【二三九《ピッティングコロージョン》】:一

【ピッティングコロージョン】


 人は怖いものだと思う。それは昔からそう思っていたが、俺は今日改めてそれを再認識した。


「凛恋さん、こんにちは」

「ロ、ロニー王子!? こ、こんにちは。どうしてここに?」


 目を見開いて驚く凛恋の隣で、俺は視線の先に居るロニー王子の顔を睨む。しかし、ロニー王子の顔は爽やかな笑顔のまま変わらなかった。

 一日も経ってない。いや、半日も経ってない。今朝の非常識な電話からまだ八時間足らずなのに、ロニー王子は俺達がキャンプをしているコテージに居た。


「実はこの近くのリゾートホテルに泊まっていて。アウトドアスポーツが出来る場所があると聞いて来てみたんです。そしたら凛恋さんの姿をお見掛けして」

「そんな偶然があるんですね」


 平然と白々しい言葉を吐くロニー王子の話に、凛恋は目を丸くして驚く。でも、偶然なんてあり得ない。きっと、俺達がどこに居るかを調べたのだ。それで、俺達が居る場所に来て偶然を装っているだけだ。


「運命かもしれませんね」


 仕掛けに気付いている俺は、ロニー王子の言葉に反吐が出そうだと思った。そう思った瞬間、後ろから肩を引かれる。


「偶然なんてあり得ないだろ?」

「ああ。絶対に凛恋の居場所を調べて来たんだ」


 小声で話す栄次に答えると、栄次は眉をひそめてロニー王子を見返す。


「良かったら凛恋さん達も一緒にどうですか?」

「でも、アスレチックは昨日して、今日は川で遊ぼうと思ってて」


 凛恋が俺に視線を向けながらロニー王子に答えると、ロニー王子は明るく爽やかに笑った。


「それならベストタイミングですね。私はシャワークライミングをやろうと思っていたんですよ。川の中を登るスポーツなのですが、とても気持ちが良いと聞いてやってみたかったんです。でも、やっぱり一人だと楽しくないので、皆さんも一緒に行っていただけると嬉しいです。もちろん必要な用具はこちらで用意しますし、お礼にディナーもご馳走します。もし、お友達も良ければですが」


 ロニー王子が凛恋以外の俺達に視線を向けた瞬間、栄次が俺の前に歩み出ようとした。しかし、それよりも先に明るい里奈さんの声が響いた。


「良いんじゃない? ただの川遊びよりもシャワークライミングの方が面白そうだし」

「僕も里奈と同じでシャワークライミングをやってみたいかな」


 里奈さんと瀬名が賛成し、その雰囲気で否定出来る雰囲気がなくなった。


「ありがとうございます。では、車を用意しますので少し待っていて下さい」

「俺はコテージで寝てる。昨日のアスレチックでもしんどかったんだ。シャワークライミングなんて無理に決まってる」


 断れる雰囲気ではなくなった。でも、それは雰囲気を悪くしないように空気を読めばの話だ。だが、俺の方に空気を読んでやる義理もない。

 俺達の前に現れてから今まで、ロニー王子は一度も俺に視線を合わせなかった。それでもう、俺とロニー王子が完全な敵対関係になったのは明らかだ。そして、シャワークライミングに参加するというのはロニー王子に凛恋との接点を与えることになる。そんな、敵に塩を送るようなことをする訳がない。


