【二七四《間違いに因って来たる空隙》】:二

「凡人ごめんなさい。私、昨日凡人に凄く酷いことしちゃった……」

「凛恋、大丈夫だから」

「それに……優しい凡人にこんなことさせちゃった……」


 俺の壊れたスマートフォンを握り締めようとした凛恋の手を掴み、凛恋の手から壊れたスマートフォンを取る。


「怪我するから」

「……凡人はこんなことする人じゃない。凡人は優しくて……こんな……物に当たるなんて……全部私のせい」


 久しぶりに抱きしめた凛恋の背中を擦って、凛恋の頬に自分の頬を付ける。


「なんでアルバイト辞めたんだ?」

「アルバイトをしたせいで、凡人との時間を減らしちゃったから。それに……私、間違えたの」

「間違えた?」

「私は自立したことを早く証明したくて焦ってた。だから、無茶苦茶なことをアルバイト先から言われても我慢してた。それで、凡人にいっぱい我慢させちゃった。凡人は、生理が辛かった私のために看病してくれたのに……」


 ポロポロ涙を流す凛恋の頭を撫でて、凛恋の体を強く抱き締める。


「もう十分だ。凛恋がそんなに謝る必要はない」

「あるッ! 大好きな凡人に、凡人がしたくないこといっぱいさせた」


 凛恋の口から吐き出された言葉が凛恋の心を酷く痛め付けているのが分かる。そんなことする必要なんてないのに、凛恋はあえて自分を傷付けている。


「私……ただ卒業を待ってるだけじゃ、凡人の側に居られないって思ったの。ずっと凡人にしがみついてたらダメだって……」

「俺は、そんな前へ進んでいく凛恋を見て焦ってた」

「えっ……なんで、凡人が焦るなんて……」

「前へ進んで、どんどん凛恋の背中が遠くなって行くように思えて……必死になってた。必死に編集部で実績作って凛恋に追い付かないと……置いて行かれるって――」

「置いてかないよ……置いてかないっ! 私は凡人を置いてなんて行かないっ」

「ああ、俺が間違ってたんだ。俺が馬鹿だった。焦って周りが見えなくなって、思考が固まって柔軟に考えられなくて……それで溜まった色んなものを凛恋にぶつけてしまった……本当にごめん」

「私も同じ。慣れないアルバイトのストレスとか、なかなか凡人に会う時間を作れない不満とかを……一番ぶつけちゃいけない凡人にぶつけちゃった。本当に……本当にごめんね」


 凛恋に話して凛恋の体を抱き締められて、やっと俺は、長い間、心に支えていたものが取れた気がした。そして、力が抜けて凛恋と一緒にローソファーの上に腰を下ろした。


「良かった……本当に良かった……凡人に嫌われたら……私、生きていけない」

「凛恋……」

「凡人……ママに内緒でまた一緒に暮らそう」

「俺も同じことを言おうと思ってた。お互いの家に泊まり合って、半同棲しようって」

「うん。私も凡人と一緒に居たい」

「……凛恋のお母さんには申し訳ないけど、俺はお母さんの考え方は間違ってると今では思ってる。凛恋が俺から自立するのは、凛恋が俺から離れて暮らせるようになることじゃない。そういうことじゃなくて、凛恋の世界が俺中心から凛恋本人を中心に動かないといけないんだ。それをどうすれば実現出来るのかはまだ分からないけど、それを考えてる間に凛恋と離れたままなのは凄く辛いんだ」

