【二一六《おはじき》】:一

【おはじき】


 レディーナリー編集部でインターンをしていた時、帆仮さんとよく飲んでいた居酒屋に入る。そして、誰も居ない個室に一人ポツンと座っていると、数分後に個室のドアが開いた。


「お疲れ様です」

「多野くんお疲れ様。座って座って」


 個室に入って来た帆仮さんは、ニッコリと笑って立ち上がった俺に座るように椅子を勧める。


「ありがとうございます。失礼します」


 椅子に再び腰掛けた俺は、正面に座る帆仮さんの顔を見る。帆仮さんはずっとニッコリと笑っていて、その笑顔が俺に気を遣わせないように場の雰囲気を和ませようと浮かべてくれているのが分かる。だから、余計に俺は帆仮さんにそういう気を遣わせてしまったことに申し訳なさを感じた。


「本当はみんなで来たかったんだけど、ちょっと今忙しくて」

「帆仮さんだって定時で帰れなかったんじゃないですか?」

「私は多野くんの教育係としての責任があるからね」


 俺はその帆仮さんの言葉に「もうインターンは終わったから、帆仮さんが気を回す必要はないですよ」そういう言葉が頭に浮かんだ。でも、その言葉はたとえ帆仮さんに余計な気苦労を掛けたくないという思いからだとしても、あまりにも突き放すような棘のある言葉になってしまう。それに心のどこかで俺は、もうレディーナリー編集部でのインターンが出来ないことを認めたくないと思ってしまった。だから、帆仮さんの言葉に何か言葉を返すことは出来ず、ただ帆仮さんに笑顔を返すしかなかった。


「ご馳走するから好きな物を頼んで」

「ありがとうございます」

「何が良い?」

「じゃあ、鶏の軟骨唐揚げを」

「分かった。すみません。鶏の軟骨唐揚げとサーモンのカルパッチョを二人前。それと、日本酒の水割りを二杯ください」


 俺は帆仮さんの厚意に甘えて夕飯をご馳走になる。でも、俺は酒を注文しなかったが帆仮さんが俺の分まで日本酒を注文した。


「付き合ってくれるでしょ?」

「もちろん」


 注文を終えた後で帆仮さんがクスッと笑って言った言葉に俺は頷いて応える。酒を飲みたくなかったかったわけではない。でも、帆仮さんが一緒に飲もうと誘うのなら、断る理由は何もなかった。

 料理と日本酒の水割りが運ばれてくると、帆仮さんがグラスを持って俺に向かって持ち上げた。その帆仮さんのグラスに、俺も自分の分のグラスを持って軽く当てた。


「「乾杯」」


 何に対する乾杯かは分からない。でも、俺は心の中で、帆仮さんの仕事への労いと、今回俺を呼び出して飲みに誘ってくれた感謝を込めた。


「多野くんのインターンが終わってから、すぐに新しいインターン生が入って来た」

「どうですか?」

「うん。凄く頑張ってるよ。元々、ファッション誌の編集者になりたいらしくて、早く仕事を覚えようと毎日一生懸命にやってくれてる」

「良い人が入ったみたいで良かったですね」

「うん……。その子は何も悪くないんだけど、ね……」


 そう言葉を途切れさせた帆仮さんは、視線をテーブルの上に落とした。


「流石に、あんな形で多野くんのインターンを終わらされた後じゃ……簡単に割り切れないって言うか……。新しい子が頑張ってるのも分かってるし、インターンがそもそも期間限定のものでうちの編集部が特殊だったっていうのも分かってるの。でも……すぐに新しい子を入れるなら多野くんのままでも良かったのにって思うの」

「帆仮さんも言いましたけど、インターンって普通は一〇日くらいのものですからね。何ヶ月もやれてたことが特殊なんです」

「でも、インターンを終了させるやり方は酷いとしか言えないよ。予告もなく、いきなりその日でもう来なくて良いなんて」

「まあ……取締役会で決められたら、ただのインターン生は従うしかないですよ」


 俺の口からは絶対に言えない不満を帆仮さんが代弁してくれる。だから、そのお陰で俺は自分の口から不満を口にしなくて良かったし、自分の苦々しい思いからその不満を直視しなくて済んだ。


