【二二九《雨の後には虹が出る》】:二

 ダイニングに行くと、空条さんがコーヒーメーカーからカップにコーヒーを注いでくれて、テーブルに出してくれた。


「ありがとう」


 ソファーに座ってコーヒーを飲むと、空条さんは隣に座って自分もコーヒーを飲む。


「本当はね、私が一人だと心細かったから多野くん達に泊まってほしかったの」

「そうか、あんなことがあった直後だし仕方ないよ」


 エレベーターの中に一時間以上閉じ込められた直後なのだ。特に、女性の空条さんにその恐怖が残っていても不思議ではない。むしろ、恐怖が残ってしまっていて当然だ。


「エレベーターが止まった時に腰が抜けちゃって、多野くんが居てくれて助かった」

「俺もビックリしたよ。でも、彼女の前だったから格好悪いところを見せられないって思ったら冷静になれた」


 俺がそう言うと、空条さんは浴室の方に一度顔を向けて優しく微笑む。


「八戸さんって本当に良い人だよね。明るくて優しくて、何より可愛くて綺麗で。同じ女として凄く憧れる」

「空条さんも十分美人だろ。男子学生から人気だって飾磨が言ってた」

「まあ、嫌いって言われるよりは良いけど、飾磨の集めてくる男ってろくなの居ないし」


 目を細めた空条さんは、心底嫌そうな声を出す。しかし、ハッとした表情をしたと思ったら、俺の方に何かを否定するように手を振る。


「多野くんだけは違うからね。多野くんは飾磨が一緒に居るのが信じられないくらいタイプが違う」

「それ、初めて会った時にも言ってたね」

「そうだったっけ? でも、本当にどうやったら飾磨と多野くんが仲良くなるんだろうってのは今でも思ってる」

「飾磨は誰とでも仲良くなれる特殊スキルがあるからな。前に、文房具メーカーのインターンに行ったら、早速同じ参加者達でご飯に行ってたし」

「どうせ可愛い女の子と仲良くなりたいとか思ってたんでしょ」


 空条さんはそう飾磨の考えを言い当てる。ただ、飾磨と長い付き合いになっている人なら、誰だって空条さんと同じことを思うだろう。それだけ、飾磨という人間は分かりやすい人間だ。


「その飾磨のお陰で多野くんと仲良くなれたってこともあるから、あんまり飾磨のことを悪く言えないんだよね。きっと、飾磨が多野くんと仲良くなかったら、私は多野くんには一生話し掛けられなかっただろうし」

「俺、話し掛けるなオーラは出してなかったと思うけど?」

「多野くんには、オーラ以外にも色々あるんだよ」

「色々?」

「そう、色々」


 俺が聞き返しても、空条さんは『色々』という言葉で済ませてしまう。その色々がどういうことなのか気になるのだが、空条さんが楽しそうにクスクス笑っているのを見ると、その色々というのも悪いことではないのだろう。


「空条さん、シャワーありがと!」

「どういたしまして!」


 凛恋の声が聞こえ、俺は空条さんと一緒に振り返って固まる。

 フリルとレースでガーリーな雰囲気があるピンクのネグリジェ。ネグリジェが室内の照明を反射させて光沢を放っているところを見ると、シルクのような良い生地のネグリジェなんだと思う。そのネグリジェを着ている凛恋が……抜群にエロかった。


「凡人、どう? 空条さんに借りちゃった」

「い、良いんじゃないか?」


 もし、この場に空条さんが居なかったら、俺はとりあえず凛恋を抱き締め、スマートフォンで気が済むまで凛恋のネグリジェ姿を写真に収めている。そして、その後は凛恋をまた抱き締めながらキスをして…………。

 俺はそこまで想像してから首を横に振り払って、心の中に湧いた邪な妄想を振り払う。隣に空条さんが居るのに、俺はなんてことを考えてしまったんだ。


「普通のルームウェアも似合うけど、たまにはそういうのも良いな」


 必死に平静を装いながら、自然に凛恋のネグリジェ姿を褒める。しかし、心の中には今度凛恋にネグリジェを買って家でも着てもらおうと考えていた。


「多野くんもシャワー浴びてきて」

「ありがとう。お言葉に甘えて使わせてもらいます」


 空条さんにそう言って、俺はソファーから立ち上がって脱衣室の方に歩いて行く。すると、後ろから凛恋と空条さんの楽しそうな声が聞こえてきた。




 春休みの間、色々なインターンに行った俺だったが、今日はその春休み中に参加する最後のインターンがある。ただ、最後のインターンは、文房具メーカーの疑似面接やテレビ局の体感型ゲームのような変わったものではなく、企業説明会という普通のものだった。だが、奇抜さはないものの、物流関係の企業であったため、物流業界全体の説明とその物流業界で自社がどんな立場でどんな役割を担っているのかという説明があった。こういう説明会形式のインターン、セミナー型のインターンはインターンを行う企業がどんな企業なのか分かりやすくて良い。