「私も離れたくない……」


 指を組んで手を握り、凛恋はしっかりと俺の目を見てから強くキスをする。そのキスに、俺はもう長い間我慢していた気持ちが溢れた。

 堰き止められない想いの波に流されて、凛恋の頬を撫でながら髪を梳いてゆっくり唇を離す。


「凛恋……これ以上は」

「我慢しなくて良い」

「でも……女の子の日が」

「もう終わったから大丈夫。何週も我慢させてごめんね。それに私だってずっと我慢してた。自分のせいだけど、我慢して我慢しまくって、チョーストレス溜めちゃってた」

「本当に最低だ、俺は……」

「凡人は最低じゃない!」

「だって……女の子の日が終わったって聞いて嬉しくなったから……」

「私も嬉しくなったよ。女の子の日が終わって、やっと凡人とエッチ出来るって。私、最低?」

「凛恋は最低じゃない」

「じゃあ、私と同じこと思った凡人も最低じゃないでしょ? むしろ、私にとっては凡人以上最高の彼氏は居ない」


 ソファーから立ち上がってベッドに入った凛恋は、布団を持ち上げて俺を見る。


「ベッドの中でギュってされながら話したい」

「分かった」


 ベッドの中に入ると、凛恋が俺のシャツを引っ張って引き寄せ、荒く唇を重ねた。

 キスも本当に久しぶりだった。だから、俺も自然と凛恋とのキスが荒くなる。

 余裕なんてあるはずがなかった。凛恋を感じられない時間が長過ぎて、心が枯れてしまいそうなくらい凛恋に飢えていた。

 俺には遠距離どころか、少し凛恋と離れることも無理だったんだ。凛恋は俺が居ないと生きられないなんて言ってたが、俺の方が凛恋が居ないと生きられない。


「私の彼氏は凡人だけ。それに、凡人の彼女は私だけでしょ?」

「もちろん」

「だったら、今ここで証明して? 凡人が好きなのが、凡人の彼女が誰かって」


 ベッドの中で凛恋の腰に手を回して抱き寄せ、凛恋にキスをする。

 俺の彼女が誰か? そんなの凛恋だけに決まってる。だけど、凛恋が不安になってる。全部……俺のせ――。


「良かった。凡人のお陰で、また一緒にこうやって抱き合えて」

「俺は――」

「私が凡人に我慢させても凡人が私を好きで居てくれたから、私達は仲直り出来た。だから、凡人のお陰」


 背中に手を回して凛恋が俺の体を引き寄せ、ピッタリと自分の体へ重ねさせる。それに限界の見えない心地良さに酔いしれて、目を瞑って凛恋の存在を噛み締める。


「もう絶対に間違えない。誰に何言われても、私は凡人とこの距離から離れるなんて絶対にしない。誰にも、この間に踏み入れさせない」


 凛恋の手が俺の背中に指を立てて強く引き寄せる。でもその手の指は爪を立てず、強くでも優しく、俺という存在にしがみついてくれた。




 アルバイトの昼休憩、凛恋が作ってくれた弁当を食べていると、ランチに行っていた平池さんと田畠さんが戻って来た。


「多野く~ん、お土産買って来たよ~」

「ありがとうございます。気を遣ってもらってすみません」

「私、コーヒー入れて来るね」


 田畠さんはコーヒーメーカーまで駆けて行き、平池さんが俺の机の上に綺麗な紙袋を置いた。


「平池さん、ありがとうございます」

「私じゃなくて、美優が多野くんにお土産買って行くって言ったのよ。ここのパン、美優に勧められて食べたことあるけど凄く美味しいの。美優のお気に入りの店なのよ」

「そうだったんですか」


 平池さんの話を聞いてコーヒーを淹れに行った田畠さんの方を見ると、丁度戻って来る田畠さんと目が合った。すると、田畠さんは俺の机にコーヒーを置きながら首を傾げた。


「今丁度、美優が多野くんにどうしてもお土産買って行くって聞かなかったって話をしてたところ」


 ニヤッと笑った平池さんが言うと、田畠さんは小さくため息を吐きながら俺の机に置かれた紙袋の中に手を入れた。


「絵里香のからかいにはなれたよ~。多野くん、絵里香のことは放っておいて食べよ」

「あっ! ちょっ! メロンパンは私のだからね!」


 田畠さんに躱された平池さんは、慌てて紙袋から茶色い紙袋を取り出して自分の席に戻った。


「多野くんは何が好きかメッセージで聞けば良かったんだけど、ちょっとサプライズしたくて」


 田畠さんは紙袋から小さな紙袋をいくつも取り出す。その様子を、メロンパンを食べている平池さんがクスクス笑って見ていた。


「美優、かなり迷ってたのよ。多野くんに何買うか。私は惣菜パンと甘いやつ一個ずつで良いんじゃないって言ったんだけど、惣菜パンでも種類があるし、甘いやつも好みがあるからって悩んじゃって」

