【二七五《夢魘(むえん)の恐怖》】:二

「凡人はちょっと油断し過ぎよ? あんな可愛い理緒にディープキスされたら、大抵の男はコロっていっちゃうんだから」

「そんなことは――」

「理緒が高校の頃、色んな女子から彼氏を奪ってたでしょ? それに関しては、全く擁護出来ない。高校の、特に一年と二年一学期は本当に理緒のこと嫌いだったし」

「今では違うんだろ?」

「今は、理緒が凡人のために協力してくれたし、理緒にも良いところがあるって分かってるから。……でもなぁ~、今はチョームカつく。私が隙を作ったのも悪いけど、そこに付け込もうなんて最低じゃん。そうしたいくらい、そうする覚悟を持つくらい凡人のことを好きなのかもしれないけどさ……」

「俺が好きなのは凛恋だけだから」


 凛恋を安心させるように言いながらシャツの裾を捲って手を入れると、凛恋がクスッと笑って俺に顔を近付けて覗き込む。


「目がチョーエロい目してる」

「そんな目してるか?」

「してるしてる。それに、手付きもやらしいし」

「先にシャツの中に手を入れてきたのは凛恋の方だろ?」

「だって、凡人と同じベッドで横になるってシチュエーションで我慢出来るわけないじゃん。それに、私は今、チョー理緒に対する嫉妬に燃えてるし。だから、さ……良いでしょ?」

「ああ。もちろん」


 凛恋の甘い誘いに乗って、俺は凛恋の唇をゆっくり優しく塞ぐ。そして、腰を撫でていた手を背中に回して自分に引き寄せた。




 気が付くと、俺はレディーナリー編集部のフロアに立っていた。ブラインドの窓から見える外は夜のようで空が真っ暗だった。


「久しぶりだな、多野」

「えっ?」


 突然その野太い男の声が聞こえたと思ったら、俺が視線を向けている編集部の中央にぼんやりと白い靄みたいなものが漂い始め、それがくっきりとした人型になったと思ったら、一気にその靄が見覚えのある人の姿に変わる。俺はそいつの顔を見た瞬間、両手の拳を握り締めた。その顔を忘れるわけがない。

 そいつは、池水渡だった。その池水が高校の頃、凛恋に乱暴をしようとして凛恋は一生消えない心の傷を負った。その傷を負わせた張本人の顔を忘れるわけがなかった。


「なんでお前がここに」

「お前の女を犯しに来たんだよ」


 薄ら笑いを浮かべながら、平然と、ぬけぬけとそう言い放った池水に睨みを返すと、池水は俺に邪悪な睨み顔を返す。


「あの時、お前が邪魔しなければ最後までやれてたのになぁ~」

「それ以上口を開くな」

「俺はお前がうちの学校に転学する前から反対だったんだ。詐欺師の息子を転学させるなんて正気じゃない」

「お前だって正気を失った犯罪者だろうが。それに、こんなところに――」

「世の中って案外楽勝だよな~。執行猶予を過ぎれば、刑務所に入らなくて良いんだから」

「俺がお前を凛恋に近付けさせると思ってるのか?」

「お前じゃ何も出来ない。お前が俺を止められたのもたまたまだ」


 池水の冷たく不気味な声に、俺は一気に不安を煽られる。池水の言う通り、当時俺が池水の卑劣な行為を止められたのはたまたまだ。たまたま凛恋が隣に寝ていないことに気付いて起きられた。もしあの時、俺が目を覚まさなかったと思うと内臓を吐き出してしまいそうな吐き気を感じる。


