【二四八《蒙霧升降(ふかききりまとう)》】:二

「凡人くんもさ。あんなことあったのに、なんであいつのこと送ろうってする訳?」


 酒に酔った里奈さんの怒りは俺に向く。その里奈さんは、苛立ちを俺の向けるように空き缶を俺に向かって放り投げた。


「里奈ッ! キャッ!」


 それを見た希さんが声を荒らげて里奈さんを止めようとする。でも、希さんは里奈さんを突き飛ばして俺を睨み続ける。

 里奈さんがここまで俺の前で酔うほど酒を飲むことはなかった。だが、それだけ今日は里奈さんにストレスが溜まっていたということなのだろう。


 酒は人を変える。高校の時から、里奈さんはキレると後先を考えずに物事を口にすることがある。でも、里奈さんは物に当たったり人に乱暴を振るう人ではない。だから、今の里奈さんは酒で言動に掛けるリミッターを外されている。


「夜に女の子を一人で出歩かせる訳にはいかないだろ」


 酒を飲んでいない俺は、酒に酔って傍若無人な態度を取る里奈さんに冷静な態度で言葉を返す。いくら里奈さんの態度に思うことがあったとしても、相手が明らかに冷静さを欠いている時に、俺まで冷静さを失ってはただ激しくぶつかって互いを傷付け合うだけだ。


「どうせ、理緒ともヤりたいとか思ってんでしょ。男なんだし、理緒からヤろうって言われたら嬉しいだろうしね。残念だったわね、絶対にあんたが送ってたら、理緒に誘われてたわよ」

「里奈、もう――」

「何?」


 俺から少し離れた位置に座っていた瀬名がやっと声を発する。でも、里奈さんに睨みを返されて体を縮込ませた。


「チッ……あんなやつ、ちょっとは痛い目みた方が良いのよ」

「里奈さん、それ、どういう意味だ?」


 舌打ちをしてチューハイを呷った里奈さんが呟いた言葉に、俺は聞き返す。でも、必死に冷静さを保とうとしたが、どうしても怒りを隠しきれなかった。


「だから、あんなやつ――ッ!?」


 俺に薄ら笑いを浮かべて言葉を重ねようとした里奈さんは、横から思いっ切り希さんに平手打ちをされて床へ倒れ込む。その希さんの平手打ちはあまりにも激しく、打たれた里奈さんは悲鳴も上げられず、打たれた後も床に倒れ込んで呻くことしか出来ていない。


「いくらお酒に酔ってても、言って良いことと悪いことがある」


 床に倒れ込んだ里奈さんにそう言った希さんは、その冷たい視線を瀬名に向けた。


「瀬名くん、こんなこと言いたくないけど。瀬名くんは何のための里奈の彼氏なの?」

「えっ……」

「今日一日ずっとそう。自分の彼女の里奈が凡人くん達を傷付けてるのに、瀬名くんはちょっと里奈に反論されたら黙って部屋の端でじっとしてた。里奈が怒ったら言葉に歯止めがなくなるって瀬名くんが知らない訳ないでしょ。里奈が話すことは里奈の責任かもしれない。でも、自分の彼女が周りを傷付けてるのを黙って見てるのって最低だよ」


 希さんも酒が入っているからか、日頃は瀬名に向けない強い言葉を向ける。でも、その希さんの言葉は間違ってはいない。

 今日一日、瀬名は何度か里奈さんを止めようとはしていた。でも、止める気がない止め方だった。形だけ口を挟もうとして、里奈さんに反論されたら黙り込む。それは、端から見て本気で止めようとしているようには見えなかった。


 瀬名は思っているのだ。自分では里奈さんを止められないと。だけど、形だけでも止めようとしないと彼氏としての立場や、自分に対するイメージが悪くなる。だから、自分に最低限のダメージしか負わないように止めに入ろうという素振りだけ見せる。

 本来なら今の場面、里奈さんに平手打ちまでして言葉を止めないといけないのは瀬名だった。


 暴力を肯定する訳ではない。でも、今の場面で希さんが止めなかったら、里奈さんは人として最低の言葉を口にするところだった。それは、親友の希さんは当然、彼氏の瀬名が全力で止めなければいけなかった。

 言葉を口にして傷付くのは、言葉を掛けられた側だけじゃない。言葉を発した側も傷付ける。それも、ジリジリと後から痛みが増してくるような生々しい傷を心に付ける。だから、言葉の暴力は体を使った暴力と同じくらい全力で止めるべきことだ。


「…………」


 瀬名は黙り込む。その沈黙が、自分を省みての沈黙なのか、希さんに対する不満を飲み込んでの沈黙なのか、それとも別の何かを覆い隠すための沈黙なのかは分からない。でも、ここで黙り込むのも瀬名の悪いところだ。


