【二七六《磨りガラスの先は》】:一

【磨りガラスの先は】


 池水に田畠さんが襲われるあの夢の後は全く夢を見ない。そのことに俺は安心していた。

 見て楽しい夢じゃなかったのもある。だけど、俺は心を惑わされることも嫌だった。

 俺が好きなのは凛恋だけだ。それを夢の中でも惑わされるのは良い気分がすることじゃない。

 確かに田畠さんの笑顔は可愛いと思う。でも、可愛いと思うことがイコールで好きになるわけがない。


「多野くん?」

「は、はい! すみません!」


 思考の外から声が聞こえて、俺は条件反射でそう答える。そして、視線を向けた先にはクスッと笑う田畠さんが立っていた。


「少し休憩した方が良いよ。お昼ご飯食べた後からずっと頑張ってたし」

「すみません。ありがとうございます」


 田畠さんがコーヒーの入ったマグカップを俺の机に置いてくれて、田畠さんは自分の椅子を持ってきて俺の隣に座る。


「今、座談会で使う予定のお店をリストアップしたところ。それと毒舌男性編集のコーナーに来た質問で、どれを取り上げるかも選定してる」

「俺も見てますけど、結構エグい質問が多くて困ってます……」


 俺はメールチェックの手を止めて田畠さんが淹れてくれたコーヒーを飲む。

 セックス特集号に載せる座談会記事で、読者からの質問をいくつか取り上げてトークテーマにする予定だが、セックス特集号の記事なのだから、当然セックスに関する質問じゃないといけない。でも、その適した質問内容に絞るとかなり内容がエグい質問ばかりだ。


「質問する側もこっちの顔が見えないから結構遠慮なしに質問してくるよね」


 両手でマグカップを持ちながら苦笑いを浮かべた田畠さんはほんのりと頬を赤く染める。


「地元の両親に目玉記事の話をしたら凄く喜んでくれて、お父さんの方は美優はうちの誇りだなんて言い始めちゃって」

「そりゃあ、有名雑誌の目玉記事を担当するのは凄いことですからね。でも、日頃の田畠さんの頑張りを見てたら当然ですよ」

「そ、そうかな」

「仕事に対して真摯なのが一緒に仕事してると分かりますよ。丁寧ですし、仕事の指示書が一番分かりやすいのが田畠さんですから。あっ、でも、指示書はもう少しざっくりで良いですよ。指示は丁寧ですけど、あれじゃ一つ作るのにも時間が掛かるでしょ」


「それは家基さんと古跡さんにも言われた。多野くんは仕事出来るし理解力も高いから、細かく説明しなくても大丈夫、多野くんを信じなさいって。多野くんのことを信じてないわけじゃないけど、適当な仕事をしてるって多野くんに思われたくなくて。でも、今度から多野くんに甘えさせてもらおうかな」

