【二三六《完全下位互換》】:一

【完全下位互換】


 ステラを電器屋に連れて行って電気ケトルを買ってきた後、俺はスマートフォンを見る。しかし、スマートフォンには凛恋と行ったロンドン観光の写真しか映っていない。

 俺は電器屋に行く前に凛恋へメールを送った。迎えに行くから連絡が欲しいと。でも、凛恋からはずっとメールが来ない。


 家に戻って来ても心配で落ち着かず、俺はもう一度メールを送らず電話に切り替えてスマートフォンを耳に当てる。

 呼び出し音をずっと聞きながら、部屋の中をうろうろと歩いて凛恋が電話に出るのを待つ。でも、凛恋とは電話が繋がらない。


 一旦電話を切って凛恋からの折り返しを待つが、俺は立ったまま壁に背中を付けて視線を下に落とす。

 今帰って来ていないということは、凛恋は成華女子の学生会が主催したパーティーに参加しているのだ。


 凛恋がパーティーに参加したことは何も悪くない。いつも、凛恋は大学の友達と食事に行くし遊びにも行く。それに俺だって食事に行く時に空条さんや宝田さんみたいに女性が居る時が多い。だから、男のロニー王子が居るパーティーなんて別に何ともない。

 何ともない、はずなのに……俺の頭には、凛恋の腰を抱いたロニー王子の姿が浮かぶ。

 何もない、何も起こるはずがない。凛恋に限ってそんなこと絶対にあり得ない。でも……凛恋にその気がなくても……。


「何考えてんだ俺はッ!」


 声を張り上げて背中を付けた壁を拳で叩く。

 ロニー王子は一国の王子で紳士だとしても、一人の男だ。そう思った自分に俺は吐き気がした。 背中を壁に擦りながら床に座り込み、俺は震える膝を抱え込んで顔を伏せる。

 分かるのだ。ロニー王子がそんなことをやらないことが。


 ロニー王子は自分の立場を使って凛恋と接点を作った。でも、ロニー王子ならもっと少数、更に言えば二人きりで会いたいはずだ。それでも、大人数のパーティーで凛恋と接点を持とうとした。それは、きっと凛恋がいきなり男性と少人数で会うと怖がるだろうと、ロニー王子が思ったからだ。


 ただ、凛恋の肩に手を回したことは、王子とか紳士としての立場ではなく、男としての立場を感じた。誰だって男なら、好きな女性に触れてみたいという欲望は持つ。

 凛恋を傷付けないように気を付けながら、男としての自分をアピールする。そうやって凛恋のことを考えられる男だから、きっとロニー王子は今まで凛恋を傷付けてきた男達とは違う。でも、今まで凛恋を傷付けてきた男達と同じように俺から凛恋を奪おうとする。


 俺はまたスマートフォンで凛恋に電話を掛ける。さっきよりも長い間、俺は呼び出し音を聞き続けた。

 何度も、何度も何度も、繰り返される呼び出し音に不安が募り、その不安の募る自分に嫌気がさす。


 不安で不安で仕方なくて、電話が繋がらない時間が長くなるにつれて不安が抑え切れなくなる。


「馬鹿じゃないのか……」


 フローリングに小さな水滴が落ちたのを見て、足を擦って靴下で水滴を拭き取る。

 恥ずかしかった。不安が募って涙を流して、そんな自分が情けなさ過ぎて、人として小さ過ぎる自分から目を背けたかった。

 早く出てほしい……早く……早く出てくれ……。

 心の中で願っても電話が繋がることはなく、俺はまた電話を切る。


「――凛恋!?」


 俺はインターホンが鳴って慌てて立ち上がって玄関に駆け寄る。冷静に考えれば凛恋がインターホンなんて鳴らすわけがない。それなのに、俺は凛恋が帰って来たと思った。


「凡人さん、ステラが――凡人さん?」

「優愛ちゃん、か……」


 玄関前に立っていたのは優愛ちゃんで、俺は優愛ちゃんの顔を見て壁に手を突いて体を支える。


「凡人さん……どうかしたんですか?」

「凛恋が帰ってこなくて……連絡も付かないんだ」

「え? お姉ちゃんは多分、学生会主催のロニー王子歓迎パーティーに行ってると思いますけど?」

「場所は分かる?」

「すみません。パーティーって学生会の執行部と抽選で選ばれた五〇人しか参加出来ないですし、なんか混乱を避けるために場所は非公開だって」

「そっか……」


 相手は今、日本中で注目を浴びているロニー王子だ。安全面を考えて、過剰とも思える情報規制をしていても仕方ない。


「ごめん。凛恋が心配だから、成華女子に行ってくる」

「え? 凡人さん?」


 俺は部屋に戻って荷物を取って戻って来て玄関に鍵を掛ける。

 アパートから出た俺は、成華女子に向かうために駅へ向かって走り出す。でも、行っても凛恋が居ないのは分かり切っていたし、優愛ちゃんの話を聞けば俺に凛恋が居る場所を教えてもらえるわけがなかった。だけど……単純にじっとしていられなかった。


