【二〇〇《嵐の前の静けさ》】:二
歩きながら希さんがニコニコ笑って周囲に建ち並ぶ建物を見る。ロンドンの中心街に居た時も、日本の街中のように全面ガラス張りのようなビルはなかった。そして、希さんの言うとおりパリにも俺が視界を動かしている範囲には、ガラス張りのビルは見えない。
視界に見えている建物にはもちろんガラスは使われている。でも、ギラギラしたガラス張りのビルではなく、等間隔で設置された窓にはめられているだけという使い方をしているだけで、視界に入った時の落ち着きが違う。
駅から歩いて移動していた俺は、正面に沢山の樹木が並んでいる場所が見える。多分、都市内にある緑地公園だろう。
「もしかして、シャン・ド・マルス公園?」
「そうだよ。エッフェル塔を見るなら最初はこっちからが良いかなって思って」
希さんの疑問に、振り返った萌夏さんがニッコリ笑って答える。
シャン・ド・マルス公園は、パリ有数の緑地で面積は二四・三ヘクタールあるらしい。そのシャン・ド・マルス公園を含むセーヌ河周辺は『パリのセーヌ河岸』と呼ばれる世界遺産に認定されているらしい。
道路を渡ってシャン・ド・マルス公園に入ると、やはりここも有名な観光地だからか沢山の人が歩いている。視界の中には、いくつも旅行ツアー一行という感じの団体が見える。
「多分写真とかで見たことあると思うけど、最初にエッフェル塔を見るならここから見て欲しいなって」
萌夏さんが公園の中央まで歩いて来て振り返り、右手で俺達の左側を示す。その手に従って視線を左に向けると、俺は自分の視界に映る光景に言葉を失った。
シャン・ド・マルス公園の中央には緑の絨毯のように芝地が長く伸びている。その芝地の左右には、四角くせん定された樹木が並び綺麗に風景を彩っている。そして、その視界の中央に高くそびえる薄茶色のエッフェル塔。濃い緑が周囲にあるのに、エッフェル塔の存在は霞むどころかより際立って見える。
横では既に凛恋と希さんがスマートフォンで景色に見えるエッフェル塔を撮影している。俺もその二人のキラキラとした目を見て小さく笑いながら、自分のスマートフォンを持って緑を入れながらエッフェル塔を撮影する。
「萌夏、四人で誰かに撮ってもらおう」
「うん」
凛恋の提案を聞いた萌夏さんは、近くを通りがかった女性に丁寧にスマートフォンを見せて写真撮影を頼む。
希さん、凛恋、俺、萌夏さんの順に並んで女性が萌夏さんのスマートフォンで写真を撮ってくれる。
「メルシィ、 セジャンティ(どうもありがとうございます)」
「ジュヴゾンプリ(どういたしまして)」
俺が不慣れな発音でお礼を言うと、女性はクスッと笑って手を振って立ち去っていく。昨日の高級ホテルのフロントでは日本語が通じる人だったから不安だったが、どうやら俺のフランス語は現地の人にも伝わるらしい。
「じゃあ、これから実際にエッフェル塔に行ってみようか。展望台があるし登れるから」
萌夏さんが歩き出し、希さんが萌夏さんの後に続いて歩き始め、俺も二人の後ろから歩き出そうとした。しかし、急に腕を引っ張られて、俺は後ろを振り向かされた。
ピタッと俺の頬に自分の頬を付けた凛恋が、自分で構えたスマートフォンで俺とのツーショットを素早く撮る。そして、それに続いて凛恋は俺の頬にキスをしてもう一枚写真を撮った。
「遅れないように行こっか」
クスッと笑った凛恋が俺の手を引っ張って、先を歩いている萌夏さんと希さんを追い掛けた。
エッフェル塔の見物を終えた俺達は、萌夏さんの案内で近くのファストフード店で朝食を食べた。
入った店は日本にもあるチェーンのファストフード店だったが、日本にはないメニューが沢山あり、日本にないメニューを全種類頼んで四人で食べ合うという贅沢な昼食を取った。特に、凛恋はフランス限定のブラウニーがお気に入りだったようで、追加でもう一つ頼んでいた。
