【二六八《過保護からの脱却》】:一

【過保護からの脱却】


 就職が決まったからと言って安心出来るわけじゃない。そもそも内々定であるのもそうだが、古跡さんは俺が塔成大を現役で卒業出来る見込みがあるから就職の話をしてくれた。だから、卒業出来なければ話にならない。

 バレンタインもホワイトデーも過ぎ、今年も新入生が入学してくる時期になった。

 毎年のことながら、大学内ではサークルの新入生勧誘活動が活発で騒がしい。その光景も今年で最後だと思うと、騒がしい以外に、ほんの少しの寂しさを感じた。


「凡人くん、捕まえたっ!」

「――ッ!? ……理緒さん、離れてくれ」


 急に後ろから腕を抱かれ、俺の腕を抱いた主の理緒さんに目を細める。すると、理緒さんは手で口を隠しながらクスクスと笑う。


「やだ。まだちょっと寒いもん。凡人くんに暖めてほしいな~」


 からかう理緒さんに小さくため息を吐くと、周囲を通り過ぎる男子学生と目が合う。


「うわぁ~男の嫉妬の目っていつ見ても嫌な目。まあ、女の嫉妬の方が怖いけど」


 何食わぬ顔でそう言う理緒さんの言葉を聞きながら、腕に感じる柔らかい理緒さんの胸の感触から離れようと腕を引く。しかし、その俺の腕をグッと理緒さんが力強く引っ張り返した。


「意識してる意識してる」


 クスッといたずらっぽく理緒さんが笑った直後、目の前に見知らぬ男子学生が立ち塞がる。

 塔成大に通って四年目の俺は、自慢じゃないが塔成大での交友は全く広くない。だから、目の前に居る男子学生が何学部の何年か分からない。


「君、見ない顔だけど一年生だよね?」


 目の前に立ち塞がる男子学生に、理緒さんは軽く首を傾げる。しかし、その表情はにこやかだが俺からは全く笑っているようには見えない。


「俺、法学部の一年なんですけど先輩? なんですよね。塔成大のことよく分からないんで、先輩にゆっくり――」

「塔成大のことをよく分からないなら、ちゃんとよく塔成大のことを知ってから人に声を掛けた方が良いよ。それに、よく分からなくても私達の今の状況を見れば、君が凄く空気が読めないって分かるよね?」


