【二七八《夢中》】:二

「凡人? どうしたの? 体が震えてる」

「ごめん……」


 謝って凛恋から体を離そうとすると、凛恋が俺の体を強く引き寄せる。


「離れて良いなんて言ってないし。どうしたの?」

「怖いことを思い出したんだ」

「それで怖くなっちゃった?」

「ああ」


 怖さを吐露して認めた瞬間、まるで夢から覚めたようにサッと体から熱が引く。そして、俺は凛恋に止められたけど体を凛恋から離した。

 ベッドに体を横たえると、どっとした疲労感が体に伸し掛かる。


「凛恋、ごめん」

「もー、謝り過ぎ。なんにも謝ることなんてないじゃん。私も凡人と同じでチョーエッチだけど、一番幸せなのは凡人の側に居ること。だから、私は今チョー幸せ。ね? 凡人が謝ることなんて何もないでしょ?」


 優しく微笑んでくれた凛恋は、俺の頭を何度も何度も優しく撫でてくれる。

 凛恋に池水の夢を見たなんて言えない。そんなことを言ったら、凛恋に嫌な記憶を思い出させてしまう。


「凡人、今日の晩ご飯は冷蔵庫にあるもので適当に作って良い? 今日はご飯とトイレ以外はベッド出ないって決めたから」

「晩ご飯は凛恋が楽出来るようにしてくれればいいけど、ベッドを出る出ないはの律儀に守らなくて良いだろ?」

「ダメよ。凡人が休みだから、少しでも凡人と一緒に居たい。もう……違えたくないから。もう……絶対に間違えて、凡人と離れたくない。私は、それが怖い」


 ポロリと溢れた凛恋こ涙を、反射的に頬を当てて受け止める。そして、凛恋へまた体を近付けて重ねた。

 体の震えが止まり、さっきよりもはっきりと冷静に落ち着いて凛恋を感じられる。


「凡人っ……」


 凛恋が俺の呼ぶ声が聞こえて、その声に恐怖の鎖に縛られた俺の心がどんどん解かれていく。

 凛恋が好き。凛恋が大好き。凛恋を愛してる。そういう気持ちだけで自分の心が満たされて、本当に幸せだった。

 まだ昼にもなっていない朝方。電気を付けてなくカーテンが締め切られた薄暗い部屋のベッド。

 でも、その場所だけ、陽だまりのような優しい温もりに溢れていた。




 迷彩服を来た顔のない人達が、街中でアサルトライフルを乱射する。俺は、その銃弾の雨から隣に居た人を守りながら、崩れたビルの瓦礫の陰に隠れた。


「多野くん……私達、どうなるのかな……」


 俺の腕にしがみつく田畠さんが、不安そうな顔で俺に尋ねる。


「大丈夫です。絶対に、俺が守りますから」


 状況は分からない。でも、顔のない人達はなぜか俺と田畠さんを探してる。そして、その手に持ったアサルトライフルで俺達を狙っている。

 俺が隠れた瓦礫の陰には、一丁のアサルトライフルが落ちていた。

 この前、夢で見た時に拳銃を撃った。でも、あの時どうやって撃ったかなんて覚えてない。


「多野くん?」

「……田畠さんを守るためには必要です」


 アサルトライフルを手に取った俺を見て、田畠さんが震えた声を発した。


「多野くんにそんなこと――」

「そうしないと生き延びられない。大丈夫、絶対に俺が田畠さんを守りますから」


 撃ち方も分からないアサルトライフルを構えて、一度深呼吸をする。

 大丈夫。確か安全装置を外して引き金を引く。そんなことを漫画で見たことがある。引き金を引けば弾が出る。ただそれだけだ。

 アサルトライフルの近くに落ちていた予備弾倉も拾って、瓦礫の陰から様子を窺う。視界に見えるだけで八人は居る。八人相手に、田畠さんを守りながら生き延びられる可能性は低いと思う。

 瓦礫を背にして真っ直ぐ目を向けると、視線の先に大きなビルが見える。そこまで逃げたから逃げ切れるとは思えない。でも、この場に留まって居ても殺されるだけだ。


「田畠さん、あのビルまで走れますか?」


 遠くの方からアサルトライフルのけたたましい銃声がいくつも聞こえる。どうやら、顔のない人達に追われているのは俺達だけではないらしい。でも、その銃声が近くなっている。このままだと今よりも追っ手の数が増えてしまう。


「一緒に逃げるんだよね? 多野くんが囮になるなんて言わないよね?」

「俺があいつらを引き付けます」

「ダメ。多野くんも一緒に逃げるの」


 激しく首を横へ振る田畠さんの目には涙が浮かんでいて、俺の腕を引っ張る。


「一緒に逃げて」

「でも、それじゃあ田畠さんが――」

「多野くんが私の立場だったら、多野くんは私を見捨てる? そんなこと出来るわけないってことくらい分かってよ」


 その田畠さんの言葉には怒りと苛立ちがあった。でも、その怒りと苛立ちには、田畠さんの優しさも確かに感じられた。


「分かりました。じゃあ、合図したら一緒に走りましょう」

「うん。絶対に一緒にだからね」


 手を握る田畠さんから視線を外し、瓦礫の陰から再び顔のない人達の様子を窺う。

 顔のない人達は同じ服装で規則的な動きをしている。まるで、ゲームのキャラクターみたいな作られた動きに見える。でも、その分かりやすい動きからなら、顔のない人達が見ていない隙にビルまで行けるかもしれない。

