【二〇二《たゆたえども沈まず》】:一

【たゆたえども沈まず】


 涙を流す凛恋を上から抱き締めて、俺は何度も何度も凛恋の体中を撫でて、何度も何度も言葉を重ねる。


「ごめん。俺はなんともないから……大丈夫だから」


 萌夏さんの寮で、俺は萌夏さんの専門学校の同級生達に盛大な喧嘩を売ってきて、萌夏さんをいじめていたやつらの心を折ってきた。だが、それは一〇分一五分で済むような簡単なものではなかった。だから、俺がホテルに戻ってきたのは夜遅くになってしまった。

 その間、凛恋は俺の帰りを心配していた。そして、あまりにも帰りの遅い俺が……暴漢に殺されたと考えてしまったらしい。


 俺が帰ってきた時は、部屋に希さんが来てくれて凛恋と一緒に居てくれた。それで、俺は泣き崩れる凛恋と安心する希さんに戸惑い、二人の心配を知って反省した。怒りに任せて、後先を考えなかったと。


 二人はちゃんと説明したら納得してくれた。それどころか希さんは心配を掛けたのにもかかわらず「萌夏を守ってくれてありがとう」と感謝までしてくれた。もちろん、凛恋も感謝をしてくれた。でも、凛恋の涙は止まらなかった。


「凡人は悪くない……凡人は萌夏を守ったんだもん……」


 下から俺を抱き締めながら、凛恋は首を横に振って俺が謝る言葉を否定する。でも、凛恋の涙は止まらない。

 凛恋の柔らかい肌を傷付けないように、そっと親指の腹で凛恋の涙を拭う。しかし、拭った側から涙の粒が滲んでくる。


 大切な人を失うかもしれない恐怖。それを考えただけで心が冷たく締め付けられる。そんなことを、俺は凛恋に長い間考えさせてしまった。


「怒ってないよ。怒ってない……ただ、凡人が生きてるって安心して……」


 俺を見上げている凛恋が、必死な声でそう言う。凛恋は悲しんで泣いている今でも、俺のことを気遣ってくれている。


「あっ……」


 凛恋の体に触れながら、強く凛恋の体を抱き寄せる。そして、凛恋は小さく苦しそうな声を漏らした。

 俺は言葉を紡ぐのを止めた。まずは、言葉よりも先に凛恋に心から理解してもらわないといけない。俺が今、凛恋の目の前にちゃんと居ることを。


 手がさらりと滑る凛恋の肌の感触に心が疼き、全身から感じる凛恋の熱に心を浮かされる。それで、凛恋を抱き締めていること自体に高揚した。

 世界一美しい凛恋が、自分の全てを俺に委ねている。それに心が震えた。


 魅力的な凛恋と抱きしめ合えるなんて恐れ多いことだ。だけど、俺はほんの少しだけ得意げになる。

 俺は……この世の中で俺だけは、凛恋に触れるのを許されている人間なのだと。


 凛恋という俺にしか手の届かない存在を感じる度に、俺の気持ちはどんどん高ぶっていく。俺しか知ることの出来ない凛恋を知っているという幸せに、全身が燃え上がりそうなくらい熱を持った。


「凛恋……愛してる」


 俺はやっとそう言葉を発する。凛恋の体も燃え上がり、やっと俺が言葉を発しても大丈夫という安心が持てた。今なら、言葉を紡いでも凛恋は俺の言葉を聞ける準備が出来ている。


