【二三七《絶体冷怒》】:一

【絶体冷怒】


 目の前に座る瀬名は、俺が出した麦茶に落ち着かない様子で何度も口を付ける。ただ、家に来てから今まで口を開いたのは、家に来た時の「こんにちは。久しぶり」という言葉を発した時だけだった。

 地元に帰った当日、瀬名は俺を訪ねてきた。そのタイミングから、どうせ里奈さんに「凡人くんを説得してきて」なんてことを言われたんだと思う。


「凡人、あのね……」

「なんだ?」

「凛恋さんは凄く落ち込んでるって言ってたよ。凡人に心配掛けて悪かったって思ってるって」

「里奈さんに言っといてくれ。少し放っておいてほしいって」

「凡人……」


 瀬名は両手をギュッと握り締めて視線を泳がせる。きっとどうやって俺を説得しようかと考えているんだろう。


「高校の頃、好きな気持ちが大切だって凡人は言ってたでしょ?」

「高校の頃、凛恋と一度別れた時のことを言ってるなら、自分のやってしまったことで凛恋が傷付いて、それで俺は自分の気持ちに素直になれなかった。それは俺が悪いと思う。でも、今回は凛恋から何も連絡が無くて、何度も何度も連絡して心配してるのに凛恋が俺のことなんか忘れて、どっかの国の王子様と楽しく飲んでたのが問題なんだ」


「凛恋さんが凡人のことを忘れる訳ないじゃん!」

「パーティーが楽し過ぎて、トイレに立った時に連絡するのを忘れてたみたいだぞ」

「トイレは圏外だったかも――」

「圏外だったら圏外で連絡出来なかったって言えば良いだろ。それなのに凛恋は思い付かなかったって言ったんだ。それが答えだろ」

「…………」


 俺の言葉に瀬名は黙る。きっと瀬名以外なら、何か理由を付けて俺の言葉を否定したのかもしれない。でも、俺ほどではないが瀬名もそれほどコミュニケーション能力は高くないし、口八丁な訳でもない。

 自分の分の麦茶が入ったコップを握り締め、自分で口にした言葉を噛みしめる。


 凛恋に対して怒りを持つというのは、本当に瀬名の言った高校の時以来かもしれない。

 俺と凛恋は日頃、喧嘩らしい喧嘩をしなかった。それは、お互いに相手のことを常に想い合っていたからこそだと俺は思っている。でも、それが俺だけの感覚だったのだ。いや……その感覚は古かったのだ。


 凛恋は大学の友達と一緒にロニー王子の歓迎パーティーに参加して、その後にロニー王子が主催する二次会にも参加した。その楽しいことで俺のことが頭から抜け落ちるくらい楽しんでいた。俺のことが抜け落ちるくらい、俺という存在に慣れていたのだ。

 俺は、常日頃から思っている。凛恋が自分の側に居ることに慣れてはいけないと。凛恋が自分の側に居ることが当たり前になった瞬間、凛恋に感謝をしなくなってしまうと。でも、凛恋はそうじゃなかった。


 思いのズレを感じたのはこれが初めてではない。だけど、ここまで大きなズレの感覚は久しぶりだ。

 人が自分以外のことを全て分かるなんて言うのは、その人のおごりだ。人は自分以外のことを全て分かることなんて出来ない。でも、俺は凛恋のことを分かっていると思っていた。全てなんて大それたことは言えないけど、誰よりも凛恋という存在のことを理解していると思っていた。だけど……それこそが俺のおごりだったんだ。


「凡人。ちゃんと凛恋さんと話した方が良いよ。今、里奈も凛恋さんと会ってるから」


 瀬名の言葉を聞きながら、返事をせずに麦茶を一口飲む。それを見て、目の前に座る瀬名が大きく深いため息を吐いた。


「この前、僕と里奈、喧嘩したんだ」

「喧嘩? そんな話、聞いてないけど?」

「うん……。里奈がね、僕に黙って合コンに行ったんだ」

「合コンに? どうせ、人数合わせで呼ばれたんだろ。里奈さんは盛り上げ役が上手いし、彼氏持ちだから人数合わせに丁度良いからな」

「うん。実際はそうだったんだ。でも、里奈からじゃなくて大学の友達から聞いたんだ。その時に、色んな男の人に声を掛けられて連絡先も聞かれてたって。それで、落ち込んで……」

