畠さんの手は確かに汗を掻いている。でも、俺はそれを嫌とは感じなかった。


「凡人くん」

「はい?」

「ごめん……ちょっと、名前で呼びたくなって」

「良い、ですよ。名前呼びでも」


 田畠さんに名前で呼ばれて、俺は心臓が弾け飛びそうなほど激しく鼓動しているのを感じた。

 田畠さんが名前で俺を呼んでくれるのを嬉しいと感じたし、俺の名前を呼んだ田畠さんが恥ずかしそうにしていたのを可愛いと感じた。でも、そう感じる自分が憎らしかった。


「本当に?」

「はい」

「やった。……ちょっと羨ましかったんだ」

「羨ましかった?」

「巽さんが凡人くんのこと名前呼びしてるの。私の方が凡人くんと付き合い長いし仲良いのに」


 田畠さんが俺の方を向いてムスッとした顔をする。その少し嫉妬した、みたいな顔も可愛いと思った。


「……凡人くんも私のこと…………その、名前で呼んでね。私だけ名前呼びだと変だし」

「分かりました。じゃあ、美優さんで」

「う、うん」


 横で俺の顔をまじまじと見た美優さんが、真っ赤な顔をして俯いた。

 その美優さんの反応を見て、俺は「あれっ?」という疑問が心に浮かぶ。そして、淡く「美優さんも俺のことを好きなんじゃないか」そう思った。

 きっと年下の同僚としか思ってないだろうと思う自分が居る。でも、仙台でのことを思い出す。

 美優さんが、いくら酔っていたと言っても好きでもない男に、初めてをもらってほしいなんて言うだろうか。いや……美優さんはそんなに軽い人じゃない。


「美優さん?」


 俺の腕を掴んでいた美優さんの手が離れて、すぐに俺の手を握る。でも、手を握った美優さんは俺とは反対方向に顔を向けていた。




 俺と田畠さんがエレベーターから出られたのは、地震発生から約五時間経った後だった。

 月ノ輪出版の本社ビルは全員避難していて、ビルの中に残っていたのはエレベーターに閉じ込められていた俺と美優さんだけだった。

 エレベーターから出られた後、俺と美優さんは心配して待ってくれていた編集部のみんなにお礼を言って、月ノ輪出版を後にした。

 地震の影響で電車は止まっていて、通り過ぎるタクシーは全て満車。それにバスターミナルには長蛇の列が出来ていて、バスに乗れるのはいつになるか分からない状況だった。


「歩いて帰るしかなさそうですね」

「うん。タクシーもバスも無理そうだし」


 俺は美優さんと並んで駅前のバスターミナルから歩道を歩き出す。

 歩道には、俺達と同じようにバスとタクシーを諦めた徒歩での帰宅者達で溢れ、ただでも人通りの多い道がいつも以上に人でごった返していた。


「しばらくはまともに仕事も出来なさそうだね」

「ですね。ビル全体が停電したみたいですし、室内も結構荒れてるって言ってましたから」

「特集号大丈夫かな……」

「大丈夫ですよ。出版延期にはなるかもしれないですけど、出ないってことはないですって。レディーナリーでもよく売れるって分かってる特集号なのに、古跡さんが出版中止にする訳ありませんよ」

「そうだよね」


 小さくホッと息を吐いた美優さんの心配は分かる。自分が担当した目玉記事が載る号が出版されないなんてショックに決まってる。でも、その心配は必要ない。何か記事に出版出来ないほどの問題がない限り出版中止にする訳がない。


「凡人くんと一緒に作った記事だから。絶対に世に出したい」

「美優さん……。そうですね。記事のためにかなり頑張りましたし、美優さんも平池さんも帆仮さんも、みんな」


 美優さんの言う通り、今回の目玉記事には平池さんも帆仮さんも関わっている。そのみんなで一緒に作り上げた記事だ。だから、そのみんなの努力の結晶をどうしても世に出したいという気持ちは俺もある。

 俺と美優さんは、電車を使わず徒歩で帰ったこともあり、いつもよりも一緒に話す時間が長かった。日頃は編集部で休憩中に軽く談笑する機会くらいしかないから、長い時間ゆっくり話したのは仙台に行った時以来だ。


 俺は基本的にというか、根本的にコミュニケーション能力が乏しい。だから、大抵の人と話す時は緊張するし無理をする。凛恋や栄次、希さんと言った長い付き合いの友達にはそういう無理――遠慮はしないが、大学からの付き合いの空条さん達や編集部の人達にはやっぱり遠慮は出る。でも、美優さんにはそういう遠慮をしているという自覚はなかった。


