【二〇〇《嵐の前の静けさ》】:一

【嵐の前の静けさ】


 窓の外から見えるパリの街並みを見下ろす。まだ日が昇っていなくて暗い街は、建物の明かりや街灯の明かり、それから道路を走る車の明かりがパリの夜景を彩っていた。

 俺はその夜景から部屋の中に視線を向ける。視線を向けた先にあるベッドの上で、凛恋は可愛らしい寝顔で気持ち良さそうに眠っている。その凛恋を見て、俺は酷い罪悪感に苛まれた。


 昨日の俺が凛恋に求めたことは愛じゃなかった。ただ、自分の欲望を押し付けただけだった。俺は、そんな最低な行為に凛恋を付き合わせた。

 窓際に座った俺は、またパリの街を見てため息を吐く。


 萌夏さんは変わった。いや、変えられた。そして……このパリの街に萌夏さんを変えた何かがある。


 萌夏さんの心に傷を与えたのは内笠で、その心の修復と復元を妨げたのは俺だ。でも、それだけじゃない。この街に、萌夏さんの心に暗いものを付け加えた何かがある。そうじゃなかったら、萌夏さんがあんなに強引な行動に出るとは思えない。少なくとも、俺の知っている萌夏さんならあり得ない。


 年末年始に会った時はそんな雰囲気は感じなかった。だから、年末年始から昨日までの期間で何かがあったのだ。


「凡人?」

「凛恋? 起きたのか?」

「それは私の台詞だし」


 ベッドの上で体を起こした凛恋は、掛け布団で体の前面を隠しながら俺を見る。そして、小さく微笑んだ。


「あー、性欲に負けて凛恋に嫌な思いさせちゃった~。とか思ってる顔だ」

「……凛恋?」

「次は、なんで分かるんだ? って顔ね」


 ニコッと笑った凛恋は、俺に手招きをする。


「凡人、おいで~」


 凛恋に呼ばれてベッドの脇に座ると、凛恋は俺の手を引いてベッドの上に引き込み、布団を掛けて俺の体に寄り掛かる。


「確かに凡人らしくないなって思ったよ。フランス旅行で盛り上がっちゃったって感じでもなかった。それに一番凡人らしくないなって思ったのは、凡人が隣に寝てなかったこと。それって、何か罪悪感を私に感じてるからでしょ?」


 凛恋は探っている。見当を付けているのかいないのかは分からない。でも確かに、凛恋は俺の心の奥にあるものを探っている。


「ごめん。昼間に萌夏さんの……下着の話を聞いて……」

「ああ、私達が送ったやつね。って、ことは凡人は萌夏の下着姿を想像してムラッとしちゃったわけだ」


 俺の腿の上に座って、凛恋は俺の頬を両手で摘まんで横に引っ張る。でも、俺はその優しい痛みよりも、心に鋭い痛みを感じる。


「萌夏って細身だけど私よりおっぱい大きいし、そういうの想像しちゃった?」


 凛恋がからかうような笑みを浮かべながら、俺の頭を撫でて言う。

 本当は想像なんかじゃない。実際にこの目で見て、実際に俺は自分の肌に感じた。凛恋が想像していることよりもずっと酷いことを俺はしたんだ。それは自分から望んでいなかったとか、自分から行動を起こさなかったという言い訳は通じない。実際に感じたという現実しか意味がない。


「凛恋……俺は――」

「チョー嫉妬する。それにチョー嫌。でも萌夏が可愛いのは当然だし、だからって言って仕方ないとは思わないけど」


 凛恋は俺の頬に手を添えたままゆっくり唇を近付ける。しかし、唇が触れるか触れないかという距離で顔の動きを止めて、薄く開いた唇から俺の唇に息を吹きかけた。


「萌夏でエッチな気分になっちゃった悪い凡人にお仕置き」


 俺の体を優しくベッドに押し倒した凛恋は、一糸纏わぬ姿で俺の上に覆い被さって抱き締める。そうしながら、凛恋は俺のシャツを捲り上げた。


「ちゃんと感じて」

「り、りこっ……」


 優しく凛恋の手が俺の胸を直接撫でて、その手は上に上がると同時にシャツを俺の頭から脱がした。


「凡人が萌夏でエッチな気持ちになったって萌夏が知ったら、萌夏はテンション上げちゃいそう。ううん、誰だってそう。好きな男の子にならエッチな目を向けられても全然構わないどころか嬉しいって思っちゃう」