「甘えて下さい」

「でも、これでも結構甘えてる方なんだけどね。多野くん、本当に気が利くから毎日助けてもらってるし。今日もありがとう。お陰で今日も余裕を持って仕事が出来てるし」

「まあ、そのための雑用係ですから」


 コーヒーを飲みながらおどけて言うと、田畠さんはクスッと笑った。


「多野くんって私のことは褒めるのに自分が褒められるの苦手だよね」

「まあ、褒められるようなことをしてるつもりがないですからね。褒められることに違和感があって困るって感じです」

「そういうちょっと強がってる感じの多野くんを見てると安心する」

「安心ですか?」

「いつも仕事が出来て助けられてばっかりで、私より年下なのに年上っぽいから。だから、年下らしいところを見ると安心するの」

「俺、年下っぽくないですか?」


 年下っぽくないと言われても、年下らしくしていない自覚がないし、年上っぽく振る舞ってるつもりもない。そもそも、どういう振る舞い方が年下らしいんだろう。


「ちなみに、年下らしいってどういうのが年下らしいんですか?」

「うーん。甘える時は甘えることかな~。でも、ご馳走する時はちゃんと甘えてくれるし。多分、多野くんはしっかりし過ぎてるから年下っぽくないんだと思う」

「ってことは、もうちょっと抜けた方が良いってことですか?」

「それはそれで多野くんの良いところが消えちゃうから、今のままの多野くんで良いよ。時々、年下の可愛いところが出るくらいが」


 年下の可愛いところというのもよく分からないが、田畠さんがそのままで良いと言ってくれているということは、今までと変わらず普通に生活してれば良いんだろう。


「多野くんとこうやって二人で話せるの久しぶりだよね」

「そうですか?」

「いつも絵里香や帆仮さんが居るから」


 今日は編集部のフロアに居る編集さんが少なく、珍しく今は俺と田畠さんの二人だけだった。


「でも、もうすぐ巽さんが来る時間だから。巽さんは多野くんにべったりだし」

「まだまだ不安に思うことがあるんじゃないですか?」


 田畠さんの言った「べったり」が適当な言葉かは分からないが、ことある毎に巽さんが俺の名前を呼んだり俺に聞きに来たりすることは多いと思う。でも、それはやっぱりまだまだ仕事に対して不安なところがあるからだろうし、全く何も聞かれないよりはよっぽど良いことだと思う。


「でも、巽さんを見てると入社したての自分を思い出すんだ。今でも多野くんに頼ってるけど、入社したての頃の私は多野くんに頼りっぱなしだったし」

「そうでしたっけ?」

「うん。同性の先輩達より多野くんに頼ってた。他の先輩達よりも多野くんの方が声をかけやすくて。それに、多野くんは優しく教えてくれたり手伝ってくれたりしたから尚更かな」


 マグカップを両手で握る田畠さんは、俺の顔を見て柔らかく微笑む。


「ありがとう。今日まで編集部で頑張って来られたのは、多野くんが居てくれたからだから」

「なんかその台詞、これから辞めちゃうみたいな言い方ですけど?」

「辞めないよ~。レディーナリー編集部以上に良い仕事場はないから。これからもよろしくね」

「はい」

「おはようございます」


 田畠さんと話をしていると、出勤して来た巽さんが俺の隣に来る。すると、田畠さんが巽さんの座る場所を空けるために自分の机の前に戻った。


「巽さん、おはよう」

「おはよう」


 田畠さんと一緒に挨拶をすると、巽さんは俺の机の端に置かれた書類の束を持ち上げる。


「多野さん、ありがとうございます。仕事別に仕分けしてもらって」

「今日は余裕があったからね」

「早速やってきます」

「よろしくお願いします」


 仕事に取り掛かった巽さんを見送ると、机の向こう側に居る田畠さんが視界に入る。その田畠さんは巽さんに視線を向けていて、俺はその田畠さんから視線をパソコンの画面に戻した。




 仕事を片付けている間にちらほらと編集部へ編集さん達が戻ってくる。そして、見慣れた賑やかな編集部の風景に戻った頃、定時の時間になった。


「多野、悪いわね」

「いえ、凛恋には残業になるって言ってるので」


 古跡さんに声を掛けられて答えると、俺の両肩を古跡さんが揉む。


「多野、今日も買い出しをお願い出来る?」

「はい。行ってきますね」

「あっ! 多野さん、私も行きます!」

「巽さんは残りの仕事を――」

「いえ、もう仕事は終わったので!」

「そうなんだ」


 巽さんの仕事はそれなりの量あったはずだが、もう終わっているのなら断る理由はない。


「じゃあ一緒に行こうか」

「はい!」


 巽さんと一緒に外へ出ていつものサンドイッチ屋まで歩き出す。すると、すぐに隣に並ぶ巽さんの声が聞こえた。


「最近、多野さん一人で買い出しに行ってますよね?」

「ああ。一人で買いに行ける量だからね」

「私は結構二人で行くの楽しかったんですけど?」


 両手を後ろに組んだ巽さんは、横から俺の顔を覗き込みながらそう言う。

 巽さんが入り始めの頃に買い出しに行っていたのは、慣れない職場で巽さんが気疲れしないようにと考えてのことだった。でも、今は巽さんも大分慣れたし、わざわざ一人で良い買い出しを二人で行く必要はない。


「今日、凄く早く終わってたね。結構量があったのに」

「多野さんと買い出しに行きたくて凄く頑張りました」

「別に行って帰ってくるだけなんだけどね」

「編集部だと仕事の話しか出来ないじゃないですか。それに休憩時間はみんなでワイワイ話してるから、二人で話すことはないですし」

「仕事以外の話って言うと、大学の話とかかな~。巽さんは大学はどう?」

「最初の頃は高校の時と講義の取り方で戸惑いましたけど、今は慣れましたね。それに高校の頃より生活に余裕が出来た感じがします。一人暮らしだと親にうるさく言われませんし」

