【二四八《蒙霧升降(ふかききりまとう)》】:一
【蒙霧升降(ふかききりまとう)】
みんなと居ても楽しくないと思う日が来るなんて思わなかった。
いつもなら、みんなで集まればワイワイガヤガヤと楽しく遊ぶ。でも、昨日の夕食の後からみんなに流れる空気が変わった。
俺と凛恋の家にみんなで集まっているが、理緒さんと凛恋、里奈さんの間に見えない壁があるのがひしひしと伝わってくる。希さんは、理緒さんと壁は作っていないが、理緒さんと凛恋達の間でどう立ち回れば良いのか困っている様子だった。
明らかに、理緒さんが凛恋に言った言葉が影響している。特に、理緒さんと里奈さんは視線も合わせようとしない。
里奈さんは、人の和ということを重要視する人だ。今の理緒さんは、女性陣と一緒に寝泊まりせずにホテルを自分で取って泊まっている。もちろん、それも里奈さんから見れば女性陣の和を乱していると取られるような行動ではあるが、それよりも問題なのはきっと凛恋との関係のことだろう。
俺がどう思っていようとも、理緒さんは凛恋に面と向かって俺に相応しくないと言った。そのことを凛恋はかなり気にしていたし傷付いてもいた。それを知ったから、里奈さんは理緒さんに怒っているのだと思う。
「お昼どうしようか?」
重たい雰囲気の中、瀬名がそう話を切り出す。大人しい瀬名がこの空気で声を出すのはかなり勇気が要ったはずだ。
「お昼は私が何か作る」
「私も手伝う」
「私も」
隣に座る凛恋が横から俺を見ながら答える。それに希さんと里奈さんが手伝いを申し出た。
「私も作るよ」
希さんと里奈さんから少し間を置いて、理緒さんが俺に視線を向けて言う。四人で料理をすれば、この気まずい雰囲気が解決出来るかもしれない。
「じゃあ、お昼は女性陣に――」
「理緒は別に良いんじゃない。やらなくて」
俺が四人にお願いしようとした瞬間、里奈さんの鋭い声が俺の言葉を叩き切った。
「里奈さん、きっと四人で作った方が――」
「和を乱すやつが居たら迷惑よ。三人でやった方が早いし“楽しく”出来る」
明らかに『楽しく』という言葉を強調して言った里奈さんの視線は、鋭く理緒さんに向けられている。でも、理緒さんはその視線を受けても眉一つ動かさず真っ直ぐ里奈さんを見返していた。
「里奈、四人で仲良く――」
「瀬名は黙ってて」
怒りが表情や言葉に出ている里奈さんを宥めようとした瀬名の言葉も叩き切り、里奈さんはテーブル越しにまだ理緒さんに鋭い視線を向け続ける。
「私だって仲良くやりたいわよ。でも、理緒はそういう気ないでしょ? 希の家に泊まらず自分だけホテル取ってるし、それに“友達の彼氏を盗ろうとしてる”」
里奈さんの言葉で部屋の重たかった空気に、キンッとした冷たさが走る。
「そういう話をこの場でする里奈の方が和を乱してると思うけど」
「はあぁっ!?」
やっと口を開いた理緒さんの言葉に、里奈さんはテーブルに両手を突いて腰を浮かせる。
「二人とも止めて」
一触即発の雰囲気を収めようとしたのは凛恋だった。俺の手をギュッと握りながら、里奈さんと理緒さんを交互に見て、二人の言葉を止めようとする。
「何言ってるのよ。凛恋が一番の被害者じゃん。理緒は凡人くんのこと盗ろうとしてんのよ? しかも、凛恋のことばっかり責めて」
「悪い人のことを悪いって言って何が悪いの?」
「なんですってぇっ! もう一回言ってみなさいよッ!」
凛恋が収めようとした里奈さんの怒りは爆発し、遂に立ち上がって理緒さんに掴み掛かろうとする。その里奈さんを止めるために、俺は二人の間に割って入り、里奈さんの進行を腕で遮る。
「里奈さん、落ち着いて」
「何で凡人くんが止めるのよッ!」
「二人に喧嘩してほしくないからだ」
視線の先に居る里奈さんは、俺の言葉を聞いた瞬間、目を細める。でも、その鋭い視線は変わらないどころか、その鋭さを増した。
「こんなこと言いたくないけどさ。凡人くんが一番悪いと思うけど」
「里奈ッ! 凡人は何も悪くないっ!」
立ち上がった凛恋が、今度は俺と里奈さんの間に割って入る。でも、里奈さんはその凛恋を押し退けて俺に鋭い視線を突き刺し続ける。
「だって、凡人くんが理緒のことをはっきり振らないから悪いんでしょ」
「私、凡人くんに振られてるよ。結構何度も」
後ろから理緒さんの冷静な声が聞こえる。その理緒さんに視線を向けた里奈さんは、俺を押し退けようとする。でも、俺がそれを遮った。
「理緒のこと庇うの? 凡人くんは凛恋と理緒どっちが大事なのよ」
「凛恋だ」
「だったら、どうして理緒のことを庇うのよ。そいつは凛恋から凡人くんのこと奪って付き合おうって考えてんのよ? もしかして、二人と――」
