【二六九《新風》】:一

【新風】


 インターン生の面接があった次の日、俺は編集部に入った瞬間に帆仮さんに連れられて会議室に入った。


「古跡さん、多野くん来ましたよ」

「ありがとう。帆仮は戻って良いわよ」

「はい」


 帆仮さんが会議室から出て行くのを見送って改めて古跡さんに視線を向けると、古跡さんの向かい側に見慣れない女性が座っているのに気付いた。

「多野。この子は新しくうちでインターンをすることになった巽百合亞(たつみゆりあ)さんよ」

「初めまして。巽百合亞です」


 立ち上がって丁寧に頭を下げながら自己紹介をした巽さんは、礼儀正しく落ち着いた雰囲気を感じる。ただまあ、見た目が少し派手ではあるから、希さんや田畠さんほどではない。


「巽さん、こっちは多野凡人。うちの編集部でアルバイトをしてくれてるの。初めはインターンだったけど色々あって、今年で三年目だっけ?」

「そのくらいですね」

「巽さんにやってもらう仕事はほとんど多野の仕事だから、仕事の指導は多野がお願い」

「分かりました」

「じゃあ、後は頼んだわよ」


 一通り説明が終わった後なのか、古跡さんは軽い自己紹介を終えると編集部に戻って行く。


「じゃあ、行きましょうか」

「はい。よろしくお願いします」


 丁寧に頭を下げた巽さんと編集部に行くと、古跡さんが俺の席の近くに俺が昔使っていた丸椅子を置くのが見えた。


「しばらく巽さんの席は多野の横ね」

「はい」

「じゃあこれを片付けようか」

「これ、全部ですか?」


 積み重なった紙の束を見て巽さんはギョッとした顔をする。


「まあ全部巽さんがやる仕事じゃないから安心して。まずは、コピーする必要のある資料のコピーね。編集さん達が付箋を貼ってくれてるから、その指示に従って指示された部数コピーすれば良いんだけど、まずは付箋を見て急ぎで必要な資料がないか確認して。日付の指定が今日の午後になってるやつがそう」

「あっ、これとこれがそうです」

「よし、じゃあそれを持ってこっちのコピー機でコピーね。やり方は用紙をセットして、この上下のボタンで刷る部数を変えて、このスタートボタンでコピー開始」

「はい」


 コピー機の使い方なんて大抵の人が知っているから、コピー機の操作は難なく出来――。


「あ、そのボタンじゃなくてこっちね」

「は、はい。すみません」

「謝らなくて良いよ」

「えっ!? でもコピー機の使い方が分からなくて――」

「知らないことは恥ずかしいことじゃないよ。それに今は、初めての出勤で緊張してるでしょ? 高校生の頃はアルバイトとかしてたの?」


 コピーを待つ間、どうにか巽さんの緊張を解けないか軽く話をしてみる。


「コンビニでアルバイトしてました」

「凄いね。コンビニって覚えること多かったでしょ?」

「は、はい。レジ打ちとか品だし陳列もやりましたし、調理が必要なこともあって。最初の頃は煙草の銘柄を覚えられなくて」

「ああ、コンビニに行くと番号が振ってあるのに銘柄言う人ってよく居るよね」

「はい。覚えると難なく出せるんですけど、最初の頃は覚えることも多いし、テンパってて」


「でしょ? だから、巽さんも最初の頃は仕事を覚えるのが仕事になるから、どんどん分からないことは聞いて。俺だけじゃなくて、編集部の人達はみんな丁寧に教えてくれるから」

「そうなんですか。あっ、あの! 多野さんっておいくつですか?」

「二一だよ」

「えっ!? もしかして大学生ですか!?」

「そうだけど、見えなかった?」

「身長高いし大人っぽいから、てっきりもっと年上なのかと思ってました」

「俺、そんなに老けてる?」

「いえ! 老けてるとかじゃなくて! 二五歳くらいの大人の男性に見えたんです!」


 アワアワと慌てて否定する巽さんを見て小さく微笑み、俺はコピーの終わった紙を取り出す。


「さて、コピーが終わったら綴じる指示があるものはステープラで綴じて、バラって書いてあるのはターンクリップでバラバラにならないように留めるだけ。ステープラで綴じる時は、横書きの場合は左上を留めて、縦書きの場合は右上を留める。縦書きと横書きが交ざってる場合は、横書きの紙を左に九〇度回して書類を、こうやって縦長にしてから左上を留める。まあ、覚えるまで何度でも聞いて。メモを取るのは凄く良いことだけど、こういうのは俺に聞いた方が早いから」