 インターンは約五時間の予定になっていて、俺はその合間の休憩時間を利用して、企業の自販機コーナーで缶コーヒーを飲む。視線の先には、喫煙所で煙草を吸っているインターン参加者の姿がちらほら見えた。

 スマートフォンのスケジュールアプリを見て、春休み中に参加したインターンを思い返す。しかし、やっぱり一つ一つ思い出しても、これだというインターンはなかったし、ここに行きたいと思った企業もなかった。それは、短期のバイトもそうだ。ただ、短期バイトはあまり就職先の選定には役に立たなかった。


 短期バイトのほとんどは臨時的に人手が欲しい時に募集される。だから、やらされる仕事も短期バイト専用というか、いきなり入って少しすれば誰でも出来るような簡単な仕事ばかりだから本来の仕事とはかけ離れている。それに、肝心の企業の中が全然見えてこず、同じ企業の中で働いているとしても、正社員とアルバイトは別なのだと改めて認識した。だが、就職先の選定にはあまり良い効果を感じられなかったが、短期バイトは割が良くて稼げた。それが唯一、短期バイトに参加して良かったと思えたことだった。


 午後の説明会も、前半の話から引き続き業界について説明を受ける。しかし、あまり物流業界に対する興味が湧かなかった。

 俺がそんなことを考えているうちにインターンが終わり、ぞろぞろと周囲の参加者達が帰り始める。俺はその帰る参加者達の人混みが落ち着いてから会場を出た。


 外に出てから、一度スマートフォンを取り出して古跡さんか帆仮さんに電話を掛けようかと思った。でも、今は当然仕事中だ。それに、電話を掛けてどうするのだという諦めが浮かぶ。


 古跡さん達はきっと俺のために頑張ってくれた。でも、どうにもならなかったのだ。それを、俺が電話を掛けて「どうなりましたか?」なんて聞けるわけがない。絶対に、聞かれた古跡さん達は俺に申し訳ない気持ちを抱く。

 申し訳ない気持ちを古跡さん達が抱く必要なんてないのだ。そして、古跡さん達に罪悪感を抱かせるようなことを、俺がわざわざするなんてもっての外だ。


 俺は古跡さん達、レディーナリー編集部のみんなに色んなことを教えてもらった。それは、単に仕事のやり方だけではなく、仕事で大変なことも、仕事のやりがいも、それから誰かと一緒に何か一つの物を作り上げる楽しさも。仕事の合間に食べる夜食の味と、仕事終わりに飲むお酒の味も。


「楽しかったな……」


 人混みの隙間を縫うように歩きながら、俺はついそう口に漏らしてしまう。

 振り返ることは切りがない。振り返っても、通り過ぎたものはどうしようもないのだから、振り返っても仕方がないのだ。でも、どうしても振り返ってしまう。何度振り返っても仕方ないと心に言い聞かせても、過ぎ去ったものが強く自分の心に残っていれば残っているほど、後悔が残り後ろ髪を引かれてしまう。


 俺は家に帰るために駅に向かって歩いてた。それは間違いない。でも、本当に偶然、俺はレディーナリーの入る月ノ輪出版の本社ビルの前を通り掛かった。

 見慣れた本社ビルの正面玄関を見て、俺は懐かしいと思った。その、懐かしいと思ったことにまた寂しさを感じる。俺はもうこのビルを懐かしむことしか出来ないと思うと、目頭が熱くなって喉の奥で息が詰まる。


 見続けていたらダメだ。そう思った俺は、ビルの正面玄関から視線を外して一歩駅に向かって歩き出そうとした。しかし、ポケットに仕舞ったスマートフォンが震え、俺は踏み出そうとしたその足を止める。


「……古跡、さん? ――ッ!? もしもし? 多野です」


 俺はスマートフォンに表示された『古跡さん』という文字を見た瞬間、慌てて電話を取る。期待をするべきではないのは明らかだ。でも、期待しないということが出来なかった。


『多野、久しぶりね』

「お久しぶりです」

『今、どこに居る?』

「えっと……一日インターンの帰りで、丁度、月ノ輪出版のビル前を通り掛かったところです」

『じゃあビルの前で待ってて。迎えを出すから』

「迎えですか?」

『話は上に上がってきてからよ』


 そう言って古跡さんが電話を切り、俺は電話の切れたスマートフォンを手に持ったままボーッと突っ立つ。そうしながら、俺は心の中で首を横に振る。

 きっと、どうやってもダメだったと説明をしてくれるだけだ。変な期待をしない方が良い。俺は自分にそう言い聞かせる。変な期待をしたら、ダメだという明確な言葉を聞いた時にガッカリしてしまう。そのガッカリを編集部のみんなに感じさせたら、編集部のみんなに罪悪感を持たせてしまう。だから、絶対に変な期待は持ってはいけない。そう思うのに、期待したくなってしまう。