 温かい凛恋の素肌が俺の素肌に触れ、俺は唇の隙間から熱く熱せられた息を漏らす。すると、凛恋がクスッと耳元で笑う声が聞こえた。


「だから萌夏には絶対言ってあげない。私ってチョー嫉妬深いし、少しでも萌夏に凡人を奪えるなんて可能性を持たせてあげない」

「萌夏さんはそんなこと思ってな――」

「鈍感な凡人には分からないよ。私は一発で分かったもん。萌夏が働いてるホテルのロビーで、凡人を見た時の萌夏の目を見てすぐに分かった。あの時の萌夏の目は、王子様に出会ったシンデレラの目だった。口では諦めたって言ってるけど、萌夏は諦められる訳ないのよ。だって、私が一番分かってるもん。萌夏はそんな簡単に諦められるような、軽い気持ちで人を好きになんてならない。高校の頃、別の女の子に乗り換えた元彼のこともずっと引きずってたのを私は知ってる。話では軽そうな風を装ってるけど、萌夏が純粋で一途な子だって私は分かってる。そういうところを分からないのも、凡人の鈍感なところ」


 俺の体を抱く凛恋は、耳元で小さく長いため息を吐いた。


「ほんと、こればっかりはどうしようもないのよね。恋愛って計算では出来ないのよ。もし世の中に、恋愛を計算で出来てるって思ってる人が居たら、それは間違いなく勘違い。本気で好きになった本物の恋愛は、計算なんてやってる余裕なんてないのよ。計算なんて考えられないくらい、ただ純粋に好きになるの。萌夏と私はそういう恋愛をしてる」


 そう言って、凛恋はやっと俺にキスをしてくれた。でも、そのキスは口の端に少し触れるだけの軽いものだった。


「私は、今リードしてるの。萌夏よりも、露木先生よりも理緒よりも、ステラよりも本蔵よりもね。それにリードしてるだけじゃなくて有利なの。だって、私は凡人の彼女なんだから。それで私は、そのリードと有利を最大限に使って、絶対に誰にも凡人を渡さないようにって防衛するの」


 凛恋は体を離して俺の隣に寝転び背中を向ける。その凛恋の背中を見て、俺は力を抜いて体をベッドの上に置いた。そして、シーツを強く握り締める。


「今、私が離れて残念って顔してるでしょ? あと、凄く寂しいって顔もしてるはず」

「凛恋……?」

「分かるよ。どういう行動してどういうこと言ったら、凡人がどんな顔してどんな反応するかなんて分かってるもん」


 ベッドの中で寝返りを打った凛恋は、俺を見て笑う。その笑みは、小悪魔が男を誘惑するような妖艶な笑みだった。


「それで凡人は待ってるの。私が良いよって言うのを。いつもは男らしく誘ってくるのに、今みたいに何か私に申し訳ないとか負い目を感じてる時は、凡人は途端に弱気になって自分から動けなくなるの。でも、それを知ってるのは……私だけ」


 笑いながら凛恋は手を俺に向けて伸ばす。その凛恋の手には、コンドームの袋が握られていた。


「んっ……」


 凛恋に激しくキスをして、凛恋の手からコンドームの袋を取る。そして、上に覆い被さりながら再び唇を重ねようとすると、凛恋の人さし指が俺のキスを止める。


「凡人のスイッチは私の思い通りなの。こんなこと、萌夏にも他の誰にも出来ない」


 そう言いながら部屋の時計を見た凛恋は、ニッコリ微笑んで言った。

「だから、罰として朝までスイッチ入れっぱなしにさせてあげる」




 凛恋が着替えと化粧を終えるのを待って、俺は凛恋とキスをする。すると、唇を離した凛恋が微笑んだ。


「まだ口紅塗っとかなくて良かった」


 クスッと笑った凛恋は右手で口紅を塗りながら、俺が握った左手の指で俺の左手の薬指を撫でる。

 俺は改めて、凛恋の、美少女と呼ばれる人の凄さを思い知った。


 本当に可愛い女の子に迫られて誘惑されたら、どんなに満足してもすぐに物足りなくなる。それどころか、もっと満足したいと前よりも飢えが酷くなる。それはまるで、俺が凛恋という麻薬に侵されなくなった感覚だった。


