【二〇一《コルシカの悪魔の片影》】:二
「よく分かった。お前らが正真正銘のクズの集まりだってことは」
俺は拳を握り締めて目の前のクズを殴りたい衝動を抑える。この手のクズは、殴っても暴力だと言って余計つけ上がらせるだけだ。だけど、俺はこの手のクズを潰せる方法を知ってる。
俺は集めた学生達から萌夏さんに視線を向けて、萌夏さんの両肩に手を置く。
「萌夏さん、俺の一生のお願いを聞いてくれ」
「一生のお願い?」
「ああ。今ここで、萌夏さんの人生で一番美味いマドレーヌを作ってくれ。今萌夏さんが持ってる技術を全部使って、今萌夏さんが作れる最高のマドレーヌを作って欲しいんだ」
「分かった。凡人くんの頼みなら、全力で最高のマドレーヌを作る」
萌夏さんは泣いて赤くした目でも真剣に俺を見て頷いてくれた。そして、萌夏さんは用意した材料と器具を使ってマドレーヌ作りを始める。
「なんで、切山のマドレーヌ作りを見学しなきゃ――」
「それが分からなかったら、お前は一生パティシエなんてなれない」
「はあ? お前、切山の親友とか言ってたが、どうせ菓子作りの基礎も知らないんだろ? そんなやつに菓子作りなんて語られたらイラってするんだよ。俺は大学時代、一年の頃からずっと地元の洋菓子店でバイトしてきたんだ。この中で一番現場のことを――」
「黙って見てろ。自分がどれだけ狭い世界で生きてきたか分かるぞ?」
「何をふざ――なっ……」
萌夏さんはバターを湯煎(ゆせん)に掛けながら、小麦粉、砂糖、アーモンドプルーフ、ベーキングパウダーを手早く計り混ぜ合わせふるいに掛ける。更に、そのふるいが終わると、卵、ハチミツ、バニラエッセンスを別のボウルでかき混ぜる。それらの手際は、素人の俺の目から見ても流れるような動きで鮮やかだった。そして、それは素人の俺ではなく、お菓子作りの勉強をしている人からすれば、より詳細に萌夏さんの凄さを認識出来る。
萌夏さん達のやっているスタージェと俺がやっているインターンシップは、実際の現場に立って実際の仕事を体験する研修を指す。きっと、ここに集まっている俺を含めたほとんどの人間はその『研修』という意味合いしか意識していなかった。しかし、この中でたった一人だけ『研修』という意味合い以上に『夢を実現するためのチャンス』と捉えている人が居る。それは、俺の視線の先で一心不乱にお菓子作りに向き合っている萌夏さんだ。
「速い……」
「うそ……」
その専門学生が漏らした声を気にせず、萌夏さんは材料を混ぜ終わって冷蔵庫に入れる。そして、俺に視線を向けた。
「ここから一時間冷やしてから焼きに入るんだけど」
「分かった。じゃあ、その間こいつらに話をしてるよ。萌夏さんはマドレーヌ作りに集中して」
「うん」
俺は萌夏さんの返事を聞いて、再び視線を集めた学生達に向ける。振り返った先に居た学生の半分以上は俯いた。
「この中で、パリに来てから萌夏さんのお菓子作りを見たことがあるやつは?」
俺の問いに、集めた誰も反応をしなかった。それは、誰一人としてパリに来てから萌夏さんがお菓子作りをしているところを見ていないということだ。
萌夏さんの話では相当専門学生は忙しいらしい。だから、他の学生の状況を理解する暇が無いのは責めることではない。それは仕方がないことなのだ。でも、だからと言って“自分の記憶の中の実力で萌夏さんを評価すること”は仕方のないことではない。
「萌夏さんから聞いたよ。毎日スタージェ先の仕事や先輩からの課題に追われて、学校のレポートも出さないといけないんだってな。それは大変だと思うし、それを毎日こなしてるあんたらは純粋に凄いと思うよ。だけど、俺はあんたらが萌夏さんにやったことは許せない」