 じっとしていたらまた涙を流しそうだった。じっとしていたら、心にある不安に心を押し潰されそうだった。だから、体を動かして、息が上がるほど走りたかった。

 それは当然ポジティブな考えじゃない。心にある不安から目を背けたいというネガティブな理由だった。




 今、何時なのかは分からない。でも、俺が視線を向けているカーテンを閉めた窓の隙間から、外が真っ暗だというのは分かる。

 成華女子に行って部外者だからと門前払いを受けてから、今までの記憶があやふやだ。

 結局、凛恋とは会えなかった。連絡も、何度も電話を掛けたのに繋がらず、折り返しも掛かってこなかった。そして、外は既に夜と言われる時間になってしまっている。


 歓迎パーティーは午後から始まったはずだ。そのパーティーが夜暗くなるまで続くものだとは思わない。おそらく、最低でも二次会にはなっているはずだ。

 形だけ参加するならパーティーだけで良い。仮にロニー王子から二次会に誘われたとしても、二次会を断れる理由はパーティーを断るよりも多い。

 この後用事があるとか明日朝が早いとか、それから……彼氏が心配するとか。


 きっと、二次会はロニー王子が成華女子の学生会にお礼として仕切るだろう。そうなったら、ただの学生が用意出来る店よりもランクが高くなる。

 ロニー王子には、美味しい料理も出せるし美味い酒も沢山出せるくらい金がある。それに、ロニー王子の立場なら雰囲気の良い店を貸し切りに出来る。それくらいの財力と地位が……影響力が、ロニー王子にはある。


 凛恋が雰囲気に流されるような軽い女の子じゃないのは分かっている。ちゃんと、凛恋はしっかり自分を持っている女の子だ。でも、本当の金持ち、セレブと呼ばれるような人達は一般庶民の想像を遥かに超えた場所に居る人達だ。


 もし……もし仮に、凛恋がロニー王子のことをほんの少しでも良いなと思ったら、俺はそれにどう対抗出来る?

 俺は軽のレンタカーを借りて一泊二日で安い貸し別荘に泊まり、山の中のいちご園や人で混雑したショッピングモールに連れて行くのがやっとだ。食事だって、最高級なんて呼べないレストランが精一杯だ。


 それに比べて、ロニー王子は大きく広々としたリムジンを持っていて、きっと五つ星ホテルの最上位のスイートルームに何泊でも泊まれる。デートも、プライベートビーチに自家用ジェット機で連れて行けるだろう。ショッピングモールだってロニー王子が来るとなったら混雑で煩わしさなんて感じないほどの好待遇をしてくれる。

 凛恋のために計画出来るデートでもそれだけ差があるのに、俺とロニー王子の差はそれだけじゃない。


 ロニー王子は常に笑顔を崩さず誰にだって丁寧に接する。きっと、凛恋と数時間電話が繋がらないとしても、心配して状況を調べさせることはあっても取り乱して泣き出し、悲観的なことを考えるような性格じゃない。


 片や俺は、他の学生が沢山居るパーティーに凛恋が参加するだけで、そのパーティーにロニー王子が居るというだけで取り乱した。メールをして数時間の間に何一〇回も電話をして、凛恋からの折り返しを待っていない時間はなかった。そして、凛恋の大学にまで行って凛恋のことを探しに行って……泣いて、悲観的な想像で心を押し潰している。


