【二〇二《たゆたえども沈まず》】:二

 ハンムラビとハムサラミだと、ハとラしか合ってない。しかし、顔が真っ赤というところを見ると冗談ではなかったらしい。


「でも、凛恋がハンムラビ法典に興味があったとはな」

「だ、だって……知ってるのは希に言われちゃったし」

「何の勝負をしようとしてるんだよ。でも、ハンムラビ法典も中高の社会科で何度も出てきてるし一度は見ておきたいよな」

「でしょでしょ?」


 名前を間違えて小さくなっていた凛恋も、俺が同意すると自信を増したのか胸を張る。


「凡人くんは何かみたいのある?」

「そうだな~モナリザもミロのヴィーナスも見たいしハンムラビ法典も見たいけど、グランド・オダリスクが気になるな」

「それって、さっき言ってた間違いの手紙に書いてたやつ?」


 俺の話を聞いていた凛恋が俺の腕を抱き締めながら首を傾げる。その凛恋に、俺は笑顔で頷く。


「ああ。まあ、グランド・オダリスク自体は有名な絵画だし、名前を聞かなくても見たと思うけど」

「じゃあ、有名どころを回ることにしよっか。他の展示品は歩きながら見る感じで」

「ああ。萌夏さんよろしく」


 俺達は萌夏さんの先導でルーヴル美術館の中を歩き始める俺は、他の来場者とすれ違いながら周囲を見る。

 中は白を貴重としていて全体的に明るく、展示されている絵画や彫像が際立って見える。


「やっぱり一番人気ね」

「凄い人だな。凛恋、少し離れようか」

「ううん。凡人が居るから大丈夫」


 人で混み合うルーヴル美術館の中でも特に混み合うモナリザが展示されている場所のはずなのだが、本当に人が多過ぎて凛恋達より身長が高い俺も、モナリザの上部も見えない。

 モナリザの前に出来ている人混みの最後尾に並んでいるとどんどん順番待ちが進み、モナリザの周囲を警備する警備員が見える。そして……。


「凡人……凄いね……」

「ああ……」


 半円状に立てられた柵の遥か向こうに更に小さな半円状に立てられた柵がある。そして、その更に奥の壁際に、頑丈そうなガラス製の保護ケースに入っているモナリザが見える。

 遠い。距離もだが、精神的にも遥か向こうにあるように見える。だけど、遠いのに大きいと感じた。


 教科書で見ているとかテレビで見ている有名な絵画、そういう潜在的な意識からなのかもしれない。でも、目の前から来るプレッシャーに押し潰されそうになる。

 もしかしたら、見る人によっては遠いと感じるのかもしれない。でも、俺からは丁度良い……いや、もっと遠くても良いと思った。今以上近付いて、もしモナリザに何かあったら……そんな現実的には起こり得ない怖さを感じた。だから、今以上近付いたら、モナリザという存在を認識出来ないくらい冷静で居られなくなる。


「何か、絵のことなんてよく分からない私でも圧倒されちゃう……」


 俺の手を握る凛恋の手が震え、その震えを止めるために凛恋が俺の手を強く握った。


「色々芸術的に評価が高い作品だけど、昔はそれほど有名な絵画ではなかったらしいよ?


 もちろん、作者のレオナルド・ダ・ヴィンチはその頃から有名な画家だったのは確からしいけど」


「えっ? じゃあなんで今は有名になってるの?」


 モナリザを見ながら言った希さんに凛恋は首を傾げて尋ねる。それに、希さんはモナリザから目を離して凛恋に微笑んだ。


「モナリザは盗難にあったんだって。その時に、パブロ・ピカソが盗難事件に関わったんじゃないかって尋問を受けたの。ピカソは事件に無関係で、犯人はイタリア人だったらしいけど。それで、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いて、ピカソが盗難を疑われた絵画っていうのが影響したみたい」