「ハッ! 何か勘違いしてるようだけどな。現場で働いてればそれくらい出来るようになって当たり前だ。俺だってあのくらい出来る」
二五歳の男子学生が俺を鼻で笑って首を振る。でも、鼻で笑いたいのは俺の方だった。
「あんた、大学一年から洋菓子店でバイトしてるって言ってたな。いつまでやってた?」
「はあ? 一九から二四までみっちり五年間現場で――」
「だったらよっぽど才能がないんだな。お前が五年も費やして得た技術を、萌夏さんは一年強でものにしてる」
「なっ! あのくらいのレベルは現場でやってれば誰だって出来るって言ってんだよ!」
「だったら、あんたは何が出来る? 五年間費やして何が出来るようになった? 五年も続ければ大抵の仕事は誰だって出来るようになるんだよ。特にアルバイトに任せるような簡単な仕事はな」
俺がそう言うと、男は見るからに怒りを露わにして目を吊り上げる。
「俺は戦力だって言われてたんだ! 洋菓子店で作ってたレシピは全部頭に叩き込んで全部詰まらずにやれた!」
「だから言ってんだよ。それは、五年も続ければ誰だって出来るような仕事なんだ。それで自信を得て専門学校に行って専門的に勉強しようって思ったんだろ? その意思は良いと思う。だけどな、お前の志は低いんだよ、ビックリするくらい」
「俺のことを何も知らないくせに好き勝手言いやがって!」
「ああ。俺はあんたの内面は知らない。でも、見て分かることがある」
俺は怒り狂う男の手を指さして、わざと怒りを煽るように馬鹿にした笑いを浮かべる。
「随分綺麗な手だな」
「は?」
俺は一度小さく息を吐いて男を睨む。
男の手は綺麗に手入れでもしているのか随分綺麗な手をしている。でも、さっき路地で俺に触れた萌夏さんの手には、傷や火傷の跡がいくつもあった。
「俺も萌夏さんがパティシエールになるって知るまで、男はパティシエで女はパティシエールって言うってことさえ知らなかった。でも、親友の夢を知って、少しでも親友の夢について知ろうと思って調べたんだ。そしたら、パティシエって見た目の華やかさとは違って“傷が絶えない仕事”らしいな」
パティシエの仕事は、よくテレビで見るようなケーキのデコレーションだけじゃない。生地を焼く時は二〇〇度を超える鉄板を扱うし、お菓子作りに使う道具には鋭利な道具も多いそうだ。だから、仕事をしていれば必然的に火傷をしたり切り傷を付けたりする。萌夏さんの手が傷だらけなのはそのせいだ。でも、俺が視線を向けている男の手は、手先から腕の根元までほとんど傷がない。傷が全く無いわけではないが、傷が絶えない仕事をしている割りには少なすぎた。
「どうしてだろうな? お前の方が五年も長く現場で働いてたはずなのに。俺が知ってる限り、萌夏さんは一年の頃からケーキ屋で働き始めた。だったら、現場経験で言えば一年強ってところだろ」
「傷の多さが何だって言うんだ!」
「お前馬鹿か? 傷が多いってことはそれだけ萌夏さんがお菓子作りを一生懸命やってるってことだよ! 傷が絶えないって言われる仕事を毎日必死にやってるってことだよ! それが分からねえから、お前がダラダラと五年も費やしたことを萌夏さんに軽々と越えられるんだよ!」
力一杯咆えて、俺は自分の咆えた言葉で自分自身の怒りを煽られる。努力して、その努力を実らせて自分よりも経験豊富な人間よりも高い技術を得た。そして、それを更に伸ばそうと萌夏さんはしている。そんな努力家の努力を、自分の経験におごって胡座を掻いているやつに否定されて堪るか。絶対に、目の前のクズ野郎のおごりを叩き潰して心をへし折ってやる。
後ろでは、萌夏さんが冷蔵庫のドアを開けてマドレーヌの焼きに入る音が聞こえる。こいつらが一切の口答えが出来なくなる瞬間まであと少しだ。
