【二一六《おはじき》】:二

 涙をポロポロと流しながら、夏美ちゃんは俺の手を引っ張って駅から離れるように歩き出す。

 夏美ちゃんの抱えている心の傷は大きい。そして、夏美ちゃんが抱いている孤独感も根深い。それらは一朝一夕でどうにか出来る問題じゃない。長い時間を掛けてじっくり解決していくしか方法がないことだ。でも、実際に心の傷と孤独感に苦しまされている夏美ちゃんを見ると、早く開放してあげたい。


 夏美ちゃんは迷いのない足取りで飲み屋の建ち並ぶ繁華街を抜けて、明るい雰囲気から一変した薄暗い雰囲気の通りに入る。その夏美ちゃんの顔を斜め後ろから見る俺は、やっぱり今日の夏美ちゃんの様子がおかしいと思った。


「夏美ちゃん、何かあった? 辛いこととか悲しいこととか。何かあったなら俺に話して」

「凡人さんが凛恋さんに盗られるのが嫌なんです。私は……私には凡人さんが必要なんです。凡人さんが居ないと生きていけない……」

「夏美ちゃん、俺は――」

「凡人さんのことが好きです」


 明るく賑やかな繁華街を抜けた薄暗いこの通りはいわゆるホテル街と呼ばれる場所だ。そこへ夏美ちゃんが俺を連れて、俺に好きだと言ったことから、夏美ちゃんの精神状態が冷静ではないことが分かる。

 何か夏美ちゃんが独りになるかもしれないという恐怖を煽られるようなことがあったのだ。だから、夏美ちゃんは施設へ帰らず俺を心配させるような電話をして俺の気を引いた。


「俺が好きなのは凛恋だから」

「凡人さんに私の初めてをもらってほしいんです。初めてだから凡人さんに満足してもらえるか分からないけど」

「そういうことをしても俺は夏美ちゃんを女性として好きにはならない。夏美ちゃんの目には、俺がそんな軽い男に映ってた?」


 俺が夏美ちゃんに尋ねると、夏美ちゃんは俯きながらも黙って首を横に振る。


「でも……凡人さんは私の前から居なくなりますよね?」

「俺と夏美ちゃんはずっと友達だよ」

「友達でも疎遠になることはあります。友達だからずっとこれから先も変わらないなんてないです」


 もし、夏美ちゃんが小学校低学年の子なら誤魔化せたのかもしれない。でも、高校生の夏美ちゃんに方便(ほうべん)は通用しない。


「凡人さんがエッチしてくれなかったら、さっきの男の人にしてもらいます」


 強く手を握ったまま、夏美ちゃんはジッと俺の目を見上げる。


「それは出来ない。俺と夏美ちゃんは友達だ」

「私は凡人さんの彼女になりたい」


 俺の銅に手を回して抱き付いた夏美ちゃんは、俺の胸の中ですすり泣く。


「凡人さんと離れ離れになるなんてやだ……凡人さんっ……お願い……」

「夏美ちゃん、落ち着いて」


 全身を恐怖に震わせる夏美ちゃんの手を引いて、俺はホテル街を離れる。


「迷惑掛けてごめんなさい……」


 黙って歩いていると、夏美ちゃんがそう謝った。歩いている間に冷静になってくれたのかもしれない。


「夏美ちゃんが無事なら良かった。でも、今後は心配するようなことはしないでほしい」

「はい……」


 冷静さを取り戻して罪悪感に苛まれたのか、夏美ちゃんは謝ってからシュンと落ち込む。その反応が幼い子供のようで可愛かった。


「くぅ~っ……」

「ん?」


 子犬の鳴き声が聞こえて俺は周囲を見渡す。しかし、周囲に子犬の姿はない。

 子犬を探しながらふと隣を歩く夏美ちゃんを見ると、夏美ちゃんが顔を真っ赤にして俯いている姿が見えた。


「くぅ~っ……」


 また子犬の鳴き声が聞こえる。だが、その鳴き声は夏美ちゃんのお腹の辺りから聞こえた。つまり、さっき聞いた子犬の鳴き声は夏美ちゃんのお腹の音だったらしい。


「夏美ちゃん、夕飯食べた?」

「いえ……」

「じゃあ何か食べようか。ご馳走するから」

「ありがとうございます」


 夏美ちゃんは顔は赤いままだったが明るく笑って元気な返事をする。

 とりあえず、俺は近くにあるファミレスに向かって歩いて行く。そして、俺の手を強くギュッと握ったままの夏美ちゃんの手を見て、まだまだ問題を解決出来るまで時間が掛かりそうだと覚悟した。