「好きっ……凡人っ……大好きっ! 世界で一番大好きっ!」


 涙を止めた凛恋は、必死に俺にしがみついて凛恋という存在を俺に押し付けながら叫ぶ。俺はその押し付けられた存在を、丁寧に優しく、それで力強く受け取った。




 甘い香りに包まれながら目を覚ますと、目の前で俺の唇をついばむ凛恋が見えた。

 目を瞑った可愛い顔でキスをする凛恋の腰に素早く手を回して抱き寄せると、凛恋がビクッと体を跳ね上げる。


「もうっ……いつから起きてたの?」

「今起きた……凛恋は?」

「私もついさっき起きたところ。さっきまで、チョー幸せな夢を見てたの」

「幸せな夢?」

「うん。凡人と結婚して……」

「そっか……」

「赤ちゃんが出来る夢」

「なっ!?」


 凛恋の言葉に声を跳ね上げると、凛恋がゆっくりと俺の背中に手を回して微笑む。


「驚かないでよ。私は、凡人と結婚するって決めてから、ずっと夢なんだから。凡人と温かい家族を作って、ずっとずっと幸せに過ごすのが」


 体をずらして密着した凛恋は耳元で優しく囁く。


「でも、それは単なる夢じゃないの。絶対に実現させる未来」

「その、ゆ――未来、俺も一緒に叶えて良いか?」

「何言ってるのよ。私だけじゃ無理でしょ? 凡人と結婚するんだから」


 ニコッと笑った凛恋は、俺の頬にキスして優しく俺の頭を撫でる。

 凛恋の言うとおり、凛恋の叶えたい未来は俺と結婚して赤――家族を作ること。だから、凛恋の未来を実現するためには俺の存在が必要不可欠だ。それが堪らなく嬉しい。


「とりあえず、凡人が大学卒業したら就職して結婚して、それから三年は子供を作るのは我慢しよ。収入が安定しないと子育ては難しいだろうし」

「あ、ああ」

「それから、絶対に一人っ子はダメだからね? 最低でも二人は必要。やっぱり兄弟姉妹が居た方が楽しいから」

「そ、そうだな」


 結構具体的な家族計画を話されて、さっきまでドギマギしていた心が急に落ち着く。確かに、漠然と結婚するということだけ言っていても、現実として生きていけなくては意味が無い。


「とりあえず、結婚して三年後に一人目で、その二年後くらいに二人目が良いかな。若いうちの方が良いし」

「そ、そうだな」


 ベッドの中で抱き合いながらそういう話をするのは大分気まずい。だが、凛恋の方は全く気にした様子をしておらず、俺は俺だけが気にしてしまうことに恥ずかしさを覚えた。


「でも」

「ん?」

「私と凡人ってチョーエッチだから気を付けないとね。下手したら一年目で一人目出来ちゃいそうだし」

「ちゃ! ちゃんと避妊するに決まってるだろ!」


 からかうように言う凛恋に反論すると、凛恋がケタケタ笑って俺の頬を引っ張る。


「そういう想像する凡人だから心配なのよ。まあ、凡人は真面目で誠実で優しいから大丈夫だろうけど。でもさ、同棲してからほとんど毎日してるじゃない? 本当は結構やばいってのは分かってるんだけどさ~。凡人とエッチすると幸せすぎて、毎日したくなっちゃうんだよね~」

「俺は時々セーブしようとは思うんだぞ? でも――」

「凡人が誘ってこなかったら私が誘うしね~。もう無理だって、私達は変態だから」


 明るく笑いながら俺達を変態と評する凛恋は、強く俺を抱き締めながら胸に頬を付ける。そして、クスッと小さく笑い声を上げた。


「凛恋?」

「ううん。また、付き合う前のことを思い出しちゃって」

「それって、俺の勘違いのことか?」

「そう」

「止めてくれよ~」


 凛恋の言葉を聞いて、俺は恥ずかしさで目を片手で覆う。今思い出しても恥ずかしい。


「でも、私のこともよ? 凡人は私が凡人以外の人を好きだと思ってた。でも、私は凡人に嫌われたと思ってた。それを思い出して、バカだな~って。凡人が私以外を好きな訳ないのにね!」

