【二三一《利己は執拗に絡み合い利他を装い、利他を装った利己は自照しながら自傷することで、利他を装ったことに償い純粋であろうとする》】:二

 その舌足らずな凛恋の声は、夏美ちゃんの右手に握られたボイスレコーダーから聞こえた。舌足らずなことや、音声に他の賑やかな人の声が入っていることから察するに、飲み会に参加した凛恋が酒に酔っているのだろうと思う。しかし、その凛恋の声が録音されたボイスレコーダーをなぜ夏美ちゃんが持っているのか分からない。


「夏美ちゃん、それ、どこで手に入れたんだ?」

「私が自分で録音したんです」

「そんなわけない。他の人の声が混ざってる。それに凛恋が酔ってる。飲み会をするような店に未成年の夏美ちゃんが偶然一緒になるなんてあり得ない」

「男の人とお店に入る凛恋さんを見たんです。凡人さんは騙されてるんです! 凛恋さんは大学の友達に男の人を沢山紹介してもらって、色んな男の人とエッチしてるんです!」

「そう言われたのか? そのボイスレコーダーを渡した人に」


 夏美ちゃんの持っているボイスレコーダーは、明らかに夏美ちゃんのものではないし、音声も夏美ちゃんが録音したものじゃない。それに、夏美ちゃんが凛恋の交友関係まで知っているわけがない。だから『大学の友達に男の人を沢山紹介してもらってる』という部分は、誰かの話を聞いたのだ。


「そんな嘘、誰から聞いたんだ?」

「嘘じゃありません! 私はちゃんと見たんです! 見てください。これもこれも、これもこれもこれもこれも!」


 スマートフォンの画面をスワイプして、夏美ちゃんは次々と画像を表示する。しかし、その全てが本蔵さんに送られてきたという偽物の写真と同じものだった。


「夏美ちゃん、それはどこで誰からもらったんだ」

「私が撮ったんです!」

「夏美ちゃん……」


 必死に食い下がる夏美ちゃんの肩から手を離し、俺は夏美ちゃんのスマートフォンの画面をスワイプして画像を数枚戻す。

 夏美ちゃんが俺に見せた画像は、合成写真だが構図としては凛恋が男と飲み屋で話していたり、ホテルやマンションに一緒に入ったりする様子が写し出されていた。でも、一枚だけ違う構図の画像があった。


「この画像、凛恋と男が座ってるソファーの後ろにアルミラックがあるだろ? 普通、店の中にこんなアルミラックは置いてない。大抵、個人の部屋に置かれてる物だ。だからきっとこれは、宅飲みの時に撮ったんだろう」

「そうです! 凛恋さんは凡人さんじゃない他の男の人と――」

「さっき俺に言ったよね? この画像は自分で撮ったって。でも、宅飲みしてる男の部屋に夏美ちゃんが入れるわけないだろ?」

「…………」


 夏美ちゃんの決定的な矛盾を指摘すると夏美ちゃんは黙り込む。そして、スマートフォンを放り投げて俺に抱き付いた。


「私には凡人さんしか居ないんですっ! だからっ! だから、凛恋さんから引き離さないと凡人さんが居なくなるって言われて……凡人さんが居なくなったら私は……」

「教えてくれ。誰にこの画像とボイスレコーダーをもらったんだ? 誰に、俺が居なくなるなんて言われたんだ」


 ポロポロと涙を流す夏美ちゃんは、俺のシャツをギュッと握りしめながら泣き続ける。そして、くしゃくしゃになった顔で言った。


「瀬尾美鈴(せおみすず)っていう、大人しそうな女の人です」




 夏美ちゃんが落ち着くまで待ってから、俺は施設の職員に夏美ちゃんに関する話をする時は、夏美ちゃんの耳に届かないように注意してほしいと頼んだ。でも、問題はそれだけじゃない。


 きっと夏美ちゃんは、分離不安障害の改善のために俺と会う機会を減らすということを聞かなくても、今日のようなことが起こったと思う。それは、夏美ちゃんに凛恋の合成画像と凛恋の音声が入ったボイスレコーダーを渡した人物が居るからだ。


 夏美ちゃんに合成写真とボイスレコーダーを渡した人物は『瀬尾美鈴という、大人しそうな女性』 そう、夏美ちゃんは言っていた。でも、それで夏美ちゃんに合成写真とボイスレコーダーを渡した人物が瀬尾さんじゃないのは明らかだ。

 瀬尾さんの見た目は茶髪で派手な化粧をしていて、お世辞にも大人しい女性なんて見た目ではない。きっと一〇人中一〇人が大人しい雰囲気なんて瀬尾さんから感じない。


 俺は右手にあるボイスレコーダーを見下ろして、ボイスレコーダーを握る手に僅かに力を込めた。


『高校生が私の彼氏を狙ってんの。分離不安障害だかなんだか知らないけど、チョーウザい』


 そのボイスレコーダーに録音された音声を思い出す。ただ、ボイスレコーダーに録音されていたのはそれだけじゃなかった。


 夏美ちゃんに聞かされた時に思ったとおり、ボイスレコーダーの音声には飲食店で録音したらしく色んな人の声が交ざっていた。ただ、主に聞こえていたのは凛恋の声と、凛恋と話している女性達の声だった。

