【二六八《過保護からの脱却》】:二

『はい』

「凛恋、俺だ」

『凡人!? すぐ開ける!』


 凛恋がアパートの玄関を開けてくれて、俺は走って凛恋の部屋の前に行きインターンホンを鳴らす。すると、凛恋が部屋の玄関ドアを開けて俺の手を引いて部屋へ入れてくれた。そして、内鍵を掛けて心配そうな顔で首を傾げた。


「凡人、どうしたの?」

「凛恋、昼間はごめん。凛恋が自分で考えて挑戦しようとしてたのに、俺……凛恋のアルバイトを素直に応援出来なかった」

「凡人、入ろう」

「ああ」


 部屋に入って靴も脱がずに話していた俺の手を引いて、凛恋は部屋の奥にある寝室に行く。そこには、俺と凛恋が使っていた布団が敷かれていた。


「凛恋?」

「お布団の中で話そ。その方が私も凡人もリラックスして話せるでしょ?」


 凛恋に導かれるまま布団の中に入ると、凛恋は俺の体を抱きしめて顔を近付ける。そして、じっと俺の顔を黙って見詰めた。


「凛恋のアルバイトを応援する。それを言いたくて来たんだ。凛恋が考えて勇気を出して踏み出した一歩を応援する。だから、頑張ってみろ」

「ありがとう。うん、私頑張る。でも、店員も女の人が多いと思うし、お客さんも女の人ばかりだと思うの」

「居酒屋とかよりは変な客は来なくて安心だよな」


 いくら凛恋の男性恐怖症が改善されているとしても、完全に良くなったわけではない。だから、酔っ払いの男性のように凛恋では手に負えない男性と関わらなくて良いのは安心出来る。


「私、凡人に反対はされないと思ってた」

「えっ?」

「凄く心配させて、凡人を凄く凄く悩ませちゃうって思ってた。でもね、きっと私の背中を押してくれるって思ってた」


 俺の背中に手を回した凛恋は、俺の首筋にキスをして顔を埋める。俺はその凛恋の頭を抱いて優しく撫でた。

 凛恋の柔らかく滑らかな髪を指で梳きながら、凛恋の唇が触れた首に意識を集中する。


「凡人、泊まってくでしょ?」

「着替えがない」

「どうせお風呂はもう入ってるでしょ? だったら、着替えは着てるじゃん」


 俺のシャツの裾を掴んで引っ張り上げる凛恋は、綺麗に透き通った目で俺を見詰めた。


「もう終電ないから帰れないよ?」

「凛恋に帰れって言われたら歩いて帰る」

「言うわけないじゃん。私が大好きな凡人を布団の中に引っ張り込んで、今服を脱がせようとしてるのに帰す? そんなもったいないことすると思う?」

「俺だって、こんな可愛い凛恋に――」

「ないない。絶対に凡人がこのまま帰るとかあり得ない。だって、凡人ってチョーエッチだし」

「お、俺は変態じゃない」

「どの口がそんなこと言うのよ」


 クスッと笑った凛恋は、その後にクシャッと顔を歪ませて涙を溢す。


「私は……凡人と毎日こうしてたい。でも、私が弱いせいで今はそれが出来ないから、この一年間で絶対にママに認めてもらわないといけないの。だけどさ……たまに甘えるくらいは、我慢する必要なんてないよね?」

「ああ。そんな必要ない」


 凛恋の肌に触れて、可愛い凛恋の吐息を聞いて、俺は凛恋に甘える。

 完全に凛恋から自立するのはまだ無理だ。俺は出来るなら二四時間、三六五日、凛恋のことを見ていたい。でも、俺のそんな過保護さが凛恋を弱くした。

 俺もその過保護さから脱却するために凛恋と一緒に頑張る。だけど凛恋の言う通り、気を抜いて少し甘えるくらい許される。


 凛恋に俺を沈め、凛恋を俺に沈めさせて、俺は凛恋と溶け合う感覚に浸る。

 この感じだ。この心地良くて優しい感じ、この感じが好きで、この感じを永遠に感じたくて、俺はずっと凛恋を抱きしめていたい。

 だけど俺は……それが許される。




 いつも通りの平日のアルバイト中、レディーナリー編集部の自分の席に座り、目の前で頭を抱える平池さんを見る。


「どーしよー……」


 その頭を抱える平池さんの隣で、田畠さんも困った様子で視線を下に落とす。


「帆仮さん、平池さんと田畠さんはどうしたんですか?」

「ん? ああ、平池さんと田畠さんは今度の懇親会の幹事になったの」

「ああ、なるほど」


 前で悩んでいる二人は、幹事を任されて困っているらしい。


「多野くん……助けてぇ~」


 俺と目が合った平池さんが俺に助けを求める。その助けに俺は乗ろうかと思った。しかし、俺が声を発する前に俺の後ろに人が立つ気配がした。


「平池は幹事とか得意そうなのに店決めに迷ってるの?」

「そうなんですよ。三〇〇〇円で良い店って難しいですよ。それにうちの雑誌で紹介したところはダメだって言われましたし」

「そりゃあそうよ。ただの幹事じゃなくて、常に流行の先を見る目を付ける良い機会なんだから。だから、多野からのアドバイスは無しよ。その代わり、多野を好きにこき使うのは良いわよ」

