【二三五《最後の砦》】:二

 いきなり手首を掴まれて引っ張られ、俺は慌ててつま先に靴を引っ掛けて外に出る。そして、ステラと優愛ちゃんが一緒に住んでいる部屋の中に入れられ、凛恋とは違う甘い香りが漂う部屋に置かれた、水の入った電気ケトルの前まで連れて行かれた。どうやら、電気ケトルが使えなくて困っているらしい。


 俺は電気ケトルの電源コードをコンセントに繋ぎ直してスイッチを入れてみる。しかし、お湯を沸かしている最中に点くランプが点かない。それを確認し、俺は一旦電気ケトルの電源コードを抜いて、コンセントにスマートフォンの充電器を差し込みスマートフォンに繋げてみる。すると、スマートフォンには充電中のマークが表示された。


「これは、故障してるな」

「それは困る。私はカップ麺を開けてしまった」


 ステラはそう言いながら、両手で口を半分まで開けたカップ麺の容器を俺に見せる。

 優愛ちゃんは凛恋と同じ成華女子の学生だ。だから今日は、学生全員が強制されているという受講命令で大学に行っている。それで、昼飯に困ったステラはカップ麺を食べて済ませようとしたのだろう。


 ステラはヴァイオリニストという立場で手を怪我することはあってはならない。だから、ステラは手を怪我する恐れのあることは避けるように言われている。

 極端に言えば、カップ麺を食べることも火傷の恐れがあることを考えれば危ない。しかし、そこまで言っていたらステラは本当に一人では何も出来なくなってしまう。


「とりあえずうちの電気ケトルを使って食べろよ。電気ケトルは新しいのを買わないとダメだな」

「優愛に怒られてしまうかもしれない……」

「そんなことで優愛ちゃんが怒るわけないだろ。ステラが壊したわけじゃあるまいし」


 電気ケトルは見た目で壊れている様子はない。だから、電気ケトルの中に故障の原因があるのだ。それが寿命なのか不良なのかは分からないが、ステラのせいでないのは確かだ。


「とりあえず、そのカップ麺を食べたら一緒に電器屋に行って新しい電気ケトルを買いに行こう」

「凡人、ありがとう」

「良いって。どうせ暇だったし」


 俺はステラと一緒に自分の部屋に戻り、ステラを座らせて自分達の電気ケトルでお湯を沸かす。

 ステラはテーブルの前にちょこんと座って、ジーッと俺の方を見ている。俺はお湯が沸くのを待ちながらステラに視線を返す。


「凡人」

「ん?」

「格好良い」

「ありがとう」


 唐突に褒め始めるステラにお礼を言うとお湯が沸いて、俺はステラが持ってきたカップ麺にお湯を注いで蓋を鍋敷きで塞ぐ。


「ありがとう」

「どういたしまして。ゆっくり食べろよ」


 三分待ってから箸と一緒にステラの前にカップ麺を置き、俺はステラの横に座る。


「頂きます」


 ステラは礼儀正しく挨拶をしてカップ麺を食べ始める。食べ物を食べている時のステラは、ちびちび食べる様子が餌を食べる小動物のようで可愛い。


「今度、優愛ちゃんと凛恋の四人で飯でも行くか」

「行く」


 ステラの返事には感情があまり籠もっていないように聞こえる。でも、ステラとの付き合いが長くなった俺にはステラが喜んでくれているのが分かる。


「ステラとも長い付き合いになったよな」

「これからも私は凡人と一緒」


 そう言ってステラが座る位置を俺に近付けて、またカップ麺を食べ始める。

 ステラがそう言ってくれるのは嬉しい。俺はステラに男として好かれていることを知っているが、年上として慕ってくれているのもあると思う。

 ステラの可愛さは、優愛ちゃんに感じる可愛さと同じだ。妹のような可愛さがあって、ついつい世話を焼きたくなる。


「凡人は私の全て。だから、私はずっと凡人と一緒に居る」

「俺達は友達だから。ずっと友達だ」

「私は凡人の恋人になりたい。いつでも待ってる」

「気持ちに応えられなくてごめんな」


 俺はステラに謝りながら、ずっと俺を好きだと言ってくれるステラに本当に申し訳なくなる。

 俺は凛恋への気持ちが叶わないと思った時、すぐに凛恋を諦めようとした。だから、ステラの気持ちに応えられないと言い続けても、気持ちを諦めないステラは凄いと思う。


 多分、本来なら、断っても好きだと言われることはしつこくて面倒だとか、怖いとか思うことなんだと思う。でも、ステラの気持ちには純粋さしか感じない。だから、俺はステラの気持ちに不快な感情を抱かないのかも知れない。

