【二七八《夢中》】:一

【夢中】


 見ていた夢は今も続いていて覚めない。でも、俺は夢の中でずっと屋上に居たわけでもない。

 教室で普通に授業を受けている時に、ふと目が合って笑い掛けられた。

 休み時間になると、すぐに俺の方を向いて昨日見たテレビ番組の話みたいな他愛のない話をした。

 放課後、教室を出る時に「さようなら。また明日」と言われた。

 次の日、教室で会ったら「おはよう」と言われた。


 どれも、学校で行なわれる誰もが経験したことのある日常的な出来事でしかない。でも、中学時代の俺はそんな経験をしたことがなかった。

 全ての場面が、現実と同じように時が流れているわけではない。場面場面毎に磨りガラスのように風景がぼやけて、そのぼやけが取れたら次の場面に移っている。そんな感じだ。だから俺はそれが夢だと認識出来ている。でも……その場面の移り変わりを見る度に、これが現実だったらどんなに良かっただろうと思えていた。


 中学時代の俺が通り過ぎた日々を追体験する。その体験は俺の心に酷く重たいものをのし掛からせていた。

 悪口陰口。私物を隠される壊される。心ない謂われのない内容の手紙が靴箱や机に入れられる。机に濡れた雑巾を突っ込まれていることもあった。でも、その度に田畠さんが味方してくれた。


 現実の俺が、笑って相手を馬鹿にして耐えていた全てを、田畠さんが隣で背中を擦って「大丈夫。私は多野くんが凄く優しくて良い人だって知ってる。多野くんを知らない人の言葉なんて気にしちゃダメだよ」そう言ってくれる。それが、たとえ夢の中の体験だとしても、俺は心から嬉しかった。




 現実よりも早く流れる夢の中の時間は、気が付けば二年の冬になっていた。

 冬には中学の修学旅行がある。その修学旅行の記憶が俺はあまりない。

 行った場所は京都、大阪、奈良で、日程は四泊五日の長い日程だったという記憶しかない。きっと京都なら金閣寺や清水寺には行ったんだろうと思う。大阪では大阪城を見たかもしれない。奈良に行ったなら東大寺で奈良の大仏を見て、奈良公園の鹿に鹿せんべいを奪われたのかもしれない。でも、その想像出来る風景が何一つ思い出として出て来ない。


 多分、俺の頭の中のどこかにはその記憶があるのだろうと思っている。そうやって具体的な想像が出来るのなら、現実の俺は確かに想像した状況に近いものを目で見ていたはずだ。だけど、それでも俺がはっきりとした思い出として思い出せないのは、それを思い出として頭の中に記憶していないからだ。だから、『思い出』と『修学旅行』の検索ワードに引っ掛からない。


「あの二人、いつも一緒に居るよね」

「いじめられてる同士付き合ってんじゃないの?」


 修学旅行に来てバスで移動している間、後ろからそんな女子のヒソヒソとした話し声が聞こえる。

 夢の中での田畠さんは、大人しい性格から女子の中で浮いている設定らしい。現実の田畠さんも大人しいが、平池さんとのやり取りを見ていて女子の中で浮くような人ではないのは明らかだ。だから、そういう設定も、現実で学校で浮いていた俺に田畠さんが関わっても違和感のないように作られた設定なんだろう。


「多野くんは修学旅行でどこに行くのが楽しみ?」

「金閣寺と清水寺の清水の舞台は、テレビで見たり社会の教科書で見たりしてるから、実際に見てみたいとは思うかな」


 実際、そんなに興味はない。でも、夢の中の俺はそんな無難な答えを返す。


「私は、遊園地に行くのが楽しみ。今、クリスマスイベント中で園内がクリスマスの装飾をしてたり、クリスマス限定のパレードがあったりするんだって」

「そうなんだ」


 はにかむ田畠さんは、バッグの隙間から遊園地のガイドブックを取り出す。その様子を見て、現実の田畠さんは遊園地が好きなんだろうかと思う。でも、田畠さんが遊園地の話を楽しそうにする姿は何の違和感もなく似合っていると思った。

