【二六四《偏執者は混沌の渦中へ》】:一

【偏執者は混沌の渦中へ】


 あまり眠れなかった俺をよそに、まだ寝ている栄次と瀬名を残し、防寒着を手に取って部屋を出る。すると、丁度トイレから出て来た真弥さんと出くわしてしまった。


「凡人くん? 出掛けるの?」

「ちょっとコンビニまで」


 本当は行く場所なんて決めていなかった。とりあえず、外に出て一人で考えたいと思っていた。


「私も付いて行って良い?」


 真弥さんはそう言いながら手で髪を梳く。


「いえ、コンビニにわざわざ真弥さんが付いてくる必要なんて」

「コンビニに行くのは凡人くん一人でも大丈夫。でも、凡人くん一人で悩みを抱えるのは絶対に許さない。コート取ってくるから待ってて」


 俺の返事を聞かずにコートを取りに戻った真弥さんを見送り、壁に背中を付けて小さく息を吐く。すると、すぐにコートを羽織った真弥さんが戻ってきた。


「行こっか」

「はい」


 俺より先に玄関を出た真弥さんの後を追い、俺は家の鍵を掛けて歩き出す。すると、真弥さんは俺が歩き出そうとした方向とは逆に歩き出す。


「真弥さん?」


 反対方向に歩き出した真弥さんの背中に声を掛けると、振り返った真弥さんは俺に首を傾げて立ち止まって言った。


「どうせ、行く当てなんて決めてなかったでしょ。だったら、ゆっくり話せるところに行こうよ」

「はい」


 まるで何もかもお見通しだという雰囲気の真弥さん。まあ、さっきもそうだが前々から真弥さんには心を見透かされている場面が多かった。

 真弥さんの後をついて歩き、家から離れた場所にあるコンビニに入る。そのコンビニに入った瞬間、焼き立てパンの香ばしい香りが漂ってきた。


「ここ、二四時間営業でいつでもパンが食べられるの。凡人くんは何食べる?」


 トレイとトングを持った真弥さんの手からトレイとトングを奪うと、真弥さんがクスッと笑う。


「ありがと。じゃあ、私はクロワッサンにしようかな」


 俺は真弥さんに言われたクロワッサンを自分の分もトングでトレイの上に載せる。朝早いということで二人ともパンは一個ずつで、会計をしてくれた真弥さんがコーヒーも二人分買ってくれた。

 コンビニの窓際にあるカフェスペースのカウンター席に並んで座ると、真弥さんがコーヒーを一口飲んでから俺に顔を向けた。


「話してみて」

「……昨日、真弥さん達が寝た後、居間で話してた萌夏さんと理緒さんの話を聞いてしまって。……理緒さんが、夏美ちゃんと会ってたらしいんです。詳しい内容を聞いたわけではないんですけど、夏美ちゃんのリハビリ経過を知っていました。多分、理緒さんは夏美ちゃんのお世話をしてるんじゃないかと思います」

「そっか。それで、凡人くんは戸惑ってるんだね。自分も川崎さんに会った方が良いんじゃないかって」

「…………そうです」


 ちょっと話しただけで俺の迷いを真弥さんは言い当てる。

 俺は夏美ちゃんのことを忘れようと思った。これ以上俺が関わることで状況が好転するとは思えなかったからだ。いや……もう好転しようがないくらいの最悪の結果へ俺が夏美ちゃんを突き落とした。


「俺は……夏美ちゃんを傷付けて、それで追い込んでしまった。そんな俺が今更夏美ちゃんに会って何か出来るわけじゃありません。それに、俺は夏美ちゃんと凛恋を比べて凛恋を選んだ。もし今会ってしまったら、あの時会わないと思った自分の意志を曲げることになります。そんなことをしたら――」

「川崎さんより八戸さんを選んだ決断を曲げたら、川崎さんを無意味に追い込んだことになる。それが怖いんだね」

「……俺が夏美ちゃんを見捨てなければ、夏美ちゃんは飛び降りる決断をするまで追い込まれなかったはずです。だから、その決断を曲げたら……俺は、意味もなく夏美ちゃんに一生消えない傷を――」

