【二二七《ダウト》】:二

 駅に向かって歩いている途中、正面から凛恋が声を掛けられ、俺と凛恋は視線をその声の方向に向ける。そして、凛恋は戸惑った声を発して俯いた。

 俺達の視線の先には、稲築さんが立っていた。


「飛鳥……こんなところで会うなんて奇遇だね」


 凛恋は歯切れの悪い言葉で稲築さんに話し掛ける。それに、稲築さんはニッコリ笑い返した。


「大学であんまり話せないから会えて良かった。この後、一緒に遊びに行かない?」


 稲築さんは朗らかな笑顔を浮かべたまま、凛恋を遊びに誘う。しかし、どう考えても今の状況で凛恋が俺を置いて稲築さんと遊びに行くわけがない。それに、凛恋は稲築さんと距離を取ると言っていた。大学でもあまり話せないというのも、凛恋が稲築さんと距離を取っているからだ。


 稲築さんは凛恋のことが好きだ。それは友達としてではなく、恋愛対象としての好きだ。でも、凛恋は稲築さんと同じ同性を恋愛対象として見る子じゃないし、何より自分に俺という彼氏が居るから応えられないと俺に言ってくれた。でも、稲築さんは凛恋に告白したわけではない。だから、凛恋から稲築さんの気持ちを断ることは出来ず、距離を取るという選択肢を取るしかなかった。今の、凛恋の微妙に歯切れの悪い態度も、きっぱりと断っていないし、稲築さんの自分に対する気持ちを知っていることを言えないという状況がそうさせてしまっている。


「ごめん飛鳥。私、凡人と一緒だから」


 そう謝る凛恋の言葉を聞いて、稲築さんはやっと俺の方に視線を流した。しかし、その視線は、さっきまでの穏やかな視線ではなく、俺を視線で射殺(いころ)すかのような鋭い視線だった。


「凛恋の彼氏は友達付き合いもさせてくれないの?」


 俺はその稲築さんの言葉を聞いて、白々しいと思った。俺は直接、稲築さんから凛恋に対する気持ちを聞いている。そして、俺は凛恋に相応しくないとも言われた。だから、稲築さんが俺と凛恋を引き離して奪いに来ているというのは明白だった。


「凡人はそんな人じゃないよ。でも、今は凡人と一緒に買い物して帰るところだから」

「じゃあ、今度一緒に遊びに行こう」

「うん。また今度空いてる時にね」


 凛恋はそれで稲築さんとの会話を終わらせようとした。しかし、稲築さんは凛恋に笑顔を向けて言う。


「いつなら大丈夫? 私は、凛恋のためだったらいつでも予定を空けるから」

「え? えっと、まだちょっと分からないかな……」

「来月の最初の土日は?」

「えっと……」

「何か予定がある?」


 来月の予定なんてまだ決まっていないであろうことは、稲築さんも分かっている。それに、俺が凛恋に稲築さんの気持ちについて話したことも分かっているだろう。そして、凛恋が稲築さんを避けていることも稲築さんは分かり切っている。それでも、凛恋を手に入れるために凛恋の逃げ道をどんどん消して追い詰めていく。自分の誘いを受けなければならない状況まで。


「ごめん。来月には俺とデートの予定もあるし、高校時代の友達が泊まりに――」

「あなたには聞いてない」


 返答出来ない凛恋の代わりに俺が口を挟んだ瞬間、稲築さんは冷たい言葉と視線を俺に向ける。俺のことが気に食わないのは分かっているが、こうも目の前で凛恋と俺とで態度が違うことに、稲築さんは自分の立場が悪くなっていることに気が付いていないのかと疑問に思う。


 凛恋は誰に対しても平等な人間というわけではない。でも、それは心の中で嫌いな人には嫌い、好きな人には好きと思うという、人間なら誰しもが持っている不平等さだ。だが、凛恋は理由も無しに人を嫌う子じゃない。でも、稲築さんの行動は凛恋の印象を悪くする行動でしかなかった。


 凛恋は目の前で人によって露骨に態度を変えるような人間を好むような性格ではない。だから、稲築さんが凛恋に対して優しく接し俺に対して厳しく接すれば接するほど、凛恋の稲築さんに対する印象は悪くなっていく。


「飛鳥……前から思ってたんだけど、凡人のことを露骨に敵視するの止めて。凡人は私にとって大切な彼氏なの」


 躊躇いがちに凛恋はそう言った。その言葉を言うのを、凛恋はずっと避けていた。その言葉は、凛恋が稲築さんに対する不快感を発する言葉だからだ。人に不快感を発するということは、その人との関係がこじれても構わないという覚悟がなくては出来ないことだ。