「そうだぞ~」

「それに凡人もバカだよ? 私が凡人以外を好きだと思ってたんだから。チョーおバカ」

「バカバカ言うなよ」

「だってさ~、私がアピールしてるんだから、私が好きな人は凡人以外あり得ないじゃん。それなのに、私が他の男を好きだと思ってさ」

「蒸し返すなって。あの時は、本当に落ち込んだんだから」

「私と仲良く出来なくなるかもって泣いちゃったんだよね? でも、チョー嬉しかった。凡人と両想いだって知れて」


 熱い凛恋のキス。それを受けて俺は自分からもがっつくようにキスを返す。凛恋の後頭部に手を回し、凛恋の唇を逃さないように唇を押し付け、必死に凛恋の唇を貪る。凛恋は苦しそうに息を漏らすが、それでも俺の体を抱き寄せてキスを続けてくれる。


「今日は萌夏はどこに連れて行ってくれると思う?」

「う~ん、パリって行ったら美術館じゃないか? ルーヴル美術館とオルセー美術館って有名な美術館があるし。日本でパリミュージアムパスを買ってるって知ってるから、きっとその対象のところは回ってくれると思うけど」

「萌夏がやっぱり凡人はマメだって言ってたよね~」


 クスクス笑う凛恋は俺の頬をツンツンと突いてはにかむ。


「そういうところも大好き」

「ありがとう」


 パリミュージアムパスは、日本に居る時に知ったパリの有名な美術館や建築物で使える共通のフリーパスのことだ。そのパスを持っていれば入場は専用の窓口からで一般入場よりもスムーズに入れるし、何より三カ所か四カ所行けば元を取るということでお得なフリーパス。だから、それをインターネットで四人分予約しておいたのだ。俺はマメだと思ってはいないが、それを凛恋と萌夏さん、そして希さんにも褒められた。


「さて、まだ出発の時間まで時間があるしもう一眠りしよ」

「そうだな」


 明るく笑った凛恋に抱き付かれ、俺は凛恋の温かさを感じながら目を閉じる。そして、自然に凛恋の柔らかさを確かめるために手に僅かな力が籠もった。




 再び目が覚めた時、俺は内線でフロントに呼び出された。俺達が泊まっているホテルに日本語が堪能な人が居らず、片言の日本語と流ちょうな英語で掛かって来た電話で聞き取れたのは俺に何か荷物が届いているということだけ。

 俺がこのホテルに泊まっていることを知っているのは、俺を省けば、凛恋、希さん、萌夏さん、このホテルの関係者、それから日本で部屋を予約した時に担当してくれた旅行代理店の人だ。だから、俺に荷物を送ってくる人は居ない。


 はっきり言って怪しいとしか言いようがなかった。でも、フロントの人から困るから取りに来てほしいと言われて、俺は仕方なく取りに行った。

 フロントに行って受付の男性から渡されたのは、荷物と言うほど大げさな物ではなく、一通の封筒だった。横開きの封筒を開くと、そこにはこれまたパッと見では読めないフランス語が書かれた便せんが入っていた。


「凡人くん、おはよう」

「あ、萌夏さん。もうそんな時間か」

「うん。今日はちょっと早めに出ようと思って。あれ? それ何?」

「何か俺に届いた物らしいんだけど怪しくてさ。俺がここに泊まってるって知ってる人で、俺に手紙を送ってくる人なんて居ないんだ。ましてや、こんな俺が読めるわけないフランス語で」

「ちょっと貸して。私が読んでみるから」

「頼む」


 パリに住んでいてフランス語も読める萌夏さんに便せんを差し出すと、萌夏さんは視線を書かれている文を辿って動かし内容を読む。そして、文を読み終えて俺に視線を戻した萌夏さんは肩をすくめた。


