【二四六《八重芯変化菊》】:一

【八重芯変化菊】


 街頭ビジョンに映し出されていたニュースに、俺はスクランブル交差点の真ん中で立ち尽くす。

 夏美ちゃんがビルの上から落ちた。そして、それは事故かもしれないし“自殺”目的かもしれない。


 もし、夏美ちゃんが自殺を図ろうとしたなら、それは俺のせいだ。俺が、ちゃんと夏美ちゃんを納得させられなかったから……だから、夏美ちゃんはビルの上から飛び降りた。

 まだ、夏美ちゃんが自殺しようとしたとは限らない。でも、夏美ちゃんが落ちるようなビルの上に上る理由が他に思い当たらない。


「凛恋を迎えに行かないと……」


 夏美ちゃんのことは気になる。でも、凛恋を花火大会の会場に一人残してしまっている。それに、その凛恋の側にはロニーが居るのだ。絶対に一刻も早く凛恋を迎えにいかなければならない。


 俺は夏美ちゃんより凛恋を選んだ。夏美ちゃんの心の傷を癒やすことより、凛恋をこれ以上傷付けないことを優先した。それを今ブレさせたら、あの時に決意した意味がない。

 電車に乗り込み、花火大会会場の最寄り駅に着く間、ずっとニュースサイトを更新して夏美ちゃんのニュースの続報がないか確かめる。でも、街頭ビジョンで見た情報と同じ情報しか載っていない記事しかなかった。


 どうして飛び降りなんて……そう思って、俺は首を横に振って自分の頭に浮かんだ疑問を否定する。

 人の気持ちや、人が耐えられる精神的なダメージ、それから人がかけがえ無いと、重要だと思うことは人それぞれだ。だから、自分の常識に合わないからと言って疑問を抱くべきじゃない。


 まだ夏美ちゃんがビルから落ちた理由が明らかになっている訳じゃない。でも……やっぱり、自殺以外に夏美ちゃんがビルから落ちる理由が思い浮かばない。


『凡人さんが居なくなったら、私は生きていけない……』


 電車内の音が遠くなって、夏美ちゃんが涙を流しながら俺へ訴えた言葉が鳴り響く。

 俺は、その時の言葉を聞いた俺は、こんなことになるとは思っていなかった。心のどこかで、いや……自分でも見える心の表面で思っていた。実際はそこまで俺は重要な存在ではないと。


 夏美ちゃんは分離不安障害で俺と離れることを怖がっていた。でも、四六時中俺が一緒に居ないといけない訳でもなかった。実際、俺が夏美ちゃんにもう会えないと伝えた日も、夏美ちゃんと会うのは約一ヶ月振りだった。だから、それだけ俺と会わなくても大丈夫なのだから、俺が居なくても、居ないなら居ないで生きていけると思っていた。


 俺は甘く見ていたのだ。分離不安障害という精神状態を。甘く見て、素人考えで行動して、状況を大きく悪化させた。


 花火大会会場の最寄り駅に着き、駅から出てすぐに小走りになる。

 走った理由は早く凛恋の元へ行きたい。その一心だけじゃなかった。独りで居るのが怖くなったのだ。


 自分のせいで夏美ちゃんが自殺を図ったかもしれない。そんな不安を俺だけで考えたくなかった。凛恋には伝えないとしても、凛恋に俺の隣に居てほしかった。

 もう花火大会が終了したのか、向かいから家路につく見物客達が歩いてくる。その見物客達の隙間を縫って会場の河川敷まで行き、凛恋が居るはずの特別観覧席に走る。

 既に花火大会が終了してることもあって規制線は解かれていて、必死に凛恋の姿を探す。すると、視線の先に黒スーツの一団が見えた。


「凛恋さん、さあ行きましょう」

「凡人が迎えに来てくれるので大丈夫です」

「運営側に多野さんを探してもらいましたが、会場内にはいらっしゃらないようです。私が責任を持ってお送りしますので、一緒に――」

「凛恋ッ!」


 必死に黒スーツの一団が作った壁を押し退け、俺は凛恋とロニーの間に割って入り、凛恋の手を掴んで背中に隠す。


「凡人!」


 振り返ると、凛恋が俺の手を両手で握って身を寄せる。そして、俺の前に鋭い視線を向けた。


「多野さん……凛恋さんを一人きりにして、今更どうされたんですか?」

 俺を見たロニーは目を細める。そして、凛恋の方に一度視線を向けた後、俺に一歩近付いた。


「私が凛恋さんに出会った時、凛恋さんは一人でした。こんな夜に沢山の人で溢れた場所に凛恋さんを一人にするなんて何を考えているんですか? 凛恋さんに何かあったら――」