「ロニー王子のせっかくのお誘いですからお受けください」


 ロニー王子のボディーガードが俺に丁寧な口調で参加を求める。しかし、がたいの良い大男から言われても脅しにしか聞こえない。


「多野さんは運動が苦手だとおっしゃっていましたし仕方ないですね。皆さん、行きましょう。凛恋さん?」


 俺を置いて行くと決めたロニー王子は、少し歩き出してから俺達の方を振り返る。そして、凛恋に声を掛けた。


「あの……ロニー王子、すみません。凡人が参加しないなら私も遠慮します」

「なぜですか? 多野さんが居なくても、シャワークライミングは出来ますよ?」

「私は友達とも遊びに来てますが、彼氏とも遊びに来てるんです。彼氏との時間を大切にしたいので、本当にごめんなさい」


 凛恋がロニー王子に丁寧に頭を下げて断ると、ロニー王子は凛恋に笑顔を向けた。


「分かりました。そんなに謝らないで下さい。私の方こそ急な誘いをしてしまった側なので。でも、ディナーくらいはご一緒出来ませんか?」

「すみません。今日の午後には帰る予定なので、夕食はご一緒出来ません」

「そう、ですか……」


 ロニー王子は凛恋の言葉に大きく肩を落とす。そして、小さく息を吐いた後に明るい笑顔に表情を戻した。


「では、後ほど凛恋さんに連絡をしますので、その時に都合の良い日を教えてください。せっかくの夏休みですから、日本の友人と過ごしたいんです」

「えっ……」


 ロニー王子の言葉に、俺は思わず声を漏らしてしまう。

 凛恋に連絡をするということは、ロニー王子は凛恋の連絡先を知ってるということだ。でも、俺は凛恋がロニー王子と連絡先を交換したなんて聞いてない。

 凛恋は一度、高校の頃に俺が本蔵さんと連絡先を交換した時に俺へ怒った。だから、俺はそれ以降、空条さんや宝田さんと連絡先を交換する時も話したし、仕事上で必要な古跡さんや帆仮さんとの連絡先交換も凛恋に誤解させないように話をした。

 でも、凛恋はロニー王子と連絡先を交換したことを話さなかった。


「凛恋……ロニー王子と連絡先、交換したのか」


 凛恋にそう尋ねると、凛恋は真っ青な顔をして俺の手を掴んだ。


「凡人! パーティーの二次会でみんなと一緒に交換して、それを凡人に伝え忘――」

「もういい」

「凡人!」「カズ!」「凡人くん!」


 言い訳をする凛恋に背を向けて歩き出すと、後ろから凛恋と栄次と希さんの声が聞こえる。


「あのさ、凡人くんちょっと自分勝手過ぎない?」

「り、里奈!?」


 低い声で憤りを感じる里奈さんの言葉に振り返ると、里奈さんの横で腕を掴んでいる瀬名が見える。しかし、里奈さんはその手を振り解いて俺に近付いて来た。


「せっかくロニー王子が誘ってくれたのに、なんであんな態度で断ったの? もうちょっと空気読んでよ。そのせいで凛恋がめっちゃロニー王子に謝ってたじゃん」

「里奈、私も行きたくなかったから……」

「ちょっと凛恋は黙ってて」


 本当に腹に据えかねているのか、里奈さんは口を挟んだ凛恋を遮って俺ににじり寄る。その里奈さんに視線を向け、俺はあることを思い出していた。

 高一の春休み、有馬にけしかけられて俺を別れさせようとした里奈さんのことを思い出した。あの時もこんな風に、俺に一方的に怒鳴ってきたっけ。


「俺はシャワークライミングなんてしたくなかっただけだ」


 視線を下げて言葉を返すと、睨み上げた里奈さんは更に表情に表れた怒りを濃く熱くする。


「それってわがままでしょ。みんなで行こうって雰囲気だったのに、凡人くん一人が行かないって言ったら凛恋もみんなも行ける訳ないでしょ。やりたくないことだから自分だけやらないって言って済まされるのって幼稚園に入るまでだと思うけど」

「俺が断った時、ロニー王子はみんなを誘っただろ。その時に行きたかったら行けば良かったんじゃないか?」

「はあっ? それ、マジで言ってるとしたらめちゃくちゃ腹立つんだけど。うちらが誰か一人置いて遊びに行ける訳ないじゃん」

「もう腹立ててるだろ。さっきから喧嘩腰で突っ掛かって来て」

「カズ、里奈さん、止めろって!」


 売り言葉に買い言葉。その応酬を続ける俺と里奈さんの間に栄次が割って入り、俺を押して里奈さんから遠ざける。しかし、里奈さんは動かず俺に言葉を投げ付けた。


「それにさ、凛恋がパーティーで連絡するのを忘れたくらいでキレて、男としてちっさ過ぎ。後、凛恋がロニー王子と連絡先交換したぐらいでキレるとかあり得ないでしょ。凛恋は凡人くんの所有物じゃないんだけど? 人の人格無視して強制しようとするとか――」


