【二四六《八重芯変化菊》】:二

「心のケアには長い時間が掛かるんです。一年や二年で済まないこともあります」

「だったら、あなたは凡人くんを一年も二年も川崎さんのために縛り付けるつもりだったんですか? それはもう協力や連携じゃありません。強制と拘束です」


 理緒さんは俺の方を向き、俺の手を掴んで何も言わずに引っ張って歩き出す。


「理緒さん、どうして」

「あそこであの人と話してても、ただあの人に凡人くんが責められるだけで何も良いことはないよ」


 施設の外で理緒さんが施設の玄関を振り返って睨み付けながら言う。

 俺は施設に夏美ちゃんの様子を尋ねに来た。だが、門前払いを食らうと思っていたから、植草さんが好意的ではなくても話をしてくれたのは良かったと思う。


 本当はもっと落ち着いてから来るべきだった。施設は自分の施設に入所している子供がビルから飛び降りたのだから、その対応に追われているだろう。今施設に来ているような記者達への対応もそうだが、管轄している行政への説明もある。それに、植草さんは担当していた夏美ちゃんが飛び降りたのだ。その精神的なショックは俺よりも大きかったと思う。


「理緒さん、植草さんは夏美ちゃんのことを軽く見てた訳じゃない。ちゃんと夏美ちゃんのことを考えてたよ」

「でも、川崎さんはあの人に心を開いてはいなかった。だから、施設の人にもあの人にも相談せずに黙って施設から――……ごめん、今日はそういう話をしに来た訳じゃないの」


 理緒さんが言葉を途中で止めて、首を横へ軽く振って大きく深呼吸をする。すると、後ろから凛恋が俺の前に歩み出て俺と理緒さんの間に入った。


「ごめん、凡人くん。これからちょっと女子会があるの。だから、凡人くんは栄次くんと瀬名くんと居てくれないかな?」

「でも――」

「凡人、大丈夫だから」


 向かい合う凛恋と理緒さんの雰囲気からは険悪なものを感じる。だから、女子会になれば俺の見ていないところで二人がその険悪な雰囲気の中で言葉をぶつけ合うのが想像出来た。でも、凛恋が俺の言葉を遮って止める。


「夕食はみんなで食べよう。凡人くんが美味しい店を沢山知ってるって聞いてるから、お店は凡人くんにお願いして良い?」

「ああ、分かった」


 理緒さんは明るい笑顔を向ける。でも、さっきの険悪な雰囲気が背中に嫌な汗を掻かせ、心にモヤモヤとした不安を漂わせる。

 凛恋が、理緒さん、希さん、里奈さんと歩いて行くのを見送ると、横から栄次が俺の肩に手を置いた。


「じゃあ、俺達も行くか。カズ、どこかゆっくり話せる場所に行こう。とりあえず、色々と話さないといけないだろ?」

「喫茶店で良いか?」

「ああ、瀬名も良いよな?」

「うん」


 一歩後ろに立っていた瀬名が頷いて同意するのを見て、俺は栄次と瀬名を連れて喫茶店に向かって歩き出す。

 凛恋達と一緒にならないように、少し離れた場所にある喫茶店に入ると、栄次と瀬名がコーヒーと軽食を頼んで、俺はコーヒーだけを頼んだ。


「昨日の夜、理緒さんからみんなに連絡があったんだ。カズが心配してる高校生がビルから落ちて重体だってニュースで流れたって」

「そうか……」

「それで、今朝一番の新幹線でこっちまで来たんだ。で、カズと凛恋さんの家に行ったら留守で」

「なんで俺が施設に居るって分かったんだ?」

「理緒さんが、カズのことだから施設に高校生がどこの病院に入院してるか聞きに行ってるはずだって。でも……もう会わないことにしてたんだな」


 栄次は俺の目を見た後、その目をテーブルの上に向ける。その目には、同情のような色が見えた。


「どこから聞いてた?」

「いや、俺が聞いた話は理緒さんがカウンセラーの人に食って掛かった後からだ。もちろん、俺だけじゃなくて俺達全員が同じ話しか知らない。……凛恋さんが、会わないで欲しいって言ったんだろ?」