「ロニー王子のボディーガードに取り押さえられなかったら、俺は凛恋とはぐれることはありませんでした。俺は規制線のすぐ内側でロニー王子のボディーガードに取り押さえられて警察に突き出されたんです」


 俺を非難したロニーを非難し返すために言うと、ロニーは目を丸くして脇に控えていたボディーガードの男を見る。その目は、俺に向けた非難の目より鋭かった。


「多野さんの言っていることは本当か?」

「申し訳ありません。ロニー王子へ危害を加える可能性があったため、規制線に無理矢理入った男を取り押さえたという話は聞いています。ですが、そちらの女性との時間を粗末なことで邪魔するべきではないと思い、報告はしていませんでした」


 そのやりとりでは、ロニーは俺が取り押さえられたことを全く知らないという感じに見える。でも、たまたま俺と凛恋が規制線で分断され、そこにたまたまロニーが居合わせるなんてあり得ない。だから、そのロニーとボディーガードのやりとりに白々しさを感じた。


「多野さん、私のボディーガードが多野さんに大変失礼な――」

「ロニー王子、すみません。終電もありますし、私達は急ぐのでこれで失礼します」

「あっ……凛恋さん……」


 俺の後ろから前に出て、早口で言った凛恋が俺の腕を引いてロニーから離れるために歩き出す。その凛恋にロニーが声を掛けるが、凛恋はそれを無視して歩き続ける。


「絶対わざとだし。こんな広い会場でたまたま私達とばったり会う訳ないじゃん」


 唇を尖らせてブツブツ文句を言う凛恋は、俺の顔を見てニッコリ笑った。でも、すぐに立ち止まって目を見開いた。


「凡人……何かあったの?」


 尋ねる凛恋に、俺は視線を落としてどうしようか迷った。

 夏美ちゃんのことを言えば、きっと凛恋は負い目を感じてしまう。俺が夏美ちゃんともう会わないと決めたのは、凛恋に会わないでほしいと言われたからだ。だからきっと、凛恋は夏美ちゃんがビルから飛び降りたなんて聞いたら責任を感じてしまう。


「いや――」

「ダメ、誤魔化さないで。辛そうな顔をしてるのに何もない訳ない。……それとも、私には言えないこと?」


 詳しい状況が分からなくて。でも、ちゃんとはっきり分かったら言うから。そんな言葉が頭に浮かぶ。今の俺に言える、その場を切り抜ける言葉はそれしかなかった。でも、その言葉を言えば俺は凛恋に嘘を吐くことになる。

 詳しく状況を知るためには、夏美ちゃんが生活している施設に行く必要がある。でも、もし俺が頭に浮かんだ言葉を言えば、夏美ちゃんの施設に行くことを凛恋に隠さなければいけない。そのために、俺は凛恋に嘘の外出の理由を言わなければならない。

