【二七九《長夜の機微》】:一

【長夜の機微】


 ここ最近で一番の修羅場を迎えている。もちろん、それは凛恋との関係ではなく、アルバイトの仕事だ。

 セックス特集に関する記事は、どの編集さん達もレディーナリーで最も売れる特集ということで、かなり前から記事に関する仕事をしている。ただ、もちろんセックス特集号よりも前の出版号の記事の仕事もしているわけで、編集さん一人一人の同時進行している仕事が通常よりも多い。そして、編集さんの仕事量が増えるということは、俺の仕事量も増えるということだ。


「ダメだ……どう足掻いても終わらない」


 朝、自分の請け負う仕事全てを見た時からそんなことは分かっていた。量的に俺が二人か三人居ないとどんなに急いでも終わらないことは。でも、それでも俺は今まで必死にやってきた。だが、当然終わっていない。

 優先順位をしっかり組んでやって、今日中に終わらせないといけない仕事はやり切れた。でも、明日の朝一に終わっていないといけない仕事がまだ終わっていない。でも、これでも残業三時間をフルに使ってだ。


「多野、今の状況は……よくやったわね」

「古跡さん、でも朝一に必要な書類がまだ終わってなくて……すみません」


 後ろから肩に手を置いて声を掛けてくれた古跡さんに謝ると、古跡さんは真剣な顔で横に首を振った。


「多野が謝ることはなにもないわ。謝るのは無茶な量をやってもらってる私の方よ。ごめんなさい」


 俺に謝った古跡さんは、俺に向けた目を伏せて申し訳なさそうな顔をする。


「ごめんなさい。本当は多野の仕事を他の編集に振りたいんだけど、どうしても他の編集も手が空かないの」

「いえ、古跡さんも朝から会議に出っぱなしでしたし、皆さん見てたら俺より忙しいのは分かってますから」

「……それで申し訳ないんだけど、今日泊まれる?」

「会社にですか?」

「本当に申し訳ないんだけど、多野が言ってた朝一に必要な書類は締め切りをどうしても伸ばせないの。でも、他に手が空いてる人が居なくて……」

「分かりました」

「本当に申し訳ない」

「いえ。でも、少し凛恋に電話してきても良いですか? 今日帰れないって話をしないといけないんで」

「ええ。八戸さんにも私が本当に申し訳ないって言ってたと伝えてくれる?」

「古跡さんが謝ることでもないんですけど分かりました。ちゃんと伝えておきます」


 古跡さんと話を終えて、俺は疲労で重たい体を椅子から立ち上がらせて一度編集部から廊下へ出る。そして、すぐにスマートフォンを取り出して凛恋に電話を掛ける。


『もしもし? お疲れ様。今終わり?』

「凛恋、それが今、編集部全体が締め切りの修羅場で、俺の請け負ってる仕事の明日朝一に必要な仕事が全然終わってないんだ。それで、今日編集部に泊まることになった」

『ええぇッ!? じゃあ、今日帰って来られないの!?』

「ごめん……必死に奇跡を信じて終わらせるように頑張ったんだ。でも、朝から終わる量じゃなくて……」

『一人で寝るの寂しい……』

「ごめん……」

『今日、凡人の大好きなハンバーグなのに……』

「うわぁ~マジか~……」


 凛恋のハンバーグが食べられないなんて、かなりショックだ。


『まあ、ハンバーグは冷凍すれば大丈夫だけど……今日、凡人とエッチ出来ないなんてヤダ……』

「俺だって嫌だよ……」


 背中を壁に預けて何とか立てているくらいの疲労困憊の状況だ。すぐにでも凛恋と一緒にお風呂に入って、それから凛恋にいっぱい癒やしてほしい。


『でも、就職したらそういうこともあるんだよね。今から慣れてないとダメだよね。うん、寂しいけど凡人は遊んでるわけじゃなくてお仕事頑張ってるんだから、私も寂しいの我慢して凡人を支える』

「ありがとう。明日は多分朝一の仕事を提出し終えたら帰れるから。それと、古跡さんが本当に申し訳ないって謝ってた」

『分かった。明日帰る時にはまた電話して』

「ああ、本当にごめんな」

『ううん。凡人、愛してる。チュッ!』

「俺も愛してる」


 そう言って電話を終えて、俺はすぐに編集部へ戻る。泊まり込みが出来て、明日までの時間的な余裕は出来た。でも、余裕が出来たからと言ってのんびりしているわけにはいかない。


