【二三九《ピッティングコロージョン》】:二

 ベンチから立ち上がって、理緒さんと里奈さんの間に立って話を止める。理緒さんは一歩下がって引き下がったが、里奈さんに向けている視線は変わらず鋭く強いままだった。


「ねえ、凡人くんと凛恋を二人っきりにしてあげよう。二人でゆっくり話をする時間を作ってあげようよ」


 しばらく続いた沈黙を希さんの落ち着いた声が突き破る。そして、凛恋の手を握って俺の手に握らせた。


「凛恋、ちゃんと凡人くんと話をしないとダメだよ」

「……うん」

「凡人くん、私は凡人くんが凛恋を大切にしてくれるって信じてるから」

「もちろんだ。俺が好きなのは、凛恋だけだから」


 俺が希さんに答えると、希さんは一度頷いてニッコリ笑う。そして、希さんがコテージの方に歩き出すと、他のみんなも希さんに続いてコテージに戻っていく。


「凛恋、座って話そう」

「うん、ありがと」


 並んでベンチに座ると、凛恋が俺の顔を横から見詰めて、俺の腕に躊躇いがちに腕を絡めた。


「凡人、ごめんね。……パーティーの時も、連絡先を交換したことも」

「……まあ、ショックだったよ。俺のことを四六時中考えてほしいなんて言えないけど、その時くらいは忘れないでほしかった」


 正直に想いを話すと、少し心の中がすっきりした。でも、俺はそれで話を止めない。やっぱり、凛恋には話さないといけない。


「俺、ロニー王子に言われたんだ。凛恋を好きになったから、凛恋が俺とロニー王子のどっちを選ぶか正々堂々勝負をしようって」

「私、凡人以外の人を好きになんてならない」

「分かってる。でも、ロニー王子は時間を掛けて凛恋と仲良くなるつもりだった。それで、俺達を大使館のパーティーに招待したし、成華女子と交流会もしたし二次会のパーティーも開いた。それに――」

「私達が居るキャンプ場に来た。分かってるよ、偶然でこんなところにロニー王子が居る訳ないことくらい」


 凛恋はそう言って俺の手に指を組んで更に強く抱き締める。


「ロニー王子は他の男の人みたい凄く怖い訳じゃない。でも、私は写真を撮る時、肩を抱かれた時に凄く嫌だった。だけど、相手は王子様だし断ったら良くないと思って」

「分かってる。凛恋が男に肩を抱かれて喜ばないことは」

「私が抱かれて嬉しいのは凡人だけ」


 そう言って俺の顔を横からじっと見詰める凛恋の肩に俺は手を回す。すると、凛恋は俺にもたれ掛かるように体を倒した。


「ロニー王子が良い人だっていうのは分かる。私が男の人が怖いっていうのもすぐに気付いてくれたし、私だけじゃなくて周りの人に対して紳士的に接してる。でも、私が好きなのは凡人。それに……凡人の話を聞いて嫌いになった」

「俺はそう思わせたくなくて話せなかったんだ。俺がロニー王子に言われたことを言えば、俺は凛恋の意思を強制してしまう。それに……俺は何もかもがロニー王子に劣ってるから、凛恋に対する気持ちまで劣ったら……俺はロニー王子に何も勝てるところがない」

「そんなこと、絶対にないから」


 俺の両肩を掴んで自分に向かせた凛恋は、首を横に振ってから俺を真っ直ぐ見詰める。


「私、優しい凡人もピンチの時に凄く頼りになる格好いい凡人も大好き。でもね、一番大好きな凡人があるの」

「一番大好きな俺?」

「うん。私のことを好きで居てくれる凡人」


 凛恋は、肩に置いていた手を俺の頬に添えて優しく撫でる。


「凡人はもしかしたら無意識でなのかもしれないけど、私、今まで凡人に冗談でも“嫌い”って言われたことないの。それに、何があっても凡人は私を好きで居てくれる。何があっても、私のことを嫌いにならない。今日だって、凡人は怒ったけど私のことを嫌いなんて言わなかった。それにさっき、希に凡人が好きなのは私だけって言ってくれた。そんな凡人が……そんな凡人が私は大好きでっ……そんな大好きな凡人を傷付けちゃった……」