「古跡さんを中心に労組(ろうそ)を通して会社に抗議をしようって動いてるの。だから――」

「古跡さんに言っておいてください。仕事のことだけを考えてくださいって」


 帆仮さんの言葉を遮って、俺は首を振りながらそう言って水割りをグッと一口飲んだ。

 想定していなかったわけではない。圧倒的に立場が上の役員達の決定に対して、社員が反対して意見を主張出来る方法がある。


 日本国憲法では労働者に三つの権利を保障している。それは団結権、団体交渉権、団体行動権と呼ばれ、団結権は労働組合を組織出来る権利、団体交渉権は労働組合が雇用主側と交渉して労働協約を結べる権利、そして団体行動権は争議(そうぎ)行為を行える権利を指す。


 古跡さんがどこまで想定して労働組合に話をしたのかは分からない。でも、少なくとも俺のインターン終了に関して労働組合を通して抗議をしようとしているのは確かだ。だが、俺は労働組合が動くとは思えなかった。

 俺は月ノ輪出版の労働組合に所属していない。だから、月ノ輪出版の労働組合にとって、俺は組合員でも何でもない他人なのだ。


 もし、月ノ輪出版の正社員や非正規社員でも労働組合に入っていれば、組合員が不当な解雇を受けた場合には助けるために雇用側へ話をしてくれる。それでらちが明かなければ、労働組合に所属する組合員全員で団体行動権を行使して、ストライキ等の争議行為をすることはあるだろう。でも、俺は組合員ではない。それに、古跡さんも組合員ではないはずだ。


 古跡さんの編集長という地位は、他の会社では部長と呼ばれる役職になる。そして、部長は管理職だ。その管理職の人のほとんどは、労働組合に入れない。だから、古跡さんを中心に動いてはいても、古跡さんから労働組合に訴えることは出来ないはずだ。


「気持ちは嬉しいです。でも、ただでも多忙な帆仮さん達に余計な労力を割かせたくないんです」

「多野くんは今回の件の重大さが分かってない。今回のことはね、ただ単にインターン生が強引にインターンを終了させられたってだけじゃないの。多野くんのことだから、もう頭の中で、自分が組合員だったら助けてもらえるかもしれないけど、自分は組合員じゃないから助けてもらえないって考えたでしょ? でも、私達組合員の立場から言わせると、今回のことは不安で仕方ないの。だって月ノ輪出版が“会社に都合の悪い人間は切り捨てる会社”って実際に見せられたんだから。そんな会社に安心して働き続けられると思う?」

「それは……」

「ここで声を上げなかったら、また会社は自分達に都合の悪い人は強引に辞めさせようとするかもしれない。だから、今みんなで声を上げて会社に抗議しないといけないの。正当な理由もなく人を辞めさせないでって。それがインターン生相手だけにしかしないと上が考えていたとしても、そんなの私達下の人間は分からないんだから」

「最もらしいですけど、結構強引な言い分ですね」


 俺はそれで労働組合が動いてくれる可能性は低いと思った。でも、帆仮さんは笑顔を浮かべてサーモンのカルパッチョを摘まんだ。


「私達月ノ輪出版の社員が、レディーナリー編集部が自分達の意志でやるから。だから、多野くんは何も負い目は感じないで。ただ、私達がそれくらい多野くんのことを大切な仲間だって思ってるってことを知ってほしかったの」

「ありがとうございます」


 真剣な表情で真っ直ぐな言葉を使って語る帆仮さんから、俺は強く揺るぎない意志を感じた。だから、これ以上言葉を重ねるのは、その帆仮さんの意志に失礼だった。


「それで、多野くんの方は大丈夫? ストーカーから来る手紙のこと」

「変わらず毎日一通来ますよ。内容も前から変わってません」

「そっか……。警察は捜査してくれてるの?」

「周辺のパトロールを強化してくれるって言ってくれてます。それに、送られてくる手紙は全部警察に証拠品として渡してるので。ただ、指紋とかそういう送り主が分かりそうな手掛かりはないみたいです」

「私に出来ることがあったら何でも言って」

「ありがとうございます。でも、今は手紙が一日一通届くだけですからね。他に何かされてるわけでもないですし、相手が誰かも分からないんでこっちから何かをしようとも出来なくて」