 世の中には吐いて良い嘘はある。でも、今がその吐いて良い嘘なのか、俺は迷った。


「…………夏美ちゃんが、ビルから落ちたって。さっき、街頭ビジョンのニュースで言ってたんだ」

「えっ……」


 凛恋は俺の手を握っていた手の力を抜いて、俺を見て目を見開く。そして、混乱して落ち着きなく視線を泳がせた。


「……詳しいことは何も分からないんだ。事故かもしれないし……飛び降りたかもしれない。だから――」

「わたしの……わたしの、せいだ……」

「凛恋のせいじゃないっ!」


 凛恋の両肩に手を置いて、凛恋の体を強く揺すって声を張る。


「わたしが、夏美ちゃんに会わないでって凡人に言ったからよ……だから……」

「まだ、事故かもしれない。それを確かめるために、明日施設に行ってくる」

「絶対……私のせい……」

「凛恋っ! 俺の目を見ろ!」


 肩に置いた手で凛恋の両頬を優しく包み、俺は凛恋の顔を自分に向けさせて、真っ直ぐ凛恋の目を見る。その目はまだ焦点が定まらず泳いでいた。


「凡人……私のせ――……んっ」


 人通りが消え街灯の明かりも薄い河川敷の上で、目の前に居る凛恋の唇を塞ぎ、頬を包んだ手を離して凛恋の背中を抱き寄せた。


「凛恋のせいじゃない。絶対に、凛恋のせいじゃないから。凛恋は何も悪くない。凛恋が負い目を感じることなんて何も無い」


 凛恋を抱き締めながら、凛恋の耳元で何度も凛恋の言葉を否定する。


「……私も行って良い?」

「凛恋は――」

「私も行かせて」

「……分かった」


 動揺している凛恋を連れて行くのは良くないと思う。でも、凛恋は俺の背中に手を回し、必死にしがみついて俺にすがり付くように言う。

 俺が凛恋に側に居てほしくて走ったように、凛恋も俺に側に居てほしいのだ。俺に、独りにしてほしくないのだ。だから、凛恋は俺にすがり付いて独りにしないように求めている。


 俺も独りにはなりたくない。きっと、明日施設に行けば、今俺が心に抱えているものよりも重くて大きいものがのし掛かる。だから、凛恋が側に居てくれることは俺にも心強いことだった。でも、それと同じくらい、一人で何も出来ない自分が情けなかった。




 次の日、凛恋と一緒に夏美ちゃんが生活している施設に行った。しかし、その施設の前には新聞やテレビの記者らしき人が来ていて、その人達に職員の男性が対応しているのが見える。それを見て、俺はやっぱり昨日のニュースは夏美ちゃん本人だったのだと思い、視線を地面に落とした。


 同姓同名で顔が似ている別人。そんなあり得ない、自分に都合の良い妄想をした。そうであればどんなに良かったかと思った。でも、現実はそんな自分の都合の良いように動かない。


 施設の玄関から入ると、ロビーに居た女性の職員さんと目が合う。その瞬間、女性の職員さんは困った笑顔を浮かべた。


「こんにちは」

「こんにちは。あの……」

「丁度、植草さんが居るから呼んできます。ここで待っていてください」

「はい」


 ロビーのソファーに腰掛けると、隣に座った凛恋が俺の手を強く握って小さく頷く。それでプレッシャーに押し潰されそうな心に力が籠もった。


「多野さん」

「植草さん……こんにちは」

「こんにちは」


 植草さんが現れて、俺はソファーから立ち上がって植草さんに頭を下げる。そして、俺と同じように凛恋も立ち上がって頭を下げた。


「座ってください」

「失礼します」


 植草さんに促されて再びソファーに腰掛けると、植草さんは視線を一度テーブルに落としてから、俺を真っ直ぐ見て口を開いた。


「川崎さんは意識不明の重体。今も意識が戻っていません。お医者さんの話では、このまま意識が戻らないかもしれないし、戻ったとしても重い後遺症になる可能性が高いそうです」

「……そう、ですか」


 そんな言葉しか出ない。そんな言葉しか言えない自分が、酷く最低な人間にしか思えなかった。


「気を悪くしたらごめんなさい。……今更、どうされたんですか?」


 真っ直ぐ向けられている植草さんの目には、明らかに俺への非難が込められている。当たり前だ、俺は夏美ちゃんを見捨てたのだ。それなのに、夏美ちゃんが大きな怪我をして、それが自分のせいかもしれないと思って確かめに来た。そんなの、都合の良い最低な人間だと思われて当然だ。


「……凡人は悪くないんです。私が夏美ちゃんに会わないでって言ったから」

「私は、多野さんが川崎さんの分離不安障害の克服に協力してもらえていると思っていました。それを、多野さんはいきなり都合が悪くなったからと投げ捨てたんです。川崎さんは、多野さんが川崎さんの側を離れた日から完全に心を閉ざしてしまいました。沢山の人でやっと開けていた川崎さんの心は一日で閉ざされてしまった。誰も部屋に入れなくなって、誰とも話をしようとしなくなり顔も会わせようとしなくなりました。それで昨日です。川崎さんが施設から居なくなったのは。多野さんが川崎さんを見捨てるようなことをしなければ――」

