【二四七《赦しは請わず幸福な堕罪へ》】:一

【赦しは請わず幸福な堕罪へ】


 凛恋を含めた女性陣は希さんの家に泊まり、栄次と瀬名は俺の家に泊まった。でも、理緒さんだけは一人だけホテルを取った。


 夜、焼き肉屋で理緒さんは凛恋へ辛辣な『大嫌い』という言葉を浴びせた。

 元々、凛恋と理緒さんは仲が良かった訳じゃない。むしろ、凛恋も理緒さんも互いに敵対心を持っているような間柄だった。でも、たとえ過去がそうだったとしても、今は仲の良い友達になれていたはずだった。


 理緒さんと凛恋が仲違いをしたのは、夏美ちゃんに関することへの凛恋の対応だった。

 理緒さんは思っているのだ。凛恋が、俺のためになることを何もしていないと。でも、そんなことは決してない。凛恋が俺の側に居てくれさえすれば良い。それだけで、俺は頑張れる。だから、凛恋が何かを俺にしようとしなくて良い。あえて、凛恋に俺のために何かをしてほしいと言えるのなら、凛恋に俺の側へ居てくれようとしてほしい。でも、それは願わなくても凛恋がやってくれている。


 布団の中で体を起こして、隣の部屋で眠っている栄次と瀬名を起こさないように着替え、玄関の鍵を閉めて外へ出た。

 昨日の夜は、凛恋と抱き合っていたら眠ることが出来た。でも、今日は凛恋が居ない。だから、全然安心出来ず眠ることが出来ない。


 外へ出ても、行くところなんて限られている。もう電車は終わっているから、飲み屋に行くことも出来ない。いや……たとえ電車があったとしても、今は酒を飲む気にはなれない。


 しばらく歩いて、夜の公園にある街灯に照らされたベンチの上に腰掛ける。公園に人けはなく静かだった。

 俺は、どうすれば良かったんだろう。そう考えても仕方ないのに、静かな公園に一人で居ると、どうしてもそういう考えに頭が動いてしまう。


 選択肢はなかった。夏美ちゃんか凛恋かと言われたら、迷わず凛恋だ。でも、俺には夏美ちゃんを納得させられる手段がなかった。……いや、俺では思い付けなかった。だから、俺は夏美ちゃんを傷付けることを選んだのだ。

 それは、間違っていた。間違っていたから、夏美ちゃんに命を絶とうなんて選択をさせた。でも、どうしても、夏美ちゃんを傷付けた自分の立場にもう一度立っても、あの時と同じ答えしか出せない。


 夏美ちゃんにどんなに言葉を重ねても、夏美ちゃんは俺が夏美ちゃんの側を離れることを拒んだだろう。それでも俺が強引に側を離れることを選択すると、夏美ちゃんは心を閉じてしまう結末は変わらない。

 夏美ちゃんに分離不安障害を克服してもらうには、まだまだ時間が掛かった。でも、そのいつまで掛かるか分からない時間を、ずっと凛恋に無理させる訳にいかない。


 凛恋はそれまでもずっと無理をしてくれていた。でも、俺に夏美ちゃんと会わないでほしいと言った時には、既に無理の限界だったのだ。だから、あれ以上凛恋に無理をさせる訳にはいかない。

 もう一度考えても、俺は結局間違った選択肢しか選べない。そもそも、正解の選択肢があるのかも分からない。


 正解は、夏美ちゃんが傷付かずに、夏美ちゃんの側を離れる選択肢だ。でも、その正解には、何度頭の中でシミュレートしても、どう足掻いても辿り着ける道がない。


「もし……凛恋じゃなくて夏美ちゃんを優先したら……」


 そう呟いて、凛恋を傷付けることを想像して、目の奥が熱くなり胸が詰まる。

 もし、凛恋より夏美ちゃんを優先したら、夏美ちゃんは自ら命を絶とうなんて考えなかったはずだ。でも、その代わりに凛恋を傷付けてしまう。


 もし、俺が凛恋の立場で、凛恋が俺ではなくロニーを優先したら傷付く。凛恋に嫌われたと、凛恋にとって自分はロニーよりも大切な存在ではなくなったと思ってしまう。そんな思い、凛恋にはさせたくないししてほしくない。

 二兎を追う者は一兎をも得ず。虻蜂取らず。一も取らず二も取らず。心二つ身は一つ。右手に円を描き左手に方を画く。花も折らず実も取らず。そんな『どちらも得ようとすれば、どちらも得られなくなる』という意味のことわざは沢山ある。でも、そのことわざは、もし『どちらも選ばなくてはいけない時』の答えは教えてくれない。そうならないように、気を付けろという教訓は教えてくれても、もしその状況に追い込まれた時には何の役にも立たない。