「フランスの革命家、ナポレオン・ボナパルトもモナリザを所有してたって記録もあるみたいだし、それも人を引きつけた理由かもな」

「希も凡人も物知り!」

「俺のは旅行に来る前に集めた前知識の中の一つだよ」

「でも、綺麗な絵だなってのは分かる。それに、みんなで一緒に見ているとすっごく楽しい」


 嬉しそうにはにかんだ凛恋の顔を見て、俺も思わず顔がほころぶ。

 凛恋の感想は、芸術の評論家達が聞けば眉をひそめる感想なのかもしれない。でも、俺はそれで良いと思う。

 使われている技法や作者の意図、積み重ねてきた歴史ももちろん絵の評価に入る。だけど、一番は見た人がどう思ったかだと思う。


 モナリザを見た凛恋が感動し楽しいと思ったのなら、それだけでモナリザは凛恋にとって価値のある名画なのだ。

 時間を掛けてモナリザを鑑賞した俺達は、館内を歩いて通りながら興味を持った展示品を見て回った。もちろん、ミロのヴィーナスとハムサラミ――ではなく、ハンムラビ法典も見た。


「次は凡人が見たい絵だっけ?」

「そう。グランド・オダリスク」


 俺が凛恋に言いながら、グランド・オダリスクが展示されている展示室七五に入る。すると、俺の視界が真っ暗になった。そして、俺はそのまま腕を誰かに引っ張られる。


「ちょっと! なんて絵を見ようとしてるのよ!」


 視界が晴れると、俺は通路に連れ戻されていた。そして、正面には真っ赤な顔をした凛恋が立っている。


「なんて絵? 普通に有名な絵画だろ?」

「女の人の裸じゃん! 昨日も一昨日も今朝もいっぱいエッチしたのにまだ足りなかったの?」

「は? いやいや、違うって」


 凛恋に怒られて、俺は冷静な目を向けて凛恋に手を横に振って否定する。流石に、俺もそこまで欲求不満じゃない。


「そういえば凛恋って、凡人くんにエッチなビデオも本も禁止してたんだっけ」


 クスクスと笑いながら戻って来た萌夏さんが、凛恋にからかうような目を向ける。すると、凛恋が真剣な表示で萌夏さんに視線を返す。


「凡人が私以外でエッチな気持ちになると悔しいじゃん」

「どういう理論よ、それ。ただの絵よ?」


 俺が凛恋の手を引っ張って再びグランド・オダリスクの前に戻ると、凛恋が唇を尖らせて俯く。


「エッチなこと考えたらペケ一万ずつ増やすから」

「じゃあ、凛恋はペケ一万だな」

「なっ、なんでよ!」

「凛恋が真っ先にエロいこと考えただろ」

「そ、それは……」

「さて、次に行こうか」

「え?」


 俺が手を引いてグランド・オダリスクから離れると、凛恋がキョトンとした顔を向ける。


「見たい理由は有名な絵画で手紙に書いてあったってことくらいだから、サッと見れれば良い。それに女の人の裸ならもっと見たい裸があるし」

「…………それ、私じゃなかったらペケ一億」


 俺は、そうボソッと呟いた凛恋の腰を抱き寄せながら凛恋の耳元で囁く。


「じゃあ、ペケは回避出来そうだ」




 ルーヴル美術館を中心として観光を終えた俺は、萌夏さんを寮に送り届けて泊まっているホテルへ戻る。

 一人で通り沿いの歩道を歩いていると、目の前に白人の幼い男の子が駆け寄って来た。その白人の男の子は、俺に両手で封筒を差し出す。それを見て、俺は眉をひそめた。その封筒は、今朝俺に間違いで届いた封筒と同じものだったからだ。