 凛恋はずっと、稲築さんとは仲違いをすることなく関係を仲の良い友達から大学の同級生まで希薄させようとしていた。でも、今の凛恋の言葉は、関係を希薄させずに断ち切ってしまう恐れがあった。


 凛恋は優しい子だ。だから、ずっと稲築さんを傷付けないように立ち回ってきた。でも、凛恋が発した言葉を聞いて俺は察した。凛恋は稲築さんを傷付ける覚悟をしたのだと。


「だって、凛恋は男の人が嫌いなんでしょ?」

「凡人は違うの。凡人は私のことをずっと守ってくれて、私が唯一信じられる男の人なの」

「凛恋。男は信じられない生き物だよ? 男は女の人だったら誰でも良いの。自分の欲望を吐き出せれば、セックス出来れば誰だって良いの。きっと、私がセックスさせてあげるって言えば、そいつも――ッ!」


 俺を睨み付けながら稲築さんが言葉を発している途中、激しい殴打音が響いて空気が弾けた。そして、稲築さんは左頬を凛恋に平手打ちされ、無理矢理右側を向かせられた。


「飛鳥。それは我慢出来ない」

「凛恋? どうして?」

「凡人は確かに男の人だよ。私以外の女の子を見ることはあるし、ちゃんと私以外の子のことも可愛いって思える男の人として普通の感覚を持ってる。でも、凡人は絶対に私を裏切らない。私はそう信じてる。それだけ、私と凡人には信頼関係があるの。いくら凡人のことが嫌いだとしても、私の目の前で凡人のことを馬鹿にするのは誰だって許さない」

「…………よく分かった」


 顔を正面に戻した稲築さんの目には光が無かった。その光の無い目は、俺を見ているのか凛恋を見ているのか分からない。でも、どっちにしても稲築さんの目の奥にあるであろう何かしらの感情が、俺に対しては良くない感情であるのは確かだと思った。


「そいつの本性を知らないから言えるのよ。そいつは、馬乗りになって誘惑されたら、年増女にだってキスして好きだって言える男なんだから」


 光のなかった稲築さんの目に、カッと強い怒りの揺らめきが見えた。でも、俺はその燃えるような怒りの浮かんだ目よりも、背筋にゾッとした寒気が走った。

 馬乗りになって誘惑されたら、年増女にだってキスして好きだと言える。それは、俺がどれだけ軽薄で、凛恋の思っているような男ではないと凛恋に思わせたいだけの中傷の言葉だ。でも、俺は稲築さんの言葉で頭の中にある光景が浮かんだ。

 それは、小竹に監禁されている時、警察が俺を助けに来る直前の光景だ。


 その時、年上の小竹が俺の上に馬乗りになって脅迫してきていた。自分に従わなかったら、凛恋が一生背負い続ける心の傷を付けると。俺は、その脅迫に負けて従う決意をした。そして、小竹が望む通り小竹を好きだと言い、小竹に自分からキスをした。


 稲築さんが口にした中傷と、俺が経験したことは違うことだ。でも、どうしても心の中で似通っているという印象が拭えない。そうして、その拭えない印象から疑念が浮かぶ。

 どうして、稲築さんは俺が経験したことと似通った中傷の言葉を発したのだろう、と……。


 偶然であると考えるのが自然だ。でも、口から出任せの中傷で年増女なんて具体的な言葉が出ると思えないとも思ってしまう。

 だとしたら? もし、偶然ではなく、口から出任せの中傷でもなかったら、稲築さんの言葉は何になる?


 それは事実だ。それも、稲築さんが事実と認識し信じて疑わないための根拠が存在する事実だ。でも、どうやったら稲築さんは、俺が小竹にさせられたことを事実と認識して信じて疑わないだけの根拠を得られる?

 頭に次々と浮かぶ疑問を――疑念を一つ一つ頭の中で紐解いていた俺は、紐解いた末に一つの答えに行き着く。でも、その答えは紐解いた末に行き着いたとしては、平易な答えだった。


 俺が小竹に脅迫されるところを見ていた。そうとしか考えられなかった。でも、その平易な答えに行き着いた瞬間、また答えの先に迷路が見える。

 どうしたら、稲築さんが俺が小竹に脅迫されるところを見られるのか?