「何も……何も良いところなんてないじゃないか……」


 本当に、何も無かった。何一つ、欠片一つさえも俺にはロニー王子よりも上の部分がない。

 考えれば考えるほど、ロニー王子よりも劣っている部分、悪い部分しか出て来ない。良いところを絞り出そうとしても、俺の中から何も良いところが出て来ない。

 俺は真っ暗な部屋で這うように鞄に近付き、鞄を持ってゆっくり立ち上がって部屋を出る。


 昼間の暑さが残る夏の夜は、薄着でも蒸し暑くて外に出た瞬間に肌に汗が浮き出る。

 夜に外へ出て、どこに行くかは決めていない。でも、昼間に感じたじっとしていられない感覚が心に襲う。


 電車を乗り継いで、フラフラと繁華街の最寄り駅で降りる。

 今まで何かを忘れるために酒を飲もうと思ったことはない。でも、初めて何かを忘れるために酒を飲もうと思った。


「ショットガンを」

「かしこまりました」


 真井さんに連れて来てもらったバーに行き、以前バーで聞いたことがあるショットガンを注文する。よく分からないが気持ち良く酔えると聞いた。

 細長いグラスに、バーのマスターがテキーラと炭酸を注ぎ、手の平でグラスの口を塞いでカウンターの上に勢い良く叩き付ける。そのグラスを目の前に出され、俺は中身が溢れ出す前に一気に口から体の中に流し込む。


「もう一杯」


 俺は一気に飲み干したグラスをマスターに返してもう一杯注文する。

 気持ち良く酔えると聞いたのに、全く酔える気配がしない。多分、量が足りない。もっと飲まないと、心の中にある全部を忘れられない。

 同じように作られたショットガンが目の前に置かれ、俺はさっきと同じようにショットガンを飲み干す。


「もう一杯」


 俺はその後も、ショットガンを注文し続ける。

 味はさっぱりしていて飲みやすく、飲んだ数が増える毎に気持ち良くなってきた。

 ほろ酔いを過ぎて頭が揺れる。多分、もうまともに一人では立てない。ここまで酔ったのは初めてだ。

 気持ち良く酔えている。だけど、まだ嫌なことを忘れられたわけじゃない。


「もう一杯」


 もう何度「もう一杯」と言ったかは分からない。だけど、まだ飲み続けないと忘れられない。

 ショットガングラスをほとんど感覚のない手で掴み、グッと口の中に流し込む。そして、スカッとした感覚が喉を通り過ぎた瞬間、体の感覚全てが一気に遠くなった気がした。




 背中に弾力のある柔らかさを感じ、全身も温かく何かに包まれている感じがした。

 ゆっくり目を開くと真っ白い天井が見える。しかし、頭がグラグラ揺れて体一つも動かしたくない。

 バーで飲んでたところまでは記憶がある。だが、その後の記憶がない。でも、ここがバーではないのは分かる。

 酔い潰れてから、目を覚ますまでの記憶がない。でも、分かったことはある。


 酔い潰れるまで飲んでも、何の解決にもならない。忘れられるのは酔い潰れていた間だけで、目を覚まして意識がある今の俺の心は、酔い潰れる前の変わらず冷たいままだ。


「凡人、大丈夫?」

「りこ……」


 頬に温かい感触を受けてその方向に視線を向けると、俺の側に正座している凛恋が見えた。凛恋は俺の頬に触れさせた手で俺の頬を撫で、上から俺の顔を覗き込んで涙目になる。


「真井さんが、バーのマスターから凡人が酔いつぶれたって連絡を受けたって聞いて、それで凡人を連れて送ってくれたの」

「真井さんが……飲み代は?」

「真井さんのおごりだって言ってくれた。それと……真井さんに、ちゃんと凡人と話した方が良いって言われた。凡人……私に話してないことがあるの?」


 凛恋に尋ねられて、俺は視線を凛恋から外す。

 俺をここまで連れてきてくれて、飲み代まで立て替えてくれた真井さんには感謝しかない。でも、その話は凛恋にしないでほしかった。

 凛恋が真井さんから、俺とちゃんと話した方が良いと言われたということなら、真井さんはロニー王子の件までは話していないことになる。


 俺はその話をしたくなかった。ロニー王子に嫉妬したことを話せば、凛恋は悪い気を持たないことは分かる。でも、凛恋は悪い気を持たなくても、俺は自分の情けなさに直面する。


 自分が情けないのは仕方のないことなのだ。でも、それを好きな凛恋に知られたくない、見られたくないという気持ちはある。凛恋が、情けないというだけで俺を嫌いになんてならないと分かっている。だけど、分かっているから何でもさらけ出せるわけじゃない。

 俺は、自分でも胸糞悪い、自分自身が薄汚いと思うほどロニー王子に嫉妬している。

 俺は自分が凛恋を疑ったとは思っていない。俺は凛恋を信じている。

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