【二七五《夢魘(むえん)の恐怖》】:一
【夢魘(むえん)の恐怖】
俺がレディーナリーのワンコーナーとしてやっている毒舌男性編集者Tのコーナーは、読者からの質問に短く答える一問一答方式で小さなコラムになっている。俺は読者の質問に、素直に思ったことを返しているだけでしかない。もちろん、返しに使う言葉がきつ過ぎないように考えはするが、それでもズバリと言うのが人気らしい。
帆仮さん曰く「レディーナリーの名物コーナーになった」というその毒舌男性編集者Tのコーナーだが、それについて俺は古跡さんに呼び出された。
「多野、今年もセックス特集の時期が近付いて来たの」
「はい」
俺は淡々と答えるが、仕事だから仕方ないとは言え、内心ではあまり女性の古跡さんと面と向かって話したい話ではない。それに隣に立っている田畠さんの目もある。
セックス特集というのは、大体毎年夏頃のレディーナリーで決まって出版される恒例の特集号のことだ。その特集号では、女性のためのセックスをテーマに記事を掲載する。
「毒舌男性編集者Tのコーナーについての話じゃなかったんですか?」
「その通りよ。セックス特集で掲載する毒舌男性編集者Tのコーナーについてだけど、以前から読者の要望が多かった一問一答のコラム記事から、座談会方式の記事にしようと思うの」
「座談会方式、ですか?」
「そう。うちを愛読してくれてる読者の方々は、セックスについて毒舌男性編集に語ってほしいらしいの。それに関する要望メールがこれ」
右手に持った分厚い紙の束を真面目な顔で俺に差し出す。その紙を捲って、誠実な要望や眉をひそめるような文体のメールもある。
「今回、毒舌男性編集者Tの記事にページを割くつもり。目玉記事の一つにするわ」
「凄い! 多野くん! やったね! 目玉記事なんて!」
古跡さんの話を一緒に聞いていた田畠さんが、自分のことのように喜んでいる。その田畠さんの顔をマジマジと見て、俺は内心ホッとした。
この前、田畠さんにパンを貰った時、パンを食べる俺を見て田畠さんは微笑んだ。その笑顔を見た瞬間、俺は時が止まる感覚を抱いた。その感覚と同じ感覚を、俺は昔感じたことがある。
凛恋と付き合う前、凛恋の笑顔を見た時と同じ感覚だった。俺はその時、凛恋の笑顔を見て時が止まることで、自分が凛恋を好きだと気付いた。でも、今はいたって普通に時は流れている。だから、ホッとした。
「座談会のメンバーは二人に帆仮と平池を合わせた四人で良いわ。四人は年も近くて仲が良いし、気兼ねなく話せるでしょ」
「いや……古跡さん、俺だけ男なんですけど……」
古跡さんは事も無げに言うが、セックス特集の記事の座談会で女性三人に対して男一人というのは流石に辛いものがある。
「そう。じゃあ、田畠と二人でする?」
「いや……それはそれでもっと気まずいと言うか……」
「多野個人の話は当然一切無しで良いわ。読者の質問に対して女性男性双方の意見が欲しいの。読者の中で要望が多いし、その期待に応えたい」
読者の期待に応えたいという古跡さんの気持ちは分かる。しかし、やっぱり内容が内容だけに、何も考えずに頷けない。
「今回の記事、担当は多野じゃなくて田畠に任せようと思ってるの」
「えっ!? わ、私ですか!?」
古跡さんの話を聞いて田畠さんは驚いた、声を上げる。その田畠さんを驚かせた古跡さんの話を、俺は田畠さんと同じように驚く反面、納得もしていた。
田畠さんは入社二年目の若手社員で、その若手社員に特集号の目玉記事を担当させるのはかなり大抜擢だと言える。でも、田畠さんの日頃の頑張りと仕事に対する真摯さを見れば、大抜擢されるのも納得出来る。
「田畠さんが担当なら座談会の件を受けます」
「えっ?」
隣で田畠さんがキョトンとした目で俺を見る。
「そう。受けてくれるのね。田畠は、早速作業に入って。多野には少し話があるから」
「は、はい! 絶対に良い記事にしてみせます!」
「期待してるわよ」
元気良く頭を下げて返事をした田畠さんを見送った古跡さんは、俺に視線を向けてニコッと笑った。
「ごめんなさい。多野の優しさを利用してしまった形になって。田畠のために受けてくれたんでしょ?」
「田畠さんに目玉記事を任せるって言われたら、誰だってやらせてあげたいって思いますよ。毎日頑張ってますし」
「そうね。田畠は大人しくて少し頼りないところもあるけど、それを補って余りある努力をしてる。それに田畠が目玉記事を担当したら、帆仮と平池に発破を掛けることも出来るし」