 そう考えて、罪悪感に心が押し潰されそうになる。誰かに教えてもらおうと考える時点でダメだ。


「凡人」

「ス、ステラ? どうしてここに?」


 急に声を掛けられて顔を上げて、目の前にステラが立っていて戸惑う。今は深夜で、ステラが外を出歩いている訳がない。それに、こんな夜の公園になんて居る訳がない。


「凡人が出て行く音が聞こえた。だから、追い掛けて来た」

「追い掛けて来たって、こんな夜中に」

「今、凡人はとても傷付いている。だから、凡人がこれ以上傷付かないか心配」


 そう言って隣に座ったステラは、優しく俺の手を握ってじっと俺の目を見る。


「優愛から聞いた。凡人が心配していた高校生がビルから飛び降りたと」

「ああ。今も意識が戻らないらしい」

「卑怯」

「……ああ。俺はその子が、夏美ちゃんが傷付くと分かってて見捨てた。だから、卑きょ――」

「違う。飛び降りた高校生が卑怯」


 淡々と、視線を全く動かさず、感情を全く揺らめかせずに言ったステラの言葉に、俺は自分の言葉を失って黙り込む。


「凡人は優しくて格好良い。それに、とても真面目で頼りになる。だから、沢山の人が凡人を好きで私は困っている」

「ステラ?」

「でも、私の知ってる凡人のことを好きな人は、誰も凡人を傷付けない。だけど、その高校生は凡人に好きになってもらえないからと飛び降りた。そんなことをして、凡人が傷付かない訳がないことくらい、凡人を好きな人なら分かる。凡人はいつだって優しくて真面目で、全てのことを受け止めてくれる。その高校生はそれでも飛び降りた。それはとても卑怯なこと」

「ステラ、夏美ちゃんは何も悪くないんだ。悪いのは――」


「凡人は全部自分のせいにする。自分のせいにして、自分以外の人のせいに出来なくする。でも、それは凡人の優しさだけど、凡人には優しくない優しさ。凡人は、自分に優しくない。それを、ずっとダメだと思ってた。凡人はみんなに優しいけど、自分には全然優しくない。そんなことを続けていたら、凡人の弦が切れる。ペグは沢山回せば良い訳じゃない。丁度良い張りで止めないと良い音は鳴らない。凡人のペグを回しすぎたその高校生は、凡人の音を上手く奏でられない。凡人の音を奏でる資格はない」

「ステラは、夏美ちゃんが悪いって言うのか? 夏美ちゃんは、飛び降りたんだ。俺が夏美ちゃんを見捨てなかったら――」

「私は凡人に教えてもらった。本当に好きな人が自分のことを好きになってくれる訳じゃないと。人の気持ちは誰にも強制出来ない。だから、私は凛恋も悪いと思う。凛恋は凡人の奏者だから、凡人の弓を思うように動かして音を奏でられる。どんなに無理な酷い演奏でも、凛恋は凡人を使って音を奏でられる。もし、それが凡人を傷付けて調律を狂わすほどの演奏でも凛恋は奏で続けられる。それで奏で続けた凛恋は、凡人を壊した」


 ステラが伸ばした右手が、俺の頬に触れて、親指が頬を撫でる。すると、ステラがその親指を見せる。ステラの親指は水に濡れたように、街灯の明かりを反射させていた。


「私は凛恋が凡人に合っていると思っていた。凡人と凛恋なら私よりも良い音が奏でられると思っていた。でも、そうではなかった。今の凛恋なら、私の方が凡人と良い音が出せる」

「ステラ、俺は凛恋が好きだ」

「そう。凡人は凛恋が好き。凡人は凛恋が一番自分に合っていると思っている。でも、それは凄く簡単な問題。凡人に私の方が凛恋より合っていると思ってもらえば良い」


 ゆっくり唇を近付けて来たステラの肩を両手で押さえて止める。すると、ステラは体の動きを止めて俺をじっと見続ける。


「私は大丈夫」

「ステラ?」

「たとえ、凛恋にも優愛にも嫌われても良い」

「ステ……ラ?」

「私は決めた。もう、躊躇わない」


 華奢なステラからは想像出来ない強い力で、俺の手はステラの両肩から弾かれる。そして、そのまま俺の方に倒れ込んできたステラは、俺の背中に手を回して抱き締めた。


「私は凡人のために全てを捨てても良い。凡人を救えるなら、ヴァイオリンも、大切な友達も要らない」

「ステラがそんなことする必要はない」

「ある。凡人はそれだけ価値のある人」

「ステラ……。ステラが俺のことを真剣に考えてくれてるのは分かる。ステラにそれだけ思ってもらえてるのも嬉しい。でも、俺には――」

「そう。凡人は凛恋が好き。でも、凛恋は凡人を傷付ける。私は凡人に傷付いてほしくない」


 抱き付いて離れないステラは俺の胸に顔を埋めて表情が見えない。でも、背中に回した手の力が強く俺の体を締め付ける。


「愛してる」

「ごめん。俺には凛恋が――」

「嫌。愛してる」

「ステラ……俺は凛恋以外は――」

「嫌。私は凡人を愛してる」


 顔を上げたステラは、透き通った瞳から真っ直ぐとした視線を放ち、俺の目をじっと見続ける。

 高二に出会った時もそうだった。ステラは強い自分を持っていた。揺るがない自我を持っていた。言葉も行動もハチャメチャで……でも、ステラは純粋なのだ。


「ステラ、もう戻ろう。女の子がこんな夜中に出歩くものじゃない」

「凡人、私はもう大人。お酒も飲める」

「そうだけど、そうだからこそ気を付けないといけないんだ。ステラみたいに可愛い女の子は良い人も悪い人も寄せ付ける。でも、夜に近寄ってくるのは大抵悪い人だ」


 ステラの体をゆっくり離すと、ステラは俺の体から手を離し、俺の手を握って心を探るように俺の目を見る。


「凡人は無理をしている。とても辛そうな目をしている」

「仕方がないんだ。俺が悪いことをした。だから、俺が辛いなんて思っちゃダメなんだ」


 ベンチから立ち上がってステラの手を引き、俺はアパートへ戻るために歩き出す。

 ステラは優愛ちゃんから夏美ちゃんの話を聞いた。だから、俺はステラだけではなく優愛ちゃんにまで心配を掛けている。

 でも、心配されるべきなのは、気遣われるべきなのは俺じゃない。

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