次に俺達は、おそらく地球上で最も有名であろう通りの始まりに立っていた。
コンコルド広場を出発点にし、俺達四人は横に並んで先を見る。まだ、雑誌やテレビ等で見たような風景ではないが、間違いなくシャンゼリゼ通りの始まりに俺達は立っている。
「ここからシャンゼリゼ通りを歩いて散策しよう。通りの途中には色んな店があるから、興味があったお店に寄りながらさ」
並木道を歩き出しながら、俺は隣に居る凛恋がニコニコ笑って周囲を見渡す様子を眺めた。
凛恋はどんな場所に居ても絵になる。綺麗なシャンゼリゼ通りを歩く綺麗で可愛い凛恋の写真だけ撮りたい。
「凡人?」
「凛恋はどこでも絵になるなって思って」
「ありがと! 凡人ならいくらでも見て良いよ」
「じゃあ、遠慮なく」
少し凛恋から距離を取ってスマートフォンを構えると、凛恋はカメラ目線にしてニッコリと微笑みながら俺にピースサインを向ける。その凛恋を撮影してスマートフォンの画面に表示させると、抜群に可愛い凛恋の写真が写っていた。
「可愛いな~」
「そうやってしみじみ言われるとちょっと恥ずかしい」
凛恋が頬を赤くしてはにかみながら言う。
レディーナリーのモデルをやっているからか、凛恋の写真の写り方はモデルをやる前でも良かったのに、今は更に良くなっている。凛恋の彼氏としては複雑だが、世の男達が女性誌であるレディーナリーを手に取ってしまう気持ちは当然だ。
凛恋の横を通り過ぎた白人男性が凛恋の方を振り返って目で追っている。それを見て、俺は凛恋の腰を抱き寄せながら白人男性に視線を返した。すると、白人男性は気まずそうに視線を逸らして歩き去る。
「嫉妬心剥き出しの凡人、チョー可愛い」
「嫉妬するに決まってるだろ」
「でも、今日は一段と独占欲強いよね」
「それは凛恋のせいだろ?」
「そうだよ? 凡人が私のことで頭一杯になるように仕向けたんだもん」
ペロッと舌を出して小悪魔っぽく笑う凛恋は、軽く俺に体をぶつける。
並木道を進んで行くと、すぐに建物が通りを挟む賑やかな雰囲気に変わっていく。
「みんな、ちょっとそこのカフェで休憩しない?」
「おしゃれなカフェ! 休憩するするっ!」
例のごとく萌夏さんのリードでテラス席に案内されると、萌夏さんがメニューを差し出して微笑む。
「ここはチョコレート菓子に合うコーヒーとか紅茶を出すカフェなの。チョコレート菓子を単品でも頼めるんだけど、それぞれの飲み物に合わせたチョコレート菓子がセットになったメニューもあるんだよ」
「そうなのか。じゃあ、俺はブラックコーヒーのセットとかあればそれが良いかな」
「じゃあ、凡人くんはブレンドコーヒーとザッハトルテのセットかな。希と凛恋はどうする?」
「私はミルクティーかな」
「私もミルクティーがいい!」
「じゃあ二人はミルクティーとカバーリングチョコレートのセットね。ビスケットとかウエハースにチョコレートが掛かってるお菓子がカバーリングチョコレート」
萌夏さんはそう言って二人にお菓子の説明をすると、ウエイトレスの女性に注文を伝える。
「萌夏は何にしたの?」
「コーヒーは凡人くんと同じだけど、お菓子はガトーショコラ」
「ガトーショコラか~」
「追加で頼む?」
「さっき食べ過ぎちゃったから我慢する」
首を傾げて尋ねた萌夏さんに、凛恋は苦笑いを浮かべて首を横に振って言う。確かに、さっきのファストフード店では四人で結構食べたが、凛恋は触ったら簡単に折れてしまいそうなくらい華奢なのだから、少し食べ過ぎたくらいが良いと思う。しかし、女の子には女の子なりに気にしてしまうことがあるものなのだ。
「そういえば、萌夏からあんまり専門学校の友達のこと聞かないわね。仲が良い子とか居ないの?」
「留学組には居ないかな」
「そうなんだ。留学組はご飯に行ったり遊びに行ったりしないの?」
