【二一五《混濁》】:二

『凡人……助けて……』

「凛恋!? 今どこだ!?」

『家……お願い……凡人っ……怖い、助けて……』

「すぐに帰る! そのまま電話を繋いでろ!」


 何が起こっているかは分からなかった。でも、凛恋が恐怖を感じていると分かっただけで十分だ。

 一刻も早く凛恋のもとへ行く。電話を繋いだまま走る俺はそれしか考えていなかった。

 駅前から走ってアパートに帰って来た俺は、アパートの階段を一気に駆け上がる。そして、視線の先に見えた光景に目を見開いた。


「八戸さん、話がしたいんだ。開けてくれ」


 大学一年の時に、凛恋達とテニスをした時に出会った男性、刻雨高校のOBの西さんが、俺と凛恋が住む部屋のインターホンのスイッチを何度も押して鳴らしながら、ドアも拳で何度も叩いてノックをしていた。


「何してんだっ!」


 俺はドアを叩く西の腕を掴んでドアの前から引き剥がす。そして、俺は自分の体をドアと西の間に割り込ませた。


「なっ!? 離せッ!」


 俺の顔を見て驚いた表情をする西は、俺に掴まれた腕を大きく振って俺の手から逃れた。


「やっぱり八戸さんには俺が必要なんだ」

「はっ?」


 西の意味不明な言葉に、俺は戸惑いではなく怒りが震えた。

 凛恋が怯えていたのは間違いなくこの男が家のインターホンを何度も鳴らし何度もドアを叩いて、何度も凛恋の名前を呼んだからだ。こいつのせいで、凛恋は泣きながら電話しなければならなくなった。


「お前は八戸さんを家の中に閉じ込めてるんだっ! お前は男に対する恐怖を煽って必要以上に男から遠ざけてる! 八戸さんは俺のことが好きなのにッ!」

「帰れ。これ以上居ると警察を呼ぶ」

「呼べよ! 警察が来てくれれば八戸さんがどう思ってくれてるか分かる!」


 引き下がる素振りを見せない西の行動を監視しながら、俺は耳に付けたスマートフォンに話し掛ける。


「凛恋、警察を呼ぶから一旦切るぞ」

『凡人……』

「大丈夫。ドアの先には絶対に一歩も通さない」

『うん。私もドアの側に居る』


 俺は左手で背中を付けているドアに触れる。そのドアの向こうに凛恋の手の温もりを感じた。




 警察に通報して五分も立たずにアパート前にパトカーが到着する。すると、駆け付けた男性警察官が怒鳴っている西をなだめ、女性警察官が部屋の中に入って凛恋に事情を聞きに行く。

 俺は西を彼女に付きまとうストーカー男と警察に主張し、西は俺のことを凛恋を軟禁していると主張した。だから、本人である凛恋に事情を聞かなくてはいけない。だが、俺もただ待っているだけじゃない。


「俺と凛恋がここに住んでるのは知らないはずだ。どうやってここに来た」

「俺と八戸さんは親しい仲なんだ。家にも来たことがある」


 警察を前にして平然と嘘を吐く西に拳を握り締めていると、家の中から女性警察官が出て来て外で待っていた男性警察官に視線を向けた。


「そちらの男性がしつこくインターホンを鳴らしてドアをノックしていたそうです。それに、八戸さんは以前、その男性に無理矢理手を握られたことがあるそうです。一刻も早く立ち去ってほしいとおっしゃっていました」

 女性警察官は男性警察官から視線を西に移して睨む。


「これ以上この場に居たら署に――」

「そんなはずはない! 八戸さんは本当は俺のことが好きなんだ! それなのにこいつが俺と会わせないようにしてるだけだ!」

「だが、八戸さんは君に立ち去ってほしいと言っている」

「あんたは八戸さんのことを知らないだろっ! 八戸さんのことをちゃんと知ってる人なら絶対に――」

「無駄ですね。署に来てもらいましょう。これ以上ここにこの人を居させたら八戸さんが恐怖を感じるだけです」

「そうだな。君には署に来てもらう」

「なっ!?」


 西は驚いた声を上げるが、男性警察官は構わず西の腕を掴んでパトカーに連れて行く。


「あとは私達に任せてください」

「はい。よろしくお願いします」


 女性警察官がパトカーの方に歩いて行くのを見送り、俺はすぐに部屋の中に入る。


「凛恋……」

「凡人っ……凡人っ……」


 中に入った瞬間、凛恋が俺に抱きついてしがみつく。凛恋の声も体も恐怖で震えていた。


「いきなり来て……凡人が居ない今のうちに逃げようって言われて。何度も帰ってって言ったのに……全然帰ってくれなくて……」

「もう大丈夫だ。警察が連れて行ってくれたから」


 震える凛恋の体を撫でながら、涙の流れた跡のある凛恋の頬に自分の頬を押し当てる。


「凡人のお陰で忘れられてたのに……」


 凛恋は俺の体を右手で抱き締めなかった。多分それは、以前右手を西に握られたからだ。その時、凛恋は右手を汚いと何度も何度も強く洗っていた。それくらい怖くて嫌なことを思い出してしまった。


