【二〇八《凝固までのプロセス》】:一

【凝固までのプロセス】


 縁側にあぐらを掻き、空から雨粒を落とす灰色の雲を見上げる。視線を下ろすと、俺の足の中に伏せたモナカが俺の顔を見上げていた。

 モナカが家に来る前、俺は特別犬が好きなわけではなかった。まあ、犬嫌いというわけではなかったが、今みたいに自分が足の間に犬を載せて背中を撫でるようになるなんて思っていなかった。


 俺の足の間に伏せるモナカは、本当に可愛いやつなのだ。

 俺が縁側に座っていると、黙って俺の足の間に入ってきて目を瞑ってリラックスする。いくら今が夏の日差しが厳しい晴天の日ではなく、空を雲が覆っている雨天だとしても夏の昼間はそれなりに暑い。そんな日に、こんな毛玉のような温かい生き物が纏わり付いてきたら暑くて仕方が無い。でも、モナカだったら「仕方がないな」と思って許してしまう。


 モナカの可愛いところは見た目ではなく、その性格と行動なのだ。ワンと元気良く吠えるわけでもなく、黙って俺に近付いて足の間に入ってくる感じが、甘えたがりの弟を持ったような錯覚を覚える。

 手触りの良い背中を撫でていると、心が安らいで危うく眠ってしまいそうなくらい気が緩む。それはきっとモナカだけではなく実家に居るからという安心感からなのだろう。


「モナカは凄いよな。そうやって足の間でくつろぐだけで人のことを幸せに出来るんだから。俺も、モナカみたいな特殊能力が欲しいよ」


 ついモナカのことが羨ましくなってそう口にしてしまう。

 俺にモナカみたいな特殊能力があれば、きっと俺の周りの人はもっと幸せに暮らせていると思う。それを思うと、本気ではないが淡い悔しさが浮かんだ。


「ごめんな。散歩に連れて行けなくて」

「ワンッ!」


 俺が謝ると、モナカは元気良く吠える。俺は犬語は分からないが、きっとモナカは「気にするな」と言ってくれているのだと思う。

 モナカの背中を撫でる手を止めて、俺はモナカの体に手を回して足の上から退かそうとする。しかし、俺が手を回す前にモナカは自分から俺の足の間から抜け出し、俺の顔を見上げた。本当に、モナカは賢い子だ。


「ありがとう、モナカ」


 俺から離れて縁側に伏せたモナカの頭を撫でると、俺は立ち上がって玄関に向かい家の外に出る。

 ジャンプ傘を開いて雨粒が傘の上で弾ける音を聞きながら、俺は家の前の細い道を歩き出す。


 凛恋に告白してもらい俺が凛恋に告白した道を歩きながら思う。栞姉ちゃんの言った分かりにくい形の助け方について。

 分かりにくい形というのは、きっと直接的ではなく間接的な何かを指している。その間接的な何かが栞姉ちゃんの中に具体的な案としてあるのか、漠然としたものとして俺に提示したのかは分からない。でも、どちらにせよ俺の答えは俺自身が具体的な形にしなくてはいけない。


 間接的な助け方として真っ先に思い付いたのは、良い児童養護施設や里親を探すことだ。でも、それは俺が自分で否定した。そこまでするのは、踏み込み過ぎているのではないかと。それに、やっぱり施設にしても里親にしても、生活していくのは夏美ちゃん本人だ。だから、そういうことは俺ではなく夏美ちゃん本人が決めることだ。もちろん、夏美ちゃんの選択肢を増やすという考え方なら良いことなのかもしれない。でも、俺はやっぱり施設や里親については素人過ぎる。良い施設か良い里親かの判断なんて、綺麗な建物を持っているとか、職員や里親本人が人が良さそうという判断基準しか持ち合わせていない。人はいくらでも外面を偽れるし、そういう見掛けだけでしか他人を判断出来ない状況では良い施設と里親を見付けられるとは思わない。


 俺は考えを一度振り払うために頭を左右に振って小さく息を吐く。一度一つの方向から考え出して悩み出すと、その方向からしか物事を考えられなくなって柔軟な考えは出来なくなる。新しいことを考え出すためには、一度頭の中をまっさらな状態にしなくてはいけない。


 俺は歩き出して分かれ道の前で足を止める。その道は、右へ行けば刻季高校の方向へ行く道で、左へ行けば刻雨高校の方向へ行く道。使い慣れている道としては、左の刻雨高校へ向かう道だ。でも、俺は右の道を選んだ。