 慎重に顔のない人達の動きを見て、全員が俺達に背を向けた瞬間、田畠さんの手を握って走り出す。


「今です」


 声で気付かれないように抑えて発した合図で、俺と田畠さんは必死にビルに向かって走る。耳にはけたたましい銃声が未だに聞こえているが、俺達に銃弾は飛んで来ない。

 長い距離を走って、ビルの入り口近くにあった大きな柱の陰に隠れる。柱からビルの入り口を見るが、さっきの顔のない人達が追って来ている様子はなかった。


「良かった……」


 小さく息を吐いて柱に背中を付けて座り込むと、隣に膝を突いた田畠さんが正面から抱き付いて来た。


「怖かった……怖かったよ……」

「大丈夫ですよ。もう、大丈夫」


 しがみつく田畠さんの背中を擦りながら、俺はビルの中を見渡す。

 外観からは分からなかったが、俺と田畠さんが入ったビルはシティーホテルのようで、視線の先にはフロントが見える。ビルの外は建物の瓦礫や自動車の残骸が散乱していたり、アスファルトが剥がれて土が剥き出しになっていたりして荒れ放題だった。でも、シティーホテルの中は、そんな外とは全く違い綺麗な状態だった。だけど、その綺麗さと人気の無さが不気味だった。


「多野くん、今日はここに居よう。外は危ないし、ホテルみたいだからゆっくり眠れる部屋もあると思うし」

「ここにですか?」


 田畠さんの提案に、俺は当然躊躇いが出た。いくら今が異常事態だとしても、凛恋以外の女性とホテルで寝泊まりするなんて――。


「凛恋! そうだ、凛恋を探さないと」


 逃げるのに必死だった俺は、落ち着いた頭に浮かんだ凛恋のことが心配になり立ち上がる。でも、その俺の手を田畠さんが引っ張って引き止める。


「多野くん? どこに行くの? 外に出るのは危ないよ?」

「分かってます。でも、探しに行かないと!」


 冷静に考えれば、ここに田畠さんを一人で残して行くのも危ない。でも、俺は凛恋を一刻も早く探し出すために入って来た入り口に向かって走る。

 外には顔のない人達がアサルトライフルでうろつき、見付けた人に向かって無差別に乱射している。そんなところに凛恋を一人に出来ない。

 入り口の自動ドアの前に行くと、目の前にあったはずの自動ドアが突然消えてホテルの壁になる。


「一体、どうなってるんだ……」


 ガラスの自動ドアが急に壁に変わるわけがない。でも、今現実でそれが起こっている。


「クソッ! 他に出口は!?」


 周囲を見渡して他の出入り口を探してみる。だけど、どっちを向いても壁しか見えず窓の一つもない。


「多野くん!? 落ち着いて、どうしたの?」

「田畠さん、入り口がなくなって外に出られなく――」

「良かった……じゃあ、あの顔のない人達は中に入って来られないんだね」

「たばた……さん?」


 入り口がきえてなくなるという異常事態に、田畠さんはホッと息を吐いて安堵した様子を見せた。それに、俺は言葉を失って戸惑う。なんで、この状況で安堵出来るのか分からない。


「とにかく、ここから出る方法を――」

「多野くん、どうしてここから出たいの?」

「どうしてって、今凛恋がこんな危ない街で一人なんです。だから――」

「えっ? 凛恋って誰?」

「は? ……い、いや! 八戸凛恋ですよ! 俺の彼女の! 田畠さんも顔は知ってるはずでしょ!?」

「酷い……多野くんの彼女は中学の頃からずっと私だけなのに……」

「えっ!? は? 田畠さんが彼女?」


 目に涙を浮かべて言った田畠さんの言葉の意味が分からなかった。


「田畠さんは俺より年上でしょ。それに、初めて会ったのは大学のインターン先で――」

「私と多野くんは同い年だよ! ずっとお互いに名字でしかもさん付けくん付けで呼んでるけど、それでも中学の頃から一緒だよ! 高校だって一緒の学校に行ったし、大学だって多野くんと同じ塔成大に行けるように一緒に頑張ったでしょ!? 毎日多野くんと私の家で一緒に勉強して、受験も一緒に行って、大学に入ったら親に内緒で半同棲して……インターンも同じレディーナリー編集部に行って…………全部、忘れちゃったの?」