 真正面から怒りを向けてくる里奈さんの言葉を黙って聞いていると、弾けるような甲高い殴打音が響き、里奈さんの顔が横を向いた。

 そして、俺の視界には里奈さんの頬を平手打ちした理緒さんが見えた。


「痛ッ! 何すんのよッ!」


 平手打ちされた頬を押さえた里奈さんが理緒さんに怒鳴り返すが、理緒さんは黙って視線を凛恋に向ける。


「凛恋って、高校の頃に凡人くんが本蔵さんと連絡先を交換した時にちょっと揉めたって言ってたよね。凡人くんが自分の知らないうちに本蔵さんと連絡先を交換したのが嫌だったって。それと同じこと、凛恋もしちゃったんだ」

「あっ……」


 理緒さんの言葉を聞いた里奈さんがハッとした声を上げ、一瞬俺に視線を向けた後にばつが悪そうに俯いた。そして、凛恋も視線を下に下ろして黙り込んだ。


「一度コテージに戻ろうか」


 重々しい雰囲気の中、真弥さんがそう言って凛恋の背中を押しながら歩き出す。その真弥さんの手が俺の腕を掴む寸前、俺は体を引いて真弥さんの手から逃れた。


「すみません。ちょっと一人にさせて下さい」

「ダメ。こういう時に凡人くんを一人にしてろくなことになったことがないから」


 俺の言葉を即座に否定した真弥さんは、俺が躱した手を伸ばして強く俺の腕を引っ張る。そして俺は、真弥さんに強く引っ張られるまま歩き出す。

 その場の重い雰囲気が耐え切れなかった訳じゃない。ただ素直に血が上った頭を冷やしたかった。でも、それ以上に、ショックで乱れている心を誰にも見られたくないという思いが強かった。




 コテージに戻ってから、俺はすぐに一人にしてほしいとコテージを出た。でも、俺の横には勝手に付いて来た真弥さんが居る。


「凡人くんが話さなかったことが納得出来た。八戸さん、ロニー王子にアプローチを掛けられてるんだね」


 隣で話す真弥さんの言葉に応えず、俺は近くにあるベンチに座って、前にある山の方向に視線を向けた。


「確かに、このキャンプ場にはシャワークライミングが体験出来るって書いてあったけど、日本全国シャワークライミングが出来る場所はここだけじゃない。それなのに、ピンポイントで私達が泊まってるこのキャンプ場にロニー王子が来るなんて誰も偶然なんて思わない。きっと、八戸さんもロニー王子の好意に勘付いてる」

「俺は別にロニー王子が、たまたま、偶然、このキャンプ場に居たことを怒ってる訳じゃありません」


 俺は嘘を吐いた。いや……嘘ではない。俺が怒っているのは、ロニー王子が俺達の居場所を調べて現れたことだけじゃない。


「八戸さんが凡人くんの知らないところで連絡先を交換してたことだよね。八戸さんは同じことをやらないでほしいって言ってたのに」

「凡人くんは、そんな心の狭い人じゃありませんよ」


 ベンチに座っていた俺と真弥さんの後ろからその声が聞こえる。それに俺と真弥さんが振り返ると、視線の先に理緒さんが立っていた。


「もちろん、自分の彼女が知らないところで男の人と連絡先を交換してたら嫌な気持ちになると思います。でも、凡人くんが一番嫌だった――ううん、悲しかったのは……凛恋がそのことを凡人くんに伝えるのを忘れてたことです」


 歩いて来て俺の隣に座った理緒さんは、俺を挟んで反対側に居る真弥さんに視線を向けた。


「露木先生も気付いてますよね? 凛恋が凡人くんに慣れてるって」

「それは……」

「凛恋は凡人くんと付き合えてて、凡人くんに無条件で好きで居られてることにおごってるんですよ。だから今回みたいに、私や露木先生や萌夏だったらやらない不誠実なことを凡人くんにするんです」


 きっぱりとそう言い切った理緒さんは、それで言葉を止めなかった。


「露木先生だって凛恋の話を聞いてて思ったんじゃないですか? 凛恋は最終的に謝ってるけど、最初は言い訳から入ってるって。それに……泣けば凡人くんが弱いって思って泣いてるって」