「前にも言ったけど、私は、川崎さんのことはきっぱりと忘れるべきだと思う」

「……そう、ですよね」


 真弥さんの言葉に自分でも分かる歯切れの悪い言葉で答えると、隣から真弥さんの深いため息が聞こえた。


「はぁっ~……八戸さんもそうだけど、筑摩さんも切山さんも迂闊だよ。凡人くんに聞かれそうな場でそんな話をするなんて」

「いや……今回の――」

「凡人くんはどんなことでも自分が悪いって変換するような人なんだから、本当に凡人くんを守るつもりだったら、凡人くんの心を暗くするような話は徹底的に隠すべきだった。まあ、昨日は結構飲んでたっていうのもあるけど」


 クロワッサンを手で千切って一口食べた真弥さんは、コーヒーでクロワッサンを流し込んでまたため息を吐いた。


「とにかく、川崎さんには会っちゃダメ。さっき凡人くんも言ってたけど、これ以上、凡人くんが川崎さんのことを考えても状況が好転することなんてない。きっと、凡人くんに会ったら川崎さんはまた凡人くんに依存する。もしそうなって、川崎さんの分離不安障害が改善されなくて凡人くんと離れられなくなったら、その時、今度追い込まれるのは凡人くんの方。もう、凡人くんは絶対に人を見捨てるなんて決断は出来なくなってる。元々そんなことが出来る人じゃなかったのに、八戸さんのためだって自分で決めてた倫理観の壁を突き破って無理矢理やったの。その結果で怖い思いをして、また同じことが出来るくらい凡人くんの心は図太くない。自分でも分かるでしょ? 出来ないって」

「…………はい」


 真弥さんの言い聞かせる言葉に、俺は頷いて肯定するしかなかった。

 答えは一度出たのだ。夏美ちゃんを一度見捨てた俺には、もう何かをする権利も資格もない。それに、何をしようとしても夏美ちゃんのために俺が出来ることはない。だから、俺は夏美ちゃんともう会わずに、夏美ちゃんのことを忘れることしか出来ない。




 俺と真弥さんがコンビニに居た時間はかなり短かった。少し話をして、残ったコーヒーとクロワッサンを食べ終えると、すぐにコンビニを出て家に向かって歩き出した。その道中、俺の心は完全にスッキリしたわけではない。モヤモヤとした感覚はまだ心の中にある。でも、それでも一度出した答えの時と同じで、時間がなんとかしてくれるのを待つしかない。


「私、いつもこんなだらしない格好して外に出てるわけじゃないからね」


 急に真弥さんが自分の姿を見ながら唇を尖らせる。真弥さんは寝起きだったということもあり、寝間着にコートを羽織っただけの姿で出てきている。着ているコートがロングコートだからコートの下の寝間着は目立たないが、それでも女性としてはだらしない格好になるのだろう。


「別にそんなこと思ってませんよ」

「こういう格好を見せても良いって思えるのは、凡人くんだけだよ?」


 また俺をからかうようにクスッと笑った真弥さんに目を細めて視線を返すと、真弥さんは急に立ち止まる。


「真弥さん?」

「凡人くんは、今幸せ?」

「幸せですよ。みんなと楽しく過ごせてますし、アルバイトも忙しくも楽しくやれてますし」

「私からはそう見えないな」


 俺のふざけた怪訝の視線に、真弥さんは真っ直ぐ鋭く強い視線を返す。その視線に、俺は驚いて少し目を見開いた。


「夏休みに会いに行った時、ちゃんと言ったんだけどな。それに、その前からもちゃんと言ってた」

「真弥さん?」

「私、何度も八戸さんに言ったよ。凡人くんのことをちゃんと見ててって、凡人くん一人で何もかもを抱え込ませないでって。その度に八戸さんは私に、ちゃんと凡人くんを見る、ちゃんと凡人くんに負担を掛けない、そう答えた。でも、何度も何度も同じことを繰り返してる」

「真弥……さん?」


 今、目の前で真弥さんは怒っている。その怒りの対象が凛恋なのは間違いない。でも、今まで見てきたどの真弥さんの表情よりも冷たくて怖かった。


「はぁ~……」


 深く長いため息を吐いて、真弥さんは肩を落とし顔を下に向ける。俺はそんな真弥さんにどう声を掛けて良いか分からず、ただ真弥さんの様子を窺うしかなかった。


「筑摩さんは本気で凡人くんを八戸さんから奪おうと――ううん、助けようとしてる」

「は? 凛恋から俺を助ける?」


 真弥さんの言葉の意味が分からず聞き返す。俺を凛恋から助けるという表現は、まるで凛恋が俺に害があるみたいな言い方だ。


「凡人くんが今まで傷付いてきたことって、私が知ってる範囲の話だけだけど、ほとんど八戸さん絡みだよ。誰かが八戸さんのことを好きになって、それで凡人くんと八戸さんを別れさせようとして嫌がらせをされる。そんなことの繰り返し」