 一年の男子が声を掛けたのは俺ではなく理緒さんの方で、理緒さんの容姿を考えれば、見知らぬ男子から声を掛けられることに最早驚きもない。


「俺、これでも検事の息子なんですよ」

「そう。検事の息子だからお金はあるよってこと?」

「少なくとも、そっちの冴えな――」

「ごめんね。私の時間は君なんかに使うためにはないの」

「――ッ!? …………」


 にこやかに一年の男子学生を切り捨てた理緒さんは俺の腕を引っ張って離れながら、小さくため息を吐いた。


「こっちに留学してから、私が凡人くん一筋っていうのはかなり広まって私に声を掛けてくる人は減ったんだけど……。一年生には声掛けられちゃうのか~。面倒くさいな」

「理緒さん、そろそろ離れてくれると」

「いや~。大学の校門を出るまで抱いてる」

「理緒さん、俺は――」

「ちゃんと私じゃダメだって答えを聞かせてくれる?」


 俺がまだ理緒さんを納得させる答えを持ち合わせていないと分かっていながらそう言った理緒さんは、パッと俺の腕から手を離して後ろに組みながら微笑む。


「でも、凡人くんに嫌な思いをさせたくないから我慢する」

「理緒さん……」

「凡人っ!」


 校門のすぐ手前で止まっていた俺の手を勢い良く引かれるのと同時に、凛恋の鋭い声が聞こえた。


「凛恋、こんにちは」

「理緒、凡人の家にはもう行かないで」

「なんで?」

「何度も凡人の家に行ってお昼作ってるのは知ってる。凡人が無下に出来ない性格だって知っててやってるんでしょ」

「そうだよ。凡人くん優しいから、いつも困り顔でも入れてくれる」

「凡人は私と結婚するために、お互いに自立するために一人暮らしをしてるの。その邪魔をしないで」

「するに決まってるよ。私、凡人くんのことが好きだから、凛恋と結婚してほしくないし」

「二人とも、こんなところで言い争いをするな」


 まだ周りの注目を浴びるほどではないが、これ以上ヒートアップするのを見過ごすことは出来ない。


「理緒さん、俺はこの後凛恋と予定があるからここで」

「うん。またね」


 潔く手を振って去って行った理緒さんにため息を吐くと、凛恋が俺の腕を抱いて唇を尖らせる。


「凡人もうちに国内留学すれば良いのに!」

「成華女子は完全な女子校だろ……」


 よく分からない解決方法を話す凛恋を連れて大学から離れる。すると、凛恋は俺の腕を抱きながら指を組んで手を握る。


「凡人に話したいことがあるの」

「話したいこと?」

「うん。二人でゆっくり出来る場所が良い」

「近くの喫茶店に行くか」

「うん。ありがと」


 大学に近い喫茶店まで行き、凛恋と向かい合って座り注文を済ませる。そして俺は、運ばれてきたコーヒーに口を付けながら凛恋の表情を見た。

 凛恋は話があると言っていたが、今、向かいに座る凛恋はその話を切り出すタイミングを窺っている。その様子から、凛恋の話そうとしている話が話し辛い話だと言うのが分かる。


「凛恋、冷めないうちにミルクティーとアップルパイを食べてくれ」

「う、うん。ありがとう」


 愛想の良い笑みを浮かべた凛恋は、ミルクティーを一口飲んでからフォークでアップルパイを一口サイズに切って食べる。そんな凛恋を見ながら俺はコーヒーを飲みながら待った。


 凛恋が話し辛い話をしようとしている。でも、凛恋からどんな話をされても、俺は凛恋の話を真剣に受け止める。

 アップルパイを食べ終えた凛恋は、一度深呼吸をしてから、俺に真っ直ぐ目を向けた。


「私、アルバイトを始めようと思うの」

「えっ? アルバイト? それってレディーナリーのモデルを本格的にってことか?」

「ううん。そうじゃなくて、これ」


 そう言った凛恋が、鞄の中から折り畳まれた紙を広げてテーブルの上に置く。その紙には、筆記体のフランス語の他に日本語で『オープニングスタッフ募集』という文字が見えた。


「新しくオープンするケーキ屋さんが販売スタッフのアルバイトを募集してるの。それに応募してみようかなって思って」

「お金に困ってるから……ってわけじゃないよな?」

「うん。今までレディーナリーのモデルのアルバイトで少しはお金を稼いでたけど、本格的にアルバイトをしたいの。その理由の一つは、私がアルバイトをしっかりやれれば、ママに私が自立してるってアピール出来るでしょ?」

「理由の一つってことは、それ以外に理由があるのか?」

「うん。もう一つは凡人との結婚資金にしたいの。凡人はレディーナリーに就職が決まったし、きっと普通の新卒よりも凡人は沢山給料をもらうと思う。でも、お金は少しでも多くあった方が良いのは確かだから」


 凛恋の言う通り、お金はあるに越したことはない。それに、凛恋がお母さんに自分が自立していることをアピールしたいという気持ちも分かる。何より、どっちの理由も俺との結婚のためだ。だけど……アルバイトと聞いて思い出してしまうことがある。


 高一の夏、俺と凛恋が初めて別れの危機を経験したあの夏。その夏に凛恋は萌夏さんの実家、純喫茶キリヤマでアルバイトをしていた。そして、萌夏さんの兄の切山晶(きりやまあきら)さんに、俺は凛恋を奪われそうになった。

 それに……コンビニのアルバイトをしていた時に付きまとわれたストーカーのこともある。

 凛恋のアルバイト関連で経験したものは、何年経っても俺にとって辛く苦い経験だった。


「凡人が心配してくれるのは分かってる。でも、ただ一人暮らしして一年経つのを待ってたら、きっとママに認めてもらえない。だから、ママに認めてもらうために何でもしたいの。私……絶対に凡人と結婚したい」


 その凛恋の言葉は力強く、俺との将来のことを真剣に考えてくれているのは分かる。でも……どうしても苦い経験が頭をよぎってしまう。


「…………」


 何か答えなくてはいけないのは分かっている。でも、上手く言葉が出なかった。

 凛恋が自分で考えてアルバイトをやろうと言った。それはネガティブな理由ではなくポジティブな理由だ。でも、それが分かっていながら、素直に凛恋の背中を押す言葉も出せなかった。