「それぞれのスタージェ先で休みはバラバラだし、みんなスタージェに必死だからね。スタージェ先の仕事は覚えないといけないし、それぞれ指導してくれるパティシエ、パティシエールから課題も出る。それに毎日レポートを作って学校に提出しないといけないし、結構大変なのよ」
「じゃあ、みんな気を抜く時間がほとんどないんだ」
「もちろん休みはあるからずっと気を張りっぱなしってわけじゃないけど、みんな必死だと思う。私も休みの日でもショッピングしながらケーキ屋さんとかお菓子屋さんとか覗いて味見して回るし。私は趣味と実益を兼ねてだけどね」
「食べ歩きっていうのは、お店の味を見て回ってるってこと?」
希さんがそう萌夏さんに尋ねると、萌夏さんはニッコリ笑って頷く。
「もちろん、味を見て回るのもそうだよ。他にはその店の特色とか、今パリではどんなケーキやお菓子が流行ってるのかも見てる」
「ケーキとお菓子の流行り?」
「そう。ファッションと同じで、お菓子の世界にももちろん流行があるの。その流行にアンテナを向けて、スタージェ先のお店の会議で話してメニューに取り入れることもあるから」
「それはもう、完全にプロだな」
俺は萌夏さんの話に、ビックリして素直に感心した。萌夏さんは学生で、いわばまだアマチュアということになる。でも、萌夏さんがやっていることも萌夏さんが常に意識していることもプロが持っているものだ。
「そうしないとすぐに置いて行かれちゃうのよ。私が居る世界は停滞したら過去にされちゃう。常に最前線で居続けないと生き抜いていけない。もちろん、自分のオリジナル、自分だけの物も必要だけど、それを確立するためにも知識とか流行を見る目も必要だから」
「萌夏、格好良い!」
凛恋は目をキラキラさせて萌夏さんの手を握る。その感心した凛恋の目を向けられ、萌夏さんは恥ずかしそうにはにかんだ。
「私ってめちゃくちゃ運が良いの。同じ専門学校の他の子達よりも一段も二段もレベルの高い現場に立たせてもらってる。だから、そのチャンスは絶対に何が何でもものにしないと。ほら、頼んだ紅茶とお菓子が来たよ」
萌夏さんはそう話を無理矢理切り上げる。それは、多分恥ずかしいからなのだろう。でも、俺は全然恥ずかしさを感じることではないと思った。それどころか、俺の方が恥ずかしくなった。
俺も、萌夏さんと環境は違ってもインターンでレディーナリー編集部に居る。そこで周りにも評価してもらえているし、自分でもその評価に近い仕事が出来ていると思っていた。だけど、萌夏さんの話を聞いて俺は自分の認識を改めた。
萌夏さんの言葉を借りれば、俺は今停滞しているのだ。周りから評価されてそれなりの仕事が出来るという自信から、今居るレベルから上に上ろうとしていない。でも、萌夏さんは常に上を見続けている。まるで、天井なんて、限界高度なんて存在しないかのようにただただ上を見続けている。
それはやっぱり、萌夏さんが天才だからなのだと思う。努力を努力と思わない才能を持っているからこそ、ただひたむきに上を見続けて努力し続けられる。
俺は天才じゃない。だから、萌夏さんの成長速度ややり方をそのままなぞるのは不可能だ。だけど、萌夏さんが持っている向上しようという気持ちを見習うことは出来る。
俺はそれを今ここで認識出来ただけでも、今回のフランス旅行に来て良かったと思った。
カフェで休憩を終えた俺達は再びシャンゼリゼ通り沿いを歩く。途中で、女子三人組のウインドウショッピング魂に火が付き、気になった店に次々と立ち寄って店内を見て回った。
ウインドウショッピングを楽しむ三人を見ると高校時代を思い出す。そして、俺は少し感傷にふけた。
今は楽しい。でも、楽しかった高校時代を思い出すと、その楽しかった高校時代にもう一度戻りたいと思う。