 刻季高校へ通っていた期間は一年ほどで、転学した刻雨高校よりも短い。でも、俺の過去の中では古い方だ。そして、俺にとっては微妙な記憶のある過去でもある。


 俺は刻季高校に入学して間もなく栄次と再会し、それから凛恋と出会って凛恋と両思いになれた。でも、母親のことで通学し続けることが出来なくなったのも刻季高校だ。良い過去と悪い過去が混在する象徴のような刻季高校は、俺にとっては本当に微妙な心境になってしまう場所だ。だけど、強く印象に残る経験が多い場所であるのは確かだ。


 自分の過去を遡ったからと言って、夏美ちゃんのために出来ることが浮かぶとは思えない。だけど、何かがある気がした。

 人は忘れる生き物だ。良いことも悪いことも、時間が経てば忘れてしまうし忘れることが出来る。だから、俺が忘れていることに何かがあるのかもしれないと思った。


 刻季高校に通っている時、刻季よりも早く学校が終わる刻雨生だった凛恋が刻季までわざわざ来てくれて、一緒に帰った道を遡る。付き合ってからは手を繋いだり腕を組んだりして歩いた。でも、付き合う前は並んで他愛もない話をして歩いた道だ。


 付き合う前の俺は、今みたいに凛恋へ話を自分から振るような人間じゃなかった。毎回凛恋が笑顔で学校であった楽しい話や、俺のことを聞いて会話を作り出してくれた。付き合う前の、凛恋と出会ったばかりでまだ友達に成り切れていなかった俺は、そんな凛恋のことを偉いと思っていた。


 誰からも嫌われるような人間の俺に、何一つ嫌な表情を見せずに話を盛り上げようとしてくれている。そんな凛恋は、やっぱり当時の俺には偉く見え、そして凄く優しく見えて……凄く申し訳なかった。


 友達である希さんの恋を応援するためだとしても、俺なんかと会話を盛り上げなくてはいけない。そういうことを何一つ俺に嫌な感情を見せずに出来る凛恋のことを偉い、凄いと思いながら、そんなことを自分がさせてしまっていることを申し訳なかった。当時の凛恋の気持ちを知っている今の俺はそうは思わない。でも、あの時の俺はそんな非現実的な現実を知ることは出来なかったのだ。


 俺に対して好き放題言う刻季生に凛恋が怒りを見せてくれた道を過ぎて、俺は久しぶりに見る刻季高校の校門に立つ。そこで、一瞬校内にある不思議なポーズの像を目が捉えた後、刻季高校という看板の校門を直視して小さな吐き気を催した。


 俺の母親が逮捕されて、それが世間一般に知られ学校中で噂になった後、俺は顔と名前が一致しないような男子生徒数名に拉致されて酷い暴行を受けた。それも辛い過去だが、そこから鮮明に俺の母親のことを思い出す。

 思い返して思うのは、やっぱり辛かったということだ。当時から時間が経ったからこそ、そう素直に思えた。


 当時、母親から向けられた言葉。それは、今辛い立場にある夏美ちゃんが母親から向けられた言葉と同じものだ。だから分かる。夏美ちゃんは今、きっと人生で一番苦しい状況に置かれていることが。その状況は、時間が経てば経つほど心を酷く落ち込ませて黒ずませる。


 あの時の俺には凛恋達が居たし、唯一の男の親友だった栄次が背中を押してくれた。戦略的撤退は恥じることではないと。それに、栄次の学校が違っても親友だという言葉に勇気付けてもらった。


 夏美ちゃんにとって、家庭から戦略的撤退をする選択肢が施設か里親だ。でも、凛恋や希さんが居て、栄次を含めた周りの人達が居てくれる保障のあった俺とは違う。施設や里親の元に行っても、一〇〇パーセントの安全の戦略的撤退が出来る状況じゃない。


 俺は元来た道を引き返し、刻季高校から離れる。

 夏美ちゃんが安全な戦略的撤退をするためにはどうすれば良いだろう。俺は、それを考えながらまた歩き出す。


 施設の設備や物資が潤沢で、職員や里親が親身になって夏美ちゃんに接してくれる人ばかり。そういう条件が揃っていれば、きっと施設に行っても里親の元に行っても夏美ちゃんの戦略的撤退は成功すると思う。だけど、それは言葉で表すだけでは分からないハードルの高さがある。


 随分前に漫画の登場人物を名乗った匿名者が、児童相談所にランドセル一〇個を寄付したことがあった。それは広く全国ニュースで取り上げられ、それを皮切りに一時的に全国的に同じように児童相談所を含めた児童福祉関連の施設に寄付が送られることが増えた。しかし、それは一過性のもので今はニュースで取り上げられるほどの寄付はない。