「ああ。でも、夏美ちゃんと会わないって決めたのは俺だ。凛恋は何も悪くない」

「俺も凛恋さんが何か責任を感じる必要なんてないと思ってる。もちろん、カズも――」

「それはない。俺は、責任を感じなきゃいけない。俺はそれだけ、最低なことをしたんだ」


 俺を慰めようとしてくれる栄次の言葉を、俺は首を振って否定する。


「俺だって希に会わないでくれって言われたら希を優先する。彼女を優先して当然だろ」

「凛恋を優先して夏美ちゃんが傷付くのは分かってた。それが分かっていながら夏美ちゃんを見捨てた俺には、夏美ちゃんを見捨てた責に――罪がある」

「カズは見捨ててなんかない。ずっとその子のことを考えてたじゃないか」

「どれだけ今まで夏美ちゃんの分離不安障害を改善しようと考えていたとしても、結果的に、俺は夏美ちゃんが分離不安障害を克服出来る前に夏美ちゃんから離れた。しかも、それで夏美ちゃんを酷く傷付けることになるのは分かってた。人を傷付けると分かっていながらやったことは罪だ」


 俺が、何も覚悟を持っていなかった訳ではない。あの時、俺が夏美ちゃんを見捨てると決意した時、俺は夏美ちゃんを傷付けることに覚悟を持った。それは、覚悟と言うような綺麗なものじゃない。人を傷付けることを許容しただけだ。でも、俺は確かに自分が夏美ちゃんを傷付けたという罪を負うことを決意した。だけど……その時には、夏美ちゃんの命まで背負うほどの決意はなかった。だから今、俺はこんなにも動揺して、自分が犯してしまった罪に押し潰されそうになっている。


「カズ、恋愛で誰かを絶対に傷付けないことは無理だ」

「絶対に傷付けないことが無理だから、罪の意識を持たないで良い訳じゃない。傷付けることしか出来ないなら、傷付けたことを背負わなきゃいけない」

「カズは川崎さんを傷付けるって分かって、それでも凛恋さんを選んで決めたんだろ。だったら、それで良いじゃ――」

「それで良いで割り切れるほど、人の命は軽くない」


 栄次は必死に、俺の心から罪の意識を消そうとする。でも、栄次がどうやったって、どう足掻いたって、俺の心から罪の意識を消せる訳がない。俺は誰が何と言おうと、夏美ちゃんを傷付けた、夏美ちゃんに命を絶とうとさせるほど追い込んだ罪がある。


「栄次も僕も、他のみんなも、凡人が心配なんだよ。凡人は全部一人で考え込むから。昔より露木先生に言われて少しは良くなったかもしれないけど、今みたいに本当に凡人が辛いことは自分だけでなんとかしようとする。だから、僕達は凡人に会いに来たんだよ。僕は凡人の心を軽くしたい。でも、僕にはその方法が分からない。でも、凡人の側に居ることくらいは僕に出来るから」

「みんなが心配して来てくれたのは嬉しい。でも、それと俺の中の問題は別だ」


 みんなが俺と凛恋を心配して来てくれたのは分かっている。それをありがたいと感謝出来る気持ちもある。でもやっぱり、どんなに言葉を重ねられても、俺が夏美ちゃんを傷付けたという事実は消えてなくならない。




 夕飯は、みんなで焼き肉屋に来て座敷席でテーブルを囲んでいた。俺はみんなに酒を勧められたが、飲む気分にはなれなかった。

 女性陣で何を話したかは教えてもらえなかった。でも、分かることがある。また、理緒さんと凛恋の距離感が開いたことだ。


 みんなが笑顔で焼き肉を食べているのを眺めていると、俺のスマートフォンが震え、真弥さんからの着信が入った。俺はスマートフォンを手にして座敷席から出て障子戸を閉じ、真弥さんの電話に出る。


「もしもし」

『もしもし、凡人くん? みんなと会えた?』

「はい。今、みんなと夕飯を食べてるところです」

『そっか……ごめんね、本当は私も行きたかったけど、仕事があって』

「別に真弥さんがわざわざ来るようなことは何もないですから」

『そんなことない。……あんなことがあって、凡人くんが何も思わない訳ないことくらい誰だって分かる。……気にしちゃダメだって言っても気にするに決まってるし、考え込んじゃダメだって言っても考え込むに決まってる。だから心配だよ……』