「里奈。凡人くんはそんな人じゃない」
里奈さんを中心に荒れていた部屋の空気に、凜とした希さんの声が響く。その希さんは、久しぶりに冷たい怒りを感じる表情をしていた。
「お昼を作るなら買い物に出ないと。私、凡人くんと話があるから、買い物は五人で行ってくれないかな?」
「のぞ――」
「里奈、お願い出来る?」
「わ、分かった」
希さんにじっと見られて言われた里奈さんは、鋭い視線を消して自分の鞄を取りに行く。それを見て、瀬名と栄次が腰を上げると、理緒さんも部屋の端に置いてあった鞄を手に取った。
「希……」
「凛恋、凡人くんを少し借りても大丈夫?」
「うん」
凛恋が希さんと向かい合って言葉を交わしている間、俺は栄次の近くに寄って肩に手を置く。
「凛恋達のことを頼む」
「ああ。カズも希のこと頼んだ」
「ああ」
希さんと一緒に凛恋達を見送った俺は、テーブルの前に座って向かいに座った希さんに視線を向ける。すると、希さんは小さく息を吐いて、テーブルの上に視線を落とした。
「正直……なんて言って良いのか分からない」
その希さんの言葉は、心の底から出た素直な言葉だった。
誰だって、俺が見捨てた夏美ちゃんがビルから飛び降りたという今の状況で、戸惑って何を言って良いか分からなくなるに決っている。もし、俺が逆の立場だったとしても同じだ。
「人として、困っている人、傷付いている人を放って置けないっていう凡人くんの行動は間違ってないと私は思う。私も凛恋も、凡人くんがそういう優しい人だってよく分かってるから。でも、凛恋は川崎さんが凡人くんを好きなことを本当に不安に思ってた。だけど、川崎さんの状況を考えて結構我慢してたの。最近は、その我慢も限界だったみたいだってけど……」
「やっぱり、希さんにも相談してたんだな」
「うん。うちにお泊まりした時に、夜、結構そういう話になってたから」
凛恋が希さんに相談しない訳がない。希さんは凛恋にとって一番の親友なのだ。だから、俺に相談出来ないような女の子特有の悩みは真っ先に希さんに相談するはずに決っている。
「今回の件で、私はね……川崎さんが悪いと思ってる。これは、女性としての立場から思うこと」
「希さん、夏美ちゃんは何も悪くないよ」
「凡人くんはそう言うしかないのは分かってる。凡人くんは凄く優しいし、何かあったら真っ先に自分を傷付けて解決する。だから、こんな誰のせいにも出来ないようなことは、自分のせいだって片付けるに決ってる。でもね、それでも私は川崎さんが悪いと思う。だって、卑怯だよ」
夏美ちゃんに対して卑怯だという言葉を使った希さんは、唇をキュッと結んだ。その結んだ唇は僅かに震えている。
「分離不安障害がどんなに辛いかは分からない。でも、世の中に好きな人と結ばれなくて辛いって思う人は沢山居る。私だって、栄次と遠距離で会えなくて寂しいって思う時もあるし、私が居ないところで栄次に可愛い女の子が声を掛けてたらって不安になることも沢山ある。でも、だからってわがままを通して良い訳じゃない。私は、高校生はもうそれが分からない年じゃないと思う。だから、川崎さんは自分が分離不安障害だって言われてるから、その状況を利用しようとしてたと思ってる。優しい凡人くんが、分離不安障害で困ってる川崎さんを放っておけないって分かっててやってたんだよ」
希さんの口から吐かれる言葉は、優しい希さんらしくない言葉だった。でも、それが嘘であるとは思えない。目の前で希さんの唇は震え続け、目には瞳を潤ませる涙が滲んでいる。その唇の震えも涙の滲みも、希さんが苛まれているからだ。俺の目の前で、夏美ちゃんを責めるという罪悪感に。
「それに、川崎さんがビルから飛び降りたのが凡人くんのせいだとは限らない。もちろん、凛恋のせいだとも限らない」
「俺は夏美ちゃんを傷付けた。それで、夏美ちゃんを――」
「凡人くんの悪い癖だよ。何でも悪い方に考えるのは」
横に首を振って希さんは言う。
「好きな人に振られることは凄く辛いことだよ。でも、それで自殺を考える人も居れば、その辛さを乗り越えられる人も居る」
「でも、夏美ちゃんは精神的に弱ってたんだ。それなのに俺が夏美ちゃんを傷付けたから……」
「でも、それは"可能性"の話でしょ?」
希さんの言葉に、俺は返す言葉はあったが何も言葉を返さない。
希さんは言っているのだ。俺の言う通り"かも"しれないけど、俺の言うとおりじゃない"かも"しれないと。全ては可能性の話でしかないと。でもそれは、希さんの話にも言える。
俺の言っていることにも、希さんの言っていることにも確たる証拠はない。全て可能性の話だ。