「ホームシックとかならなかった?」

「全然なりませんでした」

「そうなんだ」


 凛恋はこっちに来た日にホームシックになって俺に甘えていた。だから、巽さんもホームシックになっているのだと思っていた。でも、やっぱり人それぞれなのかもしれない。


「多野さんは最近どうなんですか?」

「最近大学には行ってないな~。もう単位を取り切ってるから」

「じゃあ、彼女さんとはどうなんですか?」

「あまり変わったことはないかな」


 喧嘩をしたことは俺と凛恋にとっては大きな出来事だったが、それを巽さんに話す必要はない。喧嘩のことを話さないと考えると、巽さんに話せるようなことはない。


「多野さんって年上と年下、どっちが好みですか?」

「え? 年上と年下?」

「もちろん恋愛対象としてですよ?」

「うーん。年齢で人を好きになったことなんてないけど、彼女が同い年だから恋愛対象は同い年になるのかな?」

「え~、ちゃんと考えて下さいよ~」


 俺の答えでは納得出来ない様子で、巽さんは軽く唇を尖らせて不満そうな顔をする。

 年上か年下かと言われても、俺が今まで好きになったのは凛恋しか居ない。それに、俺は凛恋を同い年だから好きになったわけじゃなく、凛恋の人柄を好きになった。まあ……凛恋はめちゃくちゃ可愛いって言うのも好きな理由にはあると思うけど。


「そう言う巽さんはどうなの?」


 返答に困った俺は巽さんに質問で返した。それに、巽さんはニコッと微笑みを返して言った。


「年上です」

「年上か~。年上との出会いあるの?」

「合コンみたいなことは何度かありましたよ。でも、みんな年上っぽくなかったです。全然落ち着いてなくて子供っぽいって言うか」


 巽さんが出会った年上がどういう人達かは分からないが、合コンに参加する大学生の男子なら、飾磨みたいなチャラい大学生が真っ先に頭に浮かんでしまう。そのイメージが偏見なのは分かっているが、巽さんが出会った年上の人達がそのイメージ通りだとすると、落ち着きとはほど遠い人達なのは予想出来る。


「私は多野さんみたいに大人っぽい年上の人が良いな~」

「俺みたいな人間は性格が捻くれてるから止めといた方が良いよ」


 俺みたいな人が良いと言われても上手い返し方が浮かばず、無難に自虐的な返しをするしかない。


「そうやって照れ隠しする多野さんは可愛いですよね。ちょっとからかいたくなっちゃいます」

「巽さんにまでからかわれたら編集部で逃げ場がなくなっちゃうな」

「多野さん、凄く可愛がられてますよね。特に家基さんと古跡さんから。あと、平池さんも多野さんをよくいじってるの見ます」

「家基さんも古跡さんも平池さんも姉御肌なところがあるからね。俺だけじゃなくて他の人にもああいう感じだよ」


 そんな話をしながらいつものサンドイッチ屋に着いて、古跡さんが注文していたサンドイッチが出て来るのを待ち、サンドイッチを受け取って再び月ノ輪出版に向かって歩き出す。


「多野さんとはゆっくり二人で食事しながら話したいな~」

「まあ、話す機会はいくらでもあるよ」


 流石に二人で食事をしながらというのは、凛恋に変な心配をさせてしまう。帆仮さん達に昼飯をおごってもらったことは何度かあるが、その時とはちょっと話が違うと思う。


「ですよね~」


 俺がやんわり断るのを分かっていたのか、巽さんは明るく笑って答えた。

 恋人が居るからと言って異性との交流を絶たなければいけないわけじゃない。実際、希さんをはじめとして、俺には異性の友達が何人か居る。その異性の友達の大半は凛恋の友達から友達になった人も多い。

 空条さんと宝田さんは、凛恋とは関係ない出会いから仲良くなった友達だ。でも、二人は個人的に食事に誘ってくることはなかった。


 きっと巽さんも普通に友達として仲良くなりたいんだろうが、それが男女だと難しい。

 男女の友情があるかないかは色んなところで議論されているだろうが、俺はあると思っている。ただ、現実にそれを成立させるのは難しい。

 俺にとって一番大切なのは凛恋だ。その凛恋を心配させないためなら、成立するかもしれない友情より凛恋を取る。

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