【二四三《築き上げた絆か、生まれ持った力か》】:一

【築き上げた絆か、生まれ持った力か】


 補講なんてそもそもある訳がない。

 補講はやむを得ない事情で講義が休講した時にその補填として行われる講義のことだ。だから、もし俺が補講を受ける必要があるなら、俺と同じ科目を取っている人。今回の場合だと必須科目も補講に入っているから、俺と同じ三年の文学部の学生は全員受ける必要がある。でも、補講は行われていて、その補講を受けているのは俺だけだ。


 地元から補講を受けるために大学に戻って来た俺は、その茶番としか思えない補講を受けた後、教務課に行って成績の開示を改めて求めた。しかし、当然のように開示は認められず門前払いを食らった。でも、教務課が補講を受けないと単位をくれないと言っている以上、俺は補講を受けなければいけない。


 教務課を出ながら、胃がせり上がるような吐き気を感じた。

 俺の単位のために、凛恋はロニー王子と二人きりでデートをしたのだ。

 ロニー王子が街の案内のためだけに凛恋と二人きりになる訳がない。絶対にロニー王子は、凛恋との距離を縮める腹積もりだった。でも、俺は昨日の凛恋の目を見て気付いたことがあった。


 ロニー王子を見ていた凛恋の目に嫌悪が宿っていたのだ。


 凛恋が初めてロニー王子と会った時やパーティーに参加した後のロニー王子を見る目に、嫌悪なんてなかった。でも、昨日の凛恋の目には確かにロニー王子への嫌悪があった。

 ロニー王子は策を弄したが、それは強引過ぎた。それは俺を凛恋から引き離すためだったが、それは俺だけでなく凛恋にも嫌なことだった。だから、明らかに俺達を引き離したロニー王子に凛恋は嫌悪を抱いた。


 凛恋が人に対して嫌悪を抱くことは、誰もが手放しに良いことだと褒めるようなことじゃない。でも、嫌悪は人なら誰にでも持っている感情で、誰かが不誠実だと責めることも出来ないことだ。だけど俺は、凛恋がロニー王子に嫌悪を抱いてくれて嬉しかった。それで安心する俺が、確かに俺の中に居た。

 たった一人の補講を終えて、俺は凛恋を迎えに行くために駅へ向かう。


 昨日は一緒に戻って来られなかった凛恋だが、俺の補講終わりの時間に合わせて、今日地元から戻って来てくれる。

 地元のみんなと夏休みに会えなくなるのは寂しいが、それでも凛恋が一緒に居てくれるというのは凄く嬉しかった。それにやっぱり、凛恋に大切にされているという実感が湧く。


 凛恋が乗ってくる新幹線の到着時刻よりも早く駅に着いた俺は、改札近くの柱に背中を付けて凛恋の到着を待つ。そして、待ちながら右手の拳を握った。


 昨日の夜に、凛恋から電話があった。その電話ではロニー王子と美術館に言った後、カフェで軽く昼食を食べた。そして、サッカーの試合を観戦し、最後にレストランで食事をしたと言っていた。それはもう、観光案内ではなくデートだ。


 ロニー王子が凛恋とデートをしようとしているのは分かっていた。だから、ロニー王子に凛恋とデートさせたくなくて、ロニー王子が用意した航空券を断ろうとした。

 誰だって、自分の彼女が今から自分以外の男とデートをするなんて知っていたら絶対に止める。でも、凛恋は俺のためにロニー王子とデートをした。その凛恋が嫌悪を顔に滲ませていたから、絶対に凛恋がロニー王子と出掛けたかったわけじゃないのは明らかだ。


 初めて会った時の、凛恋を好きだと俺に言う前のロニー王子は、もっと穏やかだったと思う。いや、俺から見て穏やかに見えていた。でも、凛恋を好きだと言った日から何かが変わった。いや……俺から見ていたロニー王子が被っていたマスクが剥がれた。


 人には誰にでも外面と内面がある。俺は、それが両方無い人はこの世の中に誰一人として居ないと思う。そして、大抵内面と呼ばれるものは多くの人に見せないものだ。

 ロニー王子の内面は――今現在までで俺が見えていると思っているロニー王子の内面は、内面と呼ばれるにしてはそこまで酷いものではないと思う。今まで見てきた、汚い内面を持っている多くの人間に比べれば可愛いものだ。でも、だからと言って許容出来ることではないし、看過出来る状況でもない。


 一国の王子が、俺から凛恋を奪おうとしているのだ。一国の王子が持てる全てを使って……。


 凛恋が俺ではなくロニー王子を好きになるとは思っていない。凛恋は絶対に俺を裏切らないと信じている。でも……それ以外の不安と恐怖がある。

 確かな証拠がある訳じゃない。でも、俺が地元から大学まで戻って来たのは、ロニー王子が裏で何かをしたに決まっている。それは、俺が補講のために大学へ戻らないといけないことを知っていたことと、都合良くたった一席しか開いていない飛行機の航空券を持っていたことだ。それに……凛恋の誕生日には、ロニー王子が凛恋のお父さんの会社にまで手を回して凛恋を自分のパーティーに参加させる。だから、それがあるから俺は怖い。