「大丈夫ですよ、俺は」

『そういう時の大丈夫が全然信じられないことはもう分かり切ってる。今、凡人くんの心にどれだけの重荷がのし掛かってるか……。そんな時に会いに行けないなんて……』


 電話の向こうの真弥さんは、悲しそうな悔しそうな震えた声で話す。


『……川崎さんの様子はどうだった?』

「いえ、施設に行ったんですけど、入院している病院は教えてもらえませんでした。でも……意識不明の重体で助かるかどうかも分からないそうです。それに……仮に助かっても重い後遺症になるだろうって」

『そんな……どうして……どうして教えてもらえなかったの?』

「俺……夏美ちゃんのこと、見捨てたんですよ。数日前にもう会えないって伝えて、それで精神状態を不安定にしてしまって……そのせいでこんなことになってしまって……だから……そんなやつに教えられる訳がないのは当然です」

『……そっか。八戸さん、やっぱり耐えられなかったんだね』

「凛恋は何も悪くありません。悪いのは全部俺です」


 真弥さんは俺の話で、俺が夏美ちゃんを見捨てた理由を凛恋だと思った。でも、俺はすぐにそれを否定する。


『うん。八戸さんのせいじゃないよ。でも、凡人くんのせいでもない』

「いや、俺のせいです」

『違うよ。凡人くんは、川崎さんを助けようとした』

「でも、俺は最後の最後に見捨てたんです」

『凡人くんは川崎さんの家族じゃない。友達かもしれないけど、赤の他人だよ。だから、赤の他人に出来る範囲は限られている』

「それでも俺のせいです。俺は、夏美ちゃんを酷く傷付けた」

『それでも違う。誰が何と言おうと凡人くんのせいじゃない。いくら凡人くんが優しくて真面目で責任感が強くても、人の命まで凡人くんが背負い込む必要はない』

「俺が見捨てなかったら、夏美ちゃんはきっと……いえ、絶対に命を絶とうなんて考えませんでした」


『やっぱりそっちに行きたかった……電話じゃ、遠くから話をするだけじゃ凡人くんに何も出来ない』

「真弥さん、ありがとうございます。それと、心配を掛けてすみません」

『凡人くんが謝ることなんてない。私の方こそ……肝心な時に何も出来なくてごめんなさい……』

「真弥さんが電話をくれて嬉しかったです。それに、気に掛けてくれてるのも分かって本当に心が救われました」

『ずっと気に掛けてるよ。何もない日でも、毎日凡人くんのこと考えてる』

「ありがとうございます」

『きっと、何かあっても私から連絡しないと凡人くんは連絡をくれないと思うけど、それでも何かあったら連絡して。どんな些細なことでも、何でも良いから』

「はい。その時は、よろしくお願いします」


 真弥さんとの電話を終えて、スマートフォンをポケットに仕舞って席へ戻ろうとする。しかし、目の前に理緒さんが立っていて、黙って真っ直ぐ視線を向けていた。


「ごめん。ちょっと真弥さんから電話があって」

「どうしてだろうね」

「え?」

「どうして、凡人くんばっかり辛い思いをしないといけないんだろうね」


 真っ直ぐ視線を向けたまま、淡々とした口調で尋ねる理緒さんに、俺はどう答えて良いか戸惑って言葉を発せなかった。


「もし、神様がそうさせてるんだったら、私は神様を怨むよ。今まで色んな辛いことを乗り越えて来た凡人くんにまだ辛い思いをさせるなんて。そんなことで世界を上手く回せてるなんて思ってるなら、私達を見てる神様は無能だと思う」

「理緒さん、俺は大丈夫だから」

「大丈夫な訳ない。いつもの凡人くんなら、私が部屋から出てきたことに気付かない訳がない。それくらい、今の凡人くんには余裕がないんだよ。今、自分の心の中に抱えてるものだけで一杯一杯なんだよ」