「多野くんも泊まり?」

「はい。どうしても終わらなくて」

「いや、あの量を残業三時間までで終わったら異常だよ」


 自分の机に戻ると、机の上に突っ伏した帆仮さんが顔を上げてそう言った。


「でも、今まで多野くんが一度も泊まりをしてないのが異常だったんだよ。今までも結構な修羅場何回もあったのに」

「今回は朝の時点でどう足掻いても無理な量だとは思ったんですけど、やっぱり無理でした」

「だから、無理で当たり前なんだよ。もし終わってたら、私はそれはそれで凹んじゃうし」

「なんで帆仮さんが凹むんですか?」

「だって……私が多野くんの仕事やってた時よりも多野くんの方が仕事出来てるし、それ以上出来てたら凹むよ~。先輩として」


 帆仮さんも相当仕事で疲れているのか、いつになくネガティブな話が多くなっている。


「私が多野くんと同じ仕事をしてた時は定時で帰れたことなんて一度もなかったし、毎回締め切り前は泊まってたもん。でも、多野くんはちょくちょく定時で帰ってるし、泊まりも今日が初めてでしょ? それに、多野くんの場合は他の人の仕事も早めてるし……」

「俺は雑用係ですからね。編集さん達の仕事を円滑にするのが仕事ですから」

「みんな、ちょっと手を止めて」


 帆仮さんと話ながらパソコンのキーボードを叩いていると、後ろから古跡さんの声が聞こえる。その声に振り向くと、椅子から立ち上がっている古跡さんの姿が見えた。


「今月も修羅場だけどもう少し頑張ってくれると助かるわ。そんな状況だけど、ちょっとみんなに報告したいことがあるの」


 そう言った古跡さんは、俺の席まで歩いて来て俺の両肩に手を置いた。


「さっき人事部から連絡があって、多野の内定が正式に決まったわ」

「「「…………エエェッ!?」」」


 古跡さんが言い放った言葉にしばらく間を置いてから、編集部にその驚愕からの声が木霊する。その声は、疲労困憊の頭をグラグラと揺らした。


「ちょちょちょ! 多野くんの内定ってどういうことですか!?」


 真っ先に反応したのは隣に座っていた帆仮さんだった。よっぽど驚いたのか、さっきまで机に突っ伏してだらけていたのに、今は背筋をピンと伸ばして立ち上がっている。


「かなり前から多野には内々に話はしてたの。で、今日やっと人事部から内定通知を出してもらえることになったわ」

「いや! なんでそれを多野くんに話した時に私達に言ってくれなかったんですか!」

「あんた達に言ったら、先走って盛り上がって内定祝いとか開くでしょ。ちゃんと話が通る前にそういうことをされるとややこしくなるからよ。ということだから、仕事に戻って。でもその前に一息休憩入れなさい。夜は長いんだから」


 クスッと笑った古跡さんは、俺の頭を軽く撫でてから「これからもよろしく」と耳元で言って自分の席に戻って行った。

 古跡さんが自分の席に戻って、一瞬シンと静かになった編集部で、俺は一度パソコンを終了させようとした。しかし、指が動く前に隣から軽い衝撃と甘い香りと、二の腕に柔らかい感触を感じた。


「やった! 多野くんと来年も一緒に仕事出来るんだっ!」

「ちょっ、帆仮さん!?」


 なぜか俺に抱き付いた帆仮さんは、なぜか目に一杯涙を浮かべていた。その帆仮さんの涙に戸惑ってどう反応して良いか困る。


「だって……多野くんはてっきり、官公庁に就職すると思ってたから。だから、大学を卒業したら多野くんともう一緒に仕事出来なくなるって思ってたから……だから……良かったよぉ~」