俺達は高校時代、本当に毎日会って色んなところに行った。当時の俺は凛恋達に引っ張り回される側の人間だったが、それでも今思い返しても楽しかったという記憶しか浮かんでこない。そして、その記憶を思い返させるように今が流れている。
時は道と同じだ。時はいつまでも流れ続けるし、道はどこまでも繋がっている。でも、目的地を設定してしまうと区切られてしまう。俺の楽しかった高校時代は卒業という目的地に到達して終わった。その時にはもう戻れないのだ。そして、道も目的地を設定したら終わりを迎える。
「今日最後の目的地よ」
振り返った萌夏さんが笑って言うと、俺は萌夏さんの向こう側にあるエトワール凱旋に視線を向ける。
パリに存在するカルーゼル凱旋門、サン・マルタン凱旋門、サン・ドニ凱旋門他、多数の凱旋門の中で最も有名な凱旋門。
シャルル・ド・ゴール広場に存在するエトワール凱旋門を起点に、一二本の通りが放射線状に延びている。シャンゼリゼ通りもその通りのうちの一本だ。
一八〇五年一二月二日に起こったフランス軍とロシア、オーストリア連合軍間の戦い、アウステルリッツの戦いに勝利したフランス軍を率いていた軍人、ナポレオン・ボナパルトの命令で作られたという逸話のあるエトワール凱旋門に近付くと、よりその巨大さに圧倒される。
凱旋門に施された彫刻も、芸術的なことが全く分からない俺でも息を飲んでつい視線を向けてしまう迫力がある。
「すごい……」
エトワール凱旋門の真下に入った瞬間に希さんが漏らしたその感嘆の声に、俺は黙って頷いた。
天井部に施された装飾も微細かつ繊細で、凱旋門自体の修復が行われている過去があったとしても、歴史の積み重ねを感じる。
「チケット買って上まで上ろう」
「上る上る!」
凛恋がテンションを上げて俺の手を思いっ切り引っ張って走り出す。
「こら、萌夏さんより先に行ってどうするんだよ。俺達だけじゃチケットも買えないのに」
「良いのよ! チケット売り場の手前までだから!」
見た目は年相応の美人女子大生なのに、こういう時のテンションは昔っから子供っぽくて可愛らしい。でも、その美しさに可愛らしさも持っているのが、凛恋の強烈な魅力の要因の一つだ。
「ふえ~なが~」
萌夏さんにチケットを買ってもらって凱旋門の中に入り、上へ上がる螺旋階段の一番下に来たところで、凛恋が上を見上げてそう声を漏らした。
どこまでも続いていて果てがないように見える螺旋階段には不思議な雰囲気があった。今ここが現代のフランス、パリであるはずなのに、凱旋門の中に足を踏み入れた俺は異世界に飛び込んだような非現実感がある。ファンタジー小説の世界に自分が立っている、そんな錯覚を覚えた。
凛恋と手を繋いで一段一段上り、ついに凱旋門の頂上へ出る。
「「わあ!」」「うおぉ!」
可愛らしい歓声が二つと俺の唸り声を聞きながら柵に駆け寄って景色を眺める。
薄暗くなった空を背景にして黄金の帯が伸びる。それは、街灯や店の明かり、道路を走る車のライトで彩られたシャンゼリゼ通りだった。
世界で最も美しい通り。その言葉がお世辞だと否定出来ないくらい圧巻の光景だった。
「チョー綺麗……んっ!」
「り――……」
器用にスマートフォンを片手で構えながら、凛恋は俺にキスをしてシャンゼリゼ通りを撮影する。そして、撮影した写真を見て凛恋がはにかんだ。
「やばっ! これめっちゃ綺麗!」
俺と凛恋が軽く重ねた唇の間から真っ直ぐ伸びるシャンゼリゼ通り。それは、写真に写る俺自身だから思うのかもしれないが、めちゃくちゃロマンチックな写真に出来上がっていた。
「やった! また凡人との大切な思い出が出来た!」
俺は世界で最も美しい通りを眺めながら、明るく笑う世界で最も美しい彼女の体をそっと抱き寄せた。
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