 口を歪めて震わせた理緒さんは、目から涙を流して手の甲で拭う。そして……両手の拳を握って俯いた。


「凡人……」


 障子戸が開いて、中から凛恋が出てくる。そして、理緒さんを見て視線を逸らし、俺の側に来るためか足を進めようとした。しかし、その凛恋の前に理緒さんが背中を向けて立ち塞がり、俺の両肩を壁に押し付けた。


「理――」


 凛恋が理緒さんの肩に手を伸ばしたと同時に、理緒さんが背伸びをして下から俺の唇を塞いだ。

 理緒さんを押し退けようとした両手は、理緒さんに指を組まれて壁に押し付けられる。そして、そうしている理緒さんは俺に容赦なく押し付けるように、ぶつけるようにキスをした。


 壁に追い詰められて、逃れようにも逃れられない理緒さんのキスは、熱いキスだった。でも、決して乱暴ではなく俺を優しく包み込もうとするキスだった。

 ゆっくり唇を離した理緒さんは、俺の手を壁に押し付けたまま凛恋を向く。その凛恋は、俯いて両手の拳を握り締めていた。


「凛恋の気持ちが分からない訳じゃない。自分の好きな人が、自分の彼氏が、彼氏を好きな女の子に会いに行くのが嫌だって気持ち。それが、善意での人助けでもそれを利用してその女の子が何かちょっかいを出すんじゃないかって不安になるのも分かる。でも……凛恋は最低だよ。そういう気持ちだけ凡人くんに伝えて――投げ付けて……後は全部凡人くん任せ。凡人くんみたいに恋愛経験が凛恋だけの男の子が、上手く女の子を納得させられる方法を知ってる訳ないって誰だって分かるよ。それに、凡人くんが女の子を適当にあしらえない優しくて真面目な人だって、凡人くんのことが好きなら誰だって分かる。それなのに、凛恋は全部凡人くんに任せた。自分が会わないでほしいって言ったのに、それを川崎さんに伝えることで凡人くんが傷付くことなんて簡単に予想出来るのに、全部凡人くんにやらせて自分は傷付かない位置に立って見てた。そうやって卑怯なことをした結果がこれよ」


 やっと俺の手から手を離した理緒さんは、左手はぶらりと垂れ下がらせていたが、右手は大きく振りかぶっていた。そして、その右手で思いっ切り凛恋の頬を打った。


「私、凛恋のこと絶対に許さない。私の大好きな凡人くんをこんなに傷付けて。それでもまだ、自分がこれ以上傷付きたくないことばっかり考えて、凛恋は凡人くんの心を癒やそうとしない。…………今すぐ凡人くんと別れてよ。そしたら、私が凡人くんの彼女になって、全力で凡人くんを癒やすから」

「いやだ……」

「凛恋には出来ないんでしょ? 凡人くんに頼りきってる凛恋には何にも出来ないでしょ? 肝心な時に彼氏のために何も出来ない凛恋が、凡人くんの彼女だって言い張ってるの、本当に腹が立つ」

「理緒さん、止めてくれ。凛恋は何も悪くない」


 理緒さんを止めようと口を挟むが、理緒さんは俺の方を見てすぐに凛恋に視線を戻す。


「こうやって凡人くんが庇ってくれるの待ってるんでしょ? 優しい凡人くんが全部自分で抱え込んでくれるのを待ってる」

「そんなことない……」

「そんなことあるからこんなことになってるんだよ。ロニー王子のこともそう。凛恋がはっきりロニー王子のことを拒絶しないからつけ上がるんだよ。やっぱりロニー王子が好きなんでしょ? 相手は顔も良いしお金も持ってるし、何より王子様だしね」

「そんなことないっ! 私が好きなのは凡人だけッ!」

「言葉と行動が一致してないんだよ。本当に凡人くんが好きなら凡人くんだけを大切にしようとする。凡人くんを最優先にする。でも、凛恋は凡人くんに大切にされようとしてるし、凡人くんが自分を好きなことに甘えてる」


 凛恋へ言葉を投げ付けた理緒さんは、俺の腕を掴んで引っ張る。そして、凛恋へ言葉を投げ付けた。


「今の凛恋、今まで見てきた誰よりも大嫌い」

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