 涙を溢した凛恋は俺を抱き締めようと手を動かす。しかし、躊躇ってその手の動きを止める。俺は、動きを止めた凛恋を抱き締めた。


「凡人に抱き締めてもらえるの、久しぶりだ」

「変な意地張ってごめん。ちゃんと話してれば」

「ううん。元々は私が凡人の優しさに甘えてたせいだから。それに……理緒の言う通り、凡人が私を好きで居てくれることにおごってた。だから、大切なことを忘れるなんて酷いことをしちゃった。本当に……本当にごめんね」


 凛恋と抱き合うことが本当に久しぶりに感じる。そして、体に伝わる凛恋の心地良い温かさに目が滲む。


「凡人……私……」

「もう何も言わなくていい」


 言葉が要らない訳じゃない。俺は、心の底で凛恋の言葉を欲している。

 ロニー王子よりも凡人の方が好き。ロニー王子なんて私のタイプじゃない。ロニー王子なんかよりも凡人の方が格好良い。ロニー王子なんて大嫌い。…………そんな、俺を全肯定してロニー王子を全否定するような凛恋の言葉がもっと欲しかった。もっと言ってほしかった。でも、それは俺の心の表層が温かくなるだけの言葉で、心の奥底は冷たく淀んだままにしかならない。それに、そんな言葉を俺が欲して言わせることは、凛恋の心をただ傷付けるだけでしかない。


 元々俺の心が綺麗な物だと思っていたわけじゃない。長い年月を、俺が生まれてから経験してきた沢山の暗くて冷たい時間で、錆び付いて所々に穴が空いて、人として誰もが心の中に持っているはずの何かが欠如しているのだろうということも、ぼんやりと自覚していた。だから、俺の心が今更腐食して崩れても何も思わない。

 でも、俺のそんな錆び付いて薄汚れた心を、凛恋が綺麗にしてくれた。


 長い時間を掛けて、凛恋の俺に対する真摯な気持ちで丁寧に俺の心にこびり付いた錆を研磨してくれた。そして、凛恋の温かな優しさで丁寧に周りをコーティングしてくれた。

 中身は、心の奥底に持っているものは変わらなくても、凛恋のお陰で俺は暗い自分の心から意識を外すことが出来ていた。でも、それをロニー王子が現れたことで直視させられた。


 ロニー王子が現れて、ただ一点、たった一つの小さな傷を付けただけで、そこから凛恋が長い時間を掛けて作ってくれたコーティングが剥がれ、汚い自分の心を直視した。

 凛恋は俺の心を保護するために研磨してコーティングしてくれた。でも、俺の心は凛恋の手でも手に負えないほど薄汚れていたのだ。他人を信じないと、他人は自分に害のある人間だと思い続けて来た俺の心は、心の核まで錆が行き届いていた。

 それでも、それが分かっていても……俺は今凛恋を抱き締めている手を解けなかった。


 何もない俺には、凛恋しか居ない。なんでもあるロニー王子に凛恋まで盗られたら、俺は本当に何もなくなって、この世に存在する意味がなくなってしまう。


「凡人……」


 凛恋がキスをしてくれる。優しく丁寧に、また俺の心の表面に見えてきた錆を削り取って、そこにまた丁寧にコーティングを施すために。でも、俺はそれで感じてしまう。

 また、俺は凛恋に自分の心を隠してもらうのだと。自分では自分の心をもう変えられないから、凛恋にその重荷を押し付けてしまっていると。


 分かっている。俺以外の、もっと綺麗な心を持った男なら、凛恋にこんな重荷は背負わせないことくらい。こんな悲しいキスをさせるなんてしないことくらい。きっとロニー王子なら――。


「凡人?」


 唇を離した凛恋が、俺の目を見て心配そうに首を傾げる。でも、俺は凛恋の顔を見ながら、たった今、凛恋がコーティングしてくれた心から錆が染み出てくるのを感じた。


「凛恋……俺は、凛恋の力になれてる?」

「えっ? どうしてそんなこと、聞くの? なれてるよ! なってくれてるよっ! 私は凡人が居てくれるから毎日楽しいし、凡人が居るから悲しいことも辛いことも頑張って乗り越えられてる。凡人が居るから、私は毎日安心して生きて行けてる。私には凡人が居ないとダメなの。凡人が居ないと――……かず、と?」

「俺じゃなくて凛恋を楽しませられる男が居たら、凛恋に俺は必要ない。俺じゃなくて凛恋を頑張らせない男が居たら、凛恋に俺は必要ない。俺じゃ無くて凛恋を安心させられる男が居れば、凛恋に俺は必要ない」