 白人の男の子は早く受け取ってほしい様子で、俺に流ちょうなフランス語で捲し立てる。それに負けて俺が封筒を受け取ると、男の子は走って人混みの中に消えて行った。

 俺はその場で封筒を開くと、今朝見た物と同じ便せんが入っていた。でも、今回は読めないフランス語ではなく、日本語の文章が書かれていた。


「ごきげんよう、エリック。ルーヴル美術館はどうだった? その奇形で骸骨のように不気味な顔でも入れたなんて運が良い。美しい芸術作品の数々に囲まれて恥ずかしくなり、自分が存在することの愚かさを目の当たりに出来たのだと私は確信しているよ。ただ、グランド・オダリスクは良かっただろう? 君みたいにクリスティーヌに醜い情欲しか抱いていない奇形の怪物には、あの奇形な裸体が相応しいと思ったんだ。私はこの美しいパリから、君が消えてくれることを心から願っている。ラウル・シャニュイ、か……」


 俺は手紙を読み終えて考える。二回も間違いで手紙が届くわけがない。それに一回目のホテルの部屋当てではなく、今回は直接俺に手渡して来た。多分、俺に手紙を渡した白人の男の子は誰かに使われたのだろう。


 間違いなく俺だと分かって、俺を目標にしてこの意味の分からない手紙を送ってきているやつが居る。しかし、それが誰なのかも分からないし、何の目的かも分からない。それだけに背筋に冷たさを感じる不気味さがあった。


「これは……」


 俺は封筒と便せんを鞄に仕舞おうとした。しかし、便せんを取り出した封筒にまだ厚みがあるのを感じて、俺は封筒の口を広げる。すると、中には二枚の紙が入っていた。

 一枚は、明日の朝一で出るパリから日本へ向かう直行便の航空券。そして、もう一枚は何かよく分からないフランス語が多いが、中央に二万ユーロという金額が書かれている紙。二万ユーロと書かれている紙の意味は分からないが、航空券の意味はさっきの便せんの内容から分かった。

 明日パリから日本に帰れと言っているのだ。


「……萌夏さんか」


 俺はそう言葉にして振り返り、視線を萌夏さんの寮の方向に向ける。俺が今立っているパリに、俺と関係がある存在。それは、パリで留学をしている萌夏さんしか居ない。そして、不確かながら萌夏さんから聞いた話に手紙の差出人に疑わしい人物が居る。

 高級ホテルの経営者の息子。萌夏さんに言い寄って拒否されたそのホテル経営者の息子がまだ萌夏さんを諦めていなかったとしたら、俺に手紙を送ってくる可能性がある。


 手紙が送られてきたのは今朝。もし、ホテル経営者の息子が萌夏さんの行動を何かしらの形で監視していたとしたら、きっと見たはずだ。


 路地で萌夏さんが俺にキスをした場面を。そして、その翌朝に俺に一通目の手紙が来た。それは、俺に警告をするつもりだったのだろう。萌夏さんの側に近寄るなと。だとしたら、手紙に出てくるクリスティーヌという女性の名前は、萌夏さんのことを指しているのかもしれない。


 ただ、どうしてそんな分かりづらい方法にしているのかは分からない。だが、そもそも、俺の想像が間違っているかもしれないから、安易に萌夏さんに言い寄ったホテル経営者の息子と考えるのも良くない。


 ただ言えることは、萌夏さんがホテル経営者の息子に限らず、誰かに監視されている可能性があるということだ。

 寮に居れば鍵も掛けられるし、万が一にも危険ということはない。それに、萌夏さんは俺達がパリに滞在し始めてから、毎朝一人でホテルまで来ている。その間に何も無いということは、萌夏さんを監視している何者かは今すぐに萌夏さんに何かをしてくるわけじゃないと思う。


 俺は、手の中にある封筒と便せんを思わず握り潰してしまう。どうして、良い人は悪い人に目を付けられてしまうのだろう、そういう悔しさがあった。

 萌夏さんはもう、内笠の事件で酷い傷を負った。それで更にパリに来ても同級生やホテル経営者の息子から傷付けられた。それなのに、まだ萌夏さんは傷付けられようとしている。