「多野くん!」

「帆仮さ――ッ!?」

「早く来て!」


 月ノ輪出版本社ビルから出てきた帆仮さんが、俺の姿を見るなり俺の腕を掴んでビルの中に戻っていく。

 本社ビルの厳重なセキュリティーを帆仮さんの社員証でくぐり抜け、俺は帆仮さんと一緒にエレベーターに乗り込む。


 エレベーターに乗っても俺の腕を掴んだままの帆仮さんに視線を向ける。しかし、帆仮さんは黙ったまま、エレベーターのパネルを見続けていた。

 エレベーターはレディーナリー編集部のある階で止まりドアを開く。すると、帆仮さんは黙って俺の腕を引っ張ってエレベーターから降りた。


 見慣れた通路の見慣れた自販機コーナーを抜けて、俺はレディーナリー編集部が使う会議室に入る。そして、会議室に入った瞬間、俺は会議室の異様な雰囲気にたじろいだ。

 会議室にレディーナリーの全編集者が集まっていたのだ。


「多野くんはここに座って」

「え? あ、はい。ありがとうございます」


 帆仮さんが椅子を引いてくれて、その椅子の上に俺を座らせるように両肩を押さえる。そして、俺が椅子の上に腰を下ろすと、斜め前に座っている古跡さんと目が合った。


「多野、さっきも電話で言ったけど久しぶりね。少し身長が伸びたんじゃない?」

「いや、流石にそれはないです」


 俺が苦笑いを浮かべながらそう答えると、会議室に小さく温かい笑いが起こる。


「早速だけど、多野のインターン再開は許可されなかったわ」

「――ッ! …………そうですか。仕方ないですよね」


 ガッカリしたことを悟られないように決めていたのに、俺は古跡さんの言葉を聞いた瞬間にガッカリしてしまった。


 インターン再開の許可は下りなかった。だから、もう他のところでインターンを探すなりした方が良いと言うために俺を呼んでくれたのだろう。それで、編集部のみんなが揃っているのも、きっとこれがみんなと顔を合わせる最後になるからなのだろう。そう、俺は思ってしまって目に涙が滲む。


「色々とお世話になりました。インターンを再開してもらえるように頑張ってもらって、本当に感謝してます。ありがとうございました」


 俺は立ち上がって、古跡さんを含めた編集部のみんなに頭を下げて感謝を伝える。本当は、もっと伝えなきゃいけない感謝の言葉はある。でも、言葉が詰まって出て来ない。


「じゃあ、次の話に行くわね」

「は?」


 淡々とした古跡さんのその声を聞いて、俺は思わず声を上げて首を傾げる。すると、古跡さんが口を右手の拳で隠しながら、俺を見てクスクスと笑っていた。


「インターンを行うか行わないかの権限は、私ではなくて人事部が持ってるの。でも、編集部のアルバイト採用の権限は私が持っている。だから、慢性的な人員不足の解消のために編集補佐のアルバイトを雇うことになったわ。条件は、レディーナリー編集部での編集補佐経験があって、レディーナリー始まって以来の大重版の仕掛け人が良いわね」

「あと、身長が一八〇以上で、来年度から塔成大文学部三年になる男が良いですね」


 古跡さんの言葉の後に、家基さんが俺を見てニヤッと笑いながら言う。すると、端に座っていた帆仮さんが右手をピンと挙げた。


「はい! 私、条件にぴったりの人知ってます!」

「帆仮、そんな都合の良い人員がすぐに見付かるわけないでしょ」


 会議室には温かい笑いが溢れる。その雰囲気に、古跡さん達がやってる優しく温かい茶番に、俺は遂に我慢しきれず顔を俯かせて涙を溢した。


「多野。私の力不足で一度追い出すような形になってしまって、うちに不信感を持ってるかもしれない。でも、私達レディーナリーには多野の力が必要なの。だから、今度はアルバイトとして戻ってこない?」

「……はい」


 ありがとうございます。そう言いたかった。でも、どうしても言葉が、胸が詰まって頷いてそう言うことしか出来なかった。だけど、レディーナリー編集部のみんなに対する感謝の気持ちだけは、心の中から溢れて止まらなかった。

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