「ところで、ここが次のお前の居場所か?」


 編集部のフロアを見渡した池水は、俺に馬鹿にしたような笑いを向ける。


「塔成大に入学して、出版社として大手の月ノ輪出版に内定。順調にエリートコースを歩いてるな。月ノ輪出版の人間には言ったのか? 自分が詐欺師の息子だって」

「編集部の人達はそんなことで俺を判断するような人達じゃない」


 レディーナリー編集部のみんなを馬鹿にする池水に、更に強い怒りを抱いて両手の拳を握り締める。


「俺を殺したいって顔だな。でも、お前じゃ無理だろ? 前も俺を殺し損ねてるからな」

「お前なんて殺す価値もない」

「そう言ってビビってるだけだろ? お前には人を殺せる勇気なんてない」


 中央から歩き出して俺の机まで歩いて行った池水は、机を見てまた不気味に笑う。そして、俺の机を思いっ切り踏み蹴りした。だが、踏み蹴りされた机は音を立てず、まるでそこに元々なかったかのように消え去った。


「これで、ここにお前の居場所はなくなった」

「机がなくなったくらいで俺の居場所はなくならない」

「そうだよな。元々、お前に居場所なんてないんだ。詐欺師の息子のお前には」


 分かったような口を利く池水の右手には、いつの間にかナイフが握られていて、そのナイフを顔の前に持っていき銀色に光る刃を見ながら笑った。


「今度こそ、お前の女を犯してやる。ただ、今度はお前の目の前でな」


 池水がそう言った直後、池水の左脇に白い靄が漂い、またそれが人に姿を変える。ただ、その姿が変わった人は凛恋ではなかった。


「田畠……さん?」

「キャッ!」


 靄が田畠さんに姿を変えた瞬間、池水は田畠さんの体を自分に抱き寄せて、田畠さんの顔の前に右手に持ったナイフの刃を向けた。


「田畠さんを離せッ!」


 なぜ田畠さんが現れたのかは分からなかったが、俺は池水にそう叫んでいた。


「離せと言われて離すと思うか? 八戸も良かったがこの女も良い女だな。気が弱そうで、犯されても泣き寝入りしてくれそうだ」

「池水ッ! 今すぐその薄汚い手を離せッ!」

「良いな~、その怒り狂った顔。そういう顔を見たかった。俺はお前のことがずっと気に食わなかった。露木先生もお前に陶酔していたし、八戸もお前を好いていた。それに、お前のせいで俺は人生を台無しにされた」


 全部、池水の逆恨みで池水自身に都合の良い言葉だ。そんな言い分が通じるわけがない。


「それで、このお前の新しい女をやっと犯せる」

「田畠さんは俺の同僚だ」

「違うな、お前はこの女が好きなんだ」


 その池水の断言する言葉に、俺は怒りは浮かんだが言葉は返さなかった。

 あの時、田畠さんの笑顔を見て自分の目に見えている景色の時が止まった感覚、それは確かに俺が凛恋を好きだと気付いた時に感じた感覚と同じだった。でも、俺はそれを認めたくなかった。それを認めれば、俺は自分の浮気を認めることになる。

 俺が好きなのは、今も昔もこれからも凛恋だけだ。田畠さんのことは良い人だと思っているが、俺は田畠さんのことを好きだとは思ってない。


「好きだと思っていないと思いたいんだろ? 好きだと思ったら、お前は八戸を裏切ることになるからな」


 まるで俺の心を見透かしたように、笑いながら池水が言う。その池水の持ったナイフが田畠さんに近付くと、田畠さんは真っ青な顔をして眼前にあるナイフを見続けた。


「この女のことを好きじゃないんだったら、この女がどうなろうと関係ないよな?」


 そう言いながら、池水が右手に持ったナイフから手を離すと、ナイフは宙に浮かんで刃先を田畠さんに向け続ける。そして、自由になった右手で、池水は田畠さんの胸を服の上からまさぐった。


「やめてっ……」


 池水の卑劣な行為に田畠さんは消え入りそうな抵抗の声を漏らす。その田畠さんを助けようと俺は足を踏み出した。しかし、その瞬間、田畠さんの眼前にあったナイフがひとりでに動き出し、ゆっくりと田畠さんの着ていたブラウスを切り裂いた。