 ポロポロと涙を流す田畠さんの様子は嘘を言っているように見えなかった。でも、明らかに田畠さんの言っていることと俺の記憶していることは違っている。


「きっとショックで混乱してるだけだよね。だから、すぐに思い出してくれる」

「田畠さん……俺は田畠さんとは付き合ってません。俺が今まで付き合ったのは凛恋一人だけで――」


 田畠さんは戸惑う俺の襟首を掴んで下へ引っ張る。そして、俺の体を前屈みにさせ、唇を重ねた。


「覚えてない? 初めてキスした時のこと。多野くんと付き合ったばっかりの時に、ゲームの罰ゲームでキス顔を見せたら、多野くんが予告無しでキスしちゃったんだよ。私も初めてでビックリしたけど凄く嬉しかった」


 違う。俺のファーストキスは田畠さんじゃない。


「でも、キスはしてくれたけど、その先はなかなか多野くんが誘ってくれなくて、私が勇気を出してエッチに誘ったの覚えてる? あの時、ゴムを買いに行ったら店員さんが男の人で凄く恥ずかしかった」


 違う。俺の初めては田畠さんじゃない。


「それに、多野くんは私がストーカーに傷付けられそうになった時、体を張って守ってくれたんだよ?」


 違う……それは田畠さんじゃない。


「それに……多野くん、大学卒業して就職したら私と結婚させてほしいって私のお父さんとお母さんに言ってくれたんだよ。それで、私と凡人くんは今、結婚に向かって一緒に頑張ってるの」

「……違う。それは田畠さんとじゃない。それは全部……凛恋と――」

「違わないよ。それに……多野くんの言ってる八戸凛恋さんって、この前フォリア王国の王子と婚約した人でしょ?」

「そんな……ロニーは国王から凛恋に近付くなって言われたはずじゃ……」

「国王さんと王妃さんも公認のカップルだってニュースで言ってたでしょ? 確かに可愛い人だったけど。でも……記憶が混乱してるって言っても傷付くな。私との思い出を全部忘れちゃうなんて。だけど……私は待ってるから。多野くんがちゃんと私のことを思い出してくれるの」


 田畠さんは優しく俺の体に手を回して抱き締める。その瞬間、俺の体はピクリとも動かなくなった。

 そんな……凛恋が……凛恋がロニーと? そんなわけない。


「凛恋……凛恋ッ!」




「――……と……かず…………凡人ッ!」

「――ッ!?」


 凛恋の叫び声が聞こえて、俺は目を開いて体を起こす。すると、俺の体にしがみついて泣いている凛恋の姿が見えた。


「はぁっはぁっ……夢、だったのか……」


 グラグラと揺れる頭を抑えながら時計を確認する。時間はまだ昼前、だからうたた寝してしまってからそんなに時間が経っているわけじゃない。


「凡人!? 凡人大丈夫!?」

「ああ……ごめん。俺、うなされてたのか?」

「凄く苦しそうだった。嫌な夢見てたの?」

「ああ……凛恋がロニーと婚約する夢だった」


 俺の頭に残った夢の一番嫌だった出来事がすぐに口に出た。しかし、凛恋はそれを聞いた後に俯いて俺の手を両手で握った。


「大丈夫。私があんなやつと婚約するわけないでしょ。まあ、そんなこと凡人が一番分かってるでしょうけど~」


 クスクス笑った凛恋が俺の頬にキスをして、ギュッと俺の体を抱き締めてくれる。俺は、凛恋の肌を隠すために凛恋の体を覆うように布団を巻き付ける。


「ありがと。でも、この部屋には私と凡人しか居ないんだから隠す必要はないでしょ?」

「そうだけど、やっぱり隠す」


 布団で一緒にくるまりながら凛恋に抱き付くと、凛恋が俺の頭を撫でてくれた。

 俺は田畠さんが出てくる夢を過去にも見たことがある。でも、そのどちらもそれが夢であると夢の中で認識していた。だが、今回の夢は違った。

 それが夢であると認識していなかった。夢の中で起きる出来事全てが現実だと思っていたし、夢の中で凛恋がロニーと婚約したという話に本気で焦りショックを受けた。だから、今でもその動揺が原因の動悸がまだ続いている。


「凡人、大丈夫だよ。私が付いてる」

「凛恋……ありがとう……」


 俺は、凛恋の体を抱き締めながらお礼を言った。でも俺は、心の中で「ごめん」と凛恋へ謝った。

 夢の中の出来事は現実と関係ない。たとえ、夢の中で人を殺したとしても、夢の中の出来事なのだから罪には問われない。だけど、夢の中での出来事は現実の心へ持ち越される。


 俺は夢の中だとしても、俺は凛恋ではない女性と付き合っているという夢を見た。たとえそれを夢の中でも否定していたとしても、現実の俺の心には凛恋に対する罪悪感でいっぱいだった。でも、そんな罪悪感を持っても凛恋に素知らぬ顔で甘えられている自分が、自分のことなのにまるで自分じゃないような、そんな怖い感覚が浮かんでいた。

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