 止めていた足を再び動かし、俺は宿泊するホテルに向かって歩き出す。今日はもう暗くなっている。だから、明日萌夏さんと警察に相談しに行くべきだ。俺が持っている手紙だけでフランスの警察が動いてくれるかは分からないが、ダメ元でも行ってみるしかない。


 手紙から感じた気味の悪さから早歩きになっていた俺は、昨日よりも早くホテルに戻って来られた。そして、昨日と同じようにホテルの正面入り口から中へ入ろうとする。しかし、俺がガラス製の自動ドアに辿り着く前に、目の前に警備員の白人男性が立ち塞がった。


「え?」


 白人男性は両手で俺の動きを制する動きをし、聞き取れないフランス語で俺に話し掛ける。両手を振りながら首を横へ振り、丁寧な手の動きでホテルとは反対側を示す。それはまるで、ホテルへの立ち入りを断られているように見えた。


「俺はここの宿泊客です。通して下さい」


 俺が警備員の男性の脇を抜けようとすると、俺は腕を掴まれ引っ張り戻される。その行動を見て、やはり立ち入りを拒否されているのが分かった。


「通せよ! 俺はここの客だって言ってるだ――ッ!?」


 無理矢理中へ入ろうとした俺は、加勢に来たもう一人の警備員と元々居た警備員に両腕を掴まれ、思いっ切り後ろに放り投げられた。


「うっ……ああっ……」


 固い地面に体を打ち付けた俺は、一瞬息が詰まり背中と腕と腰に受けた痛みに呻く。僅かに上げた視線の先では、白人の警備員が激怒した様子でフランス語を使って俺に怒鳴っていた。俺はその怒鳴り声を聞きながら、凛恋にスマートフォンで電話を掛ける。


『凡人? どしたの?』

「凛恋、今すぐに希さんを部屋に呼ぶんだ」

『え? 希なら今居るけど?』

「じゃあ、今日は希さんと一緒に居ろ。それと、絶対に希さん以外を部屋に入れるな。ホテルの人が来たとしても絶対に部屋の鍵を開けるなよ」

『凡人!? どうしたの? 何かあったの?』


 電話の向こうで凛恋が焦った声で聞き返す。俺の言葉と声から異常を察したのだろう。


「トラブルに巻き込まれたみたいだ。ホテルから立ち入りを拒否された」

『待って! 私が下に――』

「絶対に部屋から出るな。俺は大丈夫だから」


 凛恋の焦った声が涙混じりの声になる。俺はその声に胸を締め付けられながら立ち上がる。


『凛恋!? どうしたの!?』

『希! 凡人がホテルに入れないって!』

『えっ!? ちょっと電話変わって! 凡人くん!? ホテルに入れないってどういうこと!?』

「希さん? ホテルに戻ってきたら警備員に止められて入れなくなった。凛恋と一緒にそのまま部屋に居てくれないか?」

『凡人くんはどうするの?』

「とりあえず、今から近くの警察署に行って助けを求めるよ。警察が調べてくれればすぐに誤解も解けるだろうし」

『……分かった』

「それと、凛恋にも言ったけど絶対に部屋の外には出ないで、ホテルの人間も部屋に入れないでくれ」

『うん……』

「希さんも不安かもしれないけど、凛恋のことを頼む」

『分かった。凡人くんは早く警察に相談しに行って』

「ありがとう」


 俺が電話を切ろうとすると、電話から凛恋の泣いた声が聞こえた。


『凡人っ!』

「大丈夫。なんか勘違いされたんだろ。こっちは宿泊代も払ってるんだ。後で謝礼に美味しいルームサービスでも出させてみんなで食べよう」

『警察に行ったらすぐに電話して。何か他にも変わったことがあったらすぐに電話して!』

「分かった。じゃあ行ってくる」


 俺は電話を切って、既に定位置に戻った警備員達を見る。その警備員達は、既に俺には視線さえも向けていなかった。

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