 バス車内の場面から切り替わり、ぼやけた視界が綺麗に晴れたら……そこは夜の遊園地の中だった。


「多野くん、もうパレードの時間だよ」

「そうだね。どこがよく見れる場所なのかな?」

「それは私に任せて。ちゃんと調べてきたから」


 急な場面転換に戸惑う俺の心とは裏腹に、夢の中の俺はすんなり状況に付いて行って田畠さんと並んで園内を歩き出す。


「結局二人っきりで回ってたね」

「まあ、班の人達も俺が居ない方が良かったと思うから」

「違うよ。班の女子は私が居ない方が良かったの。私が居ると、多分楽しいの邪魔させるから」

「そんなことないよ。田畠さんが居たら、遊園地のことよく知ってるから助かったと思う」


 歩きながらそんな会話をして、顔がぼんやりしてはっきり見えない人達の間を通り抜け、きっと一度目にしたであろうクリスマスの装飾がされた遊園地の中を歩く。


「私は、班の人達と一緒だったら今みたいに楽しめなかったと思う。いつも嫌なこと言われるから」

「田畠さんは何も悪いことなんてしてないんだけどね」

「うん。私も悪いことはしてるつもりはないけど、いつも人に嫌われる時の理由なんて私は分からないから」

「俺は、自分の嫌われてる理由なら分かるよ。俺には親が居ないから――」

「それは、そんなの……人を嫌って良い理由にならないよ。それに、そんな理由で人を嫌うような人は多野くんが関わる必要がない人だと思う。だから、気にしないで」


 真剣な顔で、俺のことを否定する人を否定して、自分を肯定しない俺を肯定してくれる。その田畠さんの優しさは、現実の田畠さんから感じる優しさと同じものだった。

 田畠さんの案内で来た場所は、園内の建物の二階のバルコニーだった。確かにこの場所なら高い位置からパレードを見られる。でも、見晴らしが良い絶好ポイントなのに人があまり居ないのは夢の中だからだろう。実際にこんな場所があったら、人が殺到してゆっくり見られる状況なんかじゃないと思う。


「今日一日凄く楽しかった」

「良かった」

「多野くんは?」

「俺も楽しかったよ。遊園地って年でもないかなって思ってたけど、田畠さんが色々案内してくれたお陰でそんな俺でも楽しめた」

「良かった! 私、多野くんも楽しんでもらえてるかちょっと不安だったんだ。今日一日、私だけ盛り上がって多野くんを連れ回しちゃったかなって」


 手すりに両手を置いた田畠さんは、視線の先を通り過ぎるパレードのフロート車を眺める。その横顔は、すっかり夜になった園内の明かりで照らされて、ほんのり赤みがかって見える。


「あっ!」


 手すりに置いていた手を外した瞬間、田畠さんの肩に掛けていたバッグが落ちる。それを地面に落ちる前に掴むと、田畠さんがハッとした目をして俺を見た。


「はい」

「あ、ありがとう」


 バッグを返すと、田畠さんは俺の返したバッグを両手で体の前に抱く。その田畠さんを見ているうちに、手すりの外では賑やかな音楽に合わせて踊っているマスコットキャラクターを乗せたフロート車が走り去っていく。

 賑やかだった雰囲気が急にしんみりとして、夢の中なのに夢が覚めたような感覚になる。


「多野くん」

「ん?」

「好きです。一年生の頃からずっと、多野くんのことが好きです」




 ゆっくり目を開くと、視線の先にスマートフォンを構えた凛恋の姿が見える。そして、凛恋は自分のスマートフォンを見て呟いた。


「も~、チョー寝顔可愛過ぎ!」


 どうやら俺の寝顔を撮影していたようで、しかも俺が起きたことに気付いていないらしい。

 寝間着姿の凛恋がニヤニヤと笑ってスマートフォンを見てる間、凛恋後ろにそっと手を回してサッと手を動かし、俺は凛恋のお尻に触った。


「キャッ!」


 スマートフォンを真剣に見ていた凛恋は、可愛い悲鳴を上げて驚くと、上からジッと俺を見下ろす。


「びっくりした~」

「俺の寝顔を撮った仕返しだ」

「だって仕方ないじゃん。凡人の寝顔、チョー可愛いんだから」


 スマートフォンをテーブルに置いてベッドの中へ潜り込んで来た凛恋は、俺の腰に手を回して抱きつく。


「今日は凡人のバイトが休みだからゆっくりラブラブ出来るね!」

「いつも凛恋とラブラブしてるつもりだけど?」

「ごめんごめん。いつもラブラブしてくれるけどいつも以上にラブラブ出来るね!」


 言い方を変えた凛恋は、俺の腕の中で小さく息を吐いた。


「この前、男友達がほしいかって私に聞いたでしょ?」

「ああ。そのことはごめん。変なこと聞いて」

「ううん。私のことは良いの。でも、その凡人が私に聞いたことを考えて思ったの。凡人は女友達がほしいのかなって」

「え? 女友達?」

「うん」

「いや、ほしいとは思ってないけど」

「じゃあどうして私に男友達がほしいかって聞いたの?」


 凛恋の二つの瞳は小さく揺らめき、その揺らめく瞳からは凛恋の不安を感じた。


「実は編集部に来てるインターンの子から、今度ご飯食べながらゆっくり話したいって言われて。それは断ったんだけど、凛恋はそういうことがあった時、彼氏の俺が居るからって理由で凛恋の交友を狭めちゃってたのかと思って――」

