【二四七《赦しは請わず幸福な堕罪へ》】:二

 アパートに戻ってステラが部屋に入るのを見送ると、ポケットに入れたスマートフォンが震えた。


「凛恋? もしも――」

『凡人……駅に来て』

「凛恋……もしかして駅に来てるのか?」

『うん』

「すぐに行く!」


 電車も無いのにどうやって駅まで来たのかは気になった。でも、今は一刻も早く凛恋の側に行きたかった。

 こんな夜中に凛恋が出歩くなんて危な過ぎる。

 走ってアパートから離れ、アパートの最寄り駅まで向かう。

 駅まで辿り着くと、駅の前で立っている凛恋の姿が見えた。


「凛恋っ!」

「凡人っ!」


 お互いを確認した瞬間、俺達は駆け寄って抱き合う。


「凛恋、どうやってここまで」

「歩いて……」

「なんで電話しなかったんだ。こんな夜中に一人でなんて」

「凡人に頼ったらダメだから……何もかも凡人にやらせたら……凡人の彼女じゃ居られなくなる……」


 その凛恋の言葉で、凛恋が理緒さんに言われた言葉を気にしているのが分かった。


「凛恋は俺の側に居てくれるだけで良いんだ」


 凛恋の背中へ回した手に力を入れて凛恋の体を自分に押し付ける。

 凛恋と抱きしめ合った瞬間、俺の心にはホッとした安心感が湧いた。やっぱり、凛恋が側に居てくれると安心出来る。


「とりあえず、家に――」

「ホテルがいい……」


 シャツを強く掴んだ凛恋は、俺を引っ張る。でも、その力は弱々しかった。だけど……その凛恋の手に俺はわざと引っ張られた。

 駅から少し離れた場所にあるラブホテルに入った凛恋は、無言のまま部屋を選んでエレベーターに乗り込む。


 凛恋の顔は憔悴(しょうすい)しきっている。きっと、俺と同じように眠れなくて、それでずっと夏美ちゃんのことを考えていたんだろう。

 部屋に入った途端、凛恋が俺を壁に押し付けながら抱き付く。その凛恋の背中に手を回して抱きしめ返した。


「夏美ちゃんが飛び降りたのは私のせいなの」

「凛恋のせいじゃない」


 何度も口にした言葉を、俺はまだ何一〇回でも何一〇〇回でも繰り返すつもりで口にした。


「私……凡人が夏美ちゃんに会った後に……夏美ちゃんに会ったの」

「えっ……」


 凛恋の思いもよらない言葉に、思わず凛恋を抱きしめていた手の力が抜ける。


「夏美ちゃんがアパートの前に立ってるのを見たの。それで……声を掛けたら喧嘩になって……」

「凛恋……」


 凛恋は震えていた。でも、小刻みじゃない。尋常じゃないくらい、俺が支えなければまともに立つことも出来ないくらい体を震わせていた。


「私のせいで凡人は夏美ちゃんと会わなくなったって言ってた。だから言ったの。そうよ、私が凡人に夏美ちゃんと会わないでって言ったって」

「凛恋は――」

「もう私の凡人に付きまとわないで、ずっと迷惑してた、私はずっと……凡人に付きまとうあんたのことが嫌いだったって…………あんたが何したって、凡人はあんたを選ばないって……言っちゃったの」


 震える凛恋の体を支えてベッドに座らせ、正面から凛恋を力いっぱい抱きしめる。


「ずっと嫌だった……ずっと夏美ちゃんが凡人に男を感じて女を見せてるのが気持ち悪くて仕方なかった…………私の凡人に、近付いてほしくなかった」


 涙を流して想いを吐き出す凛恋は、自分のシャツの胸元を掴み苦しそうにする。


「それでも、凛恋のせいじゃない」


 俺は、何度も口にした言葉を、何一〇回でも何一〇〇回でも繰り返すつもりで口にした言葉を、何千回でも何万回でも繰り返すつもりで口にした。何度凛恋が否定しようとも、俺はその凛恋の否定を否定して肯定する。