 小竹の部屋は密室とは言えない。でも、少なくとも俺の記憶がある中で、小竹の家に稲築さんはおろか、小竹と俺以外の誰も入って来ていない。だから、稲築さんが俺が小竹に脅迫されているところを見るのは不可能だ。でも、稲築さんが見ていたと考えないと、俺が稲築さんの言葉から抱いた疑念を説明出来る答えはない。

 俺が考えを巡らせている間に、稲築さんは俺達に背を向けて歩き去ってしまう。しかし、俺はそれに少しだけホッとした。


 今、俺の頭は混乱している。だから、今の俺では、稲築さんを問い詰めようにも冷静では居られない。


「凡人……行こ」


 俺の手を強く握って、凛恋が早歩きで歩き出す。その凛恋の後ろ姿を見て、俺が心に抱いた稲築さんへの疑念を、まだ凛恋には話すべきではないと思った。

 今、凛恋は傷付いている。人を傷付けるような、人との関係を断ち切るような言葉を放った自分を自分で傷付けている。そして、その傷に胸を痛めて苦しんでいる。そんな凛恋に、より凛恋の心を乱すようなことはまだ言うべきではない。でも、いつか……この俺の胸の中にある疑念は凛恋に共有しなければならない。そうしなければ、忍び寄る危険から凛恋を守れない。だけどそれは……。

 この疑念が、確証のある事実になってからではないといけない。




 模擬面接を行った文房具メーカーのインターンから、俺は一日や短期のインターンを数社受けた。短期のインターンは実際の業務内容について説明を受け、実際に業務をやらせてもらうという一般的な職業体験が多く、一日だけのインターンは業務を経験することよりも、業務をする上で必要な能力は何かということを知ることが出来るものが多かった。その全てが確かに身になる経験だと思った。でも、俺はまだ自分に何が合っているのか、自分のやりたいことは何なのかを、分かっていないし決めかねている。そして、今日も、俺はまた違うインターンを受けに来ていた。


「……なんでまた飾磨が居るんだよ」

「良いじゃん良いじゃん。俺達の仲だろ?」


 文房具メーカーのインターン以降は全く会っていなかった飾磨と、ここに来てまたインターンで顔を合わせるとは思わなかった。だが、俺は飾磨が居ても当然だと思った。

 今回のインターンは一日のインターンだが、インターンを行う企業はテレビ局で、当然インターンに参加する人達も多い。だから、賑やかなことが好きな飾磨が居ても不思議ではない。


「芸能人と会えないかな~」

「テレビ番組の収録じゃないんだから、学生向けのインターンにテレビ局の社員でもない芸能人が来るわけないだろ」

「でも、もしかしたらってことがあるかもしれないだろ? 芸能人の友達を作れれば、可愛い女の子を紹介してもらえるかもしれないし」

「この前の文房具メーカーのインターンで仲良くなった人達はどうなったんだよ」

「ああ。あの子達ね~。どっちも彼氏持ちだった」

「そうか。残念だった」

「でも、俺が塔成大って聞いたら乗り換えよっかな~って言ってくれた!」

「そんな人は止めとけ。飾磨以外にもっと名誉と金持ってる男が居たらすぐに乗り換えられるぞ」

「ヤダな~タノタノは~。そんなの分かってるって、ただの友達のままだ」


 飾磨がケラケラと笑いながらバシバシと音が鳴るくらい強く俺の背中を叩いていると、数一〇〇人のインターン参加者が集められた室内がざわつき始める。そのざわつきが部屋全体に広がってきた時、飾磨が顔をしかめて周囲を見始めた。


「タノタノ。どうなってんの?」

「分からん。でも、何かあったみたいだな」


 俺はポケットからスマートフォンを取り出して時間を確認する。その時間は、もうインターン開始の一〇時丁度になっていた。

 もしかしたら、部屋のざわつきも開始時刻になっても、テレビ局の社員が誰もインターンの会場に現れないことを不審に思った参加者達の動揺からなのかもしれない。


 一般的に考えて、企業が主催する催し、今回のインターンは学生向けのイベントではあるが、企業が就職希望者に対して自社をアピールする機会でもある。その大切な催しが予定通りに始まらないというのは、企業がいい加減であるという印象を学生側に与えてしまうことになりかねない。特に、有名なテレビ局なんて話題になりやすいところは、そういう小さな傷も全体的な企業イメージの損失にもなりかねない。だから、よっぽどのことがない限り開始時刻の遅れなんて起きるとは思えなかった。


「おい! ドアが開かないぞ!」


 ざわつきが収まり掛けた時、部屋の中にその男性の焦った声が聞こえる。その瞬間、多くの参加者達が近くの出入り口に駆け寄り、ドアにあるハンドルを握ってドアを開こうとする。

 部屋の中に、幾つもドアを強引に開こうとする音が響く。でも、ドアが開く音は聞こえなかった。


「多野、なんかおかしくね? もう時間過ぎてるし、ドアが開かないって」

「ああ。なんか――」


 脳天気に部屋の様子をキョロキョロ見渡しながら話す飾磨に同意しながら俺も首を動かすと、部屋の奥に置かれた巨大なモニターにホラー映画で見るような赤い血文字で『爆発まで』と書かれ、その血文字の下に、四時間のカウントダウンが動き出していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る