 そのニュースの時から話題になっているのは、寄付を行った人達の素晴らしい行動ばかりだ。でも、それと同時にちゃんと報道されていたこともある。

 児童福祉関連の施設が直面している問題。資金不足のことを。


 児童福祉施設は国が運営したり、都道府県、市町村が運営していたりもすれば、社会福祉法人が運営していたりする。

 国や都道府県、市町村が運営する場合はそれぞれの予算から運営費が割り当てられるし、社会福祉法人も色々な面から金銭的なフォローはあるらしい。でも、現実的にはお金が足りないのだ。


 栞姉ちゃんが最初に居た施設は、会社を持っている人が運営をしていた施設だった。もちろん、社会福祉のための施設だから国から助成金はあったはずだ。でも、現実的に国からの助成金だけでやっていけるわけもなく、運営者の収入から不足分の運営費は出されていた。だが、それは施設の運営者の代が変わってから運営に当てている資金を削減するために運営が停止されてしまった。つまりは、運営停止をやむを得ないくらい施設運営にはお金が掛かるということだ。


 もちろん、最初に寄付をした人も、その人に続いて寄付をした人も素晴らしいことをしたと思う。だけど、現実にある問題は一度や二度だけの寄付では解決しないのだ。それに、全国に存在する施設全てに寄付が行われたわけではない。


 国の助成だけではやっていけず寄付を必要としている側は多い。しかし、寄付をする側はどれだけ話題になっても少な過ぎるのだ。

 それに、施設の運営に必要な資金不足は、施設で働く職員の数にも影響している。


 沢山の子供を預かる大きな施設になると、一人の職員が平均して一〇人の子供の面倒を見ていると言われている。実際に俺が施設で働いたことがあるわけではないが、一人で一〇人の子供の面倒を見るのは簡単なことじゃないと思う。それが、中学生や高校生くらいのある程度のことは自分で出来るような年齢の子供なら可能かも知れない。でも、施設に入る子供達はそういう年齢の子供ばかりではない。でも、施設の運営資金が不足しているのだから、職員の人件費を削らなければいけない。それに、やっぱりなり手が少ないという問題もある。それは、児童養護施設だけではなく、保育所でも問題になっている。


 児童養護施設でも保育所でも働くのは保育士の資格を持つ人だ。全国で児童養護施設と保育所の数を合わせれば膨大になる。でも、その数に対して保育士の数が足りないのだ。それも、児童養護施設も保育所も運営資金が掛かって人件費を絞らないといけなくなり、そうなると保育士の人達は激務に対して十分な給与を貰えなくなる。そうなると、誰だって児童養護施設や保育所で働こうとは思わなくなる。


 どっちにしても、やっぱり根本にあるのはお金の問題なのだ。施設側の不安を解消するには、どうしてもお金というネックが存在する。

 ただ、児童養護施設と違い、里親はお金が足りないという問題ではなく、逆に手厚い補助金が問題になっている。


 俺は、里親という存在がほんの少しの国からの助成金でほとんどボランティアでやっている人達なのだと思っていた。でも、少し里親制度について調べただけでその認識は変わった。


 里子一人を養育している里親に支払われる年間を通じた様々な助成金の総額は約二〇〇万らしい。それは、明らかに多額の助成金だ。もちろん、その二〇〇万をちゃんと里子のために使って大切に育ててくれる里親も沢山存在する。でも、里親の中にはそうじゃない人も居るらしい。


 二〇〇万の助成金は里子を育てるためのお金だが、それを里子には使わず自分のために使い込んで、ネグレクト――育児放棄をする里親も存在するのだそうだ。それは確実に、年間二〇〇万という高額な助成金が影響している。

 二〇〇万もあれば、里親には里子を育てるということに金銭的なハードルは低くなる。それは、里親になってくれる人の絶対数を増やすのには必要なことなのだと思う。児童養護施設の問題でもそうだが、やっぱりお金の問題はどの方面からも付きまとう問題だ。でも、その問題を解決するための潤沢な助成金を狙って、本来なら里親になるべきではない薄い覚悟の人間が里親になってしまっている現状もある。


 夏美ちゃんが戦略的撤退をする先には、そんな不安が付きまとっている。それらが、一〇〇パーセント安全だと断言出来ない要因なのだ。それを解決させることが出来れば、夏美ちゃんはより良い環境で生活していくことが出来ると思う。だけど、問題は何度も思ったことに収束していく。


 何もない俺にその問題を解決出来るわけがない、と。

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