「あなた、いくつですか? 何でも凡人くんのせいにするなんて、明らかに凡人くんより年上の人がやることだと思えませんけど」


 否定することの出来ない植草さんの非難を黙って受けていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。その声に振り返ると、ソファー越しに鋭い視線を向けている理緒さんが立っていた。その後ろには、希さん、栄次、瀬名、里奈さんが立っていた。


「凛恋、凡人くん。驚かせてごめん。昨日の夜にニュースを見て、それできっと二人が辛いだろうって思ってみんなで来たの」

「希……」


 凛恋は希さんを振り返って、手の甲で目元を拭う。しかし、その凛恋と希さんのやり取りを横で見ていた理緒さんは、座っている植草さんの斜め前に立つ。


「あなたがこの施設の職員かは分かりませんが、児童養護施設には入所してる児童の監督責任があるはずです。それなのに、問題の子が施設を抜け出したのに気付かなかった。それは施設側の責任でしょう。それでその子がビルから飛び降りたのは、そういう状況にまでその子を追い込んだカウンセラーの責任です。それなのに、善意でその子のことを親身になって考えていた凡人くんを一方的に責めるなんてお門違いです」

「私は、カウンセラーの植草です。あなたは?」

「私は凡人くんの友人の筑摩です。ここに居る理由は、さっきの子が言った通りです」


 一瞬視線で希さんを示した後、また理緒さんは鋭い視線を植草さんに戻す。


「凡人くんは問題の子をずっと心配していました。それで、私達にもその子のことで相談を受けたこともあります」

「だったら、最後まで川崎さんが立ち直れるまで責任を持つのが――」

「は? 何を言ってるんですか? 凡人くんに責任なんて一つもある訳ないじゃないですか」


 明らかに、植草さんを馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべた理緒さんは、上から冷たい目で植草さんを見下ろした。


「筑摩さん。多野さんの友人ということは大学生ですよね? 学生の方には分からないのかもしれませんが、多野さんには重い責任があります。法的な責任はありませんが、多野さんには道徳的な責任があるんです。多野さんが川崎さんにもう会えないなんて言わなければ、川崎さんは心を閉ざさず、飛び降り自殺なんて――」

「だから、その子――川崎さんは、あなたに心を開かなかったんですよ。言葉ではちゃんとしてるように装ってるけど、あなたは川崎さんのことをきちんと考えてない」

「私はカウンセラーとして、川崎さんの分離不安障害を改善しようと――」

「カウンセラーとして善意で協力してくれていた凡人くんに頼りっきりで、その上で善意で協力してくれていた凡人くんに全責任を押し付けるんですか? 自分より年下の凡人くんに」

「理緒、落ち着きなって」


 里奈さんが理緒さんの肩を掴んで身を引かせようとする。しかし、理緒さんはその里奈さんの手をはね除けて植草さんへ向ける言葉を止めなかった。


「目の前で、自分の大切な人が一方的に責められて落ち着ける訳ない。しかも、凡人くんより責任を負わなきゃいけない人が、その責任を凡人くんに押し付けてるなんて」

「不安分離障害に限らず、精神的に追い込まれている児童のケアにはカウンセラーだけでなく、児童に関わっている全ての人と協力して連携する必要があるんです。それも分かっていないあなたに口を出さないでもらいたい」


 終始植草さんを挑発するような態度だった理緒さんに、遂に植草さんは不快感を露わにして口調が喧嘩腰になる。それに、理緒さんは小さく鼻で笑った。


「協力して連携、ですか。おかしいですね、私がさっきから聞いてる感じだと、凡人くんが居なくなった途端に、施設もカウンセラーのあなたも川崎さんに対して何も出来なくなってます。それは、あなたも施設も凡人くんに何一つ協力出来てなかったってことですよ。施設もあなたも、川崎さんが凡人くんに心を開いていることに頼りきってた。昨日まで、凡人くんが川崎さんに出会ってからの時間も考えれば沢山の時間があったはずですよね? それだけの時間があって、人の心をケアするプロのカウンセラーのあなたは川崎さんに心を開いてもらえなかったんですか?」

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