「私には凡人以外の男の人は必要ない」


 強く俺の体を締め付けながら、凛恋は俺の顔に自分の顔を近付けて俺の目を真っ直ぐ見返す。


「絶対、インターンの子とご飯行かないで」

「行かないよ、凛恋が居るんだから。でも、その子もきっと俺と話をしても大して面白い話は出来ないけどな」

「インターンの子は凡人とご飯行って、凡人と今より親密になりたいのよ。だから、自分から誘ってきたの。だから……その子とご飯行ったら嫌」

「行かないって。それに、俺が好きなのは凛恋だけだから」


 凛恋を安心させるために抱き返すと、凛恋はまだ揺らめく瞳で俺を見返しながら言った。


「決めた。今日、ご飯とトイレの時間以外は凡人をベッドから出さない」

「えっ? 流石にそれは」

「彼女のわがまま、聞いてくれる?」

「聞く」


 凛恋のいたずらっぽい笑顔に飲まれるまま答えると、凛恋は笑顔を消して俺を真っ直ぐ見た。


「私、怖いな」

「凛恋?」

「凡人と付き合う前も怖かったし、付き合ってからもずっと怖い」

「何が怖いんだ?」

「凡人が私以外の誰かを好きにならないか」


 凛恋の言った怖さの正体を、俺は凛恋の体を引き寄せて簡単に消し去ろうとした。でも、俺がそのための言葉を発する前に、凛恋が震えた声を発した。


「凡人は私が初恋だって言ってくれてる。だから余計に不安なの。私は凡人以外に好きになった人が居る。その人達と比べて、凡人はダントツの一位なの。だから、私は凡人だけを好きだって言い切れる。でも……凡人は私以外の人を好きになったことがないから、好きの強さを比べようがないじゃん」

「俺は凛恋が一番好きだ」


「私は、そういう凡人の真面目で一途なところにずっと助けられて来たの。今まで、萌夏や露木先生、ステラに本蔵、それに理緒。他にも沢山の子が凡人のことを好きになった。でも、もし凡人が私と付き合ってなかったら、彼女って言う心のバリアがなかったら分からない。ずっとそう思ってた。それは凡人のことを信じてないってわけじゃないの。そうじゃなくて……やっぱり凡人を好きになる人は良い人や可愛い子ばかりだから……私は、凡人の彼女に相応しいのは私だって言えるけど、凡人を好きになった誰よりも自分が魅力的だって言えない。……だから、いつか凡人に私以外の好きな人が出来ちゃったらって思うと怖い」

「俺は凛恋だけが好きだ」

「うん。でも……やっぱり怖い」

「凛恋……不安にさせてごめん」


 俺には、凛恋の体を強く抱きしめながら、そう謝ることしか出来なかった。

 今の凛恋が抱いている不安は、俺が好きだと言うだけでは拭えない重さがある。だから、ただ謝っただけでも拭えるものじゃない。それでも、今の俺にはただ謝ることしか出来なかった。


「凡人が謝ることなんてない。ただ、私に自信がなくて……凡人が好きだから、どうしても不安になるの。凡人は、絶対失いたくない大切な人だから」

「確かに俺は凛恋以外の人を好きになったことはない。でも、可愛い人を見て可愛いと思うし、俺のことを好きになってくれた人達は凄く良い人で可愛くて綺麗な人達ばかりだった。でも、それでも俺が好きなのは凛恋だよ。凛恋が彼女だから断ってたわけじゃない。凛恋のことが好きだから断ってたんだ」

「うん。でも、やっぱり不安なんだ。凡人はチョー格好良くて優しくて、それでかなり隙だらけだから」


「俺って隙だらけか?」

「うん。人の好意に対して隙だらけ。だから、色んな子からアタックされまくるのよ。本当……そこはちょっと――ううん、凡人に気を付けてほしい」

「ごめん。ちゃんと断ってるんだけどな……」

「凡人は優し過ぎるのよ。優しいのは凡人の沢山ある長所の一つだけど、凡人は本当に誰に対しても優しいから……こんな格好良い人に優しくされたら、みんな好きになって当たり前だし」


 俺の背中に手を回した凛恋は、顔を近付けて軽く唇を重ねる。そして、すぐに熱く激しいキスに変わった。


「絶対に誰にも渡したくない。……凡人に、私以外を好きになってほしくない……」

「大丈夫だから。大丈夫……大丈夫……」


 凛恋に大丈夫を重ねてから唇を重ね、俺はピッタリと肌を重ねる。

 優しく凛恋の頭を撫でながら、ゆっくり凛恋の心と体を全身で包み込む。


『今度こそ、お前の女を犯してやる。ただ、今度はお前の目の前でな』


 凛恋の温もりを感じる幸せな時間に、その冷たく低い声が頭の中に響く。それは夢の中で聞いた池水の声だった。

 頭の中に、鮮明に凛恋を襲った池水の姿が焼き付いて消えない。もう二度と思い出したくないはずなのに、どうしても頭の中にこびり付く。


「凡人? どうしたの?」

「俺も、凛恋を誰にも渡したくない」


 夢の中の話なのに、恐怖と不安で歯止めが効かなくなる。恐怖と不安に突き動かされて、俺はいつも以上に凛恋に対する執着心と独占欲が掻き立てられる。

 もう二度と会うはずのない池水を、俺は未だに恐れている。だから池水を夢に見て、その恐怖が現実にまで流れ出してきた。


 自分の感じる凛恋の感触と温かさから、今が夢ではなく現実だとしっかり分かっている。だけど、一度抱いてしまった恐怖は消えない。

 幸せな気持ちで凛恋と抱き合いたいのに、俺の脳裏には池水の気持ち悪い薄ら笑いが焼き付いて離れない。

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