【二〇八《凝固までのプロセス》】:二

 お金もなければ社会システムを変える権力も持っていない、ただの大学生の俺が、社会問題になっている大きな物事をがらりと変えられるわけがない。

 どうすれば良いのだろう。そうまた考えが迷う頃、俺は刻雨と刻季の分かれ道に戻ってきていた。そして、今度は迷わずに刻雨の方向へ歩き出す。


 転学をしてから俺は凛恋と同じ学校に通えるようになって、刻季よりも学校を楽しいと思えるようになった。でも、それは刻雨で出会った真弥さんという先生の存在が大きかった。


 刻季では、大部分の教師が俺を知らぬ存ぜぬという態度で放置したり、腫れ物に触れるように接したりしていた。中には、俺という存在を端っから否定していた教師も居た。そんな、人として全く尊敬も信頼も出来ない人間ばかりで、教師という存在に一ミリの期待も持っていなかった俺は真弥さんと出会った。


 真弥さんはどんな生徒に対しても近くに居ようとした。それは、もしかしたら本来の教師としてあるべき姿ではなかったのかも知れない。でも、直接接する生徒側からすれば、真弥さんの存在は最も教師として素晴らしい教師だった。

 生徒と一緒に笑い、生徒と一緒に泣いて、生徒と一緒に怒る。ずっと生徒の立場に立って物事を考えて一緒に経験してくれる。そんな真弥さんに助けられたのは俺だけではない。


 それに、刻雨で俺は沢山の友達に出会えた。今でも交流が盛んな友達が多いのはやっぱり刻雨の同級生だ。でも、それは単に在籍していた期間が刻季より長いだけじゃない。

 俺は刻雨の友達と沢山の経験をした。地獄の歩こう会を踏破し、運動会や文化祭を一緒に楽しんだ。修学旅行にも行ったし、何の変哲も無い放課後にみんなでただ話すだけの集まりをやった。


 全てのことに楽しいことばかり含まれていたわけではない。でも、思い返しても友達と一緒というだけで楽しい思い出だと思えるのだ。もちろん、それには彼女である凛恋の存在も大きい。


 中学時代と刻季高校に入学したばかりの俺は、自分の高校時代がこんなにも楽しい思い出に彩られるとは思ってもいなかった。

 そういう経験があるからこそ分かる。人生では、縁に結ばれて出会う人の大切さが。出会う人が良い人なのか悪い人なのかで、その人の人生は大きく左右される。

 だから、夏美ちゃんの人生を左右する、夏美ちゃんに出会う人の良し悪しは重要なのだ。


 里親に悪い人が存在するのは、その夏美ちゃんのこれからの人生に不安要素を作ってしまう。


 俺は辿り着いた刻雨高校の外から、見慣れた校門越しに校舎を見詰める。卒業して二年経っても、俺の記憶の中にある刻雨高校だった。

 過去を遡ってみれば何かのヒントになるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて出てきたが、やっぱり俺の人生を振り返っても答えに繋がるものは何もない。でも、何も考えないよりも頭の中で方向性は分かってきた。


 夏美ちゃんのような境遇の子が安心して生活するには、やっぱり今の環境に変化が必要なのだ。それは、施設が良くなるとか支援の輪が広がるのもそうだが、一番はこの世の中に生きている全ての人達の意識改革が必要だ。


 どんな分野でも言えることだが、人が無関心になることは後回しにされることが多い。関心が高く、大きく賞賛と同じくらい批判も出る分野でないと人は変革しようとはしない。批判が出ないのなら問題ないだろうと現状におごってしまう。だが、沢山の批判が、現状におごれないほど無視出来ないくらい沢山の批判が起きれば、誰だって無視出来なくなるし、変革のために動かざるを得ないと思わせられる。


