【二〇一《コルシカの悪魔の片影》】:一
【コルシカの悪魔の片影】
ホテルの前に着くと凛恋と希さんが萌夏さんに手を振る。
「萌夏、また明日ね」
「うん! また迎えに来るから!」
俺は凛恋と希さんがホテルの中に入っていくのを見送ると、また昨日と同じように萌夏さんを送るために歩き出す。
「萌夏さんありがとう。シャン・ド・マルス公園から見たエッフェル塔も最高だったし、シャンゼリゼ通りの散策も楽しかった。それに、最後のエトワール凱旋門から見た夜景は言葉が出なかった」
「喜んでもらえて良かった。昨日、結構頑張って考えたんだ」
「ありがとう。萌夏さんも忙しいのに」
「ううん。凡人くんのためなら……」
すっかり日が落ちた通りの歩道で、萌夏さんはそう言って俺の手を握る。俺は、その手を優しく解こうとした。しかし、萌夏さんは俺の手から手を離さない。
「凡人くんって本当に人が良いよね。だから、人が良い凡人くんなら、日が落ちてたら昨日と同じように私を送ってくれるから二人っきりになれると思った」
「萌夏さん、俺は昨日から気になってることがあるんだ」
「何?」
「パリに来て何があったんだ? もっと言えば、年始から昨日まで何があった?」
「何もないよ」
萌夏さんは俺に視線を合わせず正面を見たままそう言う。その反応から何かあったのは間違いない。
「昨日から萌夏さんらしくない。萌夏さんは俺のことを好きだって思ってくれてる。その気持ちに応えられないのは申し訳ないけど、俺は萌夏さんの気持ちはちゃんと分かっているつもりだ。そのつもりで話させてもらうけど、萌夏さんは単純に体を求めるような子じゃないだろ」
俺は確信を持ってそう言った。萌夏さんは俺のことを真剣に好きでいてくれている。俺なんかを、なんてことは思ってしまう。でも、萌夏さんの気持ちが本物なのは理解しているつもりだ。そして、萌夏さんが安易に男へ体を求めるような軽い子じゃないということも理解しているつもり……いや、そう確信している。だからおかしいのだ、萌夏さんが俺に体を求めてくること自体が。
「凡人くんは知ってるでしょ? 私が高校の頃から凡人くんを想像してしてたこと。それに、私が最後にエッチしたのって高一の頃よ? もう三年は経ってる。今まで私が誰ともエッチせずに我慢出来たのが――」
「今までエッチをしなかったのは、萌夏さんが自分を任せても良いって思える人が居なかったからだろ。それが萌夏さんが簡単に男にエッチしようなんて言わないって子だっていう証拠だ」
「ずっと思ってたよ? あの歩こう会の日から凡人くんを好きになって。毎日思ってた、凡人くんとエッチしたいって。エッチしなかったのは凡人くん以外とエッチなんてしたくないって思ってたからだよ。別に私が軽くないってことじゃない」
「それに萌夏さんは、凛恋と俺のことを考えて気持ちを諦めるって選択をした。それは、俺は萌夏さんの気持ちに応えられない立場だけど、諦めてくれたなんて言葉は使いたくない。俺が凛恋のことを諦めるって考えれば、それがどんなに辛くて苦渋の選択だったか分かるから」
「だったら、エッチ――」
「そこまでして保とうとしてくれた俺達の関係を、萌夏さんに今壊すかもしれない選択をさせたものはなんなのか教えて欲しいんだ」
確かめなきゃいけない。そして、俺がフランスに居る間に解決しなきゃいけない。
萌夏さんは今苦しんでいる。自分の人間性までねじ曲げて変えてまで俺に体を求めるくらい。きっと今の萌夏さんは俺に愛されたいわけじゃない。俺に何かを消して欲しいんだ。何かを萌夏さんの中から消し去る役を俺に頼んで頼っている。だったら、俺はその役を演じる。でも、それは愛のないエッチという短絡的な行動でじゃない。もっと根本から萌夏さんの心の闇を取り払える方法でだ。
大きな通りから路地に入るまで、萌夏さんは俺の言葉には答えなかった。しかし、人気のない小道に入って少し歩くと、萌夏さんは立ち止まる。
「凡人くんって警戒心ゼロだよね」
「なっ――んんっ!?」
冷たい建物の壁に背中を押し付けられ、俺は背伸びをした萌夏さんに唇を塞がれる。そのキスを拒もうとするも、萌夏さんが上手く俺の足の間に自分の足を入れて体の動きを阻害する。
ねっとりと熱いキスを萌夏さんはしながら、俺が押し退けようと出した手を掴んで自分の太腿に触れさせる。ミニスカートの裾から伸びる細くスベスベとした萌夏さんの内腿に触れてしまい俺は手を離そうと力を入れる。しかし、萌夏さんは俺の手を自分の両腿で挟んだ。
「凡人くんのために一番短いスカートにしたんだよ?」
「萌夏さん、離れてくれ」
「嫌だ」