「落ち込んでどうして喧嘩になったんだ?」


 俺のことを説得しに来ていたはずの瀬名が、いつの間にか自分が里奈さんと喧嘩したことを話し始めていた。しかし、俺の話をするよりずっと良い。


「合コンに行ったくらいで落ち込むなんて卑屈すぎって言われたんだ。でも、僕は里奈が他の男の人に声を掛けられて、その人のところに行っちゃうかもしれないって心配で心配で仕方なかったんだ。それを言ったら、面倒くさいって言われて喧嘩になった」

「面倒くさい、か……」


 人によれば、心配されることに煩わしさを感じる人も居る。里奈さんは瀬名が心配したことを過剰な心配だと思って、瀬名の心配に煩わしさを感じた。その煩わしさから感じるイライラでつい強い言葉を向けたのだろう。


「凡人も僕と同じじゃない? 凛恋さんのことを心配し過ぎじゃ――」

「瀬名には、凛恋を彼女に持つ男の気持ちは理解出来ない」


 また麦茶を一口飲んで、俺はきっぱりと瀬名の言葉を否定する。

 俺は別に里奈さんがモテないなんて思っている訳じゃない。実際、里奈さんは同年代の女性の平均以上の容姿をしているし、性格も明るいからモテる方だとは思う。高校時代からも結構里奈さんを好きだという男子の話は聞いたことがある。でも、凛恋は里奈さんの比ではないくらいにモテるのだ。


「今まで、俺は凛恋のことを好きな男達に何度も何度も凛恋を奪おうとされて、凛恋を好きな男達に俺は、俺が凛恋に不釣り合いだと何度も何度も言われ続けてきた。そのことで沢山嫌がらせを受けたし、高校時代から凛恋と付き合ってるだけで、俺は男子に裏で色々言われてた。嫌がらせとか陰口は別にどうだって良かった。でも、俺は常に警戒してないと凛恋を狙ってる男が居たんだ。だから、過剰に心配してるくらいじゃないと、俺は凛恋を守れなかった」

「でも、凛恋さんは――」

「だけど、俺はそうでも凛恋はそうじゃなかったんだ。凛恋はロニー王子の歓迎パーティーに参加して俺のことを忘れてた。大学の歓迎会に行った凛恋に電話を掛けても何も連絡が返ってこなかった。メールもしたし電話も何度も何度も時間を置いて掛けた。それでも、凛恋は俺のことを忘れて楽しんでたんだ。俺は連絡さえもらえれば、パーティーに参加しても良かったんだ。ただ一言、帰りが遅くなるけど心配しないでほしいってメールでも留守電でも入れてくれれば良かったんだ!」


 怒りが再熱して、俺はつい語気を強めてしまう。でも、自分で言いながら、俺は自分の言葉と自分の心に矛盾を感じた。

 俺の言った言葉は、真っ当な言葉だと思う。でも、俺の心の中は真っ当じゃない。


 きっと、俺は凛恋がパーティーに参加すると言ったら、参加せずに帰ってこられないかと言ったと思う。それはやっぱり、ロニー王子に嫉妬して、凛恋とロニー王子を一緒に居させたくなかったからだ。そんな器の小さい自分と醜い大きな矛盾と子供みたいな自分勝手さを感じて吐き気がした。


「……分かった」


 俺の言葉を聞いた瀬名は『分かった』と言った。でも、また大きなため息を吐いて呆れた表情をした瀬名の顔から、瀬名が全く分かっていないのが手に取るように分かった。

 瀬名は分かった訳じゃない。俺のことを勝手に呆れて諦めたのだ。俺の言葉が瀬名に理解出来ないから、理解しようとすることに疲れて、理解しようとすることを投げ出した。


「じゃあ、僕は帰るから。相変わらず、凡人は頑固者だよ」

「ああ。じゃあな」


 立ち上がってからまたため息を吐いて振り返った瀬名に言葉を返し、俺は瀬名が部屋を出て行くのを見送ってベッドに寝転ぶ。そして、天井から目を逸らすために目を閉じた。

 人が自分以外のことを全て分かるなんて言うのは、その人のおごりだ。人は自分以外のことを全て分かることなんて出来ない。それに、人に自分のことを全て別れと言うのは横暴だ。だから、瀬名に俺の、凛恋の彼氏という立場について理解させようとしたことは俺の自分勝手だ。でも、俺は思う。