 間を置いてその言葉を発した理緒さんは、明確に凛恋に対する怒りを見せた。

 理緒さんが言ったことは、俺が凛恋に忘れられて怒っているというはその通りだった。

 人は忘れる生き物だ。だから、忘れること自体が全て悪いこととは言えない。それに凛恋だって四六時中俺のことだけを考えて生きている訳じゃない。でも……凛恋が俺のことを忘れたタイミングは、忘れちゃいけないタイミングだった。


 パーティーで遅くなることを俺に連絡することも、連絡先を交換したと俺に伝えることも、どっちも俺を忘れてはいけない……忘れてほしくないタイミングだった。それなのに、凛恋は俺を忘れた。


「でも、凛恋は泣けば良いなんて思ってない」

「凡人くんは優しいね。高校の頃からずっと変わらない。ううん、小学生の頃からずっと変わってない」


 凛恋は泣けば良いなんて思っているような子じゃない。きっと、本当に後悔して、その後悔から涙を抑えられなかったんだ。


「凡人くんは女の子に対して純粋過ぎるよ。ううん、女の子に対して夢を見過ぎてる。女の子だと言っても人間なの。絶対に黒い面は持ってる。もちろん私も持ってるよ」

「分かってるよ。凛恋は怒ると口が悪くなるのが悪いところだと思うし、俺に話す愚痴は結構酷いと思う。でも、俺はそれでも凛恋が好きなんだ。それも凛恋の一部だって分かってる」

「うん。でも、それは凛恋が凡人くんのことを第一に考えて大切にしてたから、凡人くんも悪いところを飲み込めてたんでしょ。だけど、今回凛恋は大切な場面で凡人くんに不誠実だった」


 理緒さんは俺の言葉を肯定しながらも俺の凛恋に対する想いを否定していく。それに、俺が更に否定を重ねようとした。しかし、その前に理緒さんは更に言葉を重ねる。


「私なら、凡人くんにそんな悲しい思いなんてさせない」

「俺が好きなのは凛恋だ」

「知ってるよ。でも、凡人くんと凛恋の想いは釣り合ってない。明らかに凡人くんの方が強くて凛恋の方が弱くなってる」

「勝手なことばっかり言ってんじゃないわよ」


 理緒さんの言葉に言い返したのは、いつの間にか現れた里奈さんだった。その里奈さんは、凛恋の手を引いていて、その凛恋の後には栄次と希さん、そして瀬名が立っていた。


「確かに凛恋が忘れたことは良くないことだったかもしれない。だからって、なんで理緒が凛恋と凡人くんのことに口出しすんのよ」

「里奈だってさっき凡人くんに口出ししてたでしょ。凡人くんの気持ちなんて何も考えずに」


 ベンチから立ち上がって里奈さんの目の前に立った理緒さんは、真っ直ぐ里奈さんに視線を向ける。その視線は鋭く強かった。


「あれは、ロニー王子と仲良く遊ぼうって話を凡人くんが空気を読まずに――」

「それを本気で言ってるなら、里奈は凡人くんについて語る資格なんてないよ」

「はあ? さっきから何様よ。上から目線で」

「高校の時から里奈はそうじゃない。よく知りもしないで短絡的に行動を起こして、それで思い込んだらそれを全て正しいと思ってる。まさか、高校の時、自分が凛恋と凡人くんを別れさせた張本人だって忘れてる訳ないよね? しかも、凛恋を入江くんとくっつけようとした。周りに反省してるなんて言いながら、裏で散々凡人くんのことを馬鹿にしてた」

「それはもう、終わったことでしょ」


 理緒さんに言われた言葉に、里奈さんは目に見えて動揺し歯切れの悪い言葉を発する。


「何が終わったこと? それ、里奈本人が絶対に言っちゃダメな言葉だよ。それが分からないから、それが凡人くんを傷付けるって分からないから、私は里奈に凡人くんのことを語ってほしくないの。言っとくけど、私は今日まで一度だってあの時のことを忘れたことなんてないから。あんなに凡人くんのことを傷付けて馬鹿にしたこと、忘れられる訳がない」

「理緒さん。里奈さんの言う通り、その話は終わった話だ。俺も凛恋ももう気にしてない」

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