 素直に、そう答えるしかなかった。

 男の俺でも、誰かに監視されているということに不気味さを感じる。ただ、言葉にした通り俺に今出来ることは何もない。

 俺の感じている不気味さや恐怖を口にすれば、少なからず帆仮さんも不気味さや恐怖を感じてしまう。俺は自分の感じている不気味さや恐怖が、他の誰かが感じる必要のないものだと思うから話さなかった。


「多野くんのことを誰かが好きになる気持ちは分かる。多野くんは不器用な優しさだけど人一倍優しいし、細かいところもよく気が付くし、男の人としても頼りになる。それに、身長も高いしイケメンだし」

「イケメンなんて凛恋くらいにしか言われたことないですけど……」

「そうなの? 私は多野くんイケメンだと思うよ。アイドル顔ではないけど、人を惹き付ける魅力がある」


 俺は内心、小学生時代から人を遠ざけ続けていたんですが……と思ったが、酔った帆仮さんのお世辞をありがたく受け取っておくことにした。


「うちの編集部男っ気が全くなかったから、多野くんは編集部のオアシスだったんだよ? みんな可愛い男の子が入って来た~って喜んでたし」


「それ、初耳でよ」

「そうだっけ? でも、誰も多野くんにちょっかい出そうなんて思ってないから安心して。多野くんは編集部のマスコットだから」

「オアシスからマスコットって、なんかスケールダウンしましたね」

「そんなことないよ。多野くんは編集部の可愛い弟分なの。みんな多野くんのこと心配して気に掛けてるんだから。平池さんなんて、この前飲んだ時に、多野くんに付きまとってる女を血祭りに上げるって言ってたんだよ」

「そ、そうですか」


 帆仮さんが何気なく話す言葉に、俺は顔を引きつらせて苦笑いを返す。酒に酔っていたからだろうが、血祭りに上げるというのはかなりインパクトの強い言葉だ。


「好きな気持ちが先行して正常な判断が出来なくなる人は居るけど、それって好きな人のことをちゃんと好きじゃないってことでしょ。本当に真剣に人を好きだったら、ちゃんと好きな人のことを大切に出来る。ストーカーが大切にしてるのは自分の気持ちだけ。それが許せない」

「まあ、飽きるか警察が送り主を見付けて注意するまで放っておきますよ」

「多野くんは強いな~。やっぱり、凛恋ちゃんが支えてくれてるからかな?」


 グラスの水割りを飲み干した帆仮さんがからかうようにそう言いながらニヤッと笑う。その笑みに俺もニヤッと笑って言った。


「はい。凛恋が側に居てくれるから、俺は前を向いて頑張れるんです」




 帆仮さんを送った帰り、俺は少し肌寒い夜道を駅まで向かって歩いていた。帆仮さんは俺に送られるのを遠慮したが、酔った女性を一人で帰すのは俺の精神安定上良くなかった。

 帆仮さんと話して、編集部のみんなが俺のために頑張ってくれていることは伝わった。その気持ちは嬉しかったし、編集部のみんながどうにかしようと考えてやってくれていることで俺が否定することじゃない。でもやっぱり、俺のことに労力を割かせたくはなかった。


 インターン終了を告げられた後、田畠さんが会社に何かあったのかもしれないと言っていた。俺に関係して、会社が不利益を被ると感じる何かが。その何かが本当にあったかは分からない。でも、田畠さんの言う通りのことが起こっていたとしたら、素早いインターン終了の対応も納得出来る。


 考えても仕方のないことを考える俺が、家に向かっていると、ポケットに入れたスマートフォンが着信を知らせて震え出す。そのスマートフォンを手に取ると『ひまわり学園』という文字が表示されている。そこは、夏美ちゃんが生活している児童養護施設だ。