 一般人の俺では想像も出来ないほどの権力で、ロニー王子が俺から凛恋を奪うのではないかと。俺の意思や凛恋の意思なんて関係なく、単純な一国の第一王子――次期国王の持てる力で。


 きっと、ロニー王子に対して当初抱いていた穏やかな人という印象の時なら、こんな不安をロニー王子には抱かなかったと思う。でも、内面が垣間見えて、なりふりを構わなくなったロニー王子を見てから、俺はそれを自分の飛躍した妄想だと笑い飛ばすことが出来なかった。


「そんな隙だらけの顔してたらダメよ」

「えっ? 凛恋、いつの間に?」


 悲観的な思考に満ちていた俺の目の前に、いつの間にか凛恋が立っていて俺の顔を下から見上げていた。


「凡人に会いたいって走って改札まで来たら、凡人が凡人に良くないこと考えてる顔しててチョー心配。……やっぱり、昨日のこと怒ってる?」

「何を凛恋に怒ることがあるんだよ」


 凛恋に怒ることなんて何一つとしてない。でも、ロニー王子に対してならある。そう思った瞬間、凛恋が俺の手を引っ張って歩き出す。


「凛恋? どこ行くんだ?」

「デート」


 デートと言った凛恋は、俺の手を引いて駅を出て駅前の交差点を渡る。


「行く場所、全部私が決めて良い?」

「もちろん良いけど、どこに行くんだ?」

「まずはね~。美術館かな」

「美術館か」


 俺と凛恋は水族館や動物園には時々デートに行くが、美術館にはほとんど行ったことがない。それは、お互いにあまり芸術作品に関心が低いからというのもある。

 凛恋に連れられて美術館に来た俺は、丁度入り口に張られていた『空の絵展』という展覧会のポスターを見た。


 入場料を払って中に入ると、早速開催中の空の絵展に沿った空の絵がある。

 絵本のような柔らかいタッチの空の絵もあれば、まるで写真のように細かに描かれた空の絵、それから現実ではあり得ない形の雲や太陽が二つあるような幻想的な空の絵もあった。


「凛恋、空の絵を見たかったのか?」

「ううん。凡人と美術館に来たかったの。ねえねえ、この絵、可愛くない?」


 凛恋が展示されている絵を指さしてニッコリと笑う。その絵は、青空に浮かぶふわふわの白い雲を見上げている兎が描かれた絵だった。絵本に載っていそうな可愛らしい一枚だ。


「このおっきい方の兎が凡人で、ちっちゃい方の兎が私」

「この兎って親子じゃないのか?」

「そう? 寄り添い方が恋人っぽいけど?」


 顔をつき合わせて兎の絵を見る俺と凛恋は、視線を合わせてクスっと笑い合う。


「あっ! このドーナツが浮かんでる絵、チョー可愛い!」


 今度は色とりどりのドーナツが空に浮かんでいる絵を見た凛恋が、絵の前に俺を引っ張って行く。その凛恋の楽しそうな横顔を見て、俺も楽しく目の前にある絵に笑顔を向けた。

 美術館で空の絵展を楽しんだ後は、美術館の中にある喫茶店に入り少し休憩を取り、手を繋いで次の目的地に向かう。ただ、俺は次の目的地がどこなのかは分からない。


「凡人は昨日の夜と今日の朝何食べたの?」


 歩いている途中で凛恋に尋ねられ、俺はその答え辛い質問に恐る恐る口を開く。


「コンビニのおにぎりを――」

「はぁ~そんなことだろうと思ったけど、ちゃんとした物を食べないとダメでしょ?」

「ごめんなさい」


 案の定、凛恋に怒られて頬を人さし指でグリグリと突かれる。でも、その指が頬から離れると、凛恋がギュッと俺の腕を抱いて笑った。


「まっ、今日からまた私がチョー愛情たっぷりの料理で凡人の健康は守るから安心して」

「いつもありがとう。凛恋が居なかったら、俺は毎日美味しく健康的な料理を食べれてない」

「どういたしまして。って言っても、私が凡人にお礼を言いたい方なんだけどね」

「なんで凛恋が俺にお礼を言うんだ?」

「だって、凡人の彼女にしてくれて、凡人の食生活を私に任せてくれてるんだよ? そんな幸せなことを私にさせてくれてるんだからお礼を言わないと。ありがとう」

「いや、それってお礼を言うようなことか?」

「私にとっては言うことなのよ。付き合う前からずっと夢だったんだもん。毎日凡人に私の作った料理を食べてほしいなって。それが今凡人のお陰で叶ってるんだから、凡人に感謝しないと」

