【二六七《職権乱用》】:二

「多野のそういうところはダメよね」

「そういうところ、ですか?」

「年上に甘えられないところよ。私はこれでもレディーナリーの編集長よ。大学生一人をお腹いっぱいにさせるだけの余裕はあるわ」

「古跡さんを疑ってるわけではありませんけど」

「多野が頼まないなら、特上を一通り頼むわよ」

「カルビとタンをお願いします!」


 焦って答えると、古跡さんはクスッと笑って受話器を取った。


「特上カルビと特上タン、それと特上ハラミをそれぞれ二人前、あと生ビールを二つお願いします」

「古跡さん!?」


 特上を頼んだ古跡さんを見詰めると、受話器を置いた古跡さんはクスッと笑った。


「さっきも言ったけど、恩人に安い物は食べさせられないわ」

「さっきから恩人って言われてますけど、俺は――」

「多野がドイツに行ってくれなかったら、私は今頃飛ばされてた。本当にありがとう」

「俺は何も――」

「多野は照れるとそうやって、自分は何もやってませんって言うわよね。でも、いつもそうだけどそんなことはないわよ。多野はアルバイト以上に頑張ってくれてる」


「ありがとうございます。古跡さんにそう言ってもらえると嬉しいです」

「まあ、私よりも帆仮の方が多野を評価してるわよ。帆仮の場合は、私情が入ってるけど」

「私情ですか?」

「帆仮は本当に多野のことが可愛いみたいよ。多野が休みだと寂しそうだし、多野が帰る時も寂しそうにしてるわ」

「そうなんですか?」

「あっ、帆仮に言っちゃダメよ。私が怒られるから」


 可笑しそうに古跡さんが笑っていると、部屋の中に店員が注文した肉を持ってくる。古跡さんがトングで肉を鉄板の上に置くと、肉が良い音を出して焼かれ始める。


「多野とご飯を食べるのも久しぶりね」

「まあ、古跡さんはお忙しいですし、頻繁に食事には行けませんからね。それに家庭もありますし」

「いつも家のことは旦那が全部やってくれてるから、暇が出来ると少しは旦那を助けたくて」

「古跡さんの旦那さんって何されてる方でしたっけ?」

「旦那はいわゆる専業主夫よ」

「専業主夫なんですか。凄いですね、俺は出来る気がしませんよ」

「多野は専業主夫に理解がある人なのね」

「まあ、うちの祖父くらいの年齢になると、専業主夫って聞くと眉をひそめる人は居るかもしれませんね」


 昔から、男は外で仕事をして女は家庭を守る、なんてことが言われてきたらしい。特に俺の爺ちゃんが働いていた時代はそんな考えが主流の時代だった。

 俺は男は仕事、女は家庭という考え方を否定する気はない。ただ、その考え方が絶対的に正しいと思って周囲に強制するのは良くないと思う。この世の中に生きる人達には、それぞれ別の立場がある。その立場から考え方も変わってくるし、その立場毎に最善の体制というのも変わる。


 古跡さんはレディーナリー編集部の編集長としてバリバリ仕事をしている。それに、俺から見ても古跡さんは編集者の仕事に誇りとやりがいを持って取り組んでいるのが分かる。更に言えば、古跡さんにとって編集者は生きがいのように見えた。だから俺は、古跡さんの左遷を避けるためにドイツのローテンブルグで行われるマリアさんの写真集撮影に同行した。きっと、古跡さんの旦那さんも俺と同じ――いや、俺以上に古跡さんの生きがいを守りたいと思って専業主夫をしているのだろう。


「私の父親も旦那が専業主夫なんてあり得ないと言っていたわ。でもね、専業主夫に厳しい目を向ける人は私の父親よりも若い年代でも居るの。それで、私は何度も旦那に迷惑を、辛い思いをさせてきてしまった。だから、それでも専業主夫として私を助けてくれる旦那に――」

「旦那さん、古跡さんに迷惑を掛けられてるなんて思ってませんよ。絶対に」


 俺は、古跡さんの旦那さんに会ったことはない。でも、そう断言出来た。


「俺も専業主夫があまり上の年代の人達に受け入れられないのは分かっています。それでも旦那さんは専業主夫になることを選んだんです。それって、単純に古跡さんのことを好きだったからですよ。古跡さんのことが好きで、古跡さんが幸せで居てほしいから専業主夫の道を選んだんです。だから、辛いことが全くないとは言えないと思いますけど、だからって古跡さんに迷惑を掛けられたなんて絶対に思ってません」