 たとえ、凛恋のやったことが罪だと言われて、色んな人に責められるようなことだったとしても、俺は……俺だけは凛恋を肯定する。


 凛恋を守る。そのために俺は夏美ちゃんを見捨てたのだ。だから、何がなんでも凛恋を肯定し続ける。


「夏美ちゃんは凡人に会いたがってた……それでも、会わせなかった私のせい……」

「違う。誰が何と言おうと、凛恋のせいじゃない。凛恋はただ、俺を世界で一番好きで居てくれただけだ」


 言葉を終えてすぐ、凛恋の唇を奪って凛恋に言葉を重ねさせない。

 唇を俺に塞がれた凛恋は、俺のシャツの胸元を掴み、がっつくようにキスへ没頭する。

 目を背けることは良くないことだ。でも、直視することで心を壊してしまうなら、目を背けなくてはいけない。それは、凛恋なら尚更だ。

 凛恋は、俺にとって何よりも優先される存在だ。何よりも大切で、俺の中で唯一失いたくない、失ってはいけない存在だ。

 凛恋を守るために、凛恋を失わないためにすることが罪だと言うなら、俺はいくらでも罪を重ねる。それで凛恋が俺の側に存在し続けてくれるなら、俺は何でもする。


「凡人……私――んっ……」


 息切れをして唇を離した隙に凛恋が何かを言おうとする。でも、凛恋が何かを言う前に、俺は凛恋に再びキスをしてベッドの上に凛恋を押し倒した。


「凛恋……ごめん……」

「かず、と?」

「ごめん……」


 凛恋を失わないためには、凛恋を守るためには、俺が強くなくてはいけない。俺が強く何もかもを押し退ける強さを持っていなくてはいけない。

 でも俺は……弱い人間だ。


 ロニーを完全に押し退けることも出来ず、自分が犯した罪のプレッシャーも押し退けることは出来ない。ただ、ひたすら耐えて、打たれ続けるしかない。

 耐えて耐えて耐え抜いて、打たれて打たれ打たれ抜いて、俺は今、限界だった。

 強くない俺が強くあろうとすることは所詮無理な話で、強くない俺が強くあろうとするには自分を削らなければいけない。


 凛恋のためになるなら、俺は自分を削ってでも凛恋に尽くす。でも……俺が削れる俺には限界がある。

 自分を限界まで削り切ってしまったら、自分をまた補充しなくちゃいけない。

 俺は、凛恋に甘えなければ自分を補えないくらい弱い。最後の最後に自分が追い詰められたら、俺は守るべき凛恋に頼らなくてはいけなくなる。そんな情けない自分が嫌だった。


「謝らないで。私も同じだから」


 下から俺の目尻を親指で優しく拭った凛恋は、俺の首を抱き寄せて胸に頭を抱く。


「私がエッチしたかったの。私がしたくて凡人に会いに来たの。だから、凡人は何も謝る必要なんてない。凡人は私がエッチしたいってわがままに応えてくれてるだけだから……だから……」

「ごめん……ありがとう……」


 凛恋は俺の罪を、俺の罪悪感を自分のせいにしようとしてくれている。そんなことを凛恋にさせてはいけないのに、限界だった俺は凛恋に甘えてしまった。

 目を閉じると、凛恋が俺をベッドの上に寝かせて覆い被さる。そして、俺のシャツを捲り上げて優しく体を撫でてくれる。


 凛恋に触れられる時間が長くなるに連れて、少しずつ削った自分が補充されていく。その感覚に心地良さを抱き、もっと凛恋に自分を満たしてほしいと渇望してしまう。

 酒に溺れる気は起きなくても、凛恋に溺れることに対する抵抗感が薄い。

 今、凛恋に溺れて、凛恋という幸せの湖に浸っている。今、俺がそんな幸せを感じてはいけないのは分かっている。でも、そうしないと自分が消えて無くなりそうな気がして怖かった。