「内容の意味は全然分かんないけど一応聞く?」

「ああ」

「えっと……。ごきげんよう、エリック。世界で最も美しい都パリを堪能してもらっているかい? 今日はそんなエリックにお勧めしたい場所があるんだ。世界でも最も偉大で世界の芸術が集められているルーヴル美術館だ。ルーヴル美術館の美しく繊細な芸術品に触れれば、君のその醜い顔もいくらかはマシになるかもしれないしね。そんな君に相応しい美術品はグランド・オダリスクだよ。是非、ルーヴル美術館に立ち寄って見てみると良い。まあ、その醜い顔で入館を拒否されなければの話だが。ラウル・シャニュイ。……意味分かる?」

「少なくとも、俺に送られた手紙じゃないってことは確かだし、差出人が受取人を小馬鹿にしているのは分かったな」

「ちょっと、これ間違いじゃないか聞いてみる」


 萌夏さんは手に持った便せんを見せながらフロントの人と話す。時折俺を指さして首を振っているのを見ると、俺はエリックという名前ではないとでも言っているのだろう。

 フロントの女性と話を終えた萌夏さんは、俺の方を向いてまた肩をすくめた。


「指定された部屋番号が凡人くんの部屋だったから間違ってないって」

「じゃあ差出人が部屋番号を間違えたんだな。その手紙のことは忘れて凛恋と希さん達のところに行こう」

「そうね」


 俺と萌夏さんは、凛恋と希さんを迎えに行くために、一緒にエレベーターの方に歩いて行った。

 支度を済ませた凛恋と希さんと合流し、俺達はホテルを出て電車に乗る。そして、萌夏さんの案内で辿り着いたのは日本に居る時に調べて知っている場所だった。


 黄土色の歴史を感じる巨大な宮殿。その宮殿はルーヴル宮殿という名前があり、日本ではルーヴル美術館として有名な場所だ。世界最大級の敷地面積と展示品数を誇り、世界で一番入場者数の多い美術館で、年に約八〇〇万人が来館するらしい。


 ルーヴル美術館には学校の美術や社会の教科書で紹介されるような、著名な芸術品も多く展示されていて、芸術分野に明るくない俺でもワクワクする。


「ホント、凡人くんがパス取っててくれて良かった。夏休みの一般入場だと一時間以上待つらしいし」

「でも、凡人のお陰で時間を無駄にせずに良かった。あっ! ピラミッド!」


 宮殿の敷地内に足を踏み入れると、正面にガラス張りの三角錐が見えた。

 凛恋が表現した通り、そのガラス張りの三角錐はルーヴル・ピラミッドと呼ばれていて、ルーヴル美術館のメインエントランスになっている。そして、ルーヴル美術館に入るための入り口の一つでもある。


 ルーヴル・ピラミッドに近付き、萌夏さんがパスを見せながら係員の男性と会話して歩く。俺は視線を横に向けると、一般入場の待ちであろう長蛇の列が見えた。ルーヴル美術館を訪れるならみんなパスを買っていると思っていたが、一般入場で並んでいる人も意外に多かった。


「見たいやつは決まってる?」


 館内に入ると、俺達三人を振り返った萌夏さんが首を傾げる。ただ、俺達はその質問は想定していた。

 ルーヴル美術館は面積も恐ろしく広いし展示品数も膨大だ。だから、全部くまなく見て回っていたら一日じゃ済まない。そして、有名な展示品であればあるほど、必然的に見物に掛かる時間も多くなる。だから、見たい展示品に絞って見る方が良いというのは前知識として知っていた。


「モナリザとミロのヴィーナスは見たいかな」


 希さんが辺りを見渡しながら言う。凛恋はしばらく考えて右手の人さし指を立てた。


「ハム……ハム……ハム、サラミ法典が見たい!」

「凛恋、なんだよその食肉加工業者が持ってそうな庶民的な法典は。ハンムラビ法典だろ?」

「「プッ!」」


 俺が凛恋のマジなのか冗談なのか分からないボケに突っ込むと、希さんと萌夏さんが口を手で隠しながら吹き出す。すると、凛恋は真っ赤な顔をして二人を睨んだ。


「そ、そんな笑わなくて良いじゃん! ちょっと間違えただけだし!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る