【二四八《蒙霧升降(ふかききりまとう)》】:三
テーブルの上にある裂きイカを一つ摘まんだ真弥さんは、小さく息を吐いて再び口を開く。
「全く罪悪感を持たない人は人として冷たいと思う。だから、凡人くんが罪悪感を持つのは人としての温かさを持ってる証拠。でも、長く引きずり過ぎると凡人くんの心を罪悪感が蝕んでしまう。それは、絶対に凡人くんにとって良くないことだよ」
「俺がもっと上手く、夏美ちゃんを傷付けずに伝えられたらこんなことになりませんでした」
「人に恋した気持ちが叶わなくても傷付かない人なんてこの世に誰一人も居ないよ。それを傷付けずに断わろうとするなんて絶対に無理」
「そうかもしれませんけど、もっとその傷を浅く――」
「私は、凡人くんがすべきことは全てやったと思ってる。世の中にはいくらでも酷い人が居る。面倒だって思ったら、一切の連絡が取れないように着信拒否をするような人だって居るの。でも、凡人くんは川崎さんを自分が傷付けてしまうって分かっていながら、直接川崎さんに伝えに行った。それはとても勇気の要ることだと思うし、とても誠実な行動だと思う」
「でも……」
「好意を向けられた人はその好意に応えられるか応えられないかの答えを出す必要しかない。そこから先の、好意に応えられずに相手を傷付けたことへのケアまでする必要がないんだよ。むしろ、そんなことはしちゃいけない。かえってそれは相手に変な期待をもたせてしまうから」
「それは……」
確かに、真弥さんの言うことには納得出来ることがある。
告白を断わった相手の失恋の悲しみを、断わった側の人間が癒やすなんて聞いたことがない。それに、真弥さんの言う通り、そんなことをすれば失恋をした側は、もしかしたらまだ望みがあるかも知れないと期待を持ってしまうかもしれない。だから、告白を断わったらそれ以上何かをすべきではない。
「凡人くんは、川崎さんにもう会えないってことを伝えて傷付けたことを悩んでる。でも、それでもし凡人くんが川崎さんに会いに行って、傷付けてごめんなさいって謝ってどうなるの? それで解決されるのは、凡人くんが持った罪悪感をほんの一瞬だけ軽く出来るだけ。その後はきっと、また凡人くんは川崎さんの応えられない好意を向けられ続ける。それで傷付くのは、凡人くんと川崎さんの二人。結果的に、また傷付く時間を長く引き延ばすだけだよ」
「でも、他にどうすればいいかなんて……」
「すっぱり切り捨てて、川崎さんのことを」
「そんな冷たいことは――」
「人へ向ける優しさが一〇〇パーセントその人のためになるとは限らないんだよ。優しさを向けることがかえってその人にとって優しくないこともあるの。逆に、冷たくすることが長い目で見たらその人に優しいことだってある」
「でも……」
「分かるよ。分かるなんて言っちゃいけないことだけど、人の命なんて目の前に突き出されたら、怖くて冷たくすることが出来なくなる気持ちは分かる。そんなの、優しい凡人くんには酷な話だと思う。でも、それでも川崎さんと凡人くんの両方の心をこれ以上傷付けないためには、お互いにお互いのことを忘れて、前に歩き出すしかない」
はっきりとした口調で真弥さんは断言する。忘れるしかないと。それは同時に、俺へ言っているのだ。
今回の問題に関わった全ての人が、一〇〇パーセント幸せだと感じる答えなんてないのだと。
恋愛で全ての人が傷付かないなんてあり得ない。それは分かってはいる。でも、それでも俺は探してしまう。もしかしたら、もう少し頑張れば、もうちょっと足掻いたら、みんなが笑って頷ける答えが見付かるのではないかと。
「人を傷付けたくないって思える凡人くんは本当に優しいし、本当に素晴らしい心を持ってると思う。でも、それと同時にちゃんと向き合わないといけない。誰も傷付けないで前に進むことが出来ないってことを。ううん、もう凡人くんは知ってるよ。今まで沢山自分自身が傷付いてきたんだから。今は、人の命っていう凡人くん自身の心では抱えきれない大きな問題に直視が出来なくなってるだけ。でも、それでもちゃんと前を真っ直ぐ見ないとダメ。振り返ってばかりじゃいつまでも前に進めない。それに…………振り返って後悔する度に凡人くんの心に傷が増えちゃう。そんなこと、私はもう凡人くんにしてほしくない」
手に持った缶ビールを置いて、真弥さんは視線をテーブルに落とす。
「人の命なんて人が抱え切れる大きさのものじゃないよ。そんな大きなものを凡人くんが一人で抱えようとしてほしくない」
「真弥さん……俺は――」