「かずと……かずとッ!」


 凛恋が涙を流して、俺の両肩を掴んで必死に揺する。

 凛恋が泣いている。大切な凛恋が泣いているんだ。でも、思ってしまう。

 凛恋を泣かせない男が居たら、俺は凛恋に必要ない。


「凡人が私の側に居てくれるだけで私は幸せなの。凡人は特別なことなんてする必要なんてないっ!」

「やっぱり全然分かってない。凡人くんのことを、凛恋は」


 凛恋の言葉の後に、また理緒さんの声が聞こえる。その声に視線を向けると、理緒さんは俺ではなく、凛恋の方を見てがっかりした表情を見せる。


「ただ居るだけで良いって凄いことだと思うよ。ただ居るだけで自分を幸せにしてくれる人ってこの世に沢山居るとは思わない。それは、居てもらう立場からしたら凄く重要なことで貴重で大切なこと。でもね、それって、伝えられる側からしたらただ便利な言葉でしかないんだよ」

「理緒……」

「凛恋。凡人くんって高校時代からそうだけど、言葉を凄く大切にする人なんだよ。でも、それは同時に明確な言葉をいつも欲しがってる人でもあるの。それ、知ってた? …………心配だったけどやっぱりダメだったね。やっぱり凛恋は何も凡人くんを知らない。凡人くんの一番近くで居られた五年間、凡人くんに一番好きで居てもらえた五年間、いったい凛恋は凡人くんの何を見てきたの?」


 理緒さんの冷たい言葉に、凛恋は俺の体を理緒さんから覆い隠すように抱き締める。


「凡人は渡さない」


 強く抱き締められることに、強い独占欲を見せられることに、ほんのり心が温かくなる。そしてまた、俺の錆びた心をコーティングしようとする。でも、そのコーティングを理緒さんの言葉が止めた。


「凡人くんって結構感情的に動く人だけど、心の中では結構理屈っぽいところがあるんだよ? 友達関係を友達になろうって明確な言葉がないと不安がっちゃうみたいに、感情的に見えて感情なんて不確かなもので凡人くんは落ち着けないの。それってね、私もそうなんだ」


 俺を見て理緒さんは優しく微笑んだ。


「凛恋って、いじめられたことある?」

「ある。仲間外れにされたこともあるし、悪口を言われたことも」

「でも、凛恋にはそれでも味方してくれる友達が居たでしょ? だから、味方の誰も居ないいじめは経験したことが無い。だから分からないんだよ。誰も味方が居なくて、人の気持ちなんて不確かなものを信じることの怖さと、そんなものを信じて動こうと思えないほど追い詰められる辛さを。それを、私も凡人くんも経験してる。私は小学校から高校まで、凡人くんは栄次くんの居ない中学時代に」


 凛恋へ真っ直ぐ視線を向けてそう言った理緒さんは、風でなびいた髪を耳に掛けて微笑む。


「凛恋はなんで凡人くんが必要なの? なんで、凡人くんと付き合っていたいの?」

「凡人は私の運命の人なの! 凡人は私を助けてくれて、私のことを一番好きで居てくれて。楽しいことも嬉しいことも、辛いことも悲しいことも全部一緒に過ごして来た大切な人なの! だから――」

「だから言ってるでしょ? 感情論なんて凡人くんに通用しないって。今みたいに、真っ青な顔をして自分のことを信じられなくなってる凡人くんに、どれだけ凛恋が感情的な言葉を並べてもダメだって分からないの? 五年も一緒に居たのに」