 凛恋以外の人の声は聞いただけでは誰か分からない。でも、凛恋が話す名前や知らない女性同士の会話で出てくる名前は、凛恋の大学で出来た友達の名前ばかりだった。だから、ボイスレコーダーの音声は凛恋の女子会の時の会話を録音されていたものだと思う。


 ボイスレコーダーの中で交わされる会話は、男には聞かせられない、俺が聞くことは無いはずだった会話だった。

 俺が夏美ちゃんのことを気に掛けているのが本当に嫌で、最近は減ったが俺が時々空条さん達と飲みに行くのも嫌だ。それから、俺が凛恋以外の女性に優しくするのが嫌だ。そんな話を凛恋は愚痴として話していた。でも、それは凛恋が自ら言ったというより、周りから言わされていたという感じだった。それに、凛恋以外の女性の言う彼氏の愚痴の方が、何万倍も酷いものだった。

 だけど、ショックではなかったわけではない。


 夏美ちゃんのことを良く思っていないのは知っていた。でも、友達と飲みに行くのを嫌だと思っていると思わなかったし、人に優しくすることを否定されているとは思っていなかった。

 ただ問題は俺の心の問題より、凛恋達の会話が隠し録りされていたことだ。

 俺は、頭の中で考えた末に、一人の人物の顔が浮かぶ。


 稲築飛鳥さん。凛恋の友達で、凛恋のことを女性として好きな同性愛者の女性。その稲築さんは、凛恋の彼氏である俺を強く憎んでいた。

 凛恋は稲築さんと距離を取っていて、以前より親しくしているわけじゃない。でも、二人でどこかへ遊びに行くことがないだけで、きっと仲間内の女子会で同席するくらいの関係ではあるはずだ。だからきっと、ボイスレコーダーで隠し録りされた女子会にも稲築さんが居たのだ。


 稲築さんは、前に俺と凛恋へ『そいつの本性を知らないから言えるのよ。そいつは、馬乗りになって誘惑されたら、年増女にだってキスして好きだって言える男なんだから』と言った。その時に、俺は稲築さんの言った言葉と小竹に監禁されていた時の状況が重なった。その違和感が今、より強く俺の心の中に湧き、その違和感が俺の心を酷く冷たく凍えさせる。


 どこまで稲築さんは知ってる? いや……どこまで稲築さんは関わっている?


 小竹に監禁されている時、小竹の部屋は密室だったし警察が助けに来てくれるまで俺と小竹以外の人は出入りしていない。

 考えを巡らせていた俺は、その考えが結論に行き着く前に首を振って考えを振り払う。


 辻褄が合うように想像することは出来る。でも、想像はどこまで行っても想像でしかない。事実を想像して予測することは出来るが、想像が事実に置き換わることなんてない。だから、想像だけで結論づけるのはあまりにも危険だ。


 歩いて駅の構内に入ってすぐ、俺のポケットでスマートフォンが震える。その表示は、俺のストーカー事件で担当してくれた警察官の番号だった。でも小竹が逮捕されたから、俺に連絡を取る用事はもう無くなったはずだ。


「もしもし」

『夜分遅くに申し訳ありません。多野さんに警察署へ来て頂きたいのですが、今お時間大丈夫でしょうか?』

「大丈夫ですが、何か小竹のことであったんでしょうか?」

『はい。それが、小竹に共犯者が居ました。その共犯者の面通しをお願いしたいんです』

「共犯者?」

『はい。詳しい話は署に来て頂いてから話しますが、共犯者として逮捕したのは八戸凛恋さんと同じ成華女子大学に通っている稲築飛鳥という女子大学生です』


 俺はその警察官の真剣な言葉を聞いて、スマートフォンを握る右手と拳を握る左手を強く握り締めた。




 俺のストーカー事件の発端は、俺に届いた不審な手紙だった。ただ、その手紙は小竹が自分で書いたものの、投函したのは小竹一人じゃなかった。

 インターネットの匿名掲示板に、俺に対する否定的な書き込みをするスレッドがあった。俺はその掲示板に書き込みをしていた男の一人に駅のホームで突き落とされて殺され掛けた。だけど、掲示板に書き込みをしていた人物達は俺に対する誹謗中傷の書き込み以外に、小竹が書いた大量の手紙を協力して別々の地域から投函していた。だから、警察は手紙で犯人を絞れなかったのだ。そして、その投函の役割分担を指示していたのが、稲築さんだった。