 夏美ちゃんと会った数日後の大学終わり、俺は大学の校門を抜けた先で立っている三人の人物を見る。その人物は、百田武(ももだたけし)、瀬尾美鈴(せおみすず)さん、そして……西和也(にしかずや)。

 三人は明らかに俺のことを待っていて、俺の姿を捉えて視線を俺に向け続けている。その視線は三つ共に鋭く好意的な視線ではなかった。


「多野くん?」

「空条さん……」


 立ち止まっていた俺は、横から空条さんに肩を叩かれて声を掛けられる。その空条さんの隣には宝田さんも居た。この状況で声を掛けられたのはタイミングが悪い。

 明らかに、校門の前で待っている三人とはこれからトラブルになる。もし、空条さんと宝田さんと途中まで一緒に帰ろうという話になったら、確実にあの三人とのトラブルに二人を巻き込んでしまう。


「立ち止まってたけど、何かあったの?」

「いや、何もないよ」


 空条さんは首を傾げて俺に尋ねるが、俺はそれをはぐらかす。しかし、今はぐらかせたとしても一歩校門を出れば意味がなくなる。


「あの人達、多野くんの知り合い? ずっと多野くんを見てるけど?」


 空条さんではなく宝田さんが三人に気付いて、俺は三人について言及しなければいけない状況になった。そうなって、俺は小さく息を吐いて三人に視線を向けながら話す。


「女性は凛恋の大学の同級生。その他の二人は、片方が凛恋の同級生の彼氏で、もう一人はその彼氏の友達」


 本来なら、瀬尾さんは凛恋の友達、あるいは元友達と紹介した方が良い。それは、瀬尾さんは百田と付き合う前に、百田と仲良くなりたい気持ちを優先して凛恋と疎遠になったからだ。

 百田の紹介はそのままで良いが、西については凛恋を怖がらせた凛恋に言い寄ってくる男と紹介するのが正しい。だが、瀬尾さんも西も、正しい紹介の仕方をするとかなり棘がある。別に、本人達にどう思われようとも別にどうだって良いが、空条さんと宝田さんからの聞こえの悪さを考えると、素直な表現の仕方は躊躇われた。だから、随分ざっくりとして曖昧な紹介しか出来ない。


「八戸さんの同級生とその彼氏と彼氏の友達、ね……。なんか、多野くんのこと睨んでるね」


 俺の説明を口にしながら、空条さんは三人に訝しげな視線を向ける。でも、その視線と言葉を合わせると、不審に思っているというよりも三人に対して確信めいたものが空条さんの中にあるように感じた。


「多野くん、一緒に帰ろう」

「いや、今日は一人で――」

「千紗の言う通り一緒に帰った方が良いと思う。あの三人、きっと多野くんのことを待ち伏せてたんだよ」


 空条さんと宝田さんが並んで歩き出したのを見て、俺は右手で頭を抱える。二人の足は、真っ直ぐ俺を待っている三人の方向に向かっている。これは、予想したトラブルが更にこじれる予感しかしない。


「あの、私の友達に何か用ですか?」


 三人の元へ歩いて行った空条さんは、全く臆する様子もなく三人の真ん中に立っていた百田にそう話し掛けた。その空条さんに、百田は両腕を組んでいかにも威圧している態度を取る。普通の女の子なら、がたいの良い百田に威圧的な態度を取られたら怯える。しかし、空条さんはそれでも全く態度が変わらない。


「女は黙ってなさいよ。男同士の問題よ」

「私には、あなたが真っ先に男同士の問題に口を挟んだ女性に見えますけど?」


 瀬尾さんが空条さんに不快感を露わにしながらかんに障る言い方をする。だが、それにも空条さんは更に瀬尾さんの不快感を煽る言葉を返した。明らかにわざとだ。


「空条さんは関係のない話だから」


 空条さんの腕を掴んで下がらせようとすると、空条さんは腕を振って俺の手を払いのける。そして、視線を百田でもなく瀬尾さんでもない、西に向けた。


「どうせ、あなたが八戸さんのことが好きで、彼氏の多野くんにいちゃもんを付けに来たんですよね? でも、一人で来るのが怖くて友達とその彼女に付いて来てもらった。だけど結局、自分では何もせずに横で立ってるだけ。男として情けないと思わないんですか?」