「家基さん、どっちかと言うと、そっちの方を禁止してほしいんですけど」

「多野も編集部では平池と田畠より先輩なんだから、可愛い後輩の取材協力くらい手伝いなさい」

「あれ? 取材協力って、記事にするんですか?」

「そうよ。編集部の座談会的な感じにしようと思ってるわ。たまにはこういう記事も面白いかと思ってね。まあ、実は言うと、編集の都合でページが必要なだけなんだけど」


 家基さんくらいになると、トラブルにも動じずにさらりと受け止めてしまうらしい。どれくらい修羅場――経験を積めばそうなれるのか俺には分からない。


「家基、ちょっと席外すわ」

「はい」

「帆仮、下にインターンの面接に来た子が居るから迎えに行って」

「分かりました」


 自分の席を立った古跡さんが、家基さんと帆仮さんに指示を出して会議室の方に消えていく。その古跡さんのすぐ後に、帆仮さんが編集部を出て行くのが見えた。


「多野くんが居るのにインターン生って必要なんですか?」

「古跡さんも大変なのよ。うちの雑誌、ありがたいことに月ノ輪出版でも無視出来ない人気雑誌になれてる。その弊害で、広報部と人事部からインターンの受け入れ先に指名されるのよ。人気雑誌の編集部を見てみたい大学生は多いから。まあ、多野みたいな特殊なやつも居るけど」


 俺は家基さんと平池さんの会話を聞きながら、平静を装って仕事を続ける。しかし、横目で俺をニヤッと笑っている家基さんと目が合った。


「そういえば、多野くんはどうしてうちにインターンをしに来たんでしたっけ?」

「多野。面接を受けて、インターンを受けるか考えろって言った古跡さんに、アルバイトを手っ取り早く決めたいからって言ったらしいの。古跡さんはその理由を聞いて多野に即決したらしいわ。まあ、遊びで来る子よりもお金を稼ぎに来る多野の方が根性があるって思った古跡さんの目は間違ってなかったわね。多野の毒舌編集者Tのコーナーも好評だし。結構メール来るわよね」


 家基さんの話を聞いた平池さんと田畠さんは、俺を見てクスクスと笑う。まあ、絶句されるとか、軽蔑されなかっただけマシだ。


「多野が来るまで長期間続いたインターン生は居なかったけど、今度はどうかね~」


 会議室の方を見る家基さんは、楽しみだという表情をしているが、俺はパソコンのモニターに目を向けながら小さくため息を吐く。

 きっと目の前に座る平池さんも田畠さんも思っているだろうが、レディーナリーの編集者はレディーナリーが、雑誌が好きじゃないと出来ない仕事だが、レディーナリーや雑誌が好きなだけでは出来ない仕事だ。


 俺がやらせてもらっているのは雑用ばかりだが、それでも辛いことの方が多い。楽しさとか達成感を味わえるのはほんの一時で、それをほんの少し感じた後はまた仕事に追われる。それは、正社員として働いている編集さんの方が感じていると思う。だから、単に華やかな雑誌編集者に憧れた気持ちでは、きっと多忙さとやっていることの地味さに嫌気が来てしまうかもしれない。多分、そういう人達が多かったから、俺の前に入ったインターン生は辞めてしまう人が多かったのだ。ただ、俺はそれを仕方ないと思う。


 レディーナリー編集部へインターンシップを受けに来る人は、きっと取材をして自分で記事を作ることを想像するだろう。そして、それが雑誌になって店頭に並ぶ姿を頭に思い描くはずだ。それなのに入ってやらされることは、思い描いた記事を作る人達のフォローなのだ。思っていたことと違うと思っても仕方がない。でもきっと、そのためにインターンシップを受け入れている面も大いにあると思う。


 俺の場合は、元々雑誌編集になりたかったわけではないし、雑誌編集に憧れを持っていたわけでもない。だから、頭の中に雑誌編集に対するイメージを勝手に作り上げてはいなかった。そのお陰で、俺は与えられた仕事に嫌気は差さなかった。いやまあ……今は嫌気が出てくる仕事量を度々見ることはあるが。