 警察が掲示板の利用者をパソコンのIPアドレスを元に調べたら、自宅のパソコンを使っている人達以外に、ネットカフェのパソコンから使っている人も居た。そのネットカフェのパソコン利用者を防犯カメラの映像から調べたら、稲築さんがネットカフェのパソコンを使って、掲示板のスレッドが作られた日時に、スレッドを作ったパソコンを使っていたことが分かった。

 そのことから警察は稲築さんに任意同行を求め、事情を聞いたら白状したそうだ。


 多野凡人を八戸凛恋の側から消すために、掲示板を作って他者を煽った……と。


 御堂や西、中塚も稲築さんが作った掲示板を使っていた。小竹は掲示板は利用していなかったが、掲示板の利用者が俺達に危害を加えようという計画を企んでいる過程で、小竹が俺のストーカーをしていることを知ったらしい。そして、稲築さんが主謀して小竹のストーカー行為を手助けした。夏美ちゃんについては俺が予想した通り、飲み会での凛恋の話を聞いて知ったそうだ。


 掲示板を使って犯罪行為を煽って、その犯罪行為を手助けした。それは犯罪の教唆(きょうさ)と幇助(ほうじょ)になる立派な犯罪行為だ。だから、警察は稲築さんを逮捕するしかなかった。そして、稲築さんが逮捕されてしまった以上、俺は稲築さんに直接確かめる術はない。


 どうして、そんなことをしたのか。

 ただ、それは確かめなくても、凛恋のことが好きだったからと言われるだけなのかもしれない。でも、ただそれだけしかないとしても、俺には理解出来なかった。


 恋は盲目という言葉はある。凛恋に今まで付きまとっていたストーカーや小竹のように、好意が抑えられずに犯罪に手を染める人が居るのは知っている。だけど、知っていて、分かっていて、何度も目の当たりにしていても理解出来ない。どうしてそんなことをしてまで、自分の好意を相手に押し付けることが出来るのかと。


 警察署の廊下で、俺は隣に座って俯く凛恋を見る。凛恋も今回の事件の関係者だ。それに、稲築さんが凛恋の名前を出している以上事情を聞かれないわけがない。だが、凛恋が落ち込んでいるのは警察に事情を聞かれたからではないと思う。

 おそらく、一度は仲の良い友達だと思っていた稲築さんに二度も裏切られたショックからだろう。


 自分の痛みを理解してくれる存在だと思っていた稲築さんは、実は自分に対して好意を持っていて、そのために痛みを理解している風を装っていた。更に、その好意を叶えるために犯罪行為をしていた。その二度の裏切りを受けても、平然と居られるほど凛恋の心はすさんでいない。凛恋は俺なんかよりも綺麗で純粋な心を持っている。


 肝心な時に、俺は凛恋に掛けられる言葉を「大丈夫か」という、無難でありきたりな言葉しか思い付けない。一刻も早く、凛恋の心にある冷たいものを取り去らなければいけないのに、凛恋の繊細で儚い心を崩してしまう恐れから手をこまねいてしまう。


「多野さん、八戸さん、夜遅くにありがとうございました。もうお帰りになっていただいて大丈夫です」

「はい。お世話になりました」


 部屋に入って来た警察官が俺と凛恋にそう言って、俺は凛恋の手を握って椅子から立ち上がる。でも、凛恋は警察官に頭を下げることは出来たが、言葉を発することは出来なかった。

 凛恋を連れて警察署を出て、俺は凛恋の手を引いて駅まで歩いて行く。


 何も言葉を発しない凛恋を隣に感じながら、どう凛恋に声を掛けようか迷った。

 真っ先に凛恋の心へ直接手を伸ばすのを躊躇った。だから、他愛のない話をして少しずつ凛恋の心を温めようと思った。でも……凛恋の横顔から、その他愛のない話でさえも凛恋の心を崩してしまいそうな恐れを感じた。


「凛恋、お腹減ってないか?」


 やっと、俺がやっと言えたその言葉に、凛恋は黙って首を横に振る。その凛恋の反応を見て、俺は自分に落胆した。

 大切な凛恋が傷付いていて、その大切な凛恋一人も俺は何一つ元気付けられない。


 アパートの部屋に帰ってきて、俺は部屋の電気を点けようとした。だが、その手は凛恋の手に押さえられ、凛恋は手を掴んだまま奥の部屋まで俺を引っ張る。そして、乱暴に布団を引っ張り出し、綺麗に敷かれていない布団の上に俺と一緒に倒れ込んだ。


「凛恋……」


 無言で、涙を流しながら、焦るように服を脱ぐ凛恋を見上げ、俺は凛恋のその手を止めようとする。しかし、凛恋は俺の手を弾いて、服を全て脱ぎ捨ててから俺に覆い被さった。


「お願い……」


 俺はただ、その言葉に従って、下から凛恋の体を抱き締めた。

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