「凡人、もしかして萌夏の家でアルバイトしてた時のことを思い出してる?」

「ああ……あの時、俺は凛恋を萌夏さんのお兄さんに盗られそうに――」

「凡人、私は萌夏のお兄さんに盗られそうになってないよ。萌夏にはごめんって思うけど、会った瞬間から嫌いだった。いかにも女たらしって感じがしたし」

「そうだったな。でも……あの夏、俺達は一歩間違えたら今みたいに向かい合って話すことが出来なくなってたかもしれない。それを思い出して不安なんだ」

「もうそんなことにはならない。あの時は、私はまだ凡人と強い信頼関係がなかった。でも、今の私達には誰にも負けない絆がある。凡人は私を絶対裏切らないけど、私も凡人を絶対裏切らない」

「凛恋の気持ちを疑ってるわけじゃないんだ……ただ……」


 何故、俺が凛恋のアルバイトを前向きに考えられないのか。それはただ、俺が弱いだけだ。


「分かった。凡人が嫌だって言うならアルバイトやらない」

「凛恋、やらないって決めなくても――」

「じゃあ、凡人が賛成か反対か決めるまでアルバイトは保留する」

「凛恋……」


 凛恋は正面の席から俺の隣に座って優しく俺の手を取る。


「私にとって一番大切なのは凡人。だから、凡人が嫌な思いするのは一番あり得ないことなの。凡人がちゃんと納得してくれるまで私はいくらでも待つ」


 優しく微笑んだ凛恋の手を握り返し、俺は凛恋の温かさを感じ取り、心に引っ掛かったものを必死に取り除こうと努めた。だけど、それはすぐに取り除けるほど浅く心には刺さっていなかった。




 家に帰ってきて、スマートフォンを耳に当てて電話が繋がるのを待つ。すると、電話の向こうから爽やかな声が聞こえた。


『カズから電話って珍しいな』

「別に珍しくはないだろ」

『何かあったのか?』


 栄次は「なんでもお見通しだ」とでも言いたげな声で尋ねる。それに俺はベッドの上に寝転びながら話した。


「凛恋が自立するためにアルバイトを始めたいって言ったんだ」

『良いことじゃないか。アルバイトを始めて頑張れば、凛恋さんのお母さんも凛恋さんの頑張りを認めてくれるだろうし』

「そうなんだけどな……」

『カズは反対なのか?』

「いや……凛恋がやろうとしてるのはケーキ屋の販売スタッフのアルバイトなんだけど、どうしても高一の時に萌夏さんの実家でアルバイトしてた時のことを思い出すんだ。それと……ストーカーのことも」

『カズが心配する気持ちは分かる。俺も希が同じような立場だったら凄く心配した』


 俺の気持ちを察した栄次が、納得したように小さく息を吐く。


『でも、俺は今のカズと凛恋さんなら全然心配ないと思う。二人の絆は本物だろ』

「凛恋のことを信じてないわけじゃない。……俺が素直に賛成出来なかったのは、俺が弱いからだ」

『カズ。今回の一人暮らしはカズの自立もあるんだろ? 凛恋さんを信じて任せるのもカズの自立の一つじゃないか? カズが自分で自分を過保護って言ってただろ? その過保護から脱却する良い機会だと思うぞ』

「過保護からの脱却か……」


 栄次の言う通りだ。

 俺が凛恋に対して過保護になっていたから凛恋の心を弱くしてしまった。そしてまた、俺は俺の過保護のせいで凛恋が強くなるチャンスを潰して凛恋を弱くしようとしている。


 今回の一人暮らしは、凛恋の自立と"俺の自立"が目的だ。将来凛恋と結婚するとしても、俺も凛恋から精神的に自立しなければいけない。

 凛恋も一人の人間だ。凛恋も一人の人間として、自分で考えて自分で歩く権利がある。だから、俺がそれを強制してはいけない。


「栄次の言う通りだ。凛恋が自分から強くなろうとしてるチャンスを俺が潰すなんてしちゃいけない。ありがとう、ちょっと今から凛恋のところに行ってくる」

『カズの力になれて良かった』

「栄次も疲れてるのに悪かった」

『気にするなよ。俺とカズの仲だろ?』

「ああ。じゃあ、行ってくる」

『ああ、行ってこい。おやすみ』

「おやすみ」


 栄次との電話を終え、俺は慌てて寝間着から着替えて戸締まりをし家を飛び出す。

 駅から電車に乗り、凛恋の住むアパートの最寄り駅で降りる。そして、小走りで歩き慣れた道を走り、見慣れたアパートの玄関に行って凛恋の部屋のインターンホンを鳴らす。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る