 少なくとも、凛恋自身は俺のことは理解しようとしてくれても良かったと。




 久しぶりに婆ちゃんの作ってくれた料理で晩飯を食べ、シャワーも浴び終わってベッドで寝転んだ俺は、後は寝るだけという状態だった。そんな俺のスマートフォンが震える。


『もしもし』

「もしもし」


 電話の向こうから聞こえる理緒さんの明るい声に返事をしながら寝返りを打つ。


『凡人くんも帰ってるんだよね? 今日私も帰って来たの』

「理緒さんも? でも、理緒さんはまだ帰る予定はなかったんじゃ?」

『うん。色々予定が早まってね。ついさっき新幹線でこっちに着いて、今は家に荷物を置き終わった後なの。凡人くんは夕飯食べた?』

「ああ。さっき食べたけど」

『そうなんだ~。せっかくだから、一緒にご飯食べたいな~って思ったんだけど』

「ごめん」


 また反対側に寝返りを打ちながら時計を見て、もうすぐ時間が二〇時になるのを目で確認する。


『じゃあ、一緒に飲みに行かない? 駅前で待ち合わせて。凡人くんが来る間に私はどこかで夕飯済ませてるから』


 明るい理緒さんの言葉に、俺はベッドの上で体を起こそうかそのまま寝かせていようか迷い……結局体を起こした。

 酒を飲んで嫌なことが忘れられる訳ではないのは分かっている。でも、酒を飲めばいくらかモヤモヤとした心がマシになるのは分かっている。それに、このまま一人で部屋にゴロゴロしていても考えることは一つしか無い。それを考えても、現状の俺ではただイライラが募るばかりだ。


「分かった。今から出るよ」

『ありがとう。でも、慌てなくて良いよ。一時間後に駅前で』

「ああ。理緒さんも慌てずゆっくり晩ご飯食べてきて」

『うん。急な呼び出しなのに本当にありがとう。じゃあ、また後でね』


 電話を終えて、ベッドに座る俺は一つあくびを噛み殺す。ついさっきまで寝る体勢に入っていたのだ。その状態でいきなりキビキビと動き始めるのは辛い。

 ベッドから立ち上がってゆっくり着替えを済ませながら、いつもの流れで凛恋から誕生日プレゼントに貰ったブレスレットを付ける。


 俺は服のことなんて分からないから、着る服は適当だ。ブレスレットも今日の服に合っているか分からない。でも、ブレスレットを付けないという選択肢はなかった。

 俺と凛恋は今、喧嘩をしてしまっている。その喧嘩も俺の一方的なものだ。冷静で居られている今の俺自身、今回のことは全面的に俺が悪いと思う。でも、きっと凛恋の顔を見たら俺は冷静に物事を判断出来なくなる。


 前にも考えた。連絡が付かなかったとしても、俺が凛恋が無事で良かったと考えられれば、そう言えれば丸く収まったのだと。丸く収まらなかったのは、俺がそう思えず怒ってしまったからだと。そういう、小さい人間の俺がいけなかったのだと。でも、それを認めたからこそ、それを認めたくない捻くれ者の俺が出てくる。

 認めたらまた、俺はロニー王子よりも劣っているところが増えてしまう。

 もう、何もかもが劣っていると分かっているし、認めたくないと捻くれている時点で認めているのと同じなのだ。だから、認めたって今更俺がロニー王子より劣っているのは変わらない。