俺は言葉を発するのを止めて、萌夏さんを振り返る。すると、萌夏さんは捲り上げた服の袖で何度も溢れる涙を拭っていた。
「凡人くん……ありがとう……」
「お礼を言うのはまだ早い。それに、そもそも俺にお礼を言う必要なんてない」
俺の言葉の直後、オーブンから焼き上がりを知らせる音が聞こえる。そして、萌夏さんは取り出した鉄板からマドレーヌを大皿の上に移して粗熱を取る。
「凡人くん、出来たよ」
粗熱を取り終わると、萌夏さんがマドレーヌが盛られた皿を俺に差し出す。その皿を受け取って、俺は並んでいる学生達に差し出した。
「全員一つずつ食べろ」
俺に促された学生達は、俺に近付いて来てマドレーヌを手に取っていく。そして、萌夏さんのマドレーヌに口を付けた学生達を見て、俺は小さく口を歪ませて笑った。
萌夏さんのマドレーヌを食べた全員が、一口目で目を見開き、がっつくように二口目、三口目を食べたのだ。
「美味しい……」
「なんだこれ……マドレーヌってこんなに美味かったっけ?」
「どうやったらこんなに良いバランスで焼けるんだ……」
口々に感想を言い合う学生達に、俺は笑ったまま腕を組んで言った。
「そのマドレーヌを食べて美味しくなかったって思うやつは帰って良い。だが、美味しいと思ったやつはここに残れ」
俺はそう言ってしばらく間を開け、学生達が帰る猶予を与えた。でも、誰一人として調理場から出て行こうとしなかった。
「俺は、ここに居るあんた達みたいにお菓子の世界で勝負していこうって人間じゃない。でも、パティシエ、パティシエールって大事なのは美味いお菓子が作れるかだろ? お客さんが満足出来る品が出せるかだろ? それなのにお前らは、自分が下手くそなのを棚に上げて、自分達より上手い萌夏さんをいじめやがった。それは、自分達でパティシエを目指してる自分達のプライドに自分で泥を掛けてるって分かってやってんのか? お菓子で勝負していこうってんならお菓子で勝負しろよ。それが出来ないなら辞めちまえよ。お前らが目指してる世界は、お菓子で勝負出来ないやつが居られる世界じゃない。どの道、萌夏さんに負けなくても途中で潰れる。今辞めといた方がダメージは薄いぞ?」
どの世界でも、プロの世界は厳しい。特に何かを作り出して他者から評価をしてもらうような世界は、評価をしてもらえる成果を出せなければ、たとえ努力をしていたとしてもその世界から淘汰(とうた)されて行く。そして、残るのはその厳しい競争で生き残れるごく一部の人間だけだ。
萌夏さんをいじめたやつらは、それが何も分かっていない。実力だけがものを言う世界で、実力以外のもので自分と萌夏さんを比べた。だから、そういうやつは、勝負する世界では間違いなく淘汰される側の人間だ。
「俺は今目の前に居るお前らが大嫌いだ。もっと言えば全員死ねばいいと思ってる。俺の親友はお菓子を作るためにここに来てるんだ。お菓子を作る世界に飛び込むために毎日必死になってんだよッ! てめえらが低いレベルでうだうだ言ってる間、俺の親友は必死に高いレベルに付いて行こうとしてんだッ! 俺の親友はなッ! お前らみたいな志の低いやつらに邪魔されて良い人じゃねえんだよッ!」
力一杯怒鳴って、俺は大きく息を吸って心を落ち着かせながら、改めて学生達を見渡す。その視線の先には、誰一人として顔を上げていられる人間は居なかった。
おそらく、俺の言葉が届いた人間なんて一人居れば良い方だろう。お菓子作りなんてしたことがないやつの言葉なんて、クソみたいなプライドが凝り固まったクズ達の心に届きやしない。でも、それでも分かりやすいものがある。