 元々、美優さんが人当たりが良く性格も落ち着いて大人しいというのが大きな理由なのは確かだ。帆仮さんはかなり明るくて元気だし、平池さんも俺を散々弄り倒す。そういうテンションに俺は少しばかり合わせている節がある。でも、美優さんには“合わせる”という感覚がなかった。


「凡人くんは、今日は八戸さんと一緒?」

「はい。帰る前に電話した時に夕飯を作ってくれてるって言ってたんで」

「そっか。八戸さんも一人だと心細いだろうしね」

「美優さんは――」

「心配してくれてありがとう。でも、私も大人なんだから大丈夫だよ」


 優しく微笑んだ美優さんは、視線を下げて俺の手を見る。そして、一度俺の顔から視線を逸らして再び視線を俺の顔に戻した。


「でも……ちょっとだけ、手を握っても――ッ!」


 躊躇いがちに俺を見た美優さんが手を俺の手に伸ばす。でも、その美優さんの手は、俺の手を取る前に激しい殴打音を上げて弾かれた。

 美優さんは後ろから誰かに手を叩かれた。だから、俺は自然な流れで後ろを振り返る。


「希さん?」


 振り返った先には、美優さんを睨み付ける希さんが立っていた。そして、希さんは俺と美優さんの間に割って入って、俺の体を美優さんから遠ざけるように押し退けた。


「今、凡人くんに何しようとしました?」

「あ、赤城さん……」

「凡人くんは凛恋の彼氏なんです。凛恋を悲しませるようなことはしないで下さい。それに、凡人くんは凛恋が好きなんです。好きでもない貴女からそんなことをされても迷惑です」

「希さん、どうして――」

「凡人くんは黙ってて。私はこの人に話があるの。今、この人、凡人くんの手を握ろうとしたんだよ」

「ついさっきまでエレベーターに閉じ込められてたんだ。そんな経験をしたら不安になっても仕方ないだろ。それに、理由はどうであれ暴力はダメだ」

「この人を庇うの? 凡人くんは凛恋の彼氏でしょ。誰よりも凛恋のことを最優先に考えてよ」

「凛恋のことは最優先で考えてるよ。エレベーターから出られた時もすぐ電話したし、電車もバスもタクシーも無理だから、一緒に歩いて帰ることも伝えた」


「彼女が居るのに他の女の人と帰るのが正しいことなの?」

「美優さんは女の人なんだぞ。地震の直後だしもう薄暗くなってる。こんな時に一人で帰せる訳ないだろ。それに、住んでる部屋は隣同士なんだから」

「だったら、凡人くんは凛恋が別の男の人と一緒に家に帰ってきても平気だって言うの?」

「それは……」


 希さんに指摘されて、俺はとっさに反論が出来なかった。もし、俺が家で凛恋を待っていて、凛恋が男と一緒に帰ってきたら、浮気の心配はしなくてもモヤモヤとした気持ちになる。


「それに、なんで名前呼びしてるの? アルバイト先の先輩だよね?」

「それは私が、親しみを込めて名前で呼び合おうって――」

「プライベートと仕事は分けてもらって良いですか? 公私混同されると凡人くんは迷惑です。私、今日は凛恋と一緒に凡人くんの家に泊まるのでこれで失礼します」


 美優さんに言葉を投げ付けるだけ投げ付けて、俺の手首を掴んで歩き出す。


「今のこと凛恋には言わないから。凡人くんが優しいのは良いところだけど、もう凛恋が不安に思うことはやらないで」

「……ごめん」

「凡人くんの気持ちを疑ってる訳じゃないけど、凛恋のこと好きなんだよね?」

「もちろん好きだよ」


 俺は嘘偽りなく、そう素直な気持ちで希さんに答えられた。

 凛恋を好きな気持ちに嘘はない。それは誓って言える。それに、美優さんと一緒に帰ったのも、本当に一人で返すのが心配だったからと、帰る場所が同じだったからだ。でも、希さんは俺のことを疑ってる。


 希さんは栄次と会って話をした時から、俺が美優さんのことを好きなんじゃないかと疑っていた。

 実際、俺は栄次が想像したり希さんが警戒したりしていた通りになった。でも、美優さんのことを好きだと自覚しても、凛恋が一番大切だってことは変わらない。

 仮に美優さんが俺のことを好きで居てくれたとしても、それだけは絶対に変わらない。

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