「もしもし、多野です」

『もしもし、ひまわり学園の者です。川崎夏美さんのことでお伺いしたいのですが、川崎さんが行きそうな場所に心当たりはありませんか?』

「もしかして、夏美ちゃんが居なくなったんですか!?」


 施設の職員さんが俺に夏美ちゃんの居所を尋ねたことで、夏美ちゃんが施設から居なくなったことを察した。その瞬間、心に焦りと嫌な予感が押し寄せる。


『もう門限を過ぎているのに帰ってこないんです。電話も繋がらなくて』

「私も探してみます。こちらも見付かったら連絡しますので、そちらも夏美ちゃんが見付かったら連絡を下さい」

『ありがとうございます。では、よろしくお願いします』


 電話を切って、俺はすぐには走り出さずに夏美ちゃんが行きそうな場所を考える。やはり高校生が遊ぶようなゲームセンターやカラオケ辺りを見て回るのが無難だ。

 近くのゲームセンターに向かって走り出そうとした俺のスマートフォンがまた震える。しかし、今度は夏美ちゃんから電話だった。


「もしもし夏美ちゃん? 今どこに居るの?」

『今、出会い系で知り合った男の人を待ってます』


 その言葉を聞いて、俺は足をゲームセンターではなく駅の方に向けた。

 夏美ちゃんが言っていることは本当のことかもしれないし嘘かもしれない。でも、本気で出会い系で知り合った男を待っているわけではない。きっと、寂しくて構ってほしいのだ。


「今から迎えに行く。男の人に声を掛けられても付いて行ったらダメだからね」

『今、凡人さんと初めて会ったベンチに居ます。凡人さんより男の人が早く来たら付いて行きますから』

「夏美ちゃ――」


 電話を切られ、俺はすぐにポケットへスマートフォンを仕舞って走り出す。幸い、夏美ちゃんが指定した場所は俺の居た場所から近かった。

 走ってたどり着いたベンチで、男が夏美ちゃんに声を掛けようとしているのが見えた。


「君、ミカちゃ――」

「夏美ちゃん、行こう」


 男が声を掛けている途中で、俺は夏美ちゃんの手を握って男から離れる。その男を振り返りながら見てると、その視界の端で夏美ちゃんが嬉しそうにはにかんだのが見えた。


「やっぱり凡人さんは来てくれた」

「夏美ちゃん、施設の人が心配してた。門限に遅れるならちゃんと連絡しないと」

「帰りたくないです……」


 歩きながら夏美ちゃんに施設へ帰るように促すが、夏美ちゃんは立ち止まって首を横へ振る。

 夏美ちゃんは大人しくてわがままなんて言わない子だ。だから、今のわがままが珍しいというよりも違和感を抱く。何か、いつもの夏美ちゃんとは違うような気がした。


「施設で嫌なことがあった?」

「毎日嫌です。凡人さん、前よりも会いに来てくれる回数が減りましたよね? 最近は、全然会いに来てくれない……」


 夏美ちゃんの指摘に、俺は返す言葉が無く黙るしかない。夏美ちゃんの分離不安障害を解消するために、俺は夏美ちゃんと距離を取っている。だから、施設へ行く回数も夏美ちゃんの指摘通り減っている。

 言い訳をする余地のない俺が押し黙っていると、夏美ちゃんは握った手に力を込めた。


「私のこと、嫌いになりましたか?」

「嫌いになんかなってないよ」

「じゃあ、私のこと好きですか?」

「友達として好きだよ」

「女としては?」

「俺には彼女が居るから、他の女の子を女として好きになることはない」

「…………やっぱり、八戸さんが凛恋さんを私から遠ざけてるんだ」

「そんなことないよ」


 夏美ちゃんの言葉を否定する。夏美ちゃんと距離を取っていることに凛恋は関係ない。仮に、分離不安障害改善以外の理由が俺の中にあって、それが凛恋のことを考えてのことだとしても、それは俺の意思だ。凛恋は関係ない。


「凛恋さんは凡人さんを私に近付けたくないんです。凡人さんを独り占めするために、私と凡人さんが会えないようにしてるんです」

「凛恋は何もしてない。夏美ちゃんは俺に依存し過ぎてる。将来、ちゃんと夏美ちゃんが一人で生活するために、今それを克服しないといけないんだ。だから――」

「凡人さんが居なくて私一人なら、生きてる意味なんてありません。死んだ方がマシです」

「夏美ちゃん、そういうことは冗談でも言っちゃダメだ。夏美ちゃんが居なくなったら悲しむ人が――」

「私が死んで悲しんでくれるのは凡人さんだけです。実の母親も私なんて居ない方が良いって言うんですから」

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