 西は俺達の住んでいる場所を知らないはずなのに、俺達のアパートに来て凛恋に無理矢理会おうとした。西が俺達の住んでいるアパートの場所を知るには、西と同じ大学で友人の百田武(ももだたけし)と付き合っている瀬尾さんに聞く方法がある。他にあるとすれば、俺や凛恋を尾行するかだ。ただ、どんな方法を使おうとも、西が常軌を逸した行動をして凛恋に近付こうとしたことは変わりない。


 西が今、凛恋に近付いてきたことと、俺に届き始めた手紙を無関係だとは思えない。西が俺に対する嫌がらせで投函していた可能性もある。手紙が届き始めてから凛恋に接触するまで数日空けたのも、手紙と自分は無関係だと思わせたかったのかもしれない。


 考えれば、西の醜悪な考えや行動をいくらでも想像出来る。でも、もう西は警察に連れて行かれている。仮に警察では素直に従って、また凛恋に近付こうとしてきたなら、次は警察から受ける警告では済まされない。常に凛恋の側に居られるという意味では、今インターンが終わったことはタイミングが良かったかもしれない。


「凡人……仕事の途中だったのに……」

「大丈夫だ。丁度今日、月ノ輪出版からインターンを終了するって言われたから。インターンに行かない分、凛恋の側に居られる」

「私のせいじゃない? 私がわがまま言って帰って来てもらったから――」

「そんな訳ない。古跡さんはちゃんと凛恋がピンチだって話せば分かってくれる人だし、もしそれでクビだって言われる場所だったらこっちから願い下げだ。俺がこの世で一番大切なのは凛恋なんだから」


 俺は凛恋が俺を抱かなかった右手を俺の腰に回させて、俺は凛恋を両手で強く優しく抱き締める。それに、凛恋は右手も力一杯使って俺にしがみついた。


「私も凡人が一番大切。凡人が一番大好き」

「ありがとう。……よく一人で頑張ったな」

「うん……」


 凛恋の頭を撫でながら、俺が来るまで一人で恐怖に耐え続けた凛恋を褒めた。凛恋にとって西は怖い思いをさせられた相手で、ただの通りすがりの男性よりもより明確な恐怖を感じる。そんな相手が、ドア一枚を隔てた先でしつこく居座ったのだ。その状況で、頑張って耐え続けた凛恋は凄い。


 ゆっくり顔を上げた凛恋が無言で両目を優しく閉じて、俺はその凛恋の頬に手を添えながらキスをした。キスを受けた凛恋は、背伸びをして俺のキスに応えるだけではなく俺に唇を押し付けてくれる。


「好きっ……凡人……大好きっ……」


 息継ぎのために唇を話す度に、凛恋が好きを何度も何度も重ねてくれる。重ねなくても凛恋の想いは伝わっているのに、凛恋は丁寧に想いを紡いで伝えてくれる。


「――ッ!?」


 急に凛恋に体を押されて壁に押さえ付けられる。そして、唇を離した凛恋が俺を涙で潤んだ瞳で見上げた。


「凡人……」


 俺を壁に押さえ付ける凛恋は、俺の胸に自分の胸を押し付け、指を絡めて俺の手を握る。密着する体も絡んだ手も、まだ小刻みに震えている。


「ご飯作るね……」

「今日は無理しなくて良い。カップ麺でも何でも――」

「いつも通りが良い。いつも通り凡人と私の作ったご飯を食べて一緒にお風呂入って一緒に寝たい……」

「じゃあ、一緒にやろう。俺が料理を手伝うと足手まといだけど」

「そんなことない。二人暮らしを始めてから、凡人も料理が出来るようになってきたじゃん。それに、私は凡人と一緒に料理出来るのが楽しいから。今日は鮭の切り身の塩焼きだから、料理ってほどでもないけどね」