 この状況からそこまで予測したというか感じ取った空条さんに感心しながらも、火に油を注ぎ相手を煽る言葉に俺は堪らず手加減無しに強く空条さんの手を引いて下がらせる。


「空条さん、相手には男が二人も居るんだ。少しは怖がってくれ」

「こんな人目に付く場所で私に暴力を振るおうなんて出来ないよ」

「そうかもしれないけど、空条さんとは関係ない話で危ない目に遭うようなことは――」

「自分の友達を睨んでる人達を放っておくなんて出来ない。しかも、一人に対して三人で来る時点でまともな話をしに来てるとは思えない。どうせ、人数掛けて恫喝(どうかつ)しに来ただけ」


 空条さんはそう言い切って、キッと鋭い視線を三人に向ける。まあ、概ねは空条さんの言う通りだと思う。西が居る時点で凛恋がらみの話であるのは間違いないし、俺一人に会いに来るのに三人という数的有利を使って居る時点で冷静な話し合いということにはならないことも正しいだろう。しかし、それでも空条さんが口を挟むような話ではない。だが、空条さんはなぜか俺よりも怒っている。


「私、この人達みたいな卑怯な人が大嫌い。それに、八戸さんはそういう人が私よりも大嫌いなんじゃないかな? 八戸さんが多野くん以外のことを好きになるなんてあり得ないと思うけど、そっちの人みたいな男は絶対にないんじゃないかな? しつこくて男らしくない人って八戸さんが一番嫌いなタイプだろうし」


 西を睨みながらそう言い切った空条さんは両腕を組んで鋭い視線で改めて三人を見渡す。すると、空条さんに睨まれていた西がポケットから封筒を取り出して空条さんに突き出す。そして、小さく口を歪ませて笑った。


「これを見てもそいつを庇えるか?」

「はあ?」


 随分勝ち誇った顔をする西から封筒を奪い取った空条さんは、中身を取り出して顔をしかめる。その空条さんの手には、現像された写真が数枚あった。

 空条さんが持っている写真は、夏美ちゃんが施設の門限を過ぎても帰らなかった日に、冷静さを失って俺をホテル街まで連れて行った時の写真だった。


「こいつ、その女子高生とラブホテルに入ったんだ。八戸さんを裏切って浮気してただけじゃない。青少年健全育成条例違反、立派な犯罪だぞ」

「この子――」

「西、なんで“カナちゃん”が高校生だって知ってるんだ?」


 発しようとした空条さんの声を遮って西に尋ねると、西はニヤッと笑って空条さんの持っている写真を指さしながら言う。


「その子は俺の知り合いの妹だ。その知り合いからお前が高一の妹といかがわしい関係を持ってるって聞いた」


 その言葉を聞いて、俺は空条さんの手から写真を受け取って写真を眺める。しかし、その写真に少し違和感を抱いた。


「処分したって無駄だからな。元データはこっちが持ってる。それを見せれば、八戸さんだって――」

「その子、多野くんが悪い大人から助けた高校生よ。私も実際会ったことがあるし、八戸さんももちろん知ってる。家庭環境のせいで少し精神的に不安定で、多野くんに依存してることも、もちろん八戸さんは知ってる。それに、あなたの言葉よりも多野くんの言葉を信じるよ、八戸さんは」