 凛恋に満足したいと思ったら、また凛恋が欲しくなる。それで凛恋で満足したと思ったら、さっきよりももっともっと凛恋が欲しくなる。


「凛恋……」

「口紅が取れちゃうし凡人に付いちゃうわよ?」

「それでも良い」

「もう。私、何回口紅を塗り直せば――んっ、んんっ……」


 凛恋にキスをして、俺は凛恋に満たされてホッとした。


「ちょっとやり過ぎちゃったかな~」


 キスをして凛恋はニコニコ笑いながら俺の頭を撫でる。

 やり過ぎたなんてレベルじゃない。今俺は、パリ観光なんてそっちのけで、一日中凛恋と愛し合っていたいとさえ思っている。それくらい、俺は凛恋という女の子に飲まれていた。


「夜、ホテルに戻ってくるまでお預けね」

「夜になったら良いのか?」

「良いに決まってるでしょ? 私と凡人は恋人同士なんだからさ」


 凛恋が体を離して口紅をまた塗ると、ティッシュペーパーを手に取って俺の唇を拭う。


「ほら、口紅付けたまま出歩く気? 私は別に良いけど」


 凛恋が俺の口を拭いてくれて、俺の目の前ではにかんだ。


「もうすぐ萌夏がホテルに迎えに来る時間でしょ? 準備出来たの?」

「出来てる」

「じゃあ、希の部屋に行こ」


 凛恋が立ち上がり俺の手を引いてホテルの部屋から出る。

 同じフロアにある希さんの部屋の前に着くと、凛恋がドアをノックする。すると、ショルダーバッグを掛けた希さんが部屋から出てきた。


「二人共、おはよう」

「おはよう」

「希さん、おはよう」


 挨拶をして希さんが部屋のロックを確認すると、希さんが俺を見てクスッと笑う。


「今日は凡人くんが凛恋に甘える日?」

「そうなの。今日は凡人が甘えん坊な日なのよ」


 凛恋が俺の代わりにそう答え、ニッコリ笑いながら指を組んで握った俺の手を持ち上げて希さんに見せる。

 三人でエレベーターに乗ってホテルのロビーに下りると、ロビーの中央辺りで周囲をキョロキョロと見渡している萌夏さんが見えた。


「萌夏! こっち!」

「あ! みんな遅いって~」


 凛恋がぴょんぴょん跳ねながら手を振るのを見て、俺は萌夏さんの様子を恐る恐る見る。しかし、駆け寄って来た萌夏さんはニコニコ笑って俺達三人を見た。


「萌夏、今日はどこに連れて行ってくれるの?」

「今日はまずエッフェル塔に行こうと思ってる。パリ観光だと定番の観光地だけど」

「うんうん! そういうところが良いのよ! やっぱり、テレビとかで見たことあるのを自分の目で見ると全然感動が違うし!」


 俺は凛恋の意見に同意見だった。イギリスのロンドンに行った時、ビッグベンを生で見た時の感動は凄かった。いくら写真やテレビで見ていても、やっぱり初めて生で見た時の迫力は違う。

 萌夏さんが先導して歩き出し、駅に着くと俺達三人分の電車のチケットも萌夏さんが買ってくれて電車に乗り込む。


「萌夏って、どうやってフランス語を覚えたの?」

「基本っていうか、読み書きは高校の頃に独学でやってたのよ。今の専門学校を目指してパリ留学コースに行くって決めた時に、パリに行くならフランス語出来ないとって思って」

「フランス語の勉強してるなんて全然知らなかった」

「まだ、みんなに将来の夢がパティシエールって言ってなかったし、まだ言う勇気が出てない時だったから」


 凛恋が驚いた顔をすると、萌夏さんは照れくさそうに笑って言う。その萌夏さんを見て俺は改めてホッとする。

 昨日のは、きっと酒に酔ったこともあった一時の気の迷いだったのだ。それで、昨日の夜に冷静になって考えてくれたのだろう。だから、俺が頼んだ通り昨日と変わらない笑顔で居てくれている。