 首筋に細かくキスをする凛恋の頭を撫でながら小さく息を吐く。

 凛恋はキスをしながら、俺の手を自分の背中に回させる。その自分の手を、俺は凛恋の腰からお尻、太腿に滑らせた。

 凛恋の体に触れられると、俺が浸かっている幸せの湖が深くなる。そして、包み込む幸せの温かさが増す。

 底が見えないほど深い凛恋の中に、自ら自分を沈めて溺れさせる。


「凡人……私、凡人と一緒に居たい……」

「一緒に居る。ずっと、ずっと一緒だ」


 凛恋に答えて凛恋の体を引き寄せる。

 誰に否定されたとしても、俺は凛恋の側を離れない。

 自分を凛恋に押し付けて、凛恋を自分に押し付けさせる。そして、互いの熱でいつも通り俺達は溶けて混ざり存在を一つにする。

 何度経験しても、凛恋と存在が一つになる感覚は俺を幸せにしてくれる。ただ、存在が一つになるということだけで、何もかも、凛恋以外の全てから俺が切り離される。


 凛恋と同じ存在になっている時は、ただ凛恋のことだけを考えていれば良い。ただそれだけ考えれば良い。……いや、それだけを考えなければいけないと思える。

 自分自身に凛恋を強いられていることがスッと、俺の心を楽にしてくれた。




 スマートフォンで栄次達にメールを送り、一応起きて心配させないという予防線を張る。

 俺がスマートフォンをテーブルの上に置くと、隣で横になっている凛恋が俺の腕を引っ張って抱いた。


「凡人……」

「凛恋?」

「凡人に甘えてばかりでごめんね」

「俺も凛恋に甘えてる」


 凛恋の腰に手を回して凛恋を引き寄せると、目の前で凛恋がクスッと微笑む。でも……すぐに俯いて表情を暗くした。


「夏美ちゃんを傷付けたのに――」

「凛恋の笑ってる顔が見たい。凛恋が笑ってくれたら元気が出る」

「うん。凡人のためになるなら」


 凛恋の頬を撫でながら言うと、凛恋はぎこちない笑みを浮かべた。


「私は凡人に相応しくない……」

「凛恋……そんなことない! 凛恋は俺にもったいないくらい完璧な女の子だ」

「理緒と付き合った方が、凡人は幸せかもしれない……」

「そんな――そんなこと絶対にない! 俺は凛恋とずっと一緒に――」

「でも……相応しくなくても……私とじゃない方が幸せでも…………私は凡人が好き。凡人が居ないと私はダメなの……だから……お願いっ……私を――」

「さっきも言っただろ。ずっと一緒に居る。俺達はずっと一緒だ。絶対にずっと一緒に居る」


 不安になる凛恋を引き寄せながら言うと、凛恋は俺の背中に手を回して目から涙を零した。


「凡人……ありがとう」


 俺は卑怯だ。結局、俺は凛恋に逃げた。


「私ね、夏美ちゃんがあんなことになった後でも、凡人が私を選んでくれたことが嬉しいの」

「俺は、凛恋以外を選ばない。絶対に凛恋が最優先だ」

「うん。喜んじゃいけないのは分かってるの。実際にそれで夏美ちゃんは傷付いたし、傷付いたことで追い詰められてあんなことになっちゃった……。だけど……凡人は私のだもん。絶対に、夏美ちゃんに渡したくなかった。ううん、誰にも渡したくない」


 俺にしがみつく凛恋を抱き返す。


「俺だって誰にも凛恋を渡したくない。あいつ――ロニーになんて絶対に嫌だ」

「何度でも言う。私は凡人だけのもの。ずっと凡人だけ」


 ぴったりと寄り添う凛恋の温もりに目を閉じると、凛恋が頬や口の端へキスをする。その甘える凛恋を手繰り寄せて、俺は凛恋の体に触れる。

 いくらみんなに連絡したと言っても、ずっとこのままで居られる訳がない。このままで居られる訳がないと分かっているのに、このままで居たいと思ってしまう。

 このままずっと、ただ凛恋の温もりに浸っていたい。


 先に見えている未来が茨の道にしか見えなくて、道は見えているのに道を歩いた末にどこへ辿り着くのか分からない。だから、この場に留まっていたくなる。

 今まで怖いと思うことは何度もあった。でも、今の怖さは今まで経験して来た怖さとは異質だった。


「凡人……大丈夫」


 背中に手を回した凛恋が優しく撫でてくれる。


「凛恋、みんなと会うまでもう少しだけこうしてて、良いか?」

「うん。私ももう少し凡人とこうしてたい」


 人の命を抱えることなんて誰にも出来ることじゃない。人の命は抱えられないくらい重い。だからみんな、大切な人の死でさえも忘れて乗り越える。たとえ、思い出して悲しみに暮れたり、思い出して弔ったりしたとしても、思い出すまで人は忘れている。

 それくらい重い夏美ちゃんの命を、俺は今も危険に晒し続けている。そんな重たい罪を、償いますなんて簡単に口に出来ない罪を、俺は心の底から忘れたいと目を背けた。最愛の凛恋に甘えてまで、俺は立ち向かうことから逃げた。


 俺は弱い。だけど、自分が弱いからと言って諦めて良い訳じゃない。でも、他に道がないなら、忘れることでしか解決出来ないのなら、そうするしか他にない。

 俺がやろうとしていることは紛れもなく罪だ。忘れるということほど罪なことはない。それでも俺は、自分が忘れることを願っている。

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