「くっそ……」


 着替えを済ませて部屋から出ながら、俺はそんな八つ当たりの言葉を廊下に吐き落とす。


『多野さん。正々堂々、私と勝負しましょう。どちらが、凛恋さんに相応しい男性として選んでもらえるか』


 その言葉を思い出して、心の中でまた沸々と怒りが沸き立つ。

 空条さんがロニー王子が他人を立てないところがあまり好きじゃないと言っていた。その時はロニー王子を良く思わない人が自分以外にも居るという安心感くらいしか感じなかった。でも、今ならそれを強く理解出来るし、激しく同意も出来る。


 ロニー王子は夜遅くまで凛恋を連れ回したのだ。俺という彼氏が居る凛恋を。

 きっと、二次会に参加した他の成華女子の学生にも、彼氏の居る学生は沢山居たはずだ。でも、他にも居たからと言って凛恋を同列に判断出来る訳がない。だって、ロニー王子は凛恋のことが好きなのだ。だから絶対に、他の学生と同じ風に凛恋を見ていた訳がない。扱いに差を付けなかったとしても、他の学生よりも凛恋と仲良くなりたいという思いがあったのは明らかだ。


「ちょっと理緒さんと飲みに行ってくる」

「いってらっしゃい」


 居間に居る婆ちゃんに一声掛けてから家の外に出る。そして、またロニー王子の言葉が頭の中で響いた。そしてまた、怒りが沸き立つ。

 正々堂々と勝負。でも、この世の中に本当の意味で正々堂々なんて存在しない。

 正々堂々は、公正で偽りなく真正面から物事に当たることを指す。そして、その正々堂々に含まれる公正は『公平で偏りがないこと』を指す言葉だ。


 きっと、公平にすることは公平に判断しようという意志を持つことで出来ると思う。でも、偏りがないことはどう足掻いても不可能だ。

 ロニー王子と俺では財力も権力も地位も名誉も全てがロニー王子に偏っている。それを偏りがないと言える訳がない。でもきっと、ロニー王子からすれば俺と凛恋が築いてきた時間が俺に偏っていると言うのだろう。だけど、俺が持っているのはそれだけだ。総合的に持っている持っていないを比べ合ったら、明らかにロニー王子の方に偏っている。


 この世の中に全く同じ人間なんて存在しない。よく自分とそっくりな人が世界に三人居ると言われているが、それは見た目が同じというだけで、その人が経験してきたものが全く同じという訳ではない。だから、その時点で正々堂々は成り立たない。そうなのだから、容姿も生まれも全く違う俺とロニー王子が正々堂々なんて出来るはずがないのだ。


 多分きっと、ロニー王子は凛恋がロニー王子を好きになると思っている。それに、自信を持っている。そういう自信を持つことは否定出来ないが、そういう自信を持つことにはムカつきを感じる。

 自分が振られるなんて思っていないから、俺に宣戦布告が出来た。少しでも自分に自信がなかったら、俺にあえて言うなんてことをする訳がない。でも、それは正しい。


 今、全世界で俺とロニー王子のどっちが魅力的な男性かアンケートを採れば、ロニー王子の圧勝に決まっている。客観的にそうだし、ロニー王子と比べる相手が俺以外の男に変わっても結果は変わらない。全世界の共通認識として、ロニー王子は男性としての魅力がトップレベルだ。周りから見てそうなのだから、自分自身がそう思っていたとしても何も言えない。


 ロニー王子はナルシストではない。ナルシストは自惚れを感じている人だからだ。自惚れは、自分で自分を“実際より”優れていると思い込むことだ。ロニー王子は実際に、世界の男性でもかなり上位の優れている男性だ。だから、それに自信を持つことは自惚れじゃない。でも……自惚れではないと分かっていても……。

 何もない人間からすれば、それ以上に嫉妬心を煽ることはない。


「凡人くんっ!」


 とぼとぼと駅前まで歩いて来た俺に、その明るい理緒さんの声が聞こえる。そして、視線を向けると明るい笑顔で駆けてくる理緒さんが見えた。

 ギンガムチェックのミニスカートにTシャツとスニーカーというカジュアルなファッションの理緒さんは、俺の前に立つと少し前屈みになってクスッと笑って小首を傾げた。

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