 良かったと言いながらワンワンと泣く帆仮さんに困っていると、帆仮さんの後ろから近付いてきた家基さんが俺から帆仮さんを引き剥がす。


「こら。異性の社員にいきなり抱き付くなんて、女が男にやってもセクハラよ」

「だ、だってぇ~嬉しくて……」


 グズグズと鼻をすすりながら顔を向ける帆仮さんの頭を、家基さんは優しく笑って撫でる。そして、俺に視線を向けてニコッと笑った。


「帆仮の言うとおり、多野くらいなら官公庁にも軽く就職出来たでしょ? それに、官公庁じゃなくても、うちよりも大きな企業に行けたはず。なのに、うちを選んでくれたの?」

「レディーナリー編集部の仕事は俺の天職ですよ。それに、編集部以上に俺のことを大切な仲間にしてくれる職場はないと思ってます」

「嬉しいわね。実は私、年明けに古跡さんに話をしたのよ。絶対に多野に唾を付けといて下さいって。でも、古跡さんが多野みたいな人材を逃す訳はなかったわね」


「家基さんがそう思ってくれて嬉しいです」

「何言ってるのよ。私は多野のこと高く評価してるに決まってるじゃない。もちろん、うちの編集全員がそう思ってるわ。うちの編集全員、多野に修羅場を救ってもらったからね」

「救ってもらったのは俺の方です」


 ワシャワシャと家基さんから乱暴に頭を撫でられながら、俺は気恥ずかしくなってはにかむ。俺は、レディーナリー編集部のみんなに必要とされて、自分がちゃんと価値がある人間だとみんなに言ってもらえて救われた。だから、救った救われたの話をするなら、救われたのは俺の方だ。


「まあそういうことだから、これからもよろしく。まずは、今回の修羅場を一緒に乗り切りましょ」

「はい。よろしくお願いします」


 家基さんに頭を下げると、机の向こう側で平池さんがニヤニヤと笑って俺を見ていた。


「来年からも多野くんをいじれると思うと、お姉さん凄く嬉しい」

「いじりは程々にしてくれると嬉しいですね」

「何言ってるのよ。レディーナリーの愛されキャラをいじらないともったいないでしょ?

 それに多野くんはいじられて輝くタイプだし」


「俺はいじられて輝くタイプじゃないですって」


 俺が平池さんのいじりを回避していると、隣で帆仮さんが「顔洗ってきます」と言って席を立つのが見えた。


「帆仮さん、多野くんのこと本当に可愛がってたから嬉しいんだろうね。いつも多野くんがうちに就職してくれれば良いのにって言ってたし」

「そうなんですか?」

「そうそう。それに、美優だってよくそう言ってたのよ?」

「――ッ!?」


 平池さんの隣で黙っていた田畠さんが、ビクンと体を跳ね上げて固まる。そして、俺を見てからその真っ赤な顔を平池さんへ向けた。


「そんな話してないでしょ?」

「嘘はダメよ。いつも言ってるけど、一緒に飲みに行くといつも二言目には多野くん多野くんって言ってるじゃん。真剣に多野くんをうちに引き止めるにはどうすれば良いか会議したでしょ? 覚えてないとは言わせないわよ」

「…………」


 真っ赤な顔のまま黙ってしまった田畠さんを見れば、平池さんが言ったことは事実らしい。でも、俺を必要としてくれていたことは凄く嬉しかった。


「帆仮さんは多野くんを後輩として可愛がってたけど、美優は多野くんがまるで先輩みたいに懐いてたからね」

「な、懐いてはないよ!」

「うちに配属された当初とか今よりベタベタだったじゃん。まるで親鳥の後ろを付いて歩く雛みたいにちょこちょこついて回って」


「そ、そんなことしてないって!」

「してたしてた。まあ、その時から多野くんのこと、仕事出来て優しくて良い人だって褒めてたもんね~、美優は」

「確かに、それは言ったけど――」

「それに、背が高くて格好良くお兄ちゃんみたいとも言ってたわね」


 人の悪い笑みを浮かべた平池さんがそう言うと、視線の先に居る田畠さんの顔が真っ赤に熟したりんごという表現がぴったりなくらい真っ赤になって、俺と目が合った瞬間に俯いた。