「で、でも、コンビニのアルバイトをしてた時には、仕事は一度聞いたことは覚えろって言われました」

「教え方は人それぞれだけど、俺はそれって結構横暴だと思うんだよ。一度聞いて覚えろって言うのは、教える側が一度しか教えたくないってわがままで言ってるだけだと思うんだ」

「…………」


 巽さんはどう答えたら良いか分からないという風な笑みを浮かべる。だけど、それで当然だ。こんな話に同意も否定もし辛いに決まっている。


「仕事も勉強もそうだけど、一度聞いただけで出来る天才は確かに居る。でも、そうじゃない人の方が大半でしょ? 実際、俺も一度聞いただけじゃ理解出来ないし覚えられない人間だし。だから、一度で覚えろって言うのは、自分が何度も教えたくないって思ってるからだ。でも、そういう人に限って自分は一度言われただけじゃ理解出来ない人間だと思う。そう言うのって不公平でしょ? 自分が出来ないのに他人に自分が出来ないことを強いるって。だから、俺は自分に出来ないことを巽さんに押し付けたくないから、巽さんは俺には何度でも聞いて良いよ。ただまあ、人によったら何度も聞いたらイライラする人が居るから、一応メモは取って自力でやる努力はして。でも、少しでも不安に思ったらすぐに言ってね」

「は、はい! ありがとうございます」

「じゃあ、このコピーをお願いね。俺は自分の席に居るから、何かあったら声を掛けて」

「はい! 任せて下さい」


 俺は随分明るい表情になった巽さんが一人で仕事を始めるのを見て、俺は足音を立てずに自分の席に行く。すると、途中で家基さんに肩を抱かれてニヤニヤとした顔を向けられた。


「多野~、随分新人ちゃんに優しいじゃない。ダメよ、浮気は」

「そういうつもりは一ミリもありません」

「分かってるわよ。でも、多野みたいに優しい先輩に当たって良かったわね。編集って基本どこも締め切りに追われてるから余裕のない人が多いし」

「巽さんが定着してくれれば俺の仕事も楽になりますしね」

「そういう打算があったか。まあ、減った分増やしてやるわ」

「止めて下さいよ……」


 ニヤッと笑って歩いて行く家基さんの背中を見送り、俺は自分の席に残った仕事の山に取りかかった。




 自分に割り当てられた仕事を終えると、コピーの仕事と各編集さん宛の郵便物の割り振りを終えた巽さんが俺の席に戻ってくる。だが、もう巽さんに任せられるような仕事は残っていない。何より、俺の手元に仕事がないのだ。


「計算通りね。そろそろ終わる頃だと思ったわ」

「古跡さん?」

「多野。巽さんと買い出しに行ってくれる?」

「分かりました。物は?」

「いつものサンドイッチ屋に注文してるから、それを取りに行ってくれるだけで良いわ」

「はい。巽さん、お使い一緒に行こうか」

「はい!」


 椅子から立ち上がって巽さんに声を掛けると、巽さんが返事をして俺の後ろをちょこちょこ付いてくる。その感じが何となく可愛らしくてほのぼのとした。


「多野くんお使い?」

「はい」

「うげ~、もうそんな時間か~」


 すれ違った平池さんが俺を見てギョッとした顔をする。


「平池さんと田畠さんのパソコンに、懇親会に使えそうなお店のリストとお店の詳細データを送って置きました。リストにはホームページがある店はURL張ってます。ホームページがない店は一応、ネット地図のURL張ってるんで、外観の雰囲気くらいは見れるはずです。詳細データは簡単にデータベース化にしてるんで」

「ほんと!? ありがとう! 助かる! 流石多野くん! 美優にも話して参考にさせてもらう!」


 手を振って駆け出す平池さんを見送ると、首を傾げている巽さんが視界に入った。


「平池さんは同期の田畠さんと一緒に、今度の懇親会の幹事になってるんだ。それを記事にするらしいんだけど、その店選びに悪戦苦闘してるらしくて」

「多野さん、社員の編集さんの仕事もやってるんですか?」

「社員の仕事って言うか、俺は店選びのお手伝いをしてるだけだよ。あまりやり過ぎると上の人達に怒られちゃうしね」

「凄いですね。あんな沢山積み上がってた仕事も私がコピーをしてる間に片付いてて。それに結構多野さんの名前を呼んでる人が多かったから、頼りにされてるんだって思いました」