「それは、俺が凛恋に相応しくない男だって周りから思われるからで」

「相応しくない。それって、他の男の人から見て、八戸さんと付き合ってる男の人が凡人くんだって言うのが気に食わないって思われてるってことだよね? でもね、そんなの当たり前だよ。この世で、恋人が居る人を好きになった人のほとんどが、その恋人よりも自分が相手に相応しいって思ってる」

「でも、もし凛恋の彼氏が栄次みたいに顔が良くて完璧な男なら――」


「それで諦められる人って、そもそもその恋愛に対して本気じゃないの。本気で好きなら、誰だって自分の方が相手に相応しいって思うし、その相手に自分が相応しいって思ってもらおうとする」

「たとえそうだとしても、俺は誰にも凛恋を――」

「たとえそうだとしても、またきっと八戸さんを好きな人は現れる。その時はどうするの?」

「変わりません。俺は凛恋を守――」


 突然真弥さんに腕を掴まれて、ブロック塀に背中を押し付けられる。


「世の中にはどうしようもない人って居る。池水や内笠がそう。ああいう、常識外の倫理観を持っている相手には、警察とか頼りになる彼氏の助けがあると安心なのは間違いない。でもね、今の八戸さんはそうじゃない。一般的な倫理観を持ってる相手からも凡人くんに助けてもらおうとする。自分ではっきり口にせずに態度だけで相手に察させようとする」

「それは、凛恋が男が怖くて――」

「怖くても、人は勇気が出せるんだよ。大切な人のためなら尚更。でも、八戸さんはその勇気を振り絞るよりも先に凡人くんに助けてもらおうとする。八戸さんは凡人くんとは真逆なの。凡人くんは最後の最後まで誰かに助けてもらおうとしない。でも、八戸さんは最後の最後まで誰かに――ううん、凡人くんに助けてもらおうとする。だから、私はずっと凡人くんに八戸さんが相応しくないと思ってる」


 俺をブロック塀に押し付けて、真弥さんは下から俺を見上げて悲しそうな表情をする。


「もう何度だって考えた。もし私が八戸さんの立場だったらこうするのに、もし私が八戸さんの立場だったらああしないのにって。考えても仕方ないことだよ? でも、八戸さんに合わせて、八戸さんのためにって笑って自分を犠牲にしてる凡人くんを見てたら、考えずにはいられない」

「俺が好きなのは凛恋で――」

「その便利な言葉で逃げるのは止めて」

「真弥さん……」

「私がダメなら、私がダメな理由を言って。私のどこが八戸さんよりダメで八戸さんより劣ってるのか言ってみて」

「それは……俺は凛恋が好きで凛恋を大切に思っていて、それに凛恋と将来も誓い合った仲です」

「凡人くんは、それが本当に好きな人の気持ちを断るのに凄く弱い理由だって分かって言ってる? 凡人くんはこう言ってるんだよ。自分には彼女が居て、その彼女を裏切るのは悪いことだから付き合えませんって。それ、全然私がダメな理由になってない。…………それだったら思っちゃうよ。だったら、凡人くんに彼女が居なかったら、私は凡人くんと付き合えるんだって。ねえ、答えて? 私じゃダメな理由」


 ブロック塀に追い詰める真弥さんが俺の左手を右手で握って指を絡める。そして、左手は俺の防寒着のファスナーを少し下ろし、開いた首元から手を入れて俺の首と鎖骨に指を滑らせる。


「俺は、真弥さんのことを好きじゃないからです」

「それは、凡人くんが八戸さんのことしか女性として見てないからだよ。凡人くんは私を高校時代の担任教師で、今は時々会う年上の友達としか思ってない。凡人くんは真剣に私を品定めしたことがない」

「人を品定めなんて、そんな――」

「凡人くんは私に好かれてるの。それに八戸さんにも筑摩さんにも好かれてる。他にも凡人くんを好きな人は沢山居る。その中から誰が自分の彼女に相応しいか見比べて吟味する権利が凡人くんにはある。でも、凡人くんは今までそうしなかった。八戸さんが居るからってことだけで、すぐにラインを引いて考えようともしなかった。だから、八戸さんが好きだからって理由しか言えないんだよ」