「仕方ないでしょ。あそこのパン、全部美味しいし」

「それで、悩んだ末にその量でしょ?」

「大丈夫。多野くん男の子だからいっぱい食べられると思うし」

「いや、流石に六個は……」


 目の前に置かれた六つの茶色い紙袋を見て言うと、田畠さんは俺の目の前に二つ紙袋を置く。


「じゃあ、このチョコクロワッサンとカレーパンが特におすすめ。残りは冷めても美味しいやつだから、お腹が減った時に食べて」

「ありがとうございます。じゃあ、おすすめの二つを頂きます」


 流石に六個を一度には無理だが、パン二つくらいの余裕はある。

 まずカレーパンの方の袋を見ると、こんがり狐色に揚がったカレーパンが見えた。出来たてだったのかまだほんのり温かい。


「頂きます」


 そう言ってカレーパンにかじり付くと、外はカリッとしていて中はパンがモチモチで詰まっているカレーも具沢山で少しスパイスが利いていて美味しい。


「田畠さん、このパン凄く美味し――」


 カレーパンの感想を言うために、俺は田畠さんの方を向いた。その振り向く俺には、カレーパンが凄く美味しいという無邪気な感想しかなかった。でも、田畠さんの方を向いた瞬間、その無邪気な感想がどこかへ消えた。


「良かった」


 自分の分のチョコクロワッサンを持ちながら、田畠さんはそう明るく屈託のない笑顔を浮かべた。その無邪気な笑顔を見た瞬間、俺は自分に見えている景色がゆっくりと――いや、ピタリと止まるのを感じた。

 大人しくて穏やかで優しい。俺は田畠さんに対してそんなイメージを持っていた。それに年上だけど年上らしくない。

 そのイメージは、年上の田畠さんに対しては凄く失礼なイメージだ。でも、年上らしくない田畠さんだからこそ、親しみが湧いて一緒に仕事をしていて気楽に出来る貴重な先輩の一人だ。


 ただ、気楽に出来る先輩は田畠さんだけじゃなく、帆仮さんと平池さんもだ。だけど、帆仮さんは面倒見の良いお姉さんという感じで、平池さんはよくからかってくるお姉さんという感じだった。そんな二人を見て、良い人だと思ったことは何度だってある。もちろん、帆仮さんと平池さんだけじゃなく、田畠さんに対しても、レディーナリー編集部のみんなに対して良い人だと思ったことは数知れない。だけど、俺はそんなレディーナリー編集部のみんなに思って来た感情とは別の感情を今、田畠さんに抱いた"気がした。"


「多野くん?」

「えっ? あっ、はい?」


 視線の先で首を傾げた田畠さんに声を掛けられ、俺はハッとして聞き返す。


「午前中の仕事で疲れた? 少しボーッとしてたから」

「今日は一段と多野くんの仕事多かったからね~。まあ、私達はその多野くんのお陰で助かってるんだけど」


 一瞬止まった気がした景色が動き出す。動き出すと、見えている風景はいつも見えている何気ない穏やかな日常だった。


「多野くん、チョコクロワッサンも食べて。コーヒーと凄く合うから」

「は、はい。ありがとうございます」


 田畠さんに勧められて、俺は残りのカレーパンを食べてからチョコクロワッサンを袋から出す。そのチョコクロワッサンを取り出す様子を見詰める田畠さんと目が合って、俺は思わず田畠さんから視線を逸してチョコクロワッサンに移した。

 田畠さんが笑って景色の流れが止まった後から、胸の奥がドクンドクンと鳴って止まらない。


 景色の流れが止まった時の前と後で、確実に俺の中で変わったことがある。

 それまで普通に顔を見られていた田畠さんの顔を直視出来なかった。

 チラリと田畠さんに視線を向けると、田畠さんは美味しそうにチョコクロワッサンを食べながらコーヒーを飲む。


「美優~、口の端にクロワッサン付いてるわよ」

「えっ!? あっ、ありがと」


 田畠さんの口の端に付いたクロワッサンを見て、平池さんは笑いながらウェットティッシュのケースを差し出す。それに田畠さんはお礼を言いながらウェットティッシュで口を拭く。そして、俺と目が合った瞬間、顔を真っ赤にして視線を逸した。


 俺はそんな田畠さんを見て、全身をカッと熱くする熱を感じて……田畠さんのことを堪らなく可愛いと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る