「川崎さんのことを忘れて。それしか方法はないよ」
俺には真弥さんの言葉を否定したり曲げたりしようという気はなかった。ただ、真弥さんが涙を滲ませて俺へ訴える姿を見ているのが辛かった。
また、俺は俺のせいで周りの人を悲しませた。
いつの間にか閉じた目を開いて、俺は視界が真っ暗なことに戸惑う。だが、すぐに自分が布団の中に寝ていることと、閉じられたドアの隙間から居間の明かりが漏れて入ってきているのを見る。どうやら、俺は酔って眠ってしまったらしい。
重たい体を起こして、隣に凛恋が居ないことに気付く。きっとまだ真弥さんと起きているんだろう。
俺は凛恋が居るであろう居間へ続くドアを開けようとする。でも、ドアの向こう側から聞こえた声に、取っ手へ指を掛けた手を止めた。
「筑摩さんの気持ち、私は痛いほど分かるよ」
その言葉に凛恋の返事は聞こえない。でも、ドア越しに感じる雰囲気から、俺が出て行くべきではないというのは分かった。
「八戸さんは凡人くんに川崎さんを忘れさせる努力をしないとダメ。今の状況は、いくら過去を振り返っても何も良くならない。それに、八戸さんには凡人くんに川崎さんを傷付けさせた責任がある。その責任を取るには、無理にでも八戸さんが明るく笑って凡人くんに川崎さんのことを考えさせないくらい、凡人くんに楽しいことを考えさせること」
「でも……夏美ちゃんはビルから飛び降りて」
「それじゃあ、八戸さんはビルから飛び降りたら、誰にでも凡人くんをあげるの?」
「そんなことありません。でも……私もどうしたら良いか」
「凡人くんにも言ったけど、人の命なんて人が抱え切れる大きさのものじゃない。だから、八戸さんが戸惑ってしまうのも分かる。それに、八戸さんが自分の責任をちゃんと理解してるとも思う。でもね、今の八戸さんは端から見てそうは見えないの。だから、筑摩さんは怒ってるし、そんな八戸さんに凡人くんを任せられないと思ってる。私も、今の八戸さんには凡人くんは任せられない」
缶がテーブルの上に置かれる音が聞こえ、その直後に缶が開けられる音が聞こえた。
「凡人くんは凄く頼りになる人だよ。今まで、凡人くんが覆してきたことは並大抵のことじゃないし、その頼りになる凡人くんが見せてくれた姿は凄く魅力的で格好良い。私、それなりに色んな男性を見て来たと思ってるけど、凡人くんは飛び抜けてるよ。だから、私は凡人くんが好きだし、凡人くんに彼女が居て、私に振り向く可能性が凄く低いと思っても諦め切れない。それくらい凡人くんのことが好き。だから、私と同じように凡人くんのことを好きな筑摩さんと八戸さんの気持ちは分かる。だけど、今の八戸さんを見てるとね。ごめん、凄くイライラする」
真弥さんの声が鋭くなるのが分かる。その言葉を止めるには、俺が出て行くべきだ。でも、その真弥さんの言葉を止めるための手が動かなかった。
「でも……どうすれば良いか……」
「それがイライラするんだよ、私も筑摩さんも。どうすれば良いか分からない? 答えは決まってるよ。凡人くんを支えるの。凡人くんは今凄く悩んで落ち込んでる。その凡人くんを支えて立ち直らせるためになんでもする。それは、自分のわがままで凡人くんに人を傷付けさせた八戸さんが負うべき責任だよ。でもね、私も筑摩さんもその責任は喜んで引き受けるよ? だって、私も筑摩さんも凡人くんのことが好きで、辛い気持ちに押し潰されそうな凡人くんを助けたい、気持ちを楽にさせたいって思うから。だから、私と筑摩さんは思ってる。"何よりも凡人くんの笑顔が見たい"って。川崎さんのことがあってから、凡人くんは笑ってる?」
「いえ……私を安心させようとして笑ってくれてますけど、いつもの凡人の笑顔じゃありません……」
「本当はね、凡人くんがやってることをやらないといけないのは八戸さんなんだよ。自分が、凡人くんに川崎さんと会ってほしくないって思って、凡人くんに川崎さんに会わないでって言ったんだよね? それに、川崎さんは分離不安障害っていうただの恋敵の状況じゃなかった。飛び降りなんて最悪の状況は予測出来なかったとしても、深く傷付けさせることは分かってたはず。それでも、八戸さんは凡人くんに川崎さんと会わないでほしいって言って、凡人くんに川崎さんを傷付けさせることを強いたの。私はそれはわがままだと思うよ。でも、彼女なら思って当然のわがままだと思う。だけど、当然のわがままだからと言って、八戸さんがメソメソ泣いてて良いとは思えない。今、一番泣きじゃくりたいのは凡人くんだよ。そういう状況に凡人くんを追い込んだのは紛れもなく八戸さんなんだから」