「まあ、多野くんって見た目大人っぽいし、私達が入社した時は仕事バリバリ出来てたし」

「確かにバリバリやってましたね、雑用ですけど」

「いや、もうあの時から雑用の域は越えてたって。めちゃくちゃ凄い雑用の域だった」

「いや、結局雑用のままじゃないですか」


 ケタケタ笑う平池さんを見ながら、それとなく視線を田畠さんに向けてみる。すると、僅かに顔を上げた田畠さんと目が合った。


「さて! 私もちょっと息抜きしてこよう。多野くんも外の空気吸ってきたら? 一度外の風浴びてくると頭がすっきりするよ? 残業三時間の後の休憩も昼休憩と同じくらい取らないといけないから」

「そうなんですね。じゃあ、ちょっと夜食買ってこようかな」

「美優も行ってきたら? さっき目薬切れてるって行ってたでしょ? 二四時間営業のドラッグストアはあるけど、夜中に女一人で出るのは怖いって言ってたじゃん」


「え? あっ……う、うん。でも……多野くんに迷惑は――」

「一緒について行きますよ。その代わり、この時間でも帰る美味しい夜食の店教えてもらえますか? まあ、コンビニでも良いですけど」

「うん! じゃあ、私がよく行く夜もやってるパン屋さんで良い?」

「はい。よろしくお願いします」


 俺は田畠さんと行き先を決め、一緒に月ノ輪出版の本社ビルから出る。そして、外の風を浴びた途端、俺は思わずため息を吐いた。


「多野くん、朝から頑張りっぱなしだったからね。大丈夫?」

「はい。疲れてはいますけど、仕事に猶予が出来てホッとしてます。それに誰にも仕事を任せなくて良いのもホッとしました。明日の朝一に必要な仕事だったから、俺がやらなきゃ誰かがやらないといけないんで」

「多野くんは責任感が強いからね。でも、そんなに気にしなくて良いんだよ。家基さんも言ってたけど、私達は毎日多野くんに助けてもらってるんだから」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると心が楽になります」


 日が沈んで人通りの少ない歩道を歩きながら、俺は田畠さんに頭を下げる。すると、恥ずかしそうにはにかんだ田畠さんは正面を向いた。


「さっき、絵里香が言ったことは適当に聞いててね。絵里香って面白可笑しく話を盛るから」

「分かってます。平池さんはそうやって、いつも会話を盛り上げてくれてますからね。でも、田畠さんも俺が編集部に残ってほしいって言ってくれたって聞いて嬉しかったです」

「改めてお礼を言われると恥ずかしいな。私が編集部の仕事を続けられてるのは多野くんのお陰だから、これからも一緒に編集部で仕事を続けてほしいって思ってた」

「田畠さんが編集部で仕事を続けられてるのは、田畠さんが努力してるからですよ。目玉記事の担当だって、その努力の結果なんですから」


 流石に俺のお陰とまで言うのは、平池さんと同じくらい話を盛っていると思う。でも、そこまで行ってもらえるのは嬉しかった。


「ううん、そんなことないよ。本当に私は多野くんが居なかったら辞めてた。今の自分だったらそんなことでって思うけど、前にライターの名前を間違えてしまった時、あの時……私、本当に続けられないって落ち込んだの。でも、多野くんと買い出しに出たでしょ? その時に色々話して凄く気持ちが楽になったの」

「あの時は大した話はしてませんでしたけど」


「多野くんが普通に接してくれたから良かったの。普通に接してくれた多野くんから、沢山多野くんの優しさを感じて、私もまた頑張ろうって思えた。ありがとう」

「お礼を言われると困りますけど、田畠さんが辞めないで居てくれて良かったです。編集部の若手組には、落ち着きのある田畠さんは絶対に必要ですから」

「絵里香も帆仮さんも明るいもんね。あっ!」


 突然そう言って駆け出した田畠さんは、クレープ屋に向かう。その田畠さんを追い掛けてクレープ屋の前に行くと、田畠さんがニコニコ笑って振り返った。


「さっき言ってた買い出しの時に食べたクレープ覚えてる?」

「ああ、そう言えばこのお店でしたね。確か俺がチョコバナナで田畠さんがいちごホイップ」

「そうそう。今日はその時と逆にしてみない?」

「良いですね」

「ご馳走様です」


 先輩である田畠さんの厚意に甘えておごってもらい、俺は出来上がったいちごホイップクレープを受け取る。

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