俺を真っ直ぐ見上げた萌夏さんは、俺の唇をペロリと舐めて、俺の唇を潤した唾液をフッと息を吹きかけて乾かす。
「昨日、凛恋と何回エッチした?」
「萌夏さん」
「凛恋とのエッチは気持ち良かった? 私も凡人くんのことを想像してしたから凄く気持ち良かったよ?」
「何があったんだ? 話してくれ」
「エッチしてくれたら話すよ、全部」
「萌夏さんっ!」
薄暗い路地で熱い萌夏さんの体温を間近に感じながら、俺は萌夏さんの体を何とか押し退ける。すると、萌夏さんは乾いた笑いを浮かべて俺に首を傾げる。
「凡人くんは凄く真面目で誠実で優しい。でも、凡人くんだって男の子だから、本気で女に攻められたら我慢出来なくなるんだよ? 自分では分かってないかもしれないけど」
「萌夏さん、冷静になってくれ。ちゃんと何があったか話してくれれば力になれるかもしれないだろ?」
「うん。凡人くんが私とエッチして力一杯私のことを抱いてくれたら凄く支えになるよ?」
「俺は萌夏さんと親友で居たいんだッ! 俺に……俺に大切な親友を失うようなことをさせないでくれッ!」
俺も分かっているし、萌夏さんも分かっている。もし、俺と萌夏さんがエッチなんてしたら、もう二度と俺と萌夏さんは親友になんてなれない。それくらい、俺達の関係を破壊してしまうくらい大きなことだと萌夏さんは分かっている。それでも、萌夏さんはまだ俺を、俺の体を求めている。そうまでして、萌夏さんは何かを忘れたいと思っている。何かから目を背けたいと思っている。
「三年彼氏が居なくたって、男の子の理性の外し方くらい知ってるよ? 私」
俺に突き放された萌夏さんは、俺の目の前に戻って来てジッと下から見上げる。
萌夏さんに見上げられた瞬間、俺は息をするのを忘れた。ただ見上げられただけ、ただ視線を合わせられただけなのに、萌夏さんの目線や表情、唇に色っぽさが溢れた。
「特に、凡人くんみたいな女性経験が少ない男の子は、耐性が少ないから簡単だと思う」
俺の唇の端にキスをした萌夏さんは、俺の頬を撫でてクスッと微笑む。
「女って男の子が知らない武器をいっぱい持ってるんだよ。それってお菓子作りとか料理みたいな特技じゃなくて、自分がどうやったら可愛く見てもらえるかってのを知ってるの。笑顔とか言葉遣いとか仕草とかね。それで、凡人くんは女の子と目線を合わせて会話するの苦手だから、ジッと見詰めて迫ったらこんなに簡単に固まっちゃう」
俺に抱き付いた萌夏さんは、俺を見上げて首を傾げる。
「凛恋と別れてなんて言わない。私を好きになってなんて言わない。ただ、エッチしてくれれば良い。フランスには日本みたいなラブホはないけど、普通のホテルに数時間だけ部屋を借りられるサービスがあるの。すぐ近くにホテルがあるから行こっか? ゴムは凡人くんが持ってるの貸して。流石に、妊娠して凡人くんに迷惑は――」
「萌夏さんをいじめてるのは誰だ」
「……えっ?」
萌夏さんは俺の言葉に目を見開いて聞き返す。俺は、その萌夏さんの両肩に手を置いてもう一度問い掛けた。
「萌夏さんが、自分では泣いてる自覚がなくなるくらい追い詰めているのは誰だ! 話してくれ」
「えっ……私泣いてなん――」
手の甲で自分の目を拭った萌夏さんは、更に目を見開いて自分の手の甲を見る。その萌夏さんの手の甲は涙に濡れて、大通りから差し込む淡い光で煌めいた。
直感と言えば簡単だ。でも、俺が感じたのは直感としか言えないものだった。萌夏さんの泣きながら笑う表情を見てそう思ったのだ。
萌夏さんは誰かからいじめられている。それも、限界まで追い詰められるほど酷く。
「萌夏さんッ! 話してくれ! 萌夏さんじゃ絶対に耐えられない! 優しい萌夏さんじゃそんな辛いことは耐えられないだろ!?」
俺は萌夏さんの体を強く揺すって答えを促す。人からいじめられるなんて、萌夏さんじゃ耐えられない。
俺みたいに昔っから人の悪意に晒されて、いじめられるということが日常化しているような人間なら、いじめをしているやつを馬鹿にしたりいじめ自体を達観したりして心で整理して受け流せる。でも、萌夏さんみたいにいつもグループの中心に居て、仲の良い人に囲まれてきた人は耐えられるわけがない。いじめで受ける途方もない孤独感に。
「…………」
萌夏さんは両手を体の横に垂れ下げて俯く。そして、小さく鼻をすすって、下を向いたまま言葉を発した。
「年始の休みからこっちに戻って来てすぐだったかな……。私がスタージェをしてる店の店長から言われたの。ホテルの経営者の息子が私と食事に行きたいって言ってるって」
小さな声で萌夏さんが紡ぎ出した言葉を聞きながら、俺は震える萌夏さんの体を支える両手に優しく力を込める。