「俺は美味しく凛恋の料理を食べてるだけなんだけどな」


 凛恋の大袈裟なお礼に照れくささを感じていると、遠くから何やら掛け声やら応援の声が響いてくる。

 俺が聞いた声に凛恋が足を進めていき、その足は河川敷に辿り着く。

 河川敷の上から見下ろすと、下で少年サッカーの試合が行われていた。

 ユニフォーム姿の小学生くらいの子供達がボールを追い掛け、それを父兄らしき大人達が見て応援や歓声の声を上げている。


「昨日はごめんね。でも、あの時はああするしかないと思ったから」


 サッカーの試合を見ながら、凛恋はそう話を切り出す。あの時というのは、昨日、俺の意思に反してロニー王子とデートしたことを言っているんだろう。


「凡人のピンチを私がどうにか出来るならしたいって思ったの。それに、昨日はあの飛行機以外の交通手段は無かったから、選べる選択肢は無かったし」

「凛恋のことは何も怒ってないよ。でも――」

「ロニー王子のこと、最初は良い人だと思ってたんだけどな……」


 凛恋はそう、失望した声を発した。


「紳士的な人だと思ってた。私に嫌な下心を見せずに接してくれてると思ってた。でも、そう思ってた自分のこと、今の私は本当にバカで人を見る目が本当になさ過ぎると思ってる」

「凛恋はバカじゃないし人を見る目がない訳じゃない」

「でもさ……ロニー王子……私と凡人を別れさせようとしてる」

「だからって凛恋が何か悪い訳じゃない」

「それに……キャンプ場にも来て、みんなで遊んでる時にも来て……しかも、教えてない私の家にも来た。あれ……めちゃくちゃ怖かった。ずっと爽やかに笑ってたけどさ……やってることストーカーじゃん……」

「凛恋……」


 凛恋の震える肩に手を回して抱き寄せると、凛恋は俺の体に身を委ねる。


「やっぱり、ロニー王子も他の男の人と――最低な男と一緒。自分のことしか考えてない。凡人のこととか私のこととか何も考えてない」

「俺のせいなんだ」


 ゴールを決めて喜ぶ少年サッカーチームとその父兄達を見下ろしながら、俺は凛恋にそう告白した。


「俺がロニー王子を凛恋に近付けたくなくて、ロニー王子が凛恋と仲良くなろうとすることを邪魔してた。だから、ロニー王子が怒って強引な方法を採ったんだ。俺達の居場所を調べてキャンプ場とか遊び場に来たり、凛恋の家に来たり……きっと俺が邪魔をしなければそんなことにならなかった」

「凡人はいつから、その……ロニー王子の気持ちに気付いてたの?」

「……俺の誕生日の日に、ロニー王子から直接言われたんだ。凛恋が好きだから、凛恋がどっちを好きになるか正々堂々と勝負をしようって」

「そんなに前から……全然知らなかった」

「それで、凛恋が俺のことを忘れてパーティーに行ってたことを知った時、不安で不安で仕方なかったんだ。凛恋が俺のことを忘れるくらい、ロニー王子との時間を楽しんでたんじゃないかって思って。だから……俺はロニー王子と凛恋を絶対に近付けたくないって身勝手なことを思って、それを実行したんだ。そのせいでロニー王子が強硬な手段を取らざるを得ない状況にさせてしまった。それで、凛恋に怖い思いをさせてしまった。本当に……本当にごめん」


「私、ロニー王子と居たことが楽しかった訳じゃない。友達みんなで話してて、それで……やっぱり今のは忘れて。私がやったこと、やってしまったことは一瞬でも大好きな凡人のことを忘れたことだから。本当にごめんなさい」

「もうそれは怒ってない。でも、ずっとその時からずっと、俺の背後にロニー王子の影が付きまとうんだ。ずっと、俺から凛恋を奪おうと隙を狙ってる」

「お願い、信じて。私が好きなのは凡人だけ」

「凛恋の気持ちを疑ってる訳じゃない。ロニー王子のことが怖いだけだ。今はもっと怖くなってる。ロニー王子がなりふり構わず凛恋を奪おうとしてることが、怖くて怖くて堪らないんだ」


 情けない告白。自分が弱くて何も出来ない人間だと凛恋に言っているだけでしかない、男としてはこれ以上ないくらい惨めな言葉だった。


「キャンプの時にロニー王子が来て、私達をシャワークライミングに誘った時に、ロニー王子が私のことが好きで、それでわざわざ私達の居場所を調べて来たんだって思った時、凄く嫌だったしがっかりした。……結局、ロニー王子も今まで私に嫌なことをしてきた人達と同じだったんだって。栄次くんや瀬名くんみたいに友達にはなれない人だったって」


 その凛恋が言った言葉に対して、俺はただ凛恋の体を両手で抱きしめた。でも、ただそうすることしか出来なかったわけじゃない。

 俺には、ただ抱きしめるだけで凛恋に全てを伝えられる絆がある。抱きしめることで凛恋に感じさせられる感情がある。だから俺は、言葉を使わなかった。ただ、それだけだった。

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