「細々とした雑用は俺の仕事だからね。巽さんも慣れてきたら名前をよく呼ばれるようになると思うよ」


 笑いながら話してエレベーターに乗り、一階まで下りて月ノ輪出版の本社ビルから出る。そして、いつも通りの道を歩き、編集部御用達のサンドイッチ店に行く。


「こんばんは。すぐにお持ちしますね」


 店内に入ってすぐ、俺の顔を見た女性店員さんが店の奥に入って注文したサンドイッチを取りに行ってくれる。もう完全に顔を覚えられ、言わなくても俺がレディーナリー編集部からのお使いだと思われているのだ。


「多分、このサンドイッチを食べたら仕事は終わりかな」

「え? 私の分もあるんですか?」

「あるよ。編集長の古跡さんはそういうところしっかり気を遣ってくれる人だから」

「なんか悪いです。私、今日はコピーと郵便を配ることしかしてないのに」

「さっきも言ったけど、何でも最初から出来る人は居ないから。少しずつ覚えていけば良いんだよ。それに、コンビニのアルバイトが出来たなら、ここでのインターンも大丈夫。こっちは変なお客さんとか居ないから、多分その分は気が楽だと思うよ」


「ああ、確かにそれはあるかもしれません。高校生の時は変な人が多くて。特に怒鳴られたりキレられたりすると嫌でしたね。怖いのもそうなんですけど、一度怒鳴ったりキレたりすると私じゃ収められなくて……」

「そういうのはサッと男性の店員さんに任せれば良いんだよ」

「実は、私が居たお店、店長さん以外は男性の店員さんが居なかったんです。他は主婦の人ばかりで。まあ、主婦の店員さんに凄く気の強い人が居て、困ったお客さんはその人に任せてました」


 手で口を隠してクスッと笑った巽さんは、両手を体の後ろに組んでニッコリ笑う。


「今日来る前、凄く不安だったんですけど、みんな良い人ばかりですし、何より教えてくれる多野さんが優しい人で良かったです」

「そう言ってもらえて良かった。友達からは無愛想で話し掛け辛いって言われるから」

「会議室で紹介された時は、この人か~って実は思っちゃいました。でも、実際に話したら真面目で優しくて凄く良い人だって思いました」

「そっか」

「そういえば、多野さんってどこ大なんですか? 私は中学(なかがく)の教育学部なんですけど」

「中川学院大学なんだ。俺は塔成大の文学部」

「えっ!? と、塔成大ッ!?」


 俺の言葉を聞いてギョッとした巽さんは、一歩後ろに下がる。その様子を見て、俺は苦笑いを浮かべた。


「そういう反応されると困るんだけど?」

「で、でも……塔成大ってめちゃくちゃ頭が良くないと入れない大学じゃないですか。凄い……」

「仕事では同じ編集部で働く編集補佐なんだから、そう身構えないでよ。それに、塔成大に通ってるから偉いわけじゃないし」

「それはそうですけど、やっぱり塔成大って聞くと身構えちゃいますよ」

「巽さんは教育学部ってことは、教師を目指してるの?」

「はい。一応高校教師を目指してます」

「高校教師か。大変そうだけど頑張って良い先生になってね」

「はい」


 巽さんと話をしているとサンドイッチが運ばれてきて、俺は両手にサンドイッチを持つ。すると、俺の持つサンドイッチを持とうとした巽さんの手をひらりと躱した。


「あ、あの……私も――」

「女性に荷物を持たせると気になっちゃうんだ。だから、俺に持たせて」

「でも……」

「良いの良いの。古跡さんが巽さんをお使いに行かせたのは息抜きをさせるためだから。巽さんはゆっくり息抜きしてくれれば」

「ありがとうございます」


 サンドイッチ屋を出て月ノ輪出版の本社ビルまで戻る間、隣を歩く巽さんは俺の手を見て口を開いた。


「多野さん、彼女さんが居るんですね」

「うん」

「羨ましいな。私、高校の頃に付き合ってた彼とこの前別れたんです。大学が別々になって、しかも遠距離だったから」

「そっか。環境が変わるとお互いの生活リズムも変わっちゃうしね。でも、きっと良い出会いがあるよ」

「そうだと良いんですけど」

「大丈夫。巽さんって結構社交的だし出会いの場は多いと思うよ。ただ、お酒は二〇歳になってからね」

「はーい」


 明るくおどけた返事をした巽さんはクスクス笑って月ノ輪出版の本社ビルの前まで来ると、入り口の自動ドアに先回りしてセンサーを反応させ開かせる。

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