帆仮さんも平池さんも、田畠さんが目玉記事を担当したからと言って嫉妬に狂うような人達じゃない。そういう二人に対する信頼もあるから、古跡さんは田畠さんを抜擢したんだと思う。
「田畠は日頃大人しくて感情を表には出さないけど、こういう時はまだまだ若いわね」
平池さんの元に行って手を取り合って喜ぶ田畠さんを見て、古跡さんは微笑ましそうな笑顔を浮かべた。
「でも、ああいう若さは良いわね。羨ましいわ」
「古跡さんも十分若いですよ」
「そういうお世辞はいいわよ。その代わり、良い記事を作ってもらえれば」
「もちろん、一生懸命頑張ります」
「でも、無理は絶対止めてよ? まあ、田畠が許さないだろうけど」
「田畠さんがですか?」
古跡さんの言葉に聞き返すと、フッと小さく笑った古跡さんは俺の目を見て首を傾げた。
「多野もまだまだ若いわね」
「はあ」
古跡さんの言葉の意味がよく分からず、とりあえず相づちだけ打ってみる。
「話は以上よ。多野もそろそろ昼休憩でしょ?」
「はい。失礼します」
最後の言葉の意味が分からず釈然としないが、古跡さんの反応からそこまで深く突っ込む話でもなさそうだから、そのまま大人しく自分の机に戻る。
「田畠さんが担当かぁ~」
椅子に座った瞬間、隣に座る帆仮さんが机の向こう側でニコニコ笑っている田畠さんを見て微笑む。
「悔しいですか?」
「全く悔しくないことはないよ。でも、一緒に記事を作る仲間だし、今は記事を一緒に良くしようってことが大事かな」
古跡さんと似た笑顔を浮かべた帆仮さんを見ていると、視界の端に居た平池さんが立ち上がる。
「帆仮さん、座談会メンバーでランチを食べながら軽く打ち合わせしません? まあ、打ち合わせって言うほどのことは話さないと思いますけど」
「私は良いけど、多野くんはどうする?」
「えーっと、俺は弁当があるんで」
せっかくの一致団結な雰囲気を乱してしまって心苦しいが、俺には凛恋が作ってくれた弁当がある。
「多野くんは凛恋ちゃんの愛妻弁当があるもんね~」
「すみません」
「じゃあ、私達も外で何か買って来てここで食べるのはどうですか?」
俺が頭を下げた直後、平池さんがニコニコ笑って帆仮さんへ提案する。その提案をしてくれることは嬉しいが、目上の三人を自分に合わさせるのは申し訳ない。
「俺のことは良いんで、三人で食べてきて下さい」
「それはダメよ。多野くんも一緒じゃないと意味ないんだから。美優も多野くんと一緒が良いでしょ?」
「えっ? う、うん」
そんな話をしているうちに休憩時間になり、編集部が休憩モードに入る。
「お昼買いに行くならオススメのお店があるの。ブリトーのお店なんだけど」
「ブリトー、良いですね。あっ、でも美優は多野くんと話があったんじゃなかったっけ?」
「えっ!?」
立ち上がった平池さんは、財布を持って田畠さんに微笑む。
「メニューはスマホで送るからそれ見て決めて。じゃあ帆仮さん、行きましょうか」
「うん。多野くんの分は私が買ってくるから、多野くんも田畠さんと一緒に選んで教えてね」
「あ、ありがとうございます」
手を振って編集部を出て行く平池さんと帆仮さんを見送ると、残った俺は一緒に残った田畠さんに目を向ける。
「田畠さん、話って何ですか?」
「話? あっ! えっと……」
平池さんは田畠さんが俺に話があるみたいに言ってたが、俺の視線の先に居る田畠さんはかなり困った様子だ。
「多野くん、本当にありがとう」
「はい?」
「目玉記事の話、多野くんが受けてくれなかったらきっと流れてた。でも、多野くんが受けてくれたから、私が担当出来るようになったから。だから、ありがとう」
「田畠さんの努力はいつも見てますから。その努力の成果を潰すようなことは誰も出来ませんよ」
「絶対に良い記事にするから――」
そう言った田畠さんはパッと明るく笑った。
「多野くんの毒舌を引き出せるように頑張るね」
明るく笑った田畠さんの顔を見て、俺はいつも通り笑顔を返す。でも、ほんの少しだけ鼓動が早くなった気がした。
アルバイトの帰り、俺は右手に持ったケーキの箱を慎重に持って駅からアパートまで歩く。
一人暮らしをしていた俺と凛恋だが、喧嘩の一件後、凛恋のお母さん達に内緒で半同棲をしている。
今日は凛恋がうちに泊まりに来る日で、今頃は夕飯を作ってくれている。その優しくて最高の彼女のためにケーキのお土産を買って来た。