 何もなかった。実際は何もなかったわけではないけど、俺はそれで良いと思った。

 萌夏さんと俺は親友で、これからも大切な親友同士だ。だから、その関係をこれからもずっと続けて行くためには、その関係を壊すようなことを忘れるということも必要なことだ。


 電車はやはりどこの国でも混雑していて、俺は凛恋達三人を守るために周囲に不審な人物が居ないか警戒する。

 フランスでも日本と同じように痴漢は出没するし、電車内での置き引きやスリもあるという。置き引きとスリも問題だが、女の子には絶対に痴漢の被害に遭わせたくない。


「日本に居る時を思い出すなー。凡人くんって、電車で移動する時とかいつもこんなだったよね」

「日本でも相変わらずよ? 電車に乗ると絶対に私と希を壁際にして、電車の内側から男の人が近付かないようにガードしてくれるの」

「やっぱり相変わらずなんだね」


 俺を見てからかうように笑った萌夏さんは、電車内のアナウンスを聞いてドアを見る。


「次の駅で降りて。そこからちょっと歩けばエッフェル塔だから」


 電車が停まってドアが開くと、萌夏さんが先に降りて希さん、凛恋、俺の順番で続く。

 駅の構内を歩いていると、周囲を歩く体格の良い男性を避けるように凛恋が俺の腕にしがみついた。


「大丈夫。俺が絶対に誰にも触れさせない」

「うんっ、凡人が居てくれたら大丈夫」


 凛恋の手を握って俺は自分に引き寄せた。

 駅から出てすぐに、天高くそびえるエッフェル塔が見えて、俺、凛恋、希さんの三人は思わず見上げてしまう。


「やっぱり、生で見ると思ったより大きいな」


 見上げてそんな感想が浮かぶ。俺には、建築様式の知識もなければ芸術性を見る感性もない。だけど、仲の良い親友達と異国の地パリを歩いて、パリの観光名所であるエッフェル塔を目にしていること、それに価値があった。

 建築様式や芸術性が分からなくても、親友達と居れば一段と綺麗で凄く見えた。


「三人共、エッフェル塔に登るよ。結構混雑するから、もたもたしてるとエッフェル塔に登るだけで一日終わっちゃうんだから」

「ごめんごめん」


 ニコニコ笑う萌夏さんに言われ、俺は慌てて見上げた顔を戻して凛恋と希さんと一緒に萌夏さんに近付く。

 エッフェル塔はパリでも有名な観光スポットであり、しかも今は夏休みシーズン。萌夏さんの言うように、エッフェル塔は当然混んでいるだろう。だから、遠くからボケっと眺めていて、エッフェル塔だけに時間を使い過ぎてはもったいない。


 駅から視界の端にエッフェル塔を見ながら歩く俺は、少しずつエッフェル塔が遠退いて行くのを見る。俺は、おそらく道の関係で一度エッフェル塔から離れなければならないのだろうと思った。しかし、先導して歩く萌夏さんはどんどんエッフェル塔から離れて行ってしまう。


 エッフェル塔を見に来たのにエッフェル塔から離れる。それに違和感はあるが、パリでの生活が俺達より長い萌夏さんが間違うとは思えないし、何の知識もない俺が考えるより萌夏さんの行動の方が信頼出来る。


 今回はイギリスのロンドンに行った時とは違い、俺はある程度のパリに対する知識を入れている。ロンドンの時は、凛恋のお父さんが英語も堪能だったし俺が知識がなくても困ることはなかった。でも、今回は凛恋も希さんもフランス語が出来るわけではないし、凛恋のお父さんの様な頼れる大人も居ない。だから、俺が出来るだけ知識を得て二人に不安を抱かせないようにする。そのために、俺は色々とパリについて調べた。ただ、色々とパリについて調べてはいるが、やっぱりパリの全てを知ってるわけではない。


 右手に見えたトラック競技場を抜けて、おしゃれな店が建ち並ぶ並木道を通る。景色も綺麗だし天気が良いからか、ただ歩いているだけでも楽しい。


「やっぱ海外ってお店の看板もおしゃれよね~」

「うん。それに、日本の街中ってガラス張りのビルが多いけど、こっちは外観が漆喰みたいになってて全体的に雰囲気が落ち着いてるよね。視界に建物が入った時に、チカチカしないっていうか」

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