「もうちょっと近付いてくれたら、下着まで切れたのに残念だな。多野、この女の胸、意外とデカいぞ。それに触り心地が良い」

「池水。それ以上田畠さんに触れてみろ。ただじゃ――」

「お前には何も出来ない」


 俺の言葉を全く気にしない池水は、田畠さんの胸から手を離し、今度はスカートの裾に手を入れた。


「いやぁ……助けて……」


 目の前で池水に体をまさぐられている田畠さんが涙を浮かべて助けを求めている。その状況をこれ以上見続けるわけにはいかない。だから、俺はまた足を踏み出した。


「あーあ」


 俺が足をまた一歩踏み出した瞬間、その池水の半笑いの声が聞こえ、目の前でまたひとりでにナイフが動いた。そして今度は、田畠さんのスカートをズタズタに引き裂いた。


「ブラジャーとセットの白い大人しめのフリルが付いたパンツか。俺の好みはもっと派手な下着なんだがな~」


 ボロボロになった田畠さんのスカートを捲った池水が気色悪い笑みを浮かべながら口にする。

 俺が一歩田畠さんに近付く度に、ナイフが勝手に動いて田畠さんの服を無惨な姿に変えていく。だから、また俺が近付けば今度はもっと田畠さんにとって耐えがたい姿に変えてしまう。だから……躊躇って足を踏み出せなかった。


「だから言っただろ。お前には何も出来ないって。今度こそ、お前は自分の女を犯されるしかないんだ」

「田畠さんは同僚だ」

「そう思いたいだけだとも言っただろ。お前はこの女のことが好きで好きで堪らないんだ。だから、俺からこの女を助け出そうとしている」

「誰だってお前みたいな最低な人間から助けるに決まってる!」

「最低なのはお前だろ? お前のことを一途に好きだと言う八戸を裏切ってこの女に浮気している。詐欺師の息子だから浮気してるのも隠せる自信があるのか?」

「俺は浮気なんてしてないッ!」

「だったら良いだろ? この女がどうなろうと」

「キャアッ!」


 目の前で、池水は田畠さんを床に引き倒して馬乗りになった。そして、田畠さんのパンツを掴み膝下まで一気に引き下ろした。その光景が、俺の記憶にある光景と重なった。

 薄暗く狭い生徒指導室で、同じように池水が凛恋を押さえ付けた光景と。

 二つの光景がピッタリ視界の中で重なった瞬間、俺の中に過去に感じた感情がフラッシュバックする。

 そのフラッシュバックした感情が、自分の中ではっきりとした殺意に変わった瞬間、俺の目の前に黒光りした物体が現れた。


「助けてッ! イヤァッ! 多野くんッ! 多野くん助けてッ!」

「諦めろ! あいつは人一人も殺せない意気地無しだ。黙ってお前が犯されるのを見てることしか出来ない腰抜けだ。助けられるわけがない!」


 耳にはその、助けを求める田畠さんの悲鳴と、田畠さんと俺を嘲笑う池水の醜悪な声が聞こえる。でも、俺はその声を聞きながらも、視線は二人ではなく目の前に浮かぶ物体に向けていた。

 黒光りしたオートマチック式の拳銃。その拳銃の使い方なんて分からない。でも、近付いたらナイフが動くこの状況で池水を止めるにはそれを使うしかない。


「お前には撃てない」


 田畠さんを押さえ付けている池水が振り返り、拳銃の向こう側からニヤリと笑った。


「それを使うってことは、お前が八戸を裏切りこの女に浮気してることを認めることになるぞ。それでも良いのか?」

「俺が好きなのは凛恋だけだ」

「だったらなぜ、八戸を好きだと思った時と同じ感覚を抱いた?」

「そんなの関係ないッ!」

「可愛いと思ったんだろ? この女の笑顔を見て、心底可愛いと、好きだと思ったんだろ?」

「そんなこと思ってない!」

「だったら、そのまま見てろ。お前が好きじゃないと言い張るこの女が、お前が憎んで止まない俺に犯されるところを」


 池水の話は暴論だ。好きじゃないからと言って、女性が男に乱暴されそうになっているのを見て見ぬ振りなんて出来る人間がこの世に居るわけがない。少なくとも、俺はそういう人間じゃない。なのに……池水の言葉に、俺は手を拳銃に伸ばすことを躊躇わされた。