凛恋の喜ぶ顔を想像して、アパートの階段を上って玄関の鍵を開けて中へ入る。
「ただい――」
「凡人おかえり!」
「おっと!」
入った瞬間に飛び付いてきた凛恋を受け止めながら、右手に持ったケーキの箱を軽く持ち上げて守る。
「凡人おかえり!」
再び出迎えの挨拶をしてくれた凛恋は、背伸びをして俺の頬にキスをする。すると、俺の右手にあるケーキの箱を見て目をキラキラと輝かせた。
「ケーキ!」
「今日もお弁当ありがとう」
「私が大好きな凡人にお弁当を作りたかっただけだったんだけど、凡人の優しさが嬉しい。ありがと!」
ゆっくり俺の首を抱き寄せて優しくキスをする。
「ご飯にする? お風呂――」
「凛恋」
「だーめ。私はご飯とお風呂が終わった後。全く、即答で私とか流石凡人」
「それって褒められてる? それとも呆れられてる?」
「凡人が私のこと大好きで嬉しいし、私のことを大好きな凡人が可愛いって気持ち。今日の夕飯はクリームシチューと鮭のムニエルね」
「やった! 腹減ってたんだ~」
部屋の中に入ってケーキの箱を冷蔵庫へ仕舞うと、凛恋と一緒に夕飯の準備をする。
隣に凛恋が居る喜びを感じながら、ほんの少しお母さんに対する罪悪感が浮かぶ。でもその罪悪感も、凛恋と体も心も離れて暮らす辛さを考えたら、すぐに平気になれた。
夕飯を終えて、凛恋が美味しそうにケーキを食べる姿も堪能して、それに加えて一緒にお風呂に入って、そしていつものようにベッドへ一緒に入る。
「今日、田畠さんが特集号の目玉記事を担当することになったんだ」
「凄いね。田畠さん、まだ若いのに」
「いつも頑張ってるのを古跡さん達が見てたんだと思う。それで、レディーナリーの若手四人がその記事で座談会をすることになったんだ」
「座談会って何話すの?」
「それが……その目玉記事が載るのがセックス特集の号でさ。俺は男の立場から話をしてほしいって言われた」
「あー、それは古跡さんの意見は分かるかも。多分、普通に暮らしてたら男の人がエッチについてどう考えてるかって分からないから、知りたいって思う人は居ると思うし」
「凛恋も知りたいのか?」
「私? 私は凡人に色々聞いてるし、凡人以外の男の人には興味ないから。でも、男の人はどう思ってるんだろうって女性の気持ちは分かる。多分、まだ片思い中の人とかは、特に気になるんじゃないかな~。私も凡人と付き合う前は、凡人の女の子の好みとかチョー気になってたし。それに……やっぱ、エッチのことも気になってた。もう経験済みなのかなとか、私ってエッチの対象に見てもらえるかなとか。凡人は女の人がエッチについてどう思ってるか気になることはないの?」
その凛恋の質問に、俺はどう答えれば良いか戸惑った。
気にならないって言ったら嘘になる。それに、それは愛ゆえに気になるのではなく、ただの知的好奇心と性欲からの考えでしかない。
もちろん、凛恋に対しては好きだから、愛しているからという純粋な愛情がある。でも、その他の人には凛恋に対して向けているような愛情はない。
「気にならないとは言い切れないけど、罪悪感はあるかな。俺には凛恋っていう大切な人が居るから、凛恋以外の人からそういう話を聞くってのは」
「今回の場合は仕事だから仕方ないけど、それでも私は結構嫌かな。私以外の女の人と凡人がエッチの話をするの。でも、私は凡人のこと信じてるし、それに――」
「それに?」
言葉を途切れさせた凛恋の頭を撫でながら尋ね返すと、凛恋はニヤッと笑って俺の頬に手を添えた。
「絶対に私以外に凡人を渡さないから」
その凛恋の言葉には強い独占欲が感じられ、凛恋の手は俺の腰に回される。
「理緒にキスされたでしょ? ディープキス」
「凛恋……」
「理緒が言ってきた。私が凡人と離れて暮らしてる間に、強引にキスしたこと。それに、まだ諦めないって」
「俺は――」
「あんな可愛い子にキスしたら興奮して当然。それに三週間もエッチ我慢させてたなら尚更。でも、凡人は我慢してくれた」
「それは当たり前――」
「でも危なかったのは確か。だから、めちゃくちゃ反省した。凡人と距離を取るつもりはなかったのに、結果的に距離を取ってしまってた。そのせいで理緒に絶好のチャンスを与えちゃった」
布団の中で俺のシャツの裾から手を入れた凛恋は、俺の素肌を指先で撫でながら唇を尖らせる。
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