「多野……そうね、ありがとう」


 ニッコリと微笑んだ古跡さんは、トングで良い具合に焼けた肉を俺の皿に置く。


「さて、肉も焼けたし乾杯しましょうか」

「はい」

「「乾杯」」


 俺と古跡さんはジョッキを持って軽く合わせる。そして、俺が一口飲むと、向かい側では古跡さんがゴクゴクとビールを飲んで、焼けた特上カルビをタレに漬けて食べた。


「ほら、多野も食べなさい。足りなくなったらどんどん追加するから」

「ありがとうございます」


 古跡さんに促されて、俺は古跡さんが置いてくれた特上カルビをタレに漬けて食べる。タレの味も良いが、それ以上に柔らかく上品な脂のカルビ肉が抜群に美味しかった。


「そうそう。そうやって男の子はもりもり食べてるのが良いのよ」


 俺がカルビ肉をおかずに白飯を食べると、古跡さんは本当に嬉しそうに微笑んだ。


「ほんと、多野って良い男よね」

「はい?」

「あっ、勘違いしないでよ? 私が好きなのは旦那だけだから」


 そう言って、古跡さんがニコっと笑いながら左手の薬指にはめた結婚指輪を俺に見せる。それに俺も笑みを返して左手の薬指にはまったペアリングを見せた。


「分かってますよ。それに、俺には凛恋が居ますから」

「良い男には良い女が寄り付くものなのね。八戸さんも本当に良い子だし」

「そうですね。凛恋は本当に良い子です。俺にはもったいないくらい」

「馬鹿言わないの。多野も八戸さんに負けず劣らず良い男よ。まあ、多野の良さをぱっと見で見抜ける女は早々居ないと思うけど。多野は良さを隠したがるし」

「俺は普通にしてるだけなんですけど……」

「能ある鷹は爪を隠すって言うけど、多野の場合は自分の能に全く無頓着なところが面白いわ。それに、雰囲気も目付きの鋭い鷹って言うよりもほのぼのと公園で歩き回ってる鳩みたいだし」

「鳩は平和の象徴ですから」

「そうよ。多野はうちの平和の象徴。今回は、私にとっての平和の象徴だった。本当にありがとう」

「何度もお礼を言われると照れるんですけど……」


 困ってビールを一口飲むと、古跡さんは小さく声を出して笑った。


「本当、多野って不思議なやつよね。初めて会った時に、私に向かって言った言葉覚えてる?」

「なんて言いましたっけ?」

「やるかやらないかは今ここで決めなくても良いって言おうとした私に『やります。正直、手っ取り早くアルバイトを決めたかっただけなので』って言ったのよ。ボーッとした顔してたのに、その言葉を言った瞬間に目付きが変わったの。それで、ああこの子は本気でやるなって思ったわ。それに、なんだかピンときたのよ。こいつだって」

「俺、そんな失礼なこと言ってたんですね。すみません」

「そんなことないわ。それで私は多野を採用するって決めたし、その時の私の目が狂ってなかったから、今も私はレディーナリー編集部の編集長をやらせてもらえてる。多野を初めて見た時の自分の閃きを褒めたいくらいよ」

「これからも、古跡さんの閃きに応えられるように頑張ります」


 べた褒めされて、やっぱり恥ずかしくて困りながらカルビを口へ運ぶと、古跡さんが箸を置いた。その瞬間、古跡さんの表情が真剣になり雰囲気が変わったのを感じた。その雰囲気の変化に、俺も箸を置いて古跡さんへ真剣に目を向ける。


「多野、これから話すことは私が自分一人で考えていることで、まだ何も決まっていないことよ。それでも、真剣な話として聞いてほしい」

「は、はい」


 真剣な古跡さんの語り口に、俺はどんな話が飛び出すのだろうと身構える。すると、古跡さんは俺に頭を下げた。


「大学を卒業したら、うちに来て。お願い」

「…………へっ?」


 頭を下げる古跡さんの言葉に、俺は何を言っているのか一瞬分からなくなる。大学を卒業したらうちに来て? それはいったいどういうことだろう?


「大学を卒業したら月ノ輪出版に就職して、レディーナリー編集部で働いてほしいの」

「……え? ええっ!?」


 戸惑っている俺に古跡さんが更に詳しく言ってくれて、俺はやっと古跡さんの言葉の意味を理解した。


「塔成大と言ったら、日本でもかなりの名門大学なのは私も分かっている。塔成大の卒業生には大手商社や官公庁の職員や検察のキャリアになる人が多いのも聞いてる。でも、うちの月ノ輪出版も出版業界じゃ大手だし、大卒の就職先としては良い方だと思う。初任給も大学新卒の平均よりも高いわ」


 古跡さんに見詰められる俺は、古跡さんから感じるどうしても俺を採用したいという圧に圧倒される。ただ、どうしてそこまで俺を買ってくれているのか自分でもよく分からなかった。


「多野にも夢があるのかもしれない。その夢を追い掛けたいと言われたら、私はそれを止めることは出来ないし、夢を止めてまで多野をうちに入れたいとは言えない。それに、編集者は多忙で決して楽な仕事じゃない。でもね……それでも、私は多野と一緒にやっていきたい。その気持ちは私だけじゃなくて、レディーナリー編集部のみんなから感じるの。だから……お願いっ。うちで――」