 凛恋は微笑む。その笑顔は頑張った笑顔だった。でも、凛恋が笑いたいと思って浮かべた笑顔でもあった。

 俺は凛恋に笑っていてほしい。凛恋にずっと幸せを感じていてほしい。その力に俺はなりたいし俺がならなきゃいけない。


「……凡人はさ、インターンのこと平気?」

「平気じゃない。素直に編集部に行けなくなることは寂しかったし、会社の決定だとしても理不尽だって思った。俺に送り付けられた手紙の件で警察が月ノ輪出版に事情を聞いた直後だったし、厄介払いをされたんだと思う。でも、だからって俺の人生が終わるわけじゃないし、俺の大切な人ともう二度と会えなくなるわけじゃない。俺は、凛恋が居れば前を向いて歩けるから。だから、凛恋と一緒に前を向いて頑張る」

「私も凡人とならどんなに辛いことがあっても頑張れるよ」


 はにかんだ凛恋は俺の手を引いて小首を傾げた。


「あなた、一緒に料理しない?」

「新婚ごっこか?」

「ごっこじゃないし、予行練習だし!」

「ごめんごめん。一緒にやろうか」

「うん!」


 嬉しそうに返事をした凛恋に連れられて、俺は凛恋と一緒に夕飯の準備をする。夕飯の準備をしている間、凛恋は嬉しそうに鼻歌を歌っていて、その心の余裕が出たことに俺はホッとした。


 一緒に作った夕飯を食べて一緒に風呂に入る。その、いつも通りの二人だけの楽しい時間を過ごして、俺は和室にいつも通り布団を敷く。すると、後ろから凛恋が俺の背中に抱きついて、後ろから俺の頬にキスをした。


「凡人。お酒飲まない? この前買った残りがあるでしょ?」

「飲もう飲もう」


 凛恋の提案に乗って、居間でテレビを垂れ流しにしながら凛恋が持ってきた缶チューハイを開けて飲み始める。

 凛恋は炭酸飲料が元々好きなこともあり、アルコール飲料になっても全く飲むことに躊躇う様子がない。ただ、一気飲みをするということは当然していない。


「えへへ~ここ座っちゃおー」


 凛恋は缶チューハイを持ったまま、あぐらを掻いた俺の足の上に座る。風呂上がりでぽかぽかと温かい凛恋の体に手を回すと、凛恋は俺が回した手の上に自分の手を重ねる。


「もう、大学二年の秋か~。つい最近大学生になったばかりだと思ってたけど、結構早かったな~」

「学生で居られるのも、後二年だな」

「凡人は学生で居たい?」

「社会人になったことはないけど、学生で居られるのは今だけだからな。何か今のうちにやらなきゃいけないことがないのかなって思うことはある。もちろん、ずっと学生のままで居たいなんて思わない。就職決めて社会人にならないと凛恋と結婚出来ないし」

「ごめんね」


 俺の体に背中を付けてもたれ掛かっていた凛恋が、後ろを向いて俺の首に手を回しながら謝る。


「凡人にだけ就職させて、私は――」

「その話は何度目だ? 毎回言ってるだろ? 俺は凛恋に家に居てほしいんだ」

「それはそうだけどさ……やっぱり就職してお金を稼ぐって大変じゃん。インターンをしてる時でも大変だったのに、就職して本格的に仕事を始めたらもっと凡人が大変になる」

「その代わり大学に通う必要もなくなるんだし、凛恋のためならどんな苦労だって大丈夫だ。インターンをしてても、家に帰って凛恋が笑顔でおかえりって出迎えてくれて、それだけで疲れが吹き飛ぶんだ。だから、凛恋は家に居て俺の帰りを待っててほしい」

「凡人は私にはもったいないくらい格好良過ぎ」


 凛恋は、俺が凛恋の言葉を否定する間も与えずに唇を重ねる。そして、唇を重ねながら空になった缶チューハイの缶をテーブルの上に置き、ゆっくり俺の両肩を押して床に押し倒した。

 押し倒された俺は、柔らかい凛恋の唇の感触を確かめるために下から凛恋の唇を貪るように唇を押し付け返す。それに負けないくらい、凛恋も俺に唇を押し付けてきた。


 酒は飲むとストレスを解消してくれる。たとえ、それが酒に酔ったその場凌ぎのものでも、凌げるのと凌げないのでは違いがあり過ぎる。

 俺は酒に酔って、インターンを切り上げられたモヤモヤや凛恋を傷付けた西に対するイライラを緩和してもらう。そして、凛恋は西から受けた恐怖を酒に酔って緩和してもらえている。それはとても重要なことで、俺は凛恋の心の痛みを和らげてくれた酒に感謝した。でも、酒には副作用がある。


 酒を飲むと、いつもよりもずっと簡単に、理性のたがが外れやすくなる。だけど、それも、その酒の副作用さえも……。

 俺達の心にあった負のもの達をその場凌ぎに掻き消してくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る