希さんは、可能性でしかないことで自分を責めるのは良くないと言いたいのだ。
「凡人くんは何も関係ないかもしれない。学校でのいじめとか、施設でのいじめとか、川崎さんを追い込んでしまうことはいくらでもあるよ。それに、凡人くんが川崎さんにもう会わないって伝えてから何日も経ってたんだよね? 本当に凡人くんが原因だったとしたら、そんなに日が空く訳ないよ」
「でも、俺が夏美ちゃんを傷付けた事実は変わらないんだ」
俺が夏美ちゃんを傷付けたことは、かもしれないという可能性の話じゃない。はっきりとした確たる証拠のある事実だ。
希さんは俺を否定して、俺が心の中に抱えているものを取り除こうとしてくれている。でも、やっぱり希さんに何を言われても、俺は自分が持っているものが、責任が、俺のものではないと手放せない。
「確かに希さんの言う通り、夏美ちゃんがビルから飛び降りた原因ははっきりしてない。でも、ビルから飛び降りても飛び降りなくても、俺は夏美ちゃんを傷付けたんだ」
「でも、凡人くんは絶対に夏美ちゃんが飛び降りたことに責任を感じてる。言葉では、飛び降りた飛び降りないは関係ないって話してても分かるよ。私だって凡人くんとの付き合いは長いんだから」
「それは、完全に気にしないなんて無理に決ってる。つい最近まで笑って話せてた子がビルから飛び降りるなんて、すんなり受け止めたり他の問題と切り離して考えたり出来るような簡単な問題じゃない」
「それは分かってる。でも、分かってても……ごめんね……私には、関係ないって言い続けることしか出来ないの……本当に、ごめんね」
俯いていた希さんは、遂に両手で顔を覆ってそう気持ちを吐露し涙を流した。
誰にも、この問題をすんなり解決させられる言葉は持ち合わせていないんだ。
この問題は、複雑に配線が絡み合った爆弾だ。そして、その爆弾にはタイムリミットはなく、誰かが誤った配線を切って爆発させるのを待っている。でも、その爆弾には正しい解除が出来る配線は存在しない。どれを切っても爆発する。
触れなければ爆発はしない。でも、常に爆弾は起動し続けて、爆弾の周囲に危険を去らし続ける。
きっと、この爆弾は地下の奥深くに埋めるか深海の底に沈めておくしかないのかもしれない。そうして、爆弾の存在を時間を掛けて忘れさせるしかないのかもしれない。でも、俺には地下を掘り進む重機はないし、深海の底に潜るための調査艇もない。持っているのは、スコップとシュノーケルだけ。そんなものでは頼りなさ過ぎる。
爆弾は俺の心の中で絶えず時を刻み続ける。カチカチと俺を焦らせる音を響かせて、俺の恐怖を煽る。でも、夏美ちゃんを傷付けたという爆弾は爆発しないと分かっていても、俺はテーブルの下で両手を握って体を震わせた。
一日、家の中で過ごして、夕食も凛恋達が作ってくれた。でも、一日掛けても重たい雰囲気は消せず、むしろより重く冷たくなってしまった。
ホテルまで理緒さんを送ることを、俺は許してもらえなかった。でも、許さなかったのは凛恋ではなく栄次だった。
当然だ。里奈さんと理緒さんは俺のことで揉めたし、俺のことで雰囲気が重たく冷たくなった。だから、その状況で俺が理緒さんをホテルまで送ったら、より状況を悪くする。
理緒さんのことを栄次に任せて、俺は買い出しに行ってくれた凛恋達が買ってきてくれた、ボトル缶に入ったアイスコーヒーを飲む。
「マジ、あいつふざけんなってのっ!」
壁に背中を付けて座る俺から少し離れた先にあるテーブルの前では、缶チューハイを一気に飲み干した里奈さんがそんな語気の荒い言葉を吐き出す。
「里奈、飲み過ぎだよ」
「こんなの飲んでられないとやってられないでしょ! 私達、凛恋達を元気付けるために出てきたのに、あいつのせいでめちゃくちゃじゃんッ!」
里奈さんの隣に座る希さんが宥めようとするが、里奈さんは目の前にあったつまみのチーズを荒々しく口へ放り込んで、もう一本缶チューハイを開ける。
「高校の頃からずっと凡人くんのこと狙ってるって分かってたけど、このタイミングってホント最低過ぎでしょ。落ち込んでる凛恋に追い打ち掛けるみたいに話をしてさ」
今、凛恋は風呂に入っている。だから、この部屋に居るのは俺と瀬名、そして希さんと里奈さんだけだ。
この部屋で、強く里奈さんを止められる人は居ない。酔った里奈さんを止められるのは、凛恋か萌夏さん、それか真弥さんくらいだろう。だから、今の里奈さんは野放し状態だった。
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