「瀬名行こ」

「えっ? 里奈? どこに?」

「希のところ行きたくないからラブホ行くのよ」

「里奈……」

「何? 瀬名まで私のこと否定する訳?」

「そ、そんなことないけど」

「じゃあ、良いでしょ」


 瀬名の腕を掴んで引っ張り上げた里奈さんは、出入り口の方まで歩いて行く。そして、俺と希さんを振り返って、怒りの滲み出た顔を向けた。


「友達の彼氏寝取ろうとする女の味方するとかあり得ない」


 その捨て台詞を吐いて里奈さんが瀬名と一緒に出て行った直後、風呂から上がった凛恋が戻って来た。そして、部屋の中を見渡してから俺を見る。


「里奈と瀬名くんは?」

「今日は二人で外に泊まるってさ。それで、二人は明日帰るらしい」

「…………」


 要点だけを言うと、凛恋は俺の隣にストンと腰を落として座り込み、ゆっくりと俺の手を手繰り寄せるように握った。


「ごめん。私が里奈に怒っちゃったの。それで、里奈も――」

「最初にキレたのは俺だ」


 謝る希さんの言葉を否定するように言って、俺は小さく息を吐きながら凛恋の手を握り返す。

 人と人が絡んで揉め事が何も起きないなんてことはあり得ない。でも、親友達が揉めるのは辛い。それに、その原因が俺だなんて……。


「凡人は何も悪くない。希だって悪くない。誰も悪くない」


 誰も責めない凛恋の言葉は、とても優しくて凄く都合の良い言葉だった。本当に何もかもが誰のせいでもなかったら、どんなに楽だったか分からない。

 三人になった部屋の中が静かになり、誰も言葉を発さなくなる。その部屋の中に、インターホンの音が響く。

 玄関まで歩いてドアを開くと、栄次の顔が見えた。


「ただいま……カズ?」

「里奈さんと瀬名はホテルに泊まるらしい。それで、明日帰るってさ」

「そうか」


 まるで知っていたかのような反応をした栄次は、部屋の中に居る希さんを見た。


「希。今日は希の家に泊まって良い?」

「う、うん」

「じゃあ、夜も遅いし行こうか。カズ、凛恋さん、おやすみ」

「あ、ああ」

「二人とも、おやすみなさい」


 戻って来てすぐに希さんを連れて希さんの家へ向かった栄次を見送り、俺はドアの内鍵を掛けた。


「凡人、里奈に何か言われた?」

「いや、俺は何も」

「……言われたんだ。ごめん、里奈……女子会でも酔うと口が悪くなるから」


 俺の表情から何かを察した凛恋は、俺の腰に手を回して抱きつく。そして、ゆっくりと俺の頬にキスをした。


「んっ……」


 凛恋の体を壁に押し付け、俺は凛恋にがっつくように凛恋の唇を塞いだ。

 二人っきりになれた瞬間、凛恋に甘えたい衝動に心を支配される。

 凛恋の手を握り、空いた手で凛恋を抱き、自分の体を凛恋に密着させる。そして、冷え切った心を凛恋で温めようとする。


「凡人――」


 凛恋が何かを言おうとした瞬間、俺のポケットに入れたスマートフォンが震える。それに、凛恋が唇を尖らせて俺を見上げた。


「真弥さんからだ」

「出て良いよ」


 凛恋を抱き付かせたまま電話に出ると、電話口からは人の騒がしい話し声や、駅の構内に流れるアナウンスか聞こえた。


『もしもし凡人くん?』

「こんばんは。真弥さん」

『凡人くん、今から凡人くんの家に行くけど大丈夫だよね?』

「えっ? 真弥さん、こっちに来てるんですか?」

『うん。前もって言ってなくてごめんね。今日の新幹線の最終がたまたま空いてて、明日明後日休みだから仕事終わりにそのまま飛び出して来たの』

「凛恋、真弥さんがこっちに来てくれたって」


 一度耳からスマートフォンを離して目の前に居る凛恋へ伝える。すると、目の前で凛恋が小さく頷いた。それを見て、再びスマートフォンを耳に付ける。


「真弥さん、夕飯は?」

『新幹線の中でコンビニのおにぎりを食べたから大丈夫。ちょっと八戸さんに替わってもらえる?』

「はい。凛恋、真弥さんが替わってほしいって」

「うん。もしもし、替わりました。八戸です」


 電話をする凛恋を見ながら、俺は凛恋の腰に回した手に力を込める。

 真弥さんがこっちに来てくれたのは、夏美ちゃんのことで俺と凛恋を心配してくれたからだ。栄次達が来てくれた時に、真弥さんは仕事の都合で来られなかったと電話があった。多分、その時からずっと気にしていてくれたんだと思う。