 ステラがカップ麺を食べ終わるのを待ちながら、俺は視線をテレビに戻す。さっきまでは真井さん達の話題を放送していたお昼の情報番組も、次の話題に切り替わっている。


『さて、今、日本全国の女性達が注目している人と言えばこの人。フォリア王国の第一王子、ロニー・コーフィー・ラジャン王子です』


 大きなモニターの前に立っている女性アナウンサーが、モニターに表示されているロニー王子の爽やかな笑顔をバックにコーナーを進行している。以前までは、テレビで報道されていても「王子も大変だな」という感想くらいしか浮かばなかったが、今ではロニー王子の話題をあまり聞きたくない。


『もう日本に来られてから随分時間が経ちましたけど、人気が衰えませんよね』


 男性司会者がモニターを見ながら笑顔で答える。すると、コーナー進行役の女性アナウンサーがニッコリと笑ってモニターを手で触れて、表示されている画像を切り替えた。


『実は、そんなロニー王子に先ほどまで行われていた“成華女子大学との交流会”に、私が密着取材をしてきました。その模様をお伝えしようと思います。では、ご覧下さい』

「えっ……」


 俺はその女性アナウンサーの明るい声に、思わず声を漏らしてしまう。

 成華女子大学との交流会。凛恋や優愛ちゃんが、夏休みにも限らず大学へ行かなければいけなかったのは、ロニー王子との交流会があったからだ。しかし、その交流会という言葉に俺はテーブルの上に置いた右手の拳を握り締める。


 テレビ画面には、女性アナウンサーがロニー王子の隣を歩きながら色々と交流会についてインタビューをしている映像が流れている。だが、そのインタビューの内容よりも、ロニー王子がなぜ成華女子と交流会を開いているのか、ということを考えてしまう。

 ロニー王子が留学していて、俺の通っている大学でもある塔成大学と成華女子大学はかなり近い場所にある。だから、近所の大学である成華女子大学の方からロニー王子に交流会を依頼した可能性がある。いや、多分その可能性の方が高いのだ。でも……俺は、ロニー王子に対して敵対心を抱いてしまっている俺は邪推してしまう。


 ロニー王子が凛恋を初めて見たのは成華女子の校門前だった。それに、凛恋や俺との話の中で、凛恋が成華女子に通っていることも知っている。そして、ロニー王子はその凛恋に好意を持っている。


 俺は凛恋からロニー王子にアプローチを掛けられているという話は聞いていない。パーティーの時は、俺がロニー王子の思惑を知らずに凛恋を連れて行ってしまったから、凛恋はロニー王子と関わる機会があった。しかし、普通なら男性が苦手な凛恋のことを考えれば、男と二人で食事に行ったりお茶したりすることはないはずだ。そうなると、大学の違うロニー王子は凛恋との接点を持てない。


 接点が持てなければ、ロニー王子は凛恋にアプローチを掛けることは不可能だ。だから、そう思ったロニー王子が……成華女子大学との交流という大義名分を使って凛恋に近付いたとしたら……。


「凡人?」


 隣からステラの声が聞こえる。でも俺は、テレビ画面に映った成華女子の講堂で歓迎を受けるロニー王子の顔を黙ったまま睨み付ける。

 別に犯罪行為をしているわけではない。交流会を持ち掛けたのが、成華女子側からでもロニー王子側からでも、両者が同意して開いているものだから正当なことだ。いや、正当か不当かを議論するような問題にさえならないほど、真っ当なことだ。でも、俺は思ってしまう。


 やり方が汚い。


 俺はロニー王子に敵対心を持っている。だから、ロニー王子の顔を見れば嫌悪が浮かぶし、ロニー王子の行動一つ一つに裏を読んで勘ぐってしまう。それはただ俺の心がすさんでいるからなのだろう。ロニー王子はただ、自分の出来る範囲で凛恋にアプローチをしようとしているのだろう。