「凛恋は俺にとって大切な人なんです。今の俺は凛恋が居なかったら存在しませんでした」


「確かに、今の凡人くんに八戸さんは大きな影響を作ってる。でも、切っ掛けを作った人がその後に現れた誰よりも優れてるなんて言える?」

「凛恋は料理も家事も完璧で――」

「私、今では料理も家事も出来るようになったよ? それは八戸さんに劣ってると思ってたから、結構必死に勉強した。特に料理はね。凡人くんが試しに食べてみたいって言うなら、喜んで手料理をご馳走する」

「凛恋は俺のことを何でも分かってくれて――」

「私は凡人くんのことをよく見てて、それで凡人くんの心の変化を感じ取れてる自信があるよ。自分で言うのはおかしいけど、凡人くんがアルバイト先で追い詰められた時に八戸さんより早く凡人くんの変化を感じ取ることが出来た。それに、今朝だって凡人くんの顔を見ただけで悩んで追い込まれているのが分かった」


「俺が初めて好きになった人は凛恋で――」

「初恋を大切にする気持ちは分かるよ。でも、初恋は尊いけど正義じゃない。言い方は悪いけど、初恋は恋愛の最初でしかない。初恋は大切でずっと心の中に残るものだけど、初恋が一生を幸せにするわけじゃない」

「それでも俺はッ! 俺は凛恋が――」

「やっぱり凡人くんはそう。真面目で一途で……頭でっかちの頑固者」


 俺の左手を握っていた右手と、俺の鎖骨に触れていた左手を同時に動かし、真弥さんは俺の両肩に乗せて思いっ切り体重を掛ける。その重みに思わず俺は膝を曲げた。その瞬間、真弥さんの顔が一瞬で近付き、唇を強く重ねられた。


「ンンッ!?」


 薄くなったコーヒーの苦味とクロワッサンの甘味が外から舌に伝わってくる。その苦味と甘味を伝える真弥さんのキスは、簡単に俺の思考を停止させた。

 感覚が、理緒さんにされたキスと似ていた。いや……理緒さんのキスと同じ……いいや、理緒さんのキスよりも強く激しく俺の思考を掻き乱す。

 俺は真弥さんを納得させられる理由を頭の中で考えて言葉にした。でも、真弥さんはそれを即座に否定した。その回数が重なる毎に、俺の中で頑として固まっていたものが緩んでいくのが分かった。緩んで頑なさを失ったそれに戸惑いが生まれる。


 凛恋のことを好きだという気持ちは確かにある。それだけは揺らいでいない。でも、その凛恋のことを好きだという気持ちで根拠にしていた“凛恋以外はあり得ない”という答えに迷ってしまった。

 凛恋は俺のことを初めて好きだと言ってくれた人で、俺が初めて好きだと思えた人だった。その凛恋を好きだと思えた根拠は、凛恋と居たら楽しくて……何より凛恋は俺の味方になってくれた。凛恋は……俺のために泣いてくれたのだ。


 でも……今まで日々を重ねて何度も季節の移り変わりを見てきた今の俺には、俺のことを好きだと言ってくれる人が凛恋以外にも居て、一緒に居て楽しいと思える人は凛恋以外にも居て、俺の味方をしてくれる人が凛恋以外にも居て……。

 目の前で、激しく唇を重ねる真弥さんの目からは小さな涙の粒が流れ落ちる。


 俺には凛恋以外にも、俺のために泣いてくれる人が居る。凛恋以外にも、俺のことを本気で考えてくれる人が居る。

 だったら、俺の彼女が凛恋でなくてはいけない理由はなんだ? いや……凛恋を俺という人間に縛り付けておかなくてはいけない理由はなんだ? 凛恋という素晴らしい人間の必要性を断言出来ない俺に、凛恋は縛られてはいけないのではないか?


 サッと血の気が引いた。俺は、凛恋が好きな理由を断言出来なかった。理由にしてきたものを否定されて、理由にしてきたものが使えなくなった途端、俺の頑なな意思は宙ぶらりんになって揺らいだ。


「はぁっはぁっ……」


 一瞬唇を離した真弥さんは、荒くなった息を整えてから……また唇を重ねた。

 そのキスに抵抗することも忘れて、俺は頭の中で渦巻き混濁して崩れた思考的枠組みを必死に元に戻そうとした。でも……一度壊れた枠組みの破片は、大きな渦の中に消えてなくなっていた。

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