「行きたくなかった。男と二人で食事なんて怖かった。でも、一度行くだけで良いって言われたし、店長にもお世話になってたから我慢して行った。買い物に連れて行かれて、好きな物を何でも買って良いって言われた。でも私は何も要らないって断った。食事に連れて行かれて、よく分からない話も頑張って笑って聞いた。それで食事が終わって席を立とうとしたら言われたの。ロイヤルスイートルームを取ってるから一緒にお酒を飲もうって」
俺は萌夏さんを支える手に力を込めず、代わりに歯をかみ合わせた顎に力を込めた。
その経営者の男は萌夏さんが男が怖いことを知らなかった。だけど、それでも……初めて会った萌夏さんをホテルの部屋に誘うなんて、あまりにも萌夏さんのことを軽く見過ぎている。それに、俺ははらわたが煮えくり返るほど怒りが湧いた。
「もちろん断った。そしたら……無理矢理キスされそうになったの」
「なんてことを……」
「怖くて無意識に右手を振り抜いてて、思いっ切りビンタしたの。そしたら、その経営者の息子は怒って帰った。そしたら、その次の日からよ。私は同じ専門の子達に言われ始めたの。切山萌夏は、経営者の息子と寝て評価を上げてもらってるって」
「そんなわけあるか!」
「そんなの他の人は分かんないわよ。私の仕事の場面なんて見てないし、私が経営者の息子とエッチしてないなんてみんなは知らない。前々からあまり気が合う人達じゃなかったけど、それから寮で会う度に言いたい放題。男には顔を見られる度に言われるの。ヤリマンなら俺にも一発くらいヤらせてって」
俺は萌夏さんが受けた恐怖を思って、息が詰まって言葉が出なかった。
無理矢理キスをされそうになったことは本当に怖かったに決まっている。それは男が怖いと思っていなくても恐ろしくて気持ち悪いことだ。それに……男子学生が萌夏さんに向けた心無い言葉は、単なる誹謗中傷では済まされない。女性に対する考え得る中で最大限の侮辱だ。
「多分ね……みんなの反感を買っちゃったの。日本でも凡人くんに励まされて頑張ったら凄く評価してもらえて、それでスタージェ先でも一番レベルの高いところに推薦してもらって。それで、毎日毎日みんなよりもレベルが高いところで充実した生活をしてるから……だから私は――」
「寮に行くぞ」
「凡人……くん?」
「寮に行って、萌夏さんをこんなに傷付けたクズ共を黙らせる」
俺は萌夏さんの手を引いて歩きながら、萌夏さんの手を握っていない右手の拳を握り締めた。
反感を買った? そんなこと萌夏さんが気にすることじゃない。萌夏さんは自分で頑張って日本で評価してもらって今の場所を得ているんだ。そして、パリに来てからも頑張りを続けてその評価を無駄にせず、もっと上を目指して頑張っている。純粋に、自分が抱いたパティシエールになるという夢に向かって。それなのに何だ? 萌夏さんが体を使って評価を得た? そんなの――。
萌夏さんの努力を知ってるやつなら言えるわけが、思い付くわけがない戯れ言だ。
路地を歩いて、昨日来た萌夏さんの寮の門を開ける。そして、萌夏さんを振り返る。
「萌夏さん、寮の調理場って今使える?」
「え? う、うん」
「じゃあ、今からマドレーヌを作る準備をしてて。まだ作り始めなくて良いから」
「どうして?」
「頼む」
「……分かった」
納得はしていないが走り出す萌夏さんを送り出して、俺は寮の玄関から見える寮内の廊下の奥に視線を向ける。そして、大きく息を吸って寮内に響く怒鳴り声を上げた。
「切山萌夏をいじめたクソ野郎共ッ! 今すぐ全員出て来いッ!」
俺はステンレス製の調理台を背に、調理場に集まった学生を見渡す。専門学生だからか、明らかに俺や萌夏さんよりも年上の男女も居る。こんないい年したやつらまで萌夏さんのいじめに加わっていたと思うと、怒りを通り越して情けなさも感じた。
「お前、誰だ」
男の中で一番年上っぽい男子学生が俺を睨み付けながら言う。それに、俺は両腕を組んで視線を返した。
「多野凡人。切山萌夏さんの親友だ」
「切山の親友? ってことはお前一九か二〇だろ? 俺は二五だぞ? それ、年上に対する態度か?」
「悪いな。俺は二五にもなって年下の女の子いじめて笑ってるような人間に示す敬意なんて持ち合わせてないんだ」
「ああ? てめえ、舐めてんのか?」
「お前含めて全員が、今ここで土下座して萌夏さんに謝ったら許してやる。良かったな。今謝れば、お前らの薄っぺらい虚栄心が保てるぞ? 良い条件だと思うが?」
「はあ? なんで俺達が切山に謝らないといけないんだよ。謝るのはそっちの方だろ。金持ちの上で腰ふ――」
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