「はい! 喜んで!」


 思わず、俺は立ち上がって深々と頭を下げてそう言っていた。

 就職がそんな簡単に答えを出して良い問題じゃないのは分かっている。新卒での就職先を誤って、苦い経験をしたという話も聞いたことがある。でも、そういう心配はレディーナリー編集部にはないことは確信出来ていた。俺には、インターン時代から今日まで一緒にやってきた経験がある。その経験から、レディーナリー編集部は俺に合った職場だと思えていた。そのレディーナリー編集部に、編集長の古跡さんの方から来てほしいと言われているのだ、これ以上のチャンスはない。そう思ったから、俺は即決で答えを出していた。


「多野、保護者の方や八戸さんに話をしてからでも良いから」

「いえ、古跡さん達の居るレディーナリー編集部なら心配事は何もありません。仮にうちの祖父母が不安に思ったら、全力で俺がそうじゃないって説明します。だから、よろしくお願いします」


 俺がまた頭を下げると、目の前で古跡さんが深く大きなため息を吐くのが聞こえた。その古跡さんの顔を見ると、心から安心した笑みを浮かべていた。


「本当に良かったわ。もし、断られたら立ち直れなかった」

「立ち直れなかったって、そんな大げさな……」

「大げさじゃないわ。私は多野を他のどこにも取られたくなかったからインターンを終わらせても必死に動いたし、インターン再開が無理だって思ったら編集長権限でアルバイト採用枠を作ったの。それに、多野をどこの会社にもやりたくなかったから、就職活動解禁前から内々に唾を付けたのよ。あっ、これは内緒にしてて。流石に広まるとマズいから」

「分かってます。古跡さんの立場を悪くするようなことはしません」

「今日まで一緒にやってきた仲だものね。はぁ~、本当に良かった。それに凄く嬉しい。多野の卒業後も一緒にやれるなんて。ここからは、内々定祝いよ。まあ、誰にも言えない二人だけのお祝いだけど」

「あの……凛恋には言ってもいいですか?」

「構わないわ。多野も言いたいでしょ?」

「ありがとうございます。凛恋にも他の誰にも言わないように言っておきますから」


 俺は古跡さんにお礼を言って微笑むと、古跡さんは背伸びをしてジョッキを呷ってビールを飲む。


「よし! 多野の気が変わらないように良い肉を食べさせないとね」

「だ、大丈夫ですよ。気なんて変わりませんから」


 上機嫌で受話器を取りながら話す古跡さんにそう言うが、古跡さんは俺に構わず追加注文をする。でも、俺はその古跡さんの笑顔の横顔を見て、浮かせた腰を椅子の上に戻した。

 椅子に下ろした腰がふわふわと浮いているような感覚がして、今自分の置かれている状況の現実感が薄い。


 今、この数一〇分で、俺の就職が決まった。まだ内々定で古跡さんと俺の口約束でしかない。だけど、古跡さんは嘘なんて吐かないし、きっと古跡さんは俺を正社員採用するために全力で動いてくれるのは間違いない。だから、俺はきっと大学を卒業したらレディーナリー編集部で働くことになる。そう分かっているのに、想像もしていなかったことだからやっぱりふわふわと宙に浮いてる感覚がした。だけど、確実に俺の心の中に歓喜が湧いていた。


 遂にやった。遂にここまで来た。

 凛恋との結婚という夢のために必要な条件だった俺の就職が決まったのだ。だから、あとは残り一年、俺と凛恋が個々として自立出来ていると証明出来れば良い。それが出来れば、俺と凛恋は卒業して結婚出来る。

 俺は今すぐ凛恋に知らせたい気持ちを抑え、さっきよりも軽やかな動きで肉を食べて白飯を掻っ込む。


「まだみんなに言えないのは残念ね」

「編集部の人達には言えないんですか?」

「何言ってるのよ。うちの連中に話したら、多野の就職祝いをするって騒ぎ始めるに決まってるでしょ。こっちは今からそれとなく人事に話をしないといけないって言うのに、そんなことになったら人事が良い顔をしないわ。でも安心して、絶対に多野の採用枠を作る。去年三人うちに枠があったけど、一個は空いたし今年は枠を貰わなかった。だから、来年の一枠は貰えるのは確実だから、その枠を編集長権限で埋める」

「古跡さんを疑うわけじゃないんですけど、そんなことして本当に大丈夫なんですか?」


 古跡さんの言い方が結構強引な話に聞こえ、俺がちょっと不安になって尋ねると、古跡さんが空になったビールジョッキを持ち上げてニヤッと笑う。


「こういう時に自分のやりたいようにするための編集長権限よ」


 その古跡さんの言葉に「編集長権限ってそういう時のためじゃないと思いますけど……」なんて突っ込みが浮かぶ。でも、古跡さんの明るい笑顔もあったし、何より俺がレディーナリー編集部で働きたいと思えたから、古跡さんの嬉しい職権乱用を笑顔で受け入れた。

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