 俺が好きなのは凛恋だけだ。俺が好きで付き合って、一度別れても好きで、ずっと好きで居続けて、命を懸けても守りたいほど好きなのは凛恋だけだ。そう言い切れるのに、池水の言葉に惑わされた俺の心は、目の前の拳銃に手を伸ばさせようとしない。


 拳銃を手に取って池水に向かって撃てば、俺は池水を止めて田畠さんを守れる。池水は凛恋に乱暴しようとして、俺が本気で殺そうと思うほど憎んだ相手だ。だから、躊躇う理由なんてない。それなのに、拳銃を撃ったら田畠さんを好きだと認めるという池水の言葉に動揺させられる。


 そんなはずない。俺が好きなのは凛恋だけだ。俺が好きなのは、ずっと凛恋ただ一人だ。そんな俺が、凛恋以外の人を好きになるなんてあり得ない。


「もう我慢の限界だな~。そろそろ始めるか」

「イヤァァアアアアアッ!」


 池水の冷淡な言葉と、田畠さんの悲痛な悲鳴が聞こえた瞬間、俺は目の前にあった拳銃を掴み両手で構えて池水の後頭部へ向ける。


「お前には撃てないって言っただろ」


 池水の声が耳に聞こえる。でも、俺は歯を食いしばって真っ直ぐ狙いを定める。そして……右手の人さし指で引き金を引いた。




「――ッ!?」


 拳銃の引き金を引いてけたたましい銃声を聞いた直後、俺は体を跳ね起こさせる。そして慌てて周囲を見ると、そこは電気を消して真っ暗だが部屋のベッドの上だった。

 さっきまで見ていたのは全て夢だった。編集部に池水が居るわけがないし、ナイフが勝手に動き出すわけもない。だから、冷静に考えれば夢に決まっていた。でも、夢の中の俺はまるで現実のように焦り……池水の言葉に惑わされて葛藤した。


 拳銃を撃てば田畠さんを好きだと認めるという池水の暴論に惑わされていた夢の中の俺は、結果的に拳銃を撃った。その後、池水と田畠さんがどうなったかは現実の俺には分からない。


「凡人? 大丈夫?」

「起こしてごめん」


 隣で凛恋が体を起こし心配そうに俺に声を掛けてくれる。急にベッドの上で跳ね起きたのだ。凛恋を起こしてしまわないわけがない。


「ううん。……凡人、真っ青な顔してる。それに、こんなに汗掻いて。怖い夢を見ちゃった?」

「ああ……嫌な夢を……」

「大丈夫。私が凡人のこと守るから」


 凛恋が隣からギュッと俺の体を抱き締めてくれる。そう凛恋が抱き締めてくれたことで、俺は自分の体が震えていたことに気付き、凛恋が抱き締めてくれたお陰でその震えが止まるのを感じた。


「横になろう」

「ああ」


 再びベッドの上に体を寝かせると、凛恋がベッドの中でも強く抱き締めてくれる。そして、優しく俺の頭を撫でてくれた。


「大丈夫、大丈夫だよ。私が側に居るから」

「凛恋……キスしたい」


 慰めてくれる凛恋の手を握って甘えて言う。すると、凛恋は俺が握った手を握り返してくれながらニッコリ優しく笑ってくれた。


「この世の中で、凡人だけだよ? 私にキス出来るの。しかも、許可なしでオッケー」


 凛恋はおどけながらそう言ってくれる。それは、俺が嫌な夢を見たということを掻き消そうとしてくれる凛恋の優しさだった。俺はその凛恋の優しさに甘えて、がっつくように凛恋へ唇を重ねた。

 そして……夢の全てを忘れるために凛恋へ没頭するように深く熱くキスをした。

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