「なっ!?」


 西は空条さんの言葉に動揺した表情をする。その西の隣に立っていた百田は、西の腕を掴んで引き寄せながら険しい顔を見せた。


「西。多野が浮気してる証拠じゃなかったのかよ」

「き、きっとこの二人が口裏合わせをしてるんだ! この女も多野の浮気相手なんだ!」


 焦った様子の西は空条さんを指さしながらそんなことを言う。錯乱しているにしても、そんな取って付けたような言い掛かりは全く意味が無い。


「とりあえず、今日は諦めろ。お前の持ってる証拠が全く利いてないだろ」

「わ、分かった……」


 百田は西の腕を引っ張って塔成大の校門前から瀬尾さんと一緒に離れていく。


「ちょっと! 多野くんに謝りなさいよッ!」

「空条さん。良いよ、放っておいて」

「でも! それよりも気になることがある」


 俺は西達を頭の中から追い出し、空条さんから受け取った写真に再び視線を落とす。

 写真はホテル街で手を繋いで立っている俺と夏美ちゃん、それからホテル街の後にファミレスで食事をした時の俺と夏美ちゃんが収められていた。


「それって、夏美ちゃんをカナちゃんって嘘を吐いたことと関係してる?」

「まあ、それもだけど……」


 首を傾げて尋ねた空条さんに頷いて応える。

 俺は夏美ちゃんを、カナちゃんという違う名前で西に尋ねた。すると、西は自信ありげに頷いて、俺が夏美ちゃんといかがわしい関係にあると夏美ちゃんの姉か兄に聞いたと話した。


 夏美ちゃんは一人っ子だ。つまり、兄弟姉妹は居ない。それに西は夏美ちゃんの名前も知らなかった。だから、西は夏美ちゃんと全く面識がないことになる。しかし、西は夏美ちゃんのことを“高一”だと言い切った。


 写真の夏美ちゃんは私服姿だ。でも、夏美ちゃんの容姿を見れば高校生くらいの年の女の子ということは誰でも想像出来る。しかし、写真だけを見て高一だと細かい学年を言い当てられる人間がどれだけ居るだろう? そんな人間は極々稀な存在だと俺は思う。

 そこから今分かることは、西は夏美ちゃんとは名前も分からない間柄だが、写真に写っている女の子が高校一年だとは知っているということになる。


「多野くん、私も一緒に行っていい?」

「え?」

「まだ何か気になることがあって確かめに行くって顔してるから」

「楽しいことじゃないよ」

「友達が嫌なことを楽しいわけないよ。でも、友達が嫌なことを一人でしようとしてるのは放っておけないから。私は付いて行くだけで何も迷惑を掛けないようにするから」

「まあ、俺も何もするつもりはないよ。ただ、この写真が撮られた場所に行くだけだ」


 俺は空条さんにそう言って、写真の撮られた場所に向かって歩き出した。




 俺は写真の撮られた場所の一つであるファミレスは通り道にあったが寄らなかった。それは、俺が気になった写真がファミレスの写真ではなく、ホテル街の方の写真だったからだ。

 昼間のホテル街は人通りが少ない。しかし、そのホテル街に女友達と立っているというのは、かなり居心地が悪い。


「多野くん、気になることって何?」

「この写真、多分この辺りから撮ってる。あの赤い看板のホテルの前に俺と夏美ちゃんは立ってたから、距離的には間違いないと思う。でも、俺が見てる風景はこの写真よりも“高い”んだ」

「景色が高い?」

「ああ。さっきの男、西よりも俺は背が高いけど、そんなに三〇センチも差があるわけじゃない。せいぜいあっても一〇センチ一五センチのものだ。でも、俺がスマートフォンを構えて撮った写真はこうなる」


 俺が自分のスマートフォンで、手に持っている写真と同じ構図になるように撮ろうとすると腰を屈めて若干しゃがまなくてはいけない。しかし、自然な体勢でスマートフォンを構えると、持っている写真よりも撮影出来る写真は撮影位置が高くなる。


「つまり、この写真はさっきの男よりも身長が低い人が撮ったってこと?」

「そういうことになる。西は夏美ちゃんのことを知っているっていうのは明らかに嘘だったけど、夏美ちゃんが高校一年生ってことは正しかった。つまり、夏美ちゃんが高校一年生だって知ってる別の誰かからこの写真を貰ったんだ」

「それで、その別の誰かは身長が低い人だってことだね。でも、なんでその別の誰かはあの男を多野くんに焚き付けるようなことをしたの?」

「俺のことが嫌いな人間なんていくらでもいるし、理由になることもいくらでもあるから誰かとか理由は分からない。でも……ここまで身長差があるってことは――」

「写真を撮ったのは、男性じゃなくて小柄な女性」


 ずっと黙っていた宝田さんが、西が持って来た写真と俺がスマートフォンで撮影した画像を見比べながらそう言った。その言葉に、俺と空条さんは否定も肯定もせず、誰も立っていないホテル街に視線を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る