 ゆっくり俺達に近付いた理緒さんは、俺の頬に右手を伸ばす。しかし、その手は凛恋が思いっ切り振り抜いた右手に弾かれた。


「凡人に触らないでっ!」


 立ち上がった凛恋は、振り抜いた右手をまた振りかぶる。そして、また思いっ切り振り抜いた。

 海辺のベンチに吹く潮風の音を掻き消す甲高い殴打音。その弾ける、耳と心の奥底を痛撃する哀音が、俺の全身に凍えるような寒気を走らせた。

 凛恋の平手打ちを全く避ける素振りも見せず頬に受けた理緒さんは、打たれた頬を赤くしながらも真っ直ぐ凛恋の顔を見返す。


「私には凡人くんが必要なの。小学校の頃、私は私をいじめる他人が本当に大嫌いだった。私が気が弱くて何も言えないからって、何でも言って良いって、何をして傷付けても構わないって自分勝手な都合で私を毎日毎日傷付け続けた他人が本当に嫌いだった。でも、そんな他人に対して希望を持たせてくれたのは凡人くんだったの。凡人くんだけは、自分勝手な人達で悲しんでる存在に優しさを向けられる優しい人だった。でも、それは今なら何で凡人くんがそんな優しい人になれたのか分かる。……他人なんて信じてなかったから、他人になんて期待してなかったから、凡人くんはずっと自分を持ち続けられたの。私は、そんな凡人くんを格好良いって思ってる。小学校からずっと今この瞬間も。凛恋も知ってるだろうけど、私は中学時代から私を悪く言う人の彼氏を奪ってぐっちゃぐちゃに関係を壊して、人を不幸にさせてきた。それで気持ち良くなって、すっきりして楽しんでた。他人って馬鹿だな。男って結局女の人なら、エッチ出来れば誰でも良いんだって笑ってた。だけど、凡人くんはそうじゃない。高校で再会した凡人くんは凛恋って彼女が出来てたけど、栄次くんっていう親友と再会してたけど、凡人くんの目は変わってなかった。全然ブレてなかった。他人に流されない自分を持った目を持ってて、私みたいにくだらないその場凌ぎの楽しみに溺れてなかった。そんな凡人くんが、私は凄く輝いて見えて、そんな私に持ってないものを持ってる凡人くんが必要だって思った。それに私はね、私自身も凡人くんに必要な存在だって思う」


 理緒さんは体の後ろに手を組んで、俺を見て小さく微笑んだ。


「私なら、凡人くんが本当に欲しいと思ってるものを与えられる」


 小さく息を吐いた理緒さんは、酷く嫌悪した表情を、俺でもなく、凛恋でもなく……空に浮かんだ太陽に向けた。


「ロニー王子って実際に会ってみたけど、やっぱり凡人くんの方が断然良いよね。身長は凡人くんの方が高くてスタイルも良いし、顔から感じる優しさが段違い。ロニー王子は見るからに自信家って感じで、私はあんな人はタイプじゃないな。ああいう人を見て格好良いって色めき立ってる女達って本当に馬鹿ばっかりだと思う。それに、わざわざ自分が気に入った女の子と仲良くなるために、女の子の居場所を調べて偶然ですねって平然と近付いてくる神経を本当に気持ち悪いと思う。ああいう人って、自分が王子だからって何でもやって良いって思ってるんだよ。自分は一国の王子様で色んな人から肯定されて、自分が人に嫌われるなんて思ってないからあんな気味の悪いことを平然とした顔で出来るの。私は、そんな最低なことをしてきたのに、声を荒らげずグッと堪えた凡人くんは凄く偉いと思う。里奈は空気を読んでみたいなこと言ってたけど、あんなことされて平然と空気を読めなんて酷すぎる。あの場で一番辛かったのは凡人くんなのに。だから――」


 理緒さんは空から顔を下げて、視線を俺に向ける。


「だから、私はロニー王子のことが大っ嫌い」


 人を人前で否定することは誰だって躊躇うことだ。人を人前で否定するということは、自分が人を否定するような人間だと知らしめることになる。だから、誰だって躊躇うものだ。誰だって、明確な言葉を避けてお茶を濁して、人を否定することから避ける。もちろん、本当に信頼している家族や恋人、友人の前では愚痴として人を否定するものだ。だから、理緒さんも俺や凛恋の前だから明確な言葉で、一切オブラートに包むことなくロニー王子を否定した。


 俺はその理緒さんの言葉を聞いて、錆び付いた心が形を崩して溶けるのを感じた。


 凛恋は俺の心を優しく研磨してコーティングしてくれる。でも、理緒さんは俺の心を崩して汚い部分を捨てて、足りなくなった心を自分の心を溶かして補填する。

 どっちも、俺の心を救おうとしてくれている。どっちも、俺のことを心配して俺の心を助けようとしてくれている。

 ただやり方が違うだけだ。認めて包み込むか、認めて再構築するか、ただそれだけのちがいでしかない。


 でも、どうしてだろう……。あんなに凛恋に包み込まれていることが心地よかったと思えていたのに……。

 今の俺は、理緒さんのやり方に共感という強い安心を感じていた。

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