 物事をもっとより良くするには十分な関心と批判が必要だ。あとは、どうやって十分な関心と批判を起こすかだ。

 俺がボーッと突っ立っていると、ポケットに入れたスマートフォンが震える。そのスマートフォンを取り出して画面を見ると、真弥さんから電話が掛かってきていた。


「もしもし」

『校門の前で立ってどうしたの?』

「ちょっと考え事をしてて」

『入ってくれば?』

「いや、それはマズいでしょ。いくら卒業生でももう部外者ですから」

『凡人くんは私の大切な教え子だよ? その教え子が悩んでるんだから、相談くらいには乗らせてほしいな。下まで下りて行くから待ってて』

「いや、わざわざ――……切れた」


 電話が切れたスマートフォンを見て、俺は小さくため息を発する。

 端から、俺の中だけで答えが出るとは思っていない。誰かの話を聞いたり、何かからヒントを得たりしなれけばきっと無理だと思っていた。だから、真弥さんと話すことは答えを出すためのヒントになると思う。


 校門を潜(くぐ)って中に入ると、校舎の入り口に立っている真弥さんと目が合った。

 刻雨高校も今は夏休み中で、学校に来る生徒は部活動生くらい。それに、やっぱり雨が降っているせいか学校の敷地内は静かだった。


「凡人くん、こんにちは」

「真弥さん、お久しぶりです。この前はお世話になりました」

「ううん。凡人くんが元気そうで良かった。スリッパを履いて中に入って」

「はい」


 傘を入り口の傘立てに立て、真弥さんが用意してくれた来客用のスリッパを履くと、俺と真弥さんは自然と音楽準備室に向かって歩き出す。


「今度みんなでご飯に行こうよ。やっとみんなとお酒を飲めるようになったし」

「まだ凛恋は一九ですけどね」

「そっか。八戸さんはまだお酒飲めないんだ~」


 歩きながら世間話をすると、真弥さんは残念そうにうな垂れて小さくため息を吐いた。でも、すぐに顔を上げるとニッコリ笑った。


「でも、みんなでご飯食べるのは楽しみ。やっぱり、一年で夏と冬くらいしかみんなと会えないし」

「パリ土産はその食事の時に持って来ますね」

「ありがとう。私も切山さんのところに行きたかったな~」

「向こうで就職することになるんですから、萌夏さんに会いに行けるチャンスはありますよ」

「そうだよね。凄いよね、フランスに留学して向こうのプロから声を掛けられるって。高校時代もお菓子作りが得意なのは知ってたけど、いつも明るくみんなの中心に居る印象が強かったから、切山さんがパティシエールになるなんてあまり思ってなかった。てっきり、実家の喫茶店を手伝うのかと思ってた」

「元は実家の純喫茶キリヤマで自分のケーキを出したいって思いがあったみたいです。今は、もっと広い世界を見てますけどね。自分が働く店を、フランスで一番の店にするって言ってましたし」

「きっと切山さんなら出来るよ。頑張り屋だから」


 階段を上りきると、真弥さんは俺の前を歩き出して音楽準備室のドアを開ける。そのドアを抜けると、見慣れた音楽準備室内が見えた。


「懐かしいですね」

「うん。ここで一緒に毎日お昼を食べたよね。座って座って」

「ありがとうございます」


 座り慣れた椅子に座ると、真弥さんがいつもの席に座って俺を見る。


「これ、ありがとう」


 右手の小指にはめたピンキーリングを見せて真弥さんが微笑む。俺が、真弥さんに助けられたことのお礼にプレゼントしたものだ。


「これのお陰で噂も止まったの。みんな私にアクセサリーをプレゼントされるような人が出来たと思ったみたい」

「そうですか。まあ、真弥さんに喜んでもらえて良かったです」

「それで? 凡人くんが考えてたのは、前に話してた児童相談所が保護してる高校生の女の子のこと?」

「はい」


 真弥さんには、夏美ちゃんと出会ってからのことはメールや電話で話している。だから、大体の俺の置かれている事情は知ってる。


「夏美ちゃん本人については踏み込み過ぎてると思うんです。それで、もっと広い、夏美ちゃんと同じように施設や里親の元で生活しなければならない子達のために何か出来ないかと思って」