 分析すればするほど、ロニー王子が真っ当な人間にしか見えない。だけど、どうしても……ロニー王子を認められない。

 存在全てが劣っていると思っているのに、凛恋に対する想いまで認めてしまったら、俺に何が残る? 俺が、ロニー王子に勝てているものは何がある? そう考えれば考えるほど、自分がどんどん卑劣な人間にしか見えなくなって、自分の心が冷たくなっていくのが分かった。


 俺は、自分の身一つで凛恋と向き合っているのに、凛恋を好きだというロニー王子に立ち向かおうとしているのに、対するロニー王子は自分の使えるものを全て使おうとしている。

 俺が何も使わないから相手にも何も使うなと言うのは暴論だ。そんなの、フェアかアンフェアかという話にもならないことだ。それに、敵対心のフィルターを通して見ても、ロニー王子は正しかった。


 ロニー王子がもし、成華女子に交流会を持ち掛けたとしても、それを承諾するか拒否するかは成華女子側にある。それを承諾させたのなら、ロニー王子の力だ。


 俺は一般人でロニー王子は一国の王子。言葉だけでも大きな違いがあるその立場の違いは、現実でも大きな違いがあるのは明白だ。

 俺の言葉には誰も耳を傾けないけど、ロニー王子の言葉には多くの人が耳を傾ける。俺が無理を言っても人は無理だと突き返すのに、ロニー王子が無理を言ったら人はその無理を通そうと動く。その違いは、俺が一般人でロニー王子が王子であるかどうかの違いだけだ。


「――ッ!」


 テレビの映像では、ロニー王子がテレビカメラに爽やかな笑顔を向けてピースサインを向けるのが見える。でも、そのロニー王子は、いつの間にか自分の隣に来させた凛恋の肩に手を回していた。


 俺はテーブルの上で握った右手の拳を、テーブルの上に打ち付ける。その瞬間、隣でステラがびっくりして体を跳ね上げるのが視界の端に見える。でも、俺はずっと……視線の先でニコニコ笑い続けているロニー王子を睨み続けた。


「凡人?」


 隣から、またステラの声が聞こえる。でも、さっきよりも声に不安さが増えたのが分かる。だけど、そのステラの言葉に答える余裕はなかった。


『取材は交流会まででしたが、この後は成華女子大学の学生会が主催したパーティーに参加されるようです』


 テレビの中では、取材映像からスタジオの映像に切り替わる。


『ロニー王子に肩を抱かれていた女子学生は一生の思い出になったかもしれませんね』

『ですね。肩を抱かれていた女子学生も凄く緊張している様子でした』


 男性司会者が明るく笑いながら冗談交じりの声でそんなことを言い、それに女性アナウンサーが笑いながら答える。

 一生の思い出? ふざけるんじゃない。

 緊張していた? お前の目は節穴か?

 凛恋が男に肩を抱かれて喜んで良い思いをするわけがない。凛恋は男が苦手なのだ。凛恋は俺以外の男に体を触れられるのが怖いんだ。


 凛恋は、俺以外の男に触れて欲しいなんて思っていない。

 俺は、そう信じている。でも、俺がその信じていることを、心の中だとしても自分に言い聞かせるのはなぜか。それは、俺の心の中にそう“信じたい”という不確かで頼りない感情が浮かんでしまっているからだ。


 テレビカメラがあって沢山の学生が居る中で肩を抱かれたんだ。露骨に拒否をするのは失礼になると、優しい凛恋が思った可能性がないわけではない。だけど……高校の頃、石川に腕を掴まれた凛恋は大きな悲鳴を上げて俺に助けを求めた。

 だけど……今回は困った顔をしているだけだった。


 凛恋にとって、ロニー王子が恐怖の対象ではない。テレビ画面からは、俺はそうとしか読み取れなかった。それは、俺にとって不安でしかなかった。

 凛恋は男が怖く、無条件で男に対して嫌悪を抱いて見る。だから、俺はそれに安心している部分があった。凛恋の心に付いてしまった一生消えない傷に、俺はずっと頼り切ってしまっていたのだ。


 何の魅力もない、ロニー王子に何一つ勝てていない俺が、ロニー王子に凛恋を奪われないと思える最後の砦がそうだった。でも……その砦も今、俺の目の前から無くなった。

 凛恋が俺以外の男を好きになるわけがない。それは信じている。絶対に俺以外の男を選ぶわけがない。そう、信じてるのに分かっているのに……心の中でざわつく不安が消える気配がない。

 何度も何度も、不安を振り払おうとしているのに、不安はずっと俺の心の周りに纏わり付く。

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