学生達は感じたんだ。感じたくなくても感じてしまった。理解したくなくても理解してしまった。萌夏さんの作ったマドレーヌを食べて、自分と萌夏さんの途方もない実力差を。
「いやー、でも本当に爽快だったな。俺の親友をいじめてたお前らが、俺の親友が作ったマドレーヌを食べて全員黙るんだもんな。笑いが止まらなかったよ。見て分かっただろ? てめえらじゃ逆立ちしても無理なんだよ。食べて分かっただろ? てめえらじゃ何度生まれ変わったとしても追い付けないんだよ」
俺は言葉が通じないと思っても、怒りに任せて言葉を重ねる。反省しただけじゃ許さない。こいつらの腐った性根を根絶やしにするくらい徹底的に叩き潰す。
「俺の親友は正真正銘の天才だ。それが分かったなら、お前らみたいな底辺は黙って指咥えて天才が階段を上っていくのを下から眺めとけ。それでも何か言いたいことがあるやつはくだらない言葉じゃなくて、自分が全身全霊掛けて作った物で語ってみろよ」
それだけ言って、俺はもう学生達に視線を向けなかった。そして、残ったマドレーヌを手に取ってかじる。
「萌夏さんありがとう。最高に美味しいマドレーヌだ」
学生達が帰った後、俺は萌夏さんと一緒に後片付けを手伝う。
萌夏さんが洗った器具を布巾で拭いて水気を取っていると、萌夏さんが俺の方をチラッと見て俯いた。
「凡人くん、ごめんなさい」
「良いよ。悪いのは萌夏さんじゃない。それに、俺は萌夏さんを侮辱したあいつらが許せなくてやっただけだ。……でも、萌夏さんには悪いことしたな。これで、萌夏さんは決定的に嫌われたと思う」
俺は後々になってそう反省して謝った。俺がやったことは、萌夏さんと学生達の間にあった亀裂を決定的なものにした。それは、もう萌夏さんと学生達が仲良くやるという余地を消したことになる。
「良いよ良いよ。私の方が、あいつらと仲良くするとか願い下げだし。私にはあんなやつらと比べるのも失礼なくらい最高の親友達が居るし」
「そっか。そう言ってくれて良かった」
片付けを終えると、萌夏さんが俺に体を向けて立つ。その萌夏さんに向かい合うと、萌夏さんは両手を体の後ろに隠してはにかんだ。
「手が傷だらけって気付いてたんだ」
「ああ」
「やだな。凡人くんに汚い手を見られてたなんて」
「汚いもんか。萌夏さんが努力した証しだろ?」
「ありがと」
萌夏さんははにかんで俺を見上げる。
「凡人くん」
「ん?」
「私が凡人くんに言ったことはほとんど本当だから。追い込まれてやけになったのは認めるけど、諦められなくなったのも本当だし、凡人くんで毎日一人エッチしてたのも本当だし、今でも凡人くんとエッチしたいと思ってる」
「ちょっ!」
俺は萌夏さんの言葉に狼狽えると、萌夏さんはクスッと笑った。でも、俺は分かりきった答えを返す。
「ごめん。それはないよ」
「うん。そうだね。分かるよ? 分かってる、分かりたくないけどさ……分かっちゃうよね。だから、私は分からない振りをすることにした」
軽く前へ歩み出た萌夏さんが軽く俺の頬にキスをする。そして、口を手で隠して可笑しそうに笑った。
「ホント、さっきも言ったけど、凡人くんって警戒心ゼロだよね」
「萌夏さん」
「私、卑怯だから凛恋には言わない。凡人くんを諦めるのを止めたって。まあ、凛恋は気付いちゃってそうだけど。……ジュテーム エタルナルモン(私はあなたを永遠に愛します)」
「え?」
最後に萌夏さんが発した流ちょうなフランス語の部分が理解出来ず聞き返す。すると、萌夏さんは明るく笑って言った。
「今日は楽しかったよ、ありがとうって言ったの」
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