 俺がそう言うと、真弥さんは優しく微笑んだ。


「個人に踏み込まない選択肢を選んで、個人から多数に目を向けるなんて凡人くんらしいね。普通、個人でも大変なことを更に広げようとは思わないよ」

「大変なのは分かってます。でも、今の児童養護施設の現状や里親制度には不十分な点が多々あります。それをみんなに知ってもらって関心を持ってもらって、制度の不十分な点を批判してもらえればきっと変わると思うんです」

「そっか。批判して変えさせようって考えるのも凡人くんらしいね。教師として、正しいとは言いたくないことだけど、悪いことが起こらないと世の中の色々なことは変わらないのは事実だし」

「でも、問題は俺には何もないってことです。俺はただの大学生で、社会に対する影響力はないです。だから、広く制度の不十分な点を知ってもらうのは難しいんです」


「そんなの簡単だよ。凡人くん一人でやらなければ良いんだよ」

「え?」

「えっ? って……凡人くんは一人じゃないんだよ? 八戸さんも居るし赤城さんも居るでしょ? それに何より、私が居る。凡人くんのためなら私は全力で協力するよ。それに、素敵な心を持ってる凡人くんに協力してくれる人は私達以外にも沢山居る。今はインターネットを使って気軽にみんなが情報を発信出来る。それに、凡人くんは情報を集めて発信するプロの現場で働いてるでしょ? そのノウハウはきっと役に立つ」


 パチッとウインクをした真弥さんは、テーブルに肘を置いて手の腕に顎を載せると、俺を見てクスッと微笑んだ。

 俺は刻雨高校時代に、母親の問題が再熱し自主退学を学校側から促された。それを解決出来たのは、俺の現状を沢山の人達に訴えて署名活動をしてくれたみんなだ。それに、マスコミのほとんどが俺に対する批判的な報道ばかりをする中、正しく俺の現状について報道してくれた新聞社もあった。たった一社だったが、それでも正しい情報が発信されたことで良い影響が出たのは間違いない。


 大学に入ってからも、俺は母親関連で苦しめられた。でも、それを助けてくれたのは報道に踊らされず正しい情報を信じてくれたみんなだし、多くの人が俺に批判的な立場の中、俺を擁護してくれた真井さんだ。他の人には申し訳ないが、おそらく真井さんくらい影響力のある人じゃなかったら、俺は今もまともに大学へ通えてなかったかもしれない。


 真井さんは芸能人という立場だから、夏美ちゃんに関して協力を頼むのは無理そうだが、真弥さんの言うとおり俺の周りには沢山俺へ協力してくれる人が居る。その人達に協力を仰げばいい。


「具体的な方法は俺が――」

「何言ってるの? それもみんなで考えれば良いでしょ? いくら凡人くんが頭が良いからって、何でも自分でやる必要はないんだから」

「いや……でも、今回のことは俺が勝手に――」

「凡人くんの自分勝手なら、私は巻き込んで良いよ」


 真弥さんは微笑みながらそう言う。それは、凄くほんわかとしている温かな笑みで発せられた優しい言葉だった。でも、決して柔(やわ)だとは感じない強い芯の通った言葉だった。


「私の知らないところで凡人くんが追い込まれて辛い思いをするくらいなら、私は何でも巻き込んでほしい。私は凄く頭が良いわけでもないし何でも出来る人間じゃないけど、凡人くんを守りたいって気持ちは誰よりも持ってる。八戸さんにも負けてない」

「俺は――」

「でも、私一人だけじゃ限界もあるし、みんなに協力してもらおう。そういう時の友達だよ」


 真弥さんは俺の言葉を聞こうとしなかった。そして、真弥さんは言葉にしなくても、俺に言葉を重ねさせようとしなかった。


「じゃあ、早速みんなで予定を立てないとね」

「予定?」

「そうだよ。凡人くんの悩みを解決するための合宿を開くの。海と山、どっちが良いかな~」


 ほんの少しだけ、大人の優しさと心強さがあった真弥さんは、一瞬にして無邪気な子供のような雰囲気に変わる。

 俺はその変化に置いて行かれるように、真弥さんへお礼を言うタイミングも置いて行かれる。でもきっとそれも、真弥さんの大人の優しさなんだと思う。

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