「はい……はい。私は大丈夫ですけど、凡人に聞いてみます。凡人、露木先生が今日うちに泊まりたいって」

「うちに? 部屋は空いてるから良いけど」

「凡人も大丈夫だそうです。はい、じゃあ待ってます」


 凛恋が電話を終えるの聞きながら、俺は心の中にモヤッとした疑問が浮かぶ。

 いくら真弥さんが当日に思い立ってこっちに出てきたとしても、社会人の真弥さんがホテル代を払えない訳はないし、当日にどこのホテルも取れない訳がない。探せば、今から泊まれるホテルはいくらでもある。だから、うちに泊まりたいというのは、泊まる場所がないからではないと思う。だとしたら、真弥さんは何のためにうちへ泊まるのか。それが分からず、心の中がざわつく。


「お風呂のお湯張り替えないとね」

「俺がやっとくよ」

「ううん。凡人には手を繋いでてほしい」


 俺のズボンのポケットへスマートフォンを仕舞った凛恋は、俺の指を絡め取るように指を組んで手を握った。

 風呂の準備をして居間で真弥さんが来るのを待っているとインターホンが鳴り、俺は凛恋と揃って玄関まで歩いて行く。


「こんばんは。夜遅くにごめんね」

「こんばんは。いえ、わざわざ来てくれてありがとうございます」

「露木先生、こんばんは」

「これ、三人で飲もうと思って途中で買ってきたの」


 真弥さんが大きめのコンビニ袋を持ち上げて微笑む。そのコンビニ袋の口からは、数種類の酒とつまみが見えた。


「とりあえず上がってください」

「ありがとう。今日はお世話になります」


 真弥さんから荷物を受け取り、俺は真弥さんが使う奥の部屋へ荷物を運ぶ。そして、再び居間に戻ると、丁度凛恋がテーブルの前に座った真弥さんに麦茶を出しているところだった。


「お風呂の準備は出来てるのでいつでも入れます」

「八戸さん、ありがとう。じゃあ、これ飲んだらお風呂いただこうかな」


 ニッコリ笑った真弥さんは麦茶をゴクゴクと飲み干す。いくら夜と言っても、真夏の今の時期は、夜になっても昼の暑さが残る。その証拠に、真弥さんの首筋には汗の粒が浮き出て髪も汗で頬に貼り付いている。


 麦茶を飲んだ真弥さんが風呂に入って上がると、真弥さんは涼しげな青のルームウエアを着ていた。揃いのシャツとショートパンツで、派手ではないが可愛らしいデザインをしていた。


「じゃあ、早速飲もうか」


 俺が冷蔵庫に仕舞った飲み物を真弥さんが持って来て、自分で買ってきたつまみをテーブルの上に開ける。


「すみません。俺達の分まで」

「一人で飲んでもつまらないから二人の分も買って当然だよ。それに、今日は泊めてもらうし。はい、凡人くんと八戸さんはチューハイね」

「ありがとうございます。そういえば、ホテル埋まってたんですか?」


 差し出された缶チューハイを受け取りながら尋ねると、真弥さんはニコッとはにかんで首を横に振った。


「調べてないから分からないけど、多分どこかしらは空いてたと思うよ。でも、どうしても今日中に話しておきたいことがあったの」

「今日中に、ですか?」

「うん。まあ、正確には出来るだけ早く、かな」


 なんだか含みのある真弥さんの言葉に戸惑っていると、真弥さんが右手に持った缶ビールを俺と凛恋に向かって持ち上げる。


「とりあえず乾杯しよ。乾杯」

「「乾杯」」


 俺と凛恋が真弥さんに応えて手に持った缶チューハイを軽くぶつけると、三人で同時に缶を開けて口を付けた。


「二人の顔を見れて安心した。川崎さんのニュースを見てずっと来たいと思ってたから」

「心配を掛けてすみません。でも、俺は大丈夫ですから」

「凡人くんの大丈夫は当てにならないから、話半分に聞いておこうかな」


 クスッと笑った真弥さんがビールを飲みながらそんなことを言う。こういう時に全く真弥さんからの信用がない。それは俺の今までの行いが悪いのだろうが心外だ。


「電話で大体は聞いてはいるけど、凡人くんも八戸さんも思い詰めちゃダメだよ。特に、凡人くんは自分の責任だと思っちゃ絶対にダメ」


 微笑んでいた真弥さんの顔が急に真剣になり、声のトーンも明るさを抑えた落ち着いた声に変わる。その真弥さんに、俺は首を横へ振った。


「いや、俺のせいです」

「違うよ。絶対に違う」

「俺は夏美ちゃんが傷付くことが分かって夏美ちゃんにもう会えないと言いました。それが夏美ちゃんを精神的に追い込んだ原因です」

「人の好意を断ることに罪悪感を持つのは当然のことだと思うよ。凡人くんの場合はちょっとその罪悪感が強過ぎるけど、それは凡人くんの優しさのせいでもある。でも、その罪悪感を“長く引きずり過ぎる”のは絶対に良くない」

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