「ほんと、多野がうちに就職してくれれば良いのに」

「えっ?」


 俺はその家基さんの呟きに心臓がドキッと跳ね上がって動揺してしまう。古跡さんはまだみんなに内々定の話はしていないはずだ。だから、家基さんも古跡さんが俺に内々定を出したことは知らないはず。つまり、家基さんは本心から俺にそう思ってくれているということだ。


「多野はどんどん仕事を覚えるし、今ではインターンしてた時よりも出来る業務の幅が広がった。もちろん、それで多野に対する負担は増えてしまったけど、そのお陰でうちら編集の負担が軽くなった。実際、全員の残業時間も短くなってるし、目に見えて帆仮や平池、田畠達みたいな下の子達が上げてくる記事の質が上がってる。それは、みんなが経験を積んで技術が上がったのもあるけど、多野が作ってくれた余裕が記事の質を上げるために使えているからよ。そんな人材、このまま見す見すどこかの企業に持って行かれるなんてもったいないわよ。もし、他の出版社とかに行ったら悔しくて堪らないわ」


 内心で、家基さんの言葉は涙が出そうなくらい嬉しかった。古跡さんもそうだが、家基さんにもそこまで言ってもらえるほど評価してもらってるなんて嬉しくて仕方がなかった。


「まあ多野の将来は多野が決めることだから強制はしないけど。それに、月ノ輪出版の採用試験を受けて受かったからって、多野が確実にうちの編集部に回されるってわけでもないし」

「私は……多野くんにうちに就職してほしいです」


 前から田畠さんのその声が聞こえる。でも、その声はいつも大人しく静かな田畠さんらしくない、はっきりとして芯の通ったしっかりとした声だった。


「私、きっと多野くんが居なかったら、この編集部でやり続けられなかったと思います。年下だけど、色々丁寧に優しく教えてくれる多野くんが居たからやり続けられたと思ってます。それに、沢山私が知らないところでフォローしてくれてたみたいだから……。私は、まだその多野くんにちゃんと仕事でお礼を出来てないから、一緒に仕事をしながら返していきたいです」


「田畠も平池も入って来たばっかりの時はいっぱいいっぱいだったからね。それは私達も分かってたから、多少のミスは当然フォローするつもりだったんだけど……大抵のことはこの出来る男がフォローしちゃってたからね。私もびっくりしたわ。多野が上に相談してくるのって、本当に多野の立場じゃどうしようもないレベルの話しかないの。後、“自分が指摘すると角が立つので、家基さんお願いします”って言う時ね。ミスを帳消しにするだけじゃなくて、ミスを繰り返させないように気も遣って。それを一番年下の多野にやってもらって。いつもありがとう」

「そう思うなら、仕事量を減らしてもらえると助かるんですけど」


 俺が涙が零れないように笑って冗談を言うと、家基さんの両手が俺の肩を強く揉む。


「今度、何か美味しい物奢るから頼んだわよ」


 話を笑顔でうやむやにした家基さんが、軽く手を挙げて笑いながら歩き去る。それを笑顔で見て視線を前に戻すと、パソコンのモニター越しに田畠さんの顔が見える。

 俺の方をじっと見ていた田畠さんは、少しハッとした表情をしてからすぐに自分のパソコンのモニターへ視線を移した。それを見て首を傾げると、田畠さんの隣に座る平池さんが視界に入る。その平池さんは、小さくため息を吐いて呆れた様子で田畠さんを見ると、すぐに自分の仕事に戻った。


「ありがとうございます。帆仮さん、お帰りなさい」

「ただいま~って言っても、面接に来た子を迎えに行って戻って来ただけだけどね」


 編集部に戻ってきた帆仮さんが俺達にコーヒーを持って来てくれて、ニッコリ笑いながら椅子に座って軽く背伸びをした。


「面接に来た子、受かりそうでしたか?」

「う~ん、古跡さんって来る者拒まずって感じだから受かると思うよ。ただ、実際に続くかはどうかな」


 コーヒーを飲みながら、平池さんと帆仮さんの話に耳を傾ける。


「どんな感じの子だったんですか?」

「う~ん、見た目を一言で言うと典型的な量産型女子大生だね。髪は茶髪のゆるふわウェーブで、白シャツにベージュのカーディガン、青のギャザースカート、それからピンクのパンプス」

「確かに女子大生らしいファッションですね」


 平池さんがそう答えるが、俺は典型的な量産型女子大生と言われてもピンと来ない。ただ、続くか続かないかは服装ではなく性格が重要だ。


「まあ、入って来たらみんなで優しく教えてあげようね」


 両手でカップを持った帆仮さんの明るい声を聞いて、きっと新しいインターン生は長く続けられる、そんな気がした。

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