真弥さんは凛恋を否定する。全否定ではないにしても、かなり厳しく強い否定だった。
「今すぐに凡人くんの気持ちを軽くしようと出来ないなら、すぐに代わって。凡人くんに必要なことは、今すぐに川崎さんのことを忘れる――ううん、考えられない状況を作ること。そうしないと、凡人くんの心はどんどん削れていっちゃう。だから、私は一刻も早く会いに来て状況を見たかった。でも、凡人くんと八戸さんを見て思ったよ。最悪の状況になってるって。何もかも全て、八戸さんは凡人くんに頼り過ぎてる」
空き缶が潰れる音が聞こえた直後、今まで聞いたことがないくらい、体の芯まで侵食されそうな恐怖を感じる真弥さんの声が聞こえた。
「今の八戸さん、本当に最低だよ。そんな人に、凡人くんの大切な人だって胸を張ってほしくないし、そんな人が凡人くんの大切な人だって胸を張ってるのを見ると腹が立つ」
「じゃあ……露木先生ならどうしたんですかっ! 露木先生なら、凡人の彼女の立場で夏美ちゃんが凡人を好きだって知って――」
「凡人くんが簡単に気移りする訳ないでしょ? 凡人くんはそんな軽い男性じゃない。だから、どうもしないよ。ただ、予防線を張っておくとしたら、今まで以上に二人の時間を大切にするかな。それで、自分と居る時が一番楽しくて癒やされて居心地が良いって思ってもらえるように心掛ける」
「…………」
「八戸さんは持ってる女性の魅力に釣り合わないくらい不安症なところがある。だから、凡人くんが簡単に気移りするような人じゃないって信じていたとしても不安になっちゃう。でも、その解決方法が全部凡人くん頼みなのが、私はもの凄く腹が立つ。凡人くんのことを本気で好きな人は誰が見ても私や筑摩さんと同じ反応をするよ。それに、私は川崎さんにも腹が立つけど。凡人くんの優しさに甘えて、分離不安障害っていう特殊な状況に漬け込んで凡人くんに近付こうとするなんて最低だと思う。なりふり構わないで許されるのは、その責任が全て自分に向いていて、好きな人には一切傷を負わせない場合だけ。川崎さんは凡人くんを色んな面から追い込んで精神的に疲弊させた。それは同じ凡人くんを好きな立場でも許容出来ない。好きな人を傷付けるのは好きじゃない。ただ"欲しい"って気持ちだけ」
ドアから離れて、俺は布団の上にあぐらを掻いて座り込む。そして、股の間で両手を握った。
「きっと、凡人くんはそんな八戸さんでも好きで居続けると思うよ。凡人くんは八戸さんに自分の側に居てほしいとしか望んでない。それ以上の何も望んでない。でも、私は凡人くんに好きになってもらえたら、今の八戸さんよりも沢山のものを凡人くんに与えられる。ただ、凡人くんから与えてもらい続けてる八戸さんとは違って」
「私も、凡人に返してます。毎日守ってくれてることに感謝して、凡人にもっと楽しく――」
「それが私の言葉への買い言葉じゃなくて、本当に本気でそう思ってるとしたら、八戸さんより凡人くんに沢山のものを与えられる誰かに凡人くんは気持ちを揺れ動かせるよ。それは、凡人くんが見た目だけで人を判断しない人だから尚更だよ。凡人くんが顔だけで人を判断するような人だったら、きっと八戸さんは安泰だったと思うよ。八戸さんくらい可愛い子って早々居るものじゃないし。でも、凡人くんはちゃんと人の心も見てくれる人だから、気持ちの強さが、凡人くんへの好きの本気さが八戸さんより上だったら、必ず気持ちをその人に傾けて真剣に考えてくれる。その後にどう答えを出すかは分からないけどね」
「凡人は……凡人は誰にも渡しません」
「うん。でもね、そんな口先の言葉を態度が伴ってない今の八戸さんから言われても、誰も凡人くんのことを諦めないよ」
ドアの向こうから聞こえる真弥さんと凛恋の会話が途切れ、俺は布団の上に寝転んで目を瞑る。
目を瞑ってしばらくしてから、ドアがゆっくり開いて閉じる音が聞こえて、布団の中に凛恋が入って来る気配がした。
「私だって凡人に笑ってほしいよ。でも……私がやったら、凡人に夏美ちゃんを傷付けさせた私が、夏美ちゃんのことなんて忘れようなんて言えないよ……そんなこと言ったら…………凡人に嫌われちゃう……」
凛恋が俺の腰に手を回して抱き付き、ぴったりと頬を俺の頬に付ける。
その頬から凛恋の震えを感じながら、俺は無意